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大震災の後、 学校で |
酒 井 昭 |
誰しも忘れようとしても忘れられない出来事があるだろうし、 それが人生の節目のような時に起きると、 より何か特別なものを感じると思う。 自分の場合、 長男が生まれた 2 日後に阪神淡路大震災が起きた。 大きな出来事なので誰でも当たり前かもしれないが、 年月日を即答できる。 そして今年だが、 5 月に母親が永眠した。 大腸がんを患い、 昨年 4 月の手術から抗がん剤での治療で入退院を繰り返していた。 震災当日は妹が付き添って帰宅していたが、 あの日以降、 目に見えて病状が悪化したのを記憶している。 津波のために一瞬でご家族を失った方がいることを思えば、 最期を看取ることができたことは幸せだった。 その震災当日、 仮設校舎の窓から外を見ると高層マンションが大きく横に揺れていた。 自分の足元もおぼつかない中、 最上階の住民は大変だろうなと変に冷めた目で見ていた。 校内に残っていた生徒をグランドに集め、 点呼を取る。 帰宅可能な者は、 訓練通り職員の引率で帰着地別に帰って行った。 この時点では、 日が暮れるまでに間があり、 停電していることはそれほど問題ではないように思えた。 京王線もJRも止まった橋本駅から帰宅困難者が避難してくる中で、 受け入れ場所となった体育館には人があふれた (翌日の朝までの利用者の延べ人数は千人を超えたらしい)。 残った職員や生徒が誰とはなしに、 懐中電灯やランタン、 発電機で灯りを確保し、 暖をとるために校内各所からストーブ、 防災倉庫から毛布を運んできた。 案内や警戒のために正門や通用門にも自主的に人が立った。 相模原市の職員が対応して非常食や飲料水は最低限の物が確保できたが、 大きな問題として残ったのがトイレだった。 仮設校舎は屋上の貯水タンクに水をためるのではなく、 必要な時にポンプを動かして給水する。 しかし、 停電すれば肝心のポンプは動かず、 水は流れない。 この夜は、 食品科学棟の貯水タンクとトイレのおかげで何とかしのぐことができたが、 計画停電の期間中は、 汚物を流すために大きな樽に水を汲みおくことが対策として考えられたりもした。 夜11時過ぎに復旧してそこかしこの建物に灯りがともると、 思わず歓声が上がったが、 やっと映ったテレビに繰り返し流れる映像を、 その時事務室にいた者はみな茫然と見入るしかなかった。 新学期が始まると相原高校でも、 福島から複数の転入生を迎えることになった。 その中には就職を希望する者もおり、 昨年度に引き続く、 いやそれ以上に厳しい今年の就職活動を乗り切っていかなければならない。 4 月当初より幾つかの企業から今年の採用見送りの連絡を受けていたので、 ある程度予想はしていたが、 7 月に入って受け付けることができた求人件数は、 半減といっていいほど減少していた。 ところで、 彼らが神奈川に来る原因となった原子力発電所についてだが、 言い方は悪いが徹底的に膿を出すチャンスが巡ってきたと思うし、 そうしなければ、 またどこかで同じ過ちが繰り返されてしまうかもしれない。 それより自分が不満と不安を感じているのは、 横須賀を母港としている空母ジョージ・ワシントンの原子炉だ。 各電力会社が持つ発電所の原子炉についても、 知らないこと、 分からないことだらけだった。 アメリカ軍の軍事機密であり、 一方的に安全だといわれても俄かには信じがたい。 原子力発電所の原子炉と同じ規模のものが、 すぐそばにあることにあまりにも無頓着なのではないか。 まさか、 本当に安全で、 事故は起きないと思っているのか。 それとも諦めてしまっているのか。 GWの艦載機が厚木基地に飛来するたびにまき散らす爆音とともに、 監視し排除していかなければならないものだと感じている。 |
(さかい あきら 相原高校教員) |
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