特集T 公立高校入学者選抜制度
高校入試制度の変遷 
  明治から現代までを概観する
 
金 沢 信 之
はじめに
 大学入試と高校入試が決定的に違うのは学校教育法から分かる。 高校教育は 「中学における教育の基礎の上に」 「さらに発展拡充」 させるものであると示され、 中高の接続が明瞭に読み取れる。 それに対して大学は 「学術の中心」 としてあり、 高校との接続は明記されていない。 高校は全ての中学生に開かれていることを前提として考えられているのである。 そうであるならば、 高校入試は中学時代の学習の記録によってなされるべきであろう。 あるいは中学生全員が高校へ入学できるよう措置されて当然とも言える。 しかしながら、 そういった考え方は戦後の一時期にはあったものの、 現在では高校による選抜が当然といった状況になっている。 また、 高校入試における中学の裁量がここにきて著しく低下しつつもある。 今回の入試改革では、 各高等学校の判断で学力検査の比重を調査書よりもかなり重くできる。
 本レポートでは、 明治から現代まで、 高校入試制度がどのように変遷してきたかを概観する。 受験競争緩和のために行政が努力をしていた時期もありながら、 現代では受験競争をさらに激化させる方向へと政策が動き続けているように感じる。 そのあたりを明確にしたいとも考えている。 なお、 戦前は学校制度が現在とは異なるので、 戦後の高校入試に近い部分を中心に論じていく。 また、 神奈川における今回の入試改革につながる流れも概観したい。
〔参考〕 学校教育法
第50条 高等学校は、 中学校における教育の基礎の上に、 心身の発達及び進路に応じて、 高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。 (以下略)
1. 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、 豊かな人間性、 創造性及び健やかな身体を養い、 国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
第83条 大学は、 学術の中心として、 広く知識を授けるとともに、 深く専門の学芸を教授研究し、 知的、 道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。  (下線は著者)  
  1. 複線型学校体系の中で 「入試地獄」
     明治期、 森有礼文相は学問と教育を区別するという教育観を持っていた。 学問とは国家において指導者となるべき人々が身につけるものであり、 教育は国民大衆が受ける実用的なものであるとした。 その考え方が複線型学校体系の端緒となった。 つまり、 中学・大学へとつづく少数のエリート養成の系統と、 国民大衆教育の担当者は大衆の優秀児の中からという師範教育や、 袋小路となる実業学校や高等女学校などとの分裂である。 その後、 複線型教育制度が定着していくと、 義務教育後の中学校、 高等女学校、 実業学校、 師範学校等への進学は各学校ごとの入試選抜によって行われることとなった。
     明治末頃から中学校への進学希望者が急激に増加し、 「入試地獄」 とまで形容された小学校での過度な入学準備教育が問題となった。 そこで大正末 (1920年代半ば) 頃から、 文部省の様々な対策が通達され、 各府県でも対策を考え始めた。
     1890年代には中学校の入学率 (志願者数に対する入学者の割合) は全国平均で70%台だったが、 1900年にそれが50%台に低下し、 競争が激化していく。 競争倍率で言えば 2 倍程度になる。 (神奈川の前期選抜志願倍率は県立高校全体で2010年度が2.19倍である。 後期志願倍率は1.49倍。) これは初等教育の普及が中学への進学要求を強めていったことによる。
     この状況に対して1899年公布の中学校改正令は中学校の増設を積極的に促し、 学校数が大きく増加していくことになる。 (それまでは中学校、 当時の尋常中学校は 1 府県 1 校に制限されていた。) この中学増設が人々の進学熱を高め、 競争の激化に拍車を掛けるといった悪循環を生じさせた。 加えて、 増設によって学校間で入試の難易度に差が生じることにもなった。 いわゆる設立年度の古い 「一中」 (多くは県庁所在地にある) のような伝統校では競争倍率が 2 〜 3 倍となり、 新設の中学では募集人員ぎりぎりしか生徒が集まらない状況となったのである。 また、 入学試験は各学校ごとに試験日と試験問題を設定するから、 内容・難易度もばらばらであった。
