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大震災の後、 校内でおきたこと |
本 田 均 |
2011年 3 月11日 (金) 14時46分、 大地震発生。 放課後であるにも関わらず校内には 「千人を超える人」 がおり、 「約400人の生徒が帰宅できず校内に宿泊」 した。 また、 横浜駅から徒歩10分と近く、 「外部の帰宅困難者を多数受け入れる」 ことにもなった。 災害は突然襲ってくる。 不測の事態に本校がどのように向き合ったのか、 その一端を記すことは、 災害時の対応や防災のあり方を考えるうえで参考になるのではないかと思い筆をとった。 まず、 地震直後から多くの地域で停電となり大混乱が起きたが、 本校は 「停電」 にならなかったためか、 行われていた校内の活動はそのまま全て継続された。 誰もが未体験の大きな揺れの恐怖に怯えながらも、 揺れが止むと全てが元に戻った。 いや、 多少の疑問を抱きつつ戻したといったほうが適切か。 体育館では保護者同伴の合格者説明会が行われており、 職員を含め約600名弱が体育館で激しい 2 度の揺れに遭遇した。 2 度の中断をはさみながらも、 同会はプログラムを予定通り終えた。 校内には翌週の合唱コンクールの練習や部活動のため、 500名を超える生徒が残っていた。 「部活動は中止すべきではないか」 という声が一部の職員から上がったが、 揺れが収まり特段の被害が確認されなかったためか、 生徒の掌握がされないまま部活動等の活動は継続され、 時間が過ぎていった。 16時を過ぎたころだろうか。 テレビやインターネットから宮城県や岩手県の様子が伝わり、 今回の地震が相当大きなものであり、 被災地に甚大な被害が広がっていることが分かってきた。 何より、 JR・京急等の路線が復旧しないため、 生徒を帰宅させられなくなっていた。 職員もほとんどが帰宅できないでいた。 小ホール (550u) は合格者説明会後、 帰宅の足を奪われた保護者・新入生、 及び外部の方の待機所となった。 横浜駅周辺にいた卒業生も続々と母校を訪れてきた。 生徒の掌握を初めて行った時点では17時を回っており、 400名を超える生徒が校内に残っていることがこのとき分かった。 この時は、 電車が終日運休したことはない。 誰もがいずれ電車が復旧すると見込んでいた。 次善策・方針が示されることなく、 その後も 1 時間おきに生徒の掌握を行った。 「生徒をいつ帰すのか、 もしや泊めるのか」 職員の不安・困惑が深まっていった。 私は約10kmの道のりを近郊に住む生徒ともに歩いて帰宅するつもりであった。 ところが、 管理職と帰宅方法を話し合った直後、 県教委から 「徒歩による帰宅は危険を伴うためするな」 という判断が下された。 これにより帰宅できない生徒約400名が校内に泊まることになった。 19時36分、 エリアメールで 「緊急地震速報」 を着信した。 強い揺れに警戒せよの警告である。 「学校防災マニュアル」 に従い、 グランドに避難する指示が管理職から出された。 しかし、 暗いグランドに逃げる混乱、 校舎にいるほうが安全ではないか、 体育館に避難してはなど、 激しく熱い議論が交わされた。 最善策に辿り着くのに全職員が必至であった。 結局そのまま校内にとどまり、 事なきを得た。 一段落して、 さっそく宿泊に向けた準備が進められた。 21時に校内の全生徒を体育館に集め、 非常事態と宿泊に向けた説明を行った。 3 階は女子、 4 階は男子の階とした。 体育館棟を防火扉で仕切り、 階・棟の移動を禁じた。 しばらくして、 防災備蓄用の乾パン・水を生徒に 1 缶ずつ配布したが、 多くは既にスナック菓子類やカップ麺を食べていた。 毛布の備蓄は僅かしかなく、 希望者にのみ配られた。 小ホールには帰宅困難となった人たちが集まってきた。 それは深夜まで続き、 百数十名に達した。 職員は卒業生らの協力を得て、 彼らにも乾パン・水、 さらに残りの毛布、 ダンボールを配った。 小ホール内は終始照明が灯り、 足音・物音が絶えなかったが、 混乱はなく皆が少しでも身体を休め眠りにつこうしていた。 一方、 職員は夜通しで正門での来校者対応、 巡回当番等にあたった。 徹夜で対応した職員も少なからずいた。 事後の校内アンケートには、 「緊急時としてはできる限りの対応をした」 という声が複数寄せられた。 とにかく暖房だけは確保しようと、 終日暖房が使える手配を急いだこと。 ペットボトルに湯を入れて簡易湯たんぽとして活用したことやペットボトルの蓋を湯煎し、 コンタクト保存容器の代用としたこと。 机を並べた上に新聞紙やダンボールを敷きベッドを作ったこと。 このようないくつもの工夫の積み重ねにより、 防災マニュアルが想定しない事態を乗り越えることができた。 約400名の生徒、 100名を超える外部の方々の良識・秩序に負うところも少なくないが、 急遽校内に宿泊し、 大きな事故・混乱もなく、 無事、 朝を迎えることができたことが何よりである。 最後に、 今回の災害時の対応を通して留意すべき点を 4 つ挙げておく。 (1) 「初期対応を確実に行う。」 災害発生次第、 生徒の身の安全の確保と人数の把握。 続いてテレビやインターネット等で 「災害の規模はどのくらいか、 危険な地域はないか、 停電の地域はないか、 電車は動いているか」 等の情報確認をする。 そして、 生徒を帰宅させるか、 校内待機させるかを決めることだ。 「阪神大震災」 以降、 兵庫県教委は震度 5 強以上の地震が発生した場合、 生徒は学校待機とした。 「東日本大震災」 以降、 追随する自治体が増えていることは一つの指針となるであろう。 (2) 「食料・毛布は首都圏の災害に耐える量を備蓄すること。」 首都圏を中心とする災害が起これば被災者数・規模も甚大となり、 店頭から食糧は消え、 援助は数日は期待できまい。 恐らく数日にわたって帰宅困難となる生徒が一定数は出るであろう。 1 人につき乾パン 1 缶、 水 1 缶ではあまりに心もとない。 また、 災害が冬期であれば、 毛布も在校生徒全員分以上の備蓄が不可欠だ。 (3) 「学校は小中高を問わず防災拠点であり、 避難所として地域から頼られていることを認識すること。」 高校は必ずしも地域の避難所に指定されていない。 しかし、 学校は頼れる、 安心できる避難所なのだ。 そして、 対応するのは公務員である私たち教職員である。 (4) 「職員の総意・気転が大切であること。」 課業時に災害が発生した場合、 初期対応に続き一刻を争うあるいは判断の難しい場面に遭遇する。 最善策が何かを全職員で協議し、 確認後、 直ちに行動に移すこと。 今回、 一人の意見が事態を改善させたことが少なくなかった。 どんな非常事態であれ、 最後は現場にいる職員が判断し対応しなければならない。 「とっさの判断」 が生死を分けた事例が被災地の各地から報告されている。 時間がない中、 難しい判断を迫られたとき、 マニュアルに縛られず職員の総意・気転が難局を乗り切ることにもなることを教訓としたい。 |
(ほんだ ひとし 横浜平沼高校教員) |
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