特集U 道徳教育とシチズンシップ教育
今までの道徳教育・これからの道徳教育
 
大和久 勝
○はじめに 〜教育基本法と道徳教育
 前回の小・中学校学習指導要領(平成10年・1998年)の総則には、「学校教育における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳の時間をはじめとして各教科、特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない」とある。そして、「道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、(後略)」と続けている。
 私は、「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うもの」「道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき」という記述を拠りどころにして、今まで道徳教育の在り方を追求してきた。
 教育基本法は前文で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力に待つべきものである。(後略)」と述べ、第1条(教育の目的)で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」と述べて、教育の目的を明確にしていた。
 ところが「改正」教育基本法では、第1条(教育の目的)の後に、第2条(教育の目標)が新たに盛り込まれた。その中身は、学習指導要領第3章「道徳」な中に記された(内容)をほぼ写し取ったものである。学習指導要領の徳目を具体的に並べて記述した意図は、「国家的道徳」を教育現場や国民に(社会教育や家庭教育として)押し付けようとするものであるだろう。教育基本法「改正」の次に学校教育法「改正」を手掛けたのはそのためである。本来の道徳教育を切り捨て、国家が要請する「徳目教育」に変更させようとしている。これは道徳教育を重視する路線ではない。「平和的、民主的な社会の主権者としての人格形成」という本来の道徳教育の重視ではない。「特設道徳」の導入(1958.4)以来の政府の意図が一つの形のなったとみるべきである。
 しかし、それでも、まだ、本来の道徳教育を推進させ発展させるエネルギーは教育現場の中にある。「国家の要請」に組みすることなく、「国民・市民の要請」「子どもたちの願い・要求」に耳を傾け、子どもの実態や地域の実態に沿いながら、教師間の協力と保護者・地域との連携などにより、子どもと共に創りだす「学び」としての道徳教育を育ててきた実績がある。上からの「押し付け道徳」や「徳目主義道徳」でないものを自主編成してきた努力はこれからも、下の世代に継承され生きていくと確信する。
 東京都公立小学校の教員としての私の経験を振り返りながら、今までの道徳教育とこれからの道徳教育を考えてみたい。

<子どもと学校を守る防波堤に>
 私は、後半の20数年で3つの学校を経験したが、いずれの学校でも校務分掌で道徳担当を希望してきた。しかも最後の10年以上は、道徳主任を他の人に譲らなかった。それは何故かと言えば、一言でいうなら、本当の道徳教育を守りたかったからである。きっかけは、現場に特設道徳の実施調査や年間計画作成の点検が入り始めたことからであった。「道徳」時間の重要さが行政から声高に言われたときに、道徳教育の危機を直感した。それ以来、本当の道徳教育の守り手でありたいと考えてきた。
 はじめの10年は、行政からの不当な介入をできるだけ最小限に食い止めるための防波堤になるという役目を果たすことだった。「日常の教科、教科外の活動の中に道徳指導がある」「とりわけ、日常の学校生活を通しての道徳指導(=生活指導)が子どもの人格形成にとって重要である」といった職場の合意づくりを心がけた。学級活動を通しての子どもの成長が見られたときや学級会などでいい話し合いがあったときには、実践事例を紹介したり、新聞記事やビデオ、本などでいい資料があるときには配ったりしていた。年度末の学校評価でも無難な形に落ち着くように持っていく努力をした。はじめの10年は、それで済んでいた。「日常に展開される道徳指導(=生活指導)」が、道徳教育の主流であることは多くの人に納得がされていた。道徳の時間は「取り立てての道徳指導」として、子どもの実態にあわせ自主編成していくことも理解されていた。しかし次の10数年は様子が一変してきた。

<「学習指導要領」の推移を見つめ>
 1989年に告示された小中の学習指導要領は「道徳重視」の掛け声のもとに作られ、道徳教育の重視が、90年代に入り、以前にも増して強調されてきたからである。改訂で、道徳教育の目標に「生命に対する畏敬の念」と「主体性のある日本人」の二点が新たに加わった。そして「ものごとを合理的に考え、常に研究的態度をもつ。(低学年においては、ものごとのわけをよく考えることを、中学年においては、常に研究的態度をもとうと努めることを加え、高学年においては、更に、真理を尊び、広い視野に立って、正しく批判し判断して行動することを加えて、主な内容とする。)」という項目が削除され、「美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ」という項目が新たに登場するなどした。
 また、「教育全体の道徳化」という点でも問題があった。「わが国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと」「日本人として自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと」などの項目を含めた10項目の「教材における話題や題材設定の観点」が提示され、国語科の変質を作り出した。特設「道徳」時間の取り扱いばかりでなく、学校教育全体の中での道徳教育の実施がうるさく言われるようになってきた。奉仕活動の重視なども度あるごとに言われるようになった。
 さらに、97年の神戸の少年による小学生連続殺傷事件、98年の栃木県黒磯北中女性教師殺害事件、引き続く少年によるナイフ殺傷事件は、学校教育事情を変化させるものだった。子どもの問題は、社会問題化され、政治問題として大きく取り上げられるようになった。中教審による「心の教育」推進の提言(98年2月)と答申「新しい時代を拓く心を育てるために」(98年6月)が、教育行政の現在の施策を生み出してきたのである。