  2. 「入試地獄」 解消に向けて
     さて、 こういった状況を打開するためにいくつかの県で先駆け的な試みが実施された。 例えば富山県である。 富山県では県立中学が複数化してすぐに試験期日を同一にし、 数年後には試験問題も共通化した。 しかし、 新設校では定員割れが生じ再募集という事態となる。 そこで、 富山県は各中学ごとに入学試験区域 (現在の学区) を設定した。 形式的には 1 校 1 学区の小学区制が成立したのである。 これによって富山県は 「入試地獄」 解消に成果をあげた。 つまり、 受験競争緩和のためには計画的な学校増と小学区制の導入が効果的なのである。
     その後、 大正年間 (1910年代) になると、 いくつかの県が総合選抜による 「入試地獄」 の解消を試みた。 だが、 学区の設定が合理的でなかったり、 成績によって志望を優先させたため、 学校間格差を生じさせることとなる。 しかし、 座視して何もしなければ 「入試地獄」 はさらに深刻な事態になったはずであり、 この試みは評価に値するものであろう。  このような一部の県の試みを文部省は追認することになる。 いわば、 ボトムアップの政策決定とでもいえようか。 ある意味、 現代よりも柔軟な意思決定だと感じられる。 文部省は1927年の通達で 「都市等ニ在リテハ数多ノ学校間ニ於イテ連合シテ考査ヲ行ヒ入学志願者ノ志望順位ニ依リテ入学セシムル等所謂綜合制ヲ採ルヲ可トスルコト」 として、 総合選抜の導入を認めたのである。
     しかし、 通達が出たものの強制ではなかっため、 これ以後総合選抜を導入した府県はほとんどなかった。 そこで、 文部省は1941年の通達で総合選抜の全国的な導入をはかることとなる。 この通達を受けて各県で総合選抜が実施されていく。 その中の特徴的な取り組みは、 「(1)居住地均等配分、 (2)抽選、 (3)高等女学校・実業学校へも拡大、 (4)私立の中学・高等女学校へも拡大」 等である。 部分的であるとは言え、 文部省主導のもと、 学校種・公私を一体化して学区制と総合選抜制を適用しようとした県が存在した。 さらに1944年、 文部省は 「新学制下の進学指導」 で 「本制の効果としては、 学校差観念の打破といふ事が挙げられる」 と学校間格差の解消を鮮明に打ち出した。
     だが、 このような改革に対して中等学校関係者や地域住民からの反発もあったようだ。 1946年に宮城県において 「河北新報」 紙が、 同県中等学校校長会議の席上で一部の学校長が 「学校選択の自由」 という理由から総合選抜の廃止を主張したことを報道している。 同社はこの動きに対して、 「綜合考査制は理想のものではないが民主主義教育制度の確立するまでは中間的な一応最もよい方法であると考へる。」 と社説で反論を掲載した。 戦前から戦後につながる入試改革が積極的に評価されつつ、 論議になっていたのである。
  3. 戦前の反省から戦後へ
     こうした経緯を文部省は1951年、 「公立高等学校入学者選抜について」 (通達) で総括・反省し、 新制高校の入学者選抜方法についての具体的な展望を述べた。 この通達の中には現在の高校入試制度の論点がいくつも存在している。 例えば、 複線型学校制度から単線型学校制度に改革されたということを踏まえて、 戦後の高等学校が 「中学校卒業者で希望する者はすべて入学させることを建前とし、 学区制も法律にその基礎をもっているのである」 とした上で、 「なるべく多くの志願者を入学させることと、 適切な学区制を実施して、 志願者を各高等学校に均分させることである。」 ことが高校入試制度の根本的な道筋であるといったことなどである。
     そもそも、 学校教育法施行規則第59条は 「入学志願者が、 入学定員を超過した場合には、 入学試験 (入学者の選抜) を行うことができる」 (1956年改正まで) としていた。 志願者が定員以内なら無試験合格ということである。 さらに、 1949年の 「新制中学校・新制高等学校 望ましい運営の指針」 の 「1, 学校は、 選抜を根本的に望ましくないものであると考えているかどうか。」 で、 「新制高等学校は、 入学者の選抜それ自体望ましいものであるという考えを、 いつまでももっていてはならない。 入学希望者をできるだけ多く、 全日制か定時制のどちらかに収容することが、 結局のところ望ましいことなのである。 新制高等学校は、 その収容力の最大限度まで、 国家の全青年に奉仕すