何に気づき、 どう対応するのか |
中 田 正 敏 |
6.3%という数字がある。 これは、 2002年に、 対象学校370校に対して、 児童生徒41,579人を対象として行なった 「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する全国実態調査」
により明らかにされた数字である。 ちなみに、 回収率は98.9%である。 「特別支援教育を推進するための制度の在り方について (答申)」 では、
この調査に基づき、 「小中学校の通常学級に在籍している児童生徒のうち、 LD・ADHD・高機能自閉症による学習や生活の面で特別な教育的支援を必要としている児童生徒が約
6 %程度の割合で存在する可能性が示されており、 これらの児童生徒に対する適切な指導及び必要な支援は、 学校教育における喫緊の課題となっている」
としている。 可能性という表現を使っているが、 それについては、 注をつけており、 「この調査結果は、 医師等の診断を経たものではないため直ちにこれらの障害と判断することはできず、
あくまで可能性を示したものである」 としている。 調査の方法をみると、 複数の設問群が設定されていて、 例えば、 行動面での不注意に関する設問群では、
「学校の勉強で、 細かいところまで注意を払わなかったり、 不注意な間違いをしたりする。 手足をそわそわ動かしたり、 着席していても、 もじもじしていたりする。
課題や遊びの活動で注意を集中し続けていることが難しい。 授業中や座っているべき時に席を離れてしまう」 などの項目に、 学級担任と教務主任等の複数の教員で判断の上で回答することとしている。
これは、 そうした行動的な特徴への共通の尺度による気づきである。 ところで、 ADHDに関する研究の中には教室環境に着目したもの【1】がある。 その中に、 子どもの注意を削ぎ、 問題を悪化させがちな環境とそうでない環境があるという指摘がある。 悪化させがちな環境として挙げられているのは、 教室内の規律が異常に厳格か、 規律がまったく存在せず、 気が散るほど騒がしい環境である。 そうでない環境とは、 子どもがいつ何をなすべきか理解できるよう十分な枠組みを提供している環境であるとしている。 また、 不注意を生み出す要因は多様であり、 中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定されるとして定義されている発達障害の子どもだけではなく、 貧困などによるものとして考えられる子どもが多数存在することも指摘されている。 こうした枠組みで考えてみると、 「LD・ADHD・高機能自閉症による学習や生活の面で特別な教育的支援を必要としている児童生徒」 に気づき、 そして的確に対応するだけでなく、 そうした行動的特徴を示す児童生徒の全体について、 その子どもたちの教室環境、 さらには学校の組織的組織の実態にも気づき、 的確に対応する必要性が導き出される。 気づきと対応の対象はおそらく生徒だけではなくて、 学級環境、 学校組織自体に及ぶ必要があるだろう。 様々な困難を抱えている子どもには支援が必要であり、 情報の共有化や協働、 組織的な支援の重要性が訴えられることが多い。 しかし、 学校組織に目を向けた時、 数々の障壁があるように思われる。 他の担任の学級の生徒について口を出しにくい環境には、 「学級の壁」 がある。 他の学年のことについて言いにくい環境には、 「学年の壁」 がある。 また、 学校のことはすべて教職員がするべきであり、 外部資源の力は借りるべきではないとするならば、 そこには 「学校の壁」 がある。 少し、 視点を変えると、 分掌単位で考えることが行き過ぎると 「分掌の壁」 ができる。 教科別のものの見方も行き過ぎると 「教科の壁」 になりやすい。 組織の中の多様な障壁についての気づきと対応という視点が必要である。 特別支援教育を推進するための組織的対応としては、 コーディネーターの指名や校内委員会の設置が要請され、 統計的には指名率や設置率は高くなりつつある。 しかし、 「学級の壁」 が高く、 お互いに情報が豊かに行きわたらない組織では、 コーディネーターは孤立し、 仕事を抱え込むか、 仕事がないか、 のどちらかになる可能性があるし、 校内委員会も形式化する危険性がある。 学校組織をそこにはどのような壁があり、 協働的な支援の障壁となっているかということについて考える時、 組織をどのようにイメージするかという観点は重要である。 ケネス・モーガンは 『組織のイメージ』 という著作の中で、 「組織は機械である」 という考え方が現在、 「私たちの組織に関する日常的な概念化にあまりにも浸透している」 ことを指摘している。 そして、 組織を機械に喩える危険性について、 「例えば、 それは人間的な側面を無視」 しており、 「合理的で構造的な側面の重要性を高める」 としても 「組織は機械ではない」 としている。 そして、 「機械としての組織のイメージ」 を検証し、 「このイメージに依拠した物の考え方」 が 「どのような組織展開の基礎となっているのか」 を説明している。 「組織を機械として考える時、 組織を、 全体が機能する際に、 それぞれが明瞭に定義された役割を果たす部品によって成り立っている機械として管理しデザインする傾向」 があり、 「時には、 これはきわめて効率的であることを証明することができる」 のであるが、 「それは多くの不幸な結果をもたらすことがある時もある」 としている。 学級や学年、 分掌や教科という分業関係が、 「それぞれが明瞭に定義された役割を果たす部品」 としてデザインされる場合、 自らの守備範囲にこだわり、 協働への障壁が生じることがある。 「部品」 は当然のことながら、 自らは判断せず、 一定の固定した役割において機能するだけである。 では、 どのようにして、 どのような組織のデザインをするべきだろうか。 この点に関しては、 教育に関する研究の手法として開発された 「デザイン実験」 に着目したい。 この手法について、 ユーリア・エンゲストロームは次のよう批判的な叙述【2】をしている。 デザイン実験とは、 「先行研究から持ち込まれた理論的な諸原則に基づく教育デザインを検証し、 洗練化させる形成的な研究を実行する方法として開発」 されたものであり、 「あるデザインの最初のバージョンが、 それがきちんと機能するかどうかを見るために現場の世界に持ち込まれ」、 「すべてのバグを解決するまで現場での経験に基づいて更新される」 ものである。 現場では、 なぜか、 「誰がデザインを作成するのか、 あるいは、 どのような理論または原則がデザインに使われているかについては考える必要がない」 とされている状況について述べている。 そして、 デザインを作成するのは、 研究者であることがまったく当然のこととされていることに疑問を呈し、 「研究者たちは、 現場で完全なものとなる必要があると想定されるような素晴らしいモデルを、 なぜかわからないが思いついてしまった」 という表現をしている。 研究者がデザインし、 現場の人々がそれを実行するという機械的な分業ではなく、 デザインを誰がどのようにして形成するか、 という問題の立て方をするべきである。 一人ではできないことが他者の支援を得てできるようになっていく組織のデザイン創りは、 現場の最も困難な状況にいる人々が、 その組織の現在の様々な障壁に気づき、 それに対応する中でプロセスとして独自に推進する軌道が確保されなければならない。 外から持ち込まれる場合にも、 研究者との協働の中で、 必ずその現場のリアルな状況を踏まえて改変され、 取り込まれることが必要である。 その中で持続可能な価値あるものが形成される。 自らの組織の中にある障壁に気づき的確に対応できるように再構成された組織は、 それまでとはおそらく異なった様式で、 様々な困難を抱える生徒に、 より適切に対応できる組織である。 【1】ルース・シュミット・ネーブン他著 (田中康雄 監修) 「ADHD医学モデルへの挑戦」 明石書店 (2006) 【2】The Cambridge Companion to Vygotsky, Cambridge University Press (2007) |
(なかた まさとし 教育研究所代表) |
ねざす目次にもどる |