<「心のノート」を手にして>
 2000年12月、教育国民会議報告『教育を変える17の提案』が出された。『17の提案』では、「学校は道徳を教えることをためらわない」として、学校教育全般での道徳教育の強化推進を提起していた。また「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの強化を設け、専門の教師や社会人が教えられるようにする」とも提唱して、現在の動きを後押しした。
 その当時から、「心のノート」は準備されていたのである。
 2002年度には、「心のノート」の活用の通知が4〜5月段階から出されていて、「道徳授業公開講座」(現在は東京都のどの学校にも義務付けられている)で「心のノート」が活用できるようにといった指導が入ってきた。私は、さっそく検討してみたが、結論は、道徳の価値項目の押し付けに終始しているということである。実際に使ってもみた。見た感じは取り付きやすく、子どもは、ワークシートを使うような気楽さですいすい使っていく。でも、すぐに行き着いてしまう。扱いが平板で浅いのである。結論にすぐたどり着いてしまう。というより、結論や価値を安易に押し付けようとしているのがよく分かる。疑問や、迷いや熟慮の入り込む余地がない。心がけ主義や徳目主義が、装いを新たに登場したものである。「心のノート」については、道徳副読本ではないとしながら、学習指導要領の徹底を念頭において作成している。同時に、道徳を教科とした場合の教科書を想定しているのではないかと思えた。

<「心の東京革命」推進の中で>
 教員生活最後の10数年の私は、道徳主任として、行政からの防波堤を努めるとともに、自校の子どもたちのための道徳教育の確立に向けての努力を開始した。もともと道徳教育は、日常の教育活動の中に存在し、生活指導や教科、教科外の活動を通して推進してきた。そのことは、胸を張って主張してきたのだが、学校内外の状況が変化してくる中で、自分流の納得、一人での納得ではすまないものになってきたのである。
 学校としての統一した見解や、自分だけでない実践の掘り起しが求められるようになった。以前は、個々人がそれぞれに実践の理論と展開を考えることですんでいたし、管理職による点検もなかったのだが、そのようにいかない事情が、東京都内全域に登場した。それが、「心の東京革命」である。
 『「心の教育」に地域の意見も―小中の道徳授業公開』という見出しで、98年9月、毎日新聞で次のような記事が載った。
 『都教委は、18日から来年2月にかけ、都内の小中学校で、道徳の授業を父母や地域住民に公開することを決めた。関心が高まっている「心の教育」について、学校の中だけでなく地域社会の意見も取り入れていこうという初の試みだ。(中略)午後の授業時間を充てて、公開授業の後に研究協議会を開き、教員や住民が意見交換をする。これまでも、授業参観や公開授業は学校ごとに行われてきたが、対象は保護者や教員に限定されていた。いじめや不登校問題で「心の教育」が重要視されるようになったことから、学校に直接関係ない住民にも見てもらい、道徳授業の改善や充実を図るという。都教委は、来年度以降も規模を拡大して実施する方針にしている。』
 この当時は、まだほとんどの学校では、自分たちの問題になっていなかったが、次の年以降実施校は増やされ、とうとう2002年には、東京都の全小中学校で実施された。今現在は義務であり、どの学校も選択の余地はない。

<「道徳授業公開講座」に取り組む>
 私たちの学校では、01年度、まだ選択の余地がある段階に、第1回目の「公開講座」に取り組んだ。職員会議を通して自由な論議ができるときにと考えたのである。まず、私たちの「公開講座」への考え方と推進方法を検討した。

「公開講座を実施するにあたって」(案)。教務と道徳部の共同提案
ねらい
(1)道徳授業を公開するが、協議会においては、個々の授業を問題にするのでなく、道徳教育をどのように考え、どのように実践しているかを保護者や地域の人たちに伝える。
(2)道徳指導の背景になる子どもの問題状況を交流することを通し、どのようなことを指導すべきなのかを探っていく。
(3)そのことを通して、子どもが育っていくための学校と家庭と地域の連携を作っていく。
方法
○全学級で公開する。研究授業ではないので、指導案は公開しない。
○協議会では授業の講評という形はとらず、教育委員会はあいさつとする。
○意見交換の前に、「本校の道徳教育について」を学校から話す。その内容については事前に職員会で検討する。
○意見交換は、「今、子どもたちにどのような道徳指導をするか」という内容とする。

