映画に観る教育と社会[18] |
桐島、 部活やめるってよ |
手島 純 |
部活 今回は、 部活特集ということもあって、 吉田大八監督 「桐島、 部活やめるってよ」 を取りあげることにした。 この映画は若手の作家である朝井リョウの同名小説を吉田が脚色して、 映画にしたものである。 実のところあまり期待はしないで、 映画館に向かった。 というのも、 同じように部活を扱った映画である田中誠監督 「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの 『マネジメント』 を読んだら」 (略して 「もしドラ」) を昨年観たが、 特に感銘もない映画だったからだ。 どうせ、 その延長上にある映画かなと思って観たが、 玉石混淆、 数多あるこの手の映画としては、 玉を手に入れた思いである。 映画のコンセプトは 「もしドラ」 の方が優れているように思ったが、 安易にAKB48の前田敦子を起用し、 原作の厚みを浅薄にしてしまった感は否めない。 一方、 「桐島、 部活やめるってよ」 は、 原作のねらいをさらに進化させ、 部活動を通して高校生の奥にある複雑な関係性と空虚な世界をうまく演出し、 瑞々しい映画に仕上がった。 「桐島」 はいない 原作も映画も実は主人公であるはずの 「桐島」 は登場しない。 登場しないはずの桐島を巡り、 バレー部、 映画部、 バドミントン部、 吹奏楽部等のひとり一人にスポットが当てられ、 映画 (原作) は進行する。 原作を読んでいないと、 タイトルにもなっている 「桐島」 がなぜ登場しないのだろうかと訝しくなる。 しかも、 感動的なストーリーが展開しているわけでもない。 観客は面食らうことになるが、 淡泊な展開は少しずつ密度を増していく。 それぞれ高校生の思いは、 すれ違い、 偏り、 重なり合って、 桐島のいない高校生活を形作り、 上質な青春映画として結実する。 自由連想法的映画 野球部のキャプテンが時々登場しては、 コミカルな世界を演出する。 もう引退の時期なのに練習を重ねるキャプテンは、 ありもしないドラフトを待ち続ける。 映画部の前田は、 クラスメートからさげすまれようと、 他の部活のメンバーから無視されようと、 気になる女の子からコケにされようとも、 踏ん張って映画 「生徒会・オブ・ザ・デッド」 の撮影に血道をあげる。 ゾンビ映画だ。 バドミントン部のかすみは、 グループの和を乱さないように気を使い、 学校という世間を渡る。 そして、 映画は時々、 同じシーンを 2 度繰り返しながら、 生徒一人ひとりの心情を多角的に表現する。 こうしたエピソードは原作にないものも多いが、 原作の手法を踏襲して、 高校生それぞれの世界を上手に調理した。 高校生の心情を汲み取り、 小説の世界をそのエキスは残したまま映画化に成功した作品だと思う。 かなり古い映画ではあるが、 ルイス・ブニュエル監督 「自由の幻想」 という映画がある。 1974年の映画だからすでに40年弱の年月が経ったわけであるが、 この映画の強烈な印象はまだ私から抜けていない。 冒頭、 ある夫婦が登場し、 その一人が医者の所に行く。 スポットは医者に当てられるが、 その医者が看護師となにやら話している。 そこで、 今度は看護師が帰郷する話になる。 要するに、 Aさんにスポットが当てられていたかと思うと、 Aさんと話していたBさんにスポットが当てられ、 次はBさんがCさんと行動を共にした後は、 今度はCさんにスポットが当てられるという具合だ。 この映画を観た当時、 私はこれが映画なのかと思った。 ストーリーもまとまりも何もなく、 飄々と映画は進行していった。 かなり前に観た映画なので、 ディテールは忘れてしまったが、 この不思議な映画の強烈な印象はずっと残っていた。 「桐島、 部活やめるってよ」 を観たとき、 40年前のこの 「自由の幻想」 を思い起こした。 オムニバス映画という括りでは収まらない映画 「自由の幻想」 が記憶の底から蘇った。 「自由の幻想」 はフロイトの 「自由連想法」 に影響を受けている。 自由連想法とは、 刺激語としてある言葉を与えられた時に、 心に浮かぶままに自由な考えを連想していく発想法で、 精神分析学の重要な治療法である。 「桐島、 部活やめるってよ」 も自由連想法的映画であると私は思う。 この不思議な映画は、 登場人物が桐島を巡って自由な世界を飛び散り、 集積する。 「桐島」 とは・・・ 桐島とは何を意味するのか。 それはまさに刺激語である。 加えて、 桐島とは、 高校生たちの無意識ではないかとも思ってしまう。 ユングの言う 「集合的無意識」 のようでもある。 神話や伝説は、 人々に共通的に存在する無意識を形成しているとユングは主張したが、 決して登場しない桐島は集合的無意識を象徴したものではないか。 集合的無意識の普遍的なタイプである元型として桐島がいるとも考えられる。 実際、 高校生を観察していると、 見えないものに束縛されていることが分かる。 何かが気になって、 人間関係を作りあげることがとっても難しいことが分かる。 それは 「場」 とか 「空気」 と呼ばれるものでもあるが、 桐島とはその場や空気を形成する、 決して表れない何かなのである。 こうした高校生の状況の深層心理を分析し、 上手に映画化したちょっとすごい映画が、 「桐島、 部活やめるってよ」 ではないか。 原作も映画もいい 私は映画を観た後に原作を読んだが、 原作も優れている。 高校生の心象風景を把握している。 「自分は誰より 『上』 で、 誰より 『下』 で、 っていうのは、 クラスに入った瞬間になぜだかわかる」 「全校集会って、 ダルいことが最大に集約されている感じがする」 なんてどきっとする表現だ。 そうなんだろうなと改めて思ってしまう。 毎日高校生に接している者より、 ちょっと前に高校生であった若い原作者の感性の勝ちだなと思う。 映画と原作は、 そのどちらも現在の高校生の心情をうまく表現していて、 ややもすれば干からびてしまっている私の感性に活を入れてくれる、 現代版 『ライ麦畑でつかまえて』 であった。 |
(てしま じゅん 教育研究所員) |
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