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一旅行者の震災体験記
 
平 形 裕 史

東北新幹線はやぶさ
 彼は鉄道会社の旅行クラブの会員で、 折しも 3 月に東北新幹線 「はやぶさ」 が開通したのを機に格安でグリーン券を手にする特権を得て、 東北の旅へ出掛けたのだった。 10日に東京・新青森間の快適な列車の旅を楽しみ、 その晩は青森駅前のホテルに宿泊した。 翌日は市内にある山内丸山遺跡と棟方志功記念館を午前中に周り、 午後から五所川原へ向かう計画を楽しみにしていた。 2 時45分に川部駅に到着した列車が、 信号待ちをしていると突然車体が激しく揺れ出した。 座席に座っていた彼はディーゼルエンジンの異常を疑ったが、 揺れが収まった後の車内放送で地震の発生を初めて知った。 車内放送は続けて、 信号機の電源が落ちたので回復するまで暫く運転を見合わせると告げた。 彼は地震の規模を過小評価して、 午後の予定を少し変更する必要ができたぐらいに考えた。 しかし青森県全域が停電となり、 列車はすべて運休になった。 彼は結局 4 時間近く車内に閉じ込められたが、 ディーゼルカーが幸いして暖房と照明には不自由することはなかった。 JRが手配したバスやタクシーへの振替が始まったのは 6 時をまわっていた。 彼は、 青森駅の近くに昨晩と異なるホテルを予約していたが、 同じ方面の乗客は他に女性の二人連れだけだったので、 タクシーに同乗して宿泊地へ向かった。 道路は信号機が消え、 大きな交差点では交通整理のため雪の降る中を警察官が立っていた。 青森駅へ着くと時間は 8 時半を過ぎていた。 車のライトを頼りにホテルを訪ねると、 大津波警報のため営業中止になっていた。 彼は再び駅前に戻ったが、 駅は完全に閉鎖され待合室も利用出来なかった。 北国の寒さに震えながら翌朝まで戸外で過ごすわけにもいかず、 彼はタクシーの運転手に泊まれる場所を聞いたところ、 近くにある市民ホールが避難所になっていることを知った。

避難所の一夜
 市民ホールはコンクリート 4 階建てで非常電源も整備されていたため、 館内は薄明かりが灯りラジオのニュースも流されていた。 ロビーでは、 大きな荷物を持った旅行者らしき人々が多く見られた。 彼は会議室の一角に空いている椅子を見つけ腰を下ろすと、 家族に連絡を取ろうと携帯電話を手にしたが混雑のため繋がらなかった。 10時近くなると室内でも寒さが増してきた為、 1 階にいた彼はホールの職員の指示で比較的寒さの少ない階上へ移ることした。 すでに 2 階、 3 階は通路や階段まで人で埋まっており、 彼は 4 階まで上がってホールの壁際の場所をようやく確保した。 後から上がって来た人々もいて、 すぐに彼の両脇や中央の場所も人で埋まった。 明かりが乏しい中、 突然の災難と疲れの為か避難して来た人達は皆無口でうずくまっていた。 しばらくすると毛布の配給があり、 彼はリュックを枕にコートを着たまま毛布に包まって横になることができた。 幸い床はカーペット敷きのため、 コンクリートの冷たさを感じることは無かった。 12時頃に食パン一斤と500mlのペットボトルの配給があり、 ようやく空腹を満たし眠ることができた。 翌朝目を覚ました彼は情報を求めて青森駅へ向かうと、 駅は閉鎖されたままだった。 駅前の公衆電話は無料で利用出来、 彼は家族と互いの安否を確認することができた。 市民ホールでは、 職員の手によって交通情報が掲示板に貼り出されていた。 鉄道と長距離バスはすべて全日運休、 航空機は午前中の便は欠航で、 午後は未定との内容だった。 それを見た彼は、 鉄道の運転を待って避難所暮らしを続けるか、 午後の便の運行と当日のキャンセル待ちに期待を寄せて空港へ向かうか悩んだ末、 タクシーを拾って空港へ向かった。

空港のキャンセル待ち
 昼近くに空港へ着くと、 午後の便は運行されることが決定されていた。 空港はすでに混雑が始まっていた。 地方空港のため便は日航のみで、 羽田行は 3 便だけだった。 彼は 2 時間近く並び整理券を手にしたが、 番号は300番を超えていた。 さらに、 空港は最終便が出たあと全館閉鎖する連絡があった。 通常時よりキャンセルは多いものの、 夕刻になり最終便が近づいても整理券の消化はやっと200番を超えたところだった。 彼が避難所に戻ることを覚悟しかけていた頃、 増便のアナウンスがあった。 定員は150人なので、 ついに彼の帰還が保証された。 定期便の遅れで出発は10時近くになったが、 彼は羽田に到着したあと終電車とタクシーを乗り継ぎ、 無事家族のもとに帰ることができた。

感謝
 東日本大震災を振り返った時、 多くの死傷者を出し復興もままならない状況の中で、 お気楽な旅行者の被災記など不謹慎な気持ちもしましたが、 災害をごく身近に起こるものと捉えるきっかけとなればと思い直し、 書くことにしました。 最後に、 一晩の避難所生活を親身にサポートしていただいた青森市民ホールの職員の皆様に深く感謝致します。

  
  
(ひらかた ひろし 湘南台高校教員)
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