 この論議を通して、私たちの考えと姿勢を、学校として確認しあうことになった。その作業は必ずしも楽ではないし、中身も安定したものでない。それでも、それを避けて通るわけにはいかない。「本校の道徳教育について」は、本校の教育計画の中にある「道徳教育の全体計画」をプリントし、それをもとに、道徳主任の私が話をするということになった。まずは、職員会議に、話の内容を提案した。日ごろ、私自身の持論としてきたもので特別なものではないが、職員会で確認しあう意味は大きかった。

「本校の道徳教育について」の話の概要(案)
(1)まず、本校の「教育目標」を話す。
(2)そこから、次に「道徳教育の目標」を述べる。
(3)そして、「学年の指導の重点」を、低中高学年ごとに、子どもの実態、成長の課題を述べながら、重点のポイントに触れる。
(4)道徳教育の、指導計画について話す。「特別活動における道徳教育」「生活指導における道徳教育」「特色ある教育活動における道徳教育」「各教科における道徳教育」を概観し、道徳教育の幅の広さを強調する。そして、それらを「日常的に展開される道徳指導」としておさえる。
(5)「道徳の時間」を、「とりたてての道徳指導」として説明する。「日常的に展開される道徳指導」とあわせて道徳教育の全体とする。また「道徳の時間」は、日常的な活動からも作られてくることを知ってもらう。

<「とりたてての道徳指導」の計画>
 では、「取り立てての道徳指導」をどう考えていったらいいだろうか。これこそ、かつて、「特設道徳」として批判の標的にしてきたものである。この批判は正しかったが、しかし一方で、「学び」としての道徳を確立していくことの大事さも指摘されてきていた。子どもたちが、人権尊重や自立、平和を柱にした道徳をしっかり身につけてほしいと誰もが願っている。そのために、日常的な営みとしての「生活指導」があるが、価値ある資料を使って学びあう「授業時間」もまた有効であることを知っている。
 しかし、「道徳授業の年間計画」については、あくまでも例であって、それは、参考ということにしている。それぞれの学年・学級の実態に沿いながら切り開いていくということの確認はされている。子どもの実態に合った「生きた道徳指導」にしようというのは誰もが考えていることであって、それを否定する人は管理職を含めて誰もいない。保護者からも理解され支持され、期待される。
 私たちの考える「とりたてての道徳指導」の計画は、次のようであった。

「とりたてての道徳指導」についての考え方(案)
(1)人権尊重、自立、平和を柱として考える。
(2)子どもの生活現実、学級実態をふまえたものとする。
(3)一定の期間と一定のテーマを作り出す。継続的指導による重点化を図る。
(4)発達段階を十分考慮しながら、発達課題に迫る。
(5)自主編成を基本とする。
(6)副読本の活用、テレビ・ビデオの活用、新聞記事、雑誌記事などからも資料を発見していく。子どもの作文、日記などは、好適な資料となる。
(7)子どもの日常生活におけるトラブル、事件を教材とする。

<「とりたてての道徳指導」の実践例>
 私は、毎年、副読本やテレビ活用による計画のほかに、二つの方向を立てて、自主編成を考えてきた。一つは、子どもの実態、学級活動の中から生じてくる問題を教材化する。もう一つは、一定期間継続してテーマを追求していくものを見つけるということである。これらのほうが優先されることは当然であるが、いつでも用意されているわけではない。
 前者は、「集団づくり(=生活指導)実践」の中で生じてくるさまざまな問題の中で、一定の準備をして行う「話し合い」や「討論集会」などを、道徳時間として位置づけている。「よびすてについて考える」「男の子と女の子」「学級憲法を考えてみよう」「いじめをなくそう」「ルールを守ろう」などである。後者は、5〜6時間かけて、一テーマを追い、流れのあるカリキュラムを立てていく。例えば、バット・パルマーの「自分を好きになる本」を使って六時間の計画を立てて実践したことがある。
 他にも、「コミュニケーション力を育てる」「他者理解・自己理解」「他者と共に生きる力を育てる」などのまとまった時間設定によるスキルの獲得などを中心に据えて計画実施したこともある。また、「性の問題を考えよう」「障害について理解しよう」「世界の子どもたちのことを知ろう」「戦争と平和について考えよう」「地球の環境問題を考える」などをテーマに、調べたり話し合ったりする活動を中心にしたものもあった。子どもの実態に合ったカリキュラムは子どもの積極的な学習参加を得ることができる。子どもが自分のあり方や生き方を深く考えることのできる授業こそ、道徳の授業の本流である。今後、いかなる場合にも、特定の価値観を子どもに押し付けるものであってはならない。「道徳」の教科化が叫ばれるとき、また新たな道徳教育の危機が迫ってきている。本来の姿の道徳教育を確立・創造していく努力によってしか、この危機を克服していくことはできない。「生活指導」を中心とした「日常に展開される道徳指導」の再評価と、「学び」としての「取り立てての道徳指導」のさらなる創造が重要である。

