映画に観る教育と社会[17]

教育を映し出すドキュメンタリー映像群
−「学びの場が消えてゆく」「青年の海」「空想劇場」−

 
手島 純
「学びの場が消えてゆく」
  2008年、日本ビクター主催の国際的な映像祭第30回東京ビデオフェスティバル(TVF)で日本ビクター大賞に選ばれた作品は「学びの場が消えてゆく」であった。この作品は、2千を超える作品の中から選ばれたものである。映画は、神奈川県の定時制高校について描かれている。定時制生徒や関係者などへのインタビューに授業の様子などを交えながら、定時制校高校の現実を静かに語り、定時制の重要性を強く訴えている。
 作品自体はTVF応募規定にそって20分に満たない小品であるが、神奈川県において定時制高校が置かれている現状を知るには便利である上に、定時制高校に対して愛情ある視点で描かれていて共感できる。以前、本誌で私が紹介した太田直子「テージセー 一四六一日の記憶」(この作品は、テレビでの放映であったが、「月明かりの下で」というタイトルの映画作品としても編集された)が動的な映画なら、本作品は静的な映画といってもいい。
 私が「学びの場が消えてゆく」を知ることになったきっかけは、この作品の監督である斉藤雅之氏が実は私と大和西高校で同僚であるからだ。彼は数学の非常勤や臨任教員をしながら、映画への夢を追っている。映画を観れば分かることだが、しっかりとした映画文法に則った本格的な作品である。本人は映画学校に通い、映画作家としての肩書きもある。
 私的なことだが、私も教員になる前に、二つの小さな映画プロダクションから誘いをうけた。しかし、そのひとつからは「半年、牛乳配達をして映画製作費を稼ぎます」と言われ、他のひとつ、それは「日本昔話」を制作していたプロダクションであったが、私の雇用を打診してもらったすぐ後、「○○さんは仕えないからクビだね」というシビアな話を他のスタッフとしていたのを今でも覚えている。結局、私はどちらも断ったが、映画製作への本気の想いというものは、そうした困難性があっても成就したいものだろうと思う。私は情けなく断念したが、斉藤氏を見ていると、私のかつての記憶が蘇る。
 「学びの場が消えてゆく」は夜の描き方がとても上手だ。定時制高校の校舎の灯りが闇夜に浮かび上がるいくつかのシーンは、暖かい定時制の雰囲気をよく表現している。
 この作品、県民図書室に寄付をしてもらったので、興味のある方はぜひ観ていただきたい。

「青年の海−四人の通信教育生たち」
 水道橋のアテネフランセまで出かけ、「青年の海−四人の通信教育生たち」という映画を観た。本誌で通信教育について書いた(拙稿「通信制高校の現状と課題」)こともあって、まさにレアなこの映画を観に行った。1966年に小川伸介によって制作された旧い映画である。小川伸介は三里塚闘争において農民の側から映画を撮り続けた監督として高名である。この監督の初期作品に本作品がある。最初に私が観たのは30年以上前だが、学園紛争のコンテクストの中で通信制大学に学ぶ学生の問題提起を取りあげたのが斬新だった。
 慶応大学の通信制が舞台である。慶応大学は通信制を廃止しようとした。また、当時の文部省は全国的に通信制大学を4年制から5年制にしようとした。こうした通信制をめぐる状況に異を唱えた四人の通信制大学生の戦いと苦悩を写し出した。通信制大学の学生も当時の学園紛争の一角を担い、通信制への差別や偏見をはねのけようとした。
 水道橋の豪奢な建物群の中でひっそりと佇むアテネフランセで、アンダーグラウンドな映画に興じていっときタイムスリップした。今、私が驚くのは、学園紛争当時でもあまり顧みられることがなかった通信制大学の学生の声に耳を傾けた小川伸介のセンスであった。

「空想劇場」
 「空想劇場」は、以前に本誌で紹介した「花はんめ」の監督である金聖雄の最新作である。この映画は、東京学芸大学教育学部付属養護学校(現特別支援学校)の卒業生を中心とした劇団「若竹ミュージカル」の活動と上演劇の様子を描いた作品である。
 決して上手とは言えないけど、何か感動する、そんなミュージカルを自閉症やダウン症の人たちが演じ、母親や父親もそこに混じる。上演に向けた練習や活動を縦糸に、そこにかかわる障害者や親たちのさまざまな葛藤を横糸に映画は進行する。
 特に印象に残っているシーンがある。それは障害をもつ子を産んだ親たちが、心から笑っているシーンである。父親がひとり、他は多数の母親たちで談笑している。笑う笑う、すべての過去の辛さを吹き飛ばすように、そして「若竹ミュージカル」に出会ったことの喜びを共有するように、母親たちの笑いが炸裂する。このシーンは、告発型のドキュメンタリーとは一線を置く金監督の真骨頂である。
 金監督の次回作は、狭山事件を扱った「みえない手錠をはずすまで」である。期待したい。

ドキュメンタリー映画へのオマージュ
 最近私が観たドキュメンタリー映画を足早に紹介した。どれも教育にかかわる映画で、定時制、通信制、特別支援学校という、いわゆる学校教育のマイノリティーへの映像作家たちのまなざしは熱い。多くの人たちは前述の映画を観る機会はないであろう。いわゆるメジャーな映画館で長く上映されないからだ。しかし、こうした映画は、さまざまな人々による上映運動を通して人の目に触れることが多い。上映運動そのものが、観るだけではなく参加する視点を獲得し、いわばドキュメンタリー的である。上映運動は、ドキュメンタリー映画へのオマージュでもある。
 ドキュメンタリー映画は重いが、いつも疾走していて楽しい。


(てしま じゅん 教育研究所員)
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