特集U
被災地で出会った言葉から
 
成 田 恭 子

  「50年前、 チリ沖地震を経験しました。 ここはチリ地震でも被害が大きい地区だったんです。 人生で二回も大きな地震を経験するなんて。 ここら辺の子どもたちはずーっと周りの大人たちから地震のこわさを言われ続けているんです。 いつか来る、 いつか来ると思ってました。 だから、 あっ、 来たなという感じでした。」 と赤崎中学の村上恭子先生は穏やかに語られる。 「卒業式の準備をしていたときでした。 お祝いのお菓子を届けに来たお菓子屋さんが津波警報が出ているよって教えてくれたんですよ。 窓の外から今までみたことがないくらい海の水が引いていくのがわかりました。 ああっやっぱり来たなって思いました。」 「この地区はほとんど犠牲者が出ていないんですよ。 陸前高田の被害が大きいのはチリ地震ではあちらはほとんど被害がなかったからかもしれません。」 大船渡市赤崎地区には赤崎小と赤崎中が隣り合うように立つ。 赤崎小の校庭にはがれきが 3 階の高さまで積み上げられ、 重機による撤去作業ははじまったばかりだ。 二階と三階の間に水が来た跡がくっきり残っている。 赤崎中はやや高台にあり、 こちらも二階まで水が来ている。
  「ここから、 海が見えますが、 3 月11日以前は建物が遮って、 見えなかったんですよ。 海が見えるんだって初めて分かりました。 子どもたちを早く日常に戻してあげたいと思っています。 先日七夕のお祭りをやったのですが、 1 、 2 年の低学年の子どもの短冊にはパイロットになりたいとか、 バスの運転手さんになりたいとか書いてあるんです、 5 、 6 年は復興に役立ちたいとかが多いのですが、 3 、 4 年生は早くおうちがほしい、 というような本音が書かれた短冊が多かったんですよ。」 と語るのは大船渡北中の校長先生である。
 陸前高田市の市街地の光景にはみな一様に息を呑む。 海沿いの気仙中学はがらんどうだ。 高田高校の校舎には体育館がめり込んでいる。 陸前高田市内のプールで練習中の部員は指定されていた避難所に避難したものの津波に呑み込まれ、 助けにいった顧問とともに 8 人が犠牲になった。 奇跡の一本松といわれ、 本当に荒涼としただだっ広い廃墟と化した陸前高田市に一本残った松、 その横のサッカー場で練習していたサッカー部員は顧問のかけ声で走って逃げて難を避けた。 学校にいた生徒・教職員は第一グランドに集まっていたが、 いったん海側に降りて、 第二グランドに避難、 無事だった。 そのまま、 とどまっていたら…… 「今もって、 誰が第二グランドに逃げろと指示を出したか覚えていないのです。」 「第二グランドから下を見ると、 校庭の左側と右側が逆の方向に揺れているのが見えてぞっとしました。」 「野球部の屋内練習場で生徒たちとその夜は過ごしました。 お腹が空いたとか寒いとか感じなかった。」 「きれいな学校でした。 高田高校は、 春には桜の小径を通って学校へ行くんですよ。」 と何人もの教職員の方々が話してくださった。
 民宿のまだ若女将 (と思われる) は 「ごめんなさい。 今でもぼーっとしているんです。 震災でライフラインが途切れて大変だったとき、 いっそ死んじゃった方がよかったなんて思ったこともありました。」
 日教組教育復興ボランティアで出会った、 たくさんの言葉である。
 大槌町、 釜石、 大船渡、 陸前高田、 私の郷里の広島で見聞きしていた原爆の後の焼け野原のようにただ、 ただ、 巨大な荒れ狂う力の跡が広がっていた。 巨大なコンクリートの塊は砕けた防潮堤だ。 誰もが文字通り言葉を失う。 私たちの頭上の高田高校が間借りしている農業高校の校舎から、 子どもらの明るい声が降ってくる。 ほっとする。 岩手沿岸部は軒並み土地は陥没して、 海が近くなっているのだが、 もう、 8 月にはここでやり直すという決意表明でもあるように、 新築の家が出現する。 釜石では赤い旗と黄色い旗がたてられている。 赤い旗はもうここには住まない、 取り壊してください、 黄色い旗は壊さないでくれの意味だ。
 はたして、 人は自然を制御できるのか?想定内であるとか想定外であるとか、 人はすべて想定できるわけもあるまい。 自然を手の内に入れたかのような人間の思い上がりが数々の人災を招いている。 けれども、 人は強いと思った。 絶望から立ち上がる人は強い。 歩きだす人の力は強い。 ふるさとを愛し、 ふるさとを見つめるまなざしは強く優しい。 今、 私たちの手に入れるべきは巨大で強固な防潮堤より、 自然と寄り添いともに生きる姿勢ではなかろうか?

(なりた きょうこ 日教組高校教育部長)
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