<「新学習指導要領」とこれからの道徳教育>
 小・中の新学習指導要領が平成20年(2008年)に出された。指導要領は、10年ごとの改訂をたどってきたが、今回の改訂は、今までとは趣を変えている。それは、教育基本法が改訂された後だからである。
第1章総則1の2において、「道徳の時間をはじめ」としていたものを、「道徳の時間を要として」とした。その上で「学校教育活動全体を通じて行う」としている。 
 そして第3章道徳の第1目標では「第1章総則の第1の2及び第3章道徳の目標に基づき、道徳の時間などとの関連を考慮しながら…(各教科等の)特質に応じた適切な指導をすること」という文言を入れ、道徳の時間をはじめ、学校のすべての教育活動を通した押しつけを意図している。「学校教育全体の徳育化」をねらっていると言わなければならない。
 第3章道徳の第2の内容で示されている徳目は、現行指導要領と大きく変わらず部分的な手直しや順序の入れ替えなどとなっているが、「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし」の「文化と伝統」を「伝統と文化」に変えるなど、見過ごすことのできない手直しもみられる。
 また、第3章道徳の第3の「指導計画の作成と内容の取扱い」にも危険な動向が見られる。冒頭で「各学校においては、校長の方針の下に、道徳教育の推進を主に担当する教師(「道徳教育推進教師」)を中心に」「道徳教育の全体計画と道徳の時間の年間計画を作成」し、道徳教育を展開せよ、と述べている。さらに、道徳教育の全体計画の作成に当たっては各教科等の「指導内容」と「時期」を示せ、としている。校長や「道徳教育推進教師」を使っての監視、統制がなされようとしていることに注意を払わなければならない。
 「道徳の時間の授業を公開」することが新たに盛り込まれていることも見過ごすことのできない点である。「授業公開」はすでに東京都では義務付けられているが、教育活動の点検、監視となる危険性が十分ある。
 新学習指導要領の他を見てみると、学校教育全体の「道徳化」はより一層鮮明に見えてきている。その一番が「特別活動」であって、特別活動のすべての内容で道徳の徳目を押し付けようとしている。特別活動の教育的意義は、「道徳教育」に吸収されて、具体的な内容はその下請けになろうとしている。さてこうなると、私たちの教科、教科外を含めた生活指導の実践が真価を問われてくる。同時に「道徳の時間」の学びを、「子どもたちの人格形成=道徳教育」に高めていく必要がある。

○おわりに〜高等学校の道徳教育は?
 平成21年(2009年)の高等学校学習指導要領の総則2では、「学校における道徳教育は、生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達の段階にあることを考慮し、人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動全体を通じて行うことにより、その充実を図るものとし、各教科に属する科目、総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて、適切な指導を行わなければならない」としている。
高等学校には、小・中学校のように特別の時間設定はないが、道徳教育の推進の号令は強く出されているというのが、新教育基本法下での現在の情勢である。やがて、特設時間による「道徳の時間」も浮上するし、他の教科、総合的な学習の時間や特別活動などの中で道徳教育を意図的・目的的に推進するカリキュラムが提示されてきたりするのは、時間の問題である。
高等学校の道徳教育は、「人間としての在り方生き方に関する教育」であり、公民科やホームルーム活動を中心にして、学校教育全体を通じて行うものとしている。高等学校の場合、ねらいは明らかにシチズンシップを育てる市民教育であるが、どういうシチズンシップを願うかによって、全く違ったものになっていってしまう。そこでは現代社会をどう見るか、民主主義や市民社会の課題をどうとらえるのか、未来の主権者をどう育てるかなど、教える側の視点として問われていくことになる。
 社会を形成する市民としての資質を育てる教育の主体的な探究が求められているのである。また、新教育基本法下の小中の道徳教育の動向に注意を払いながら、高等学校における道徳教育のあり方を積極的に探求することが、同時に求められている。そのために、本稿が役に立てば幸いである。


  (おおわく まさる 全国生活指導研究協議会代表/国学院大学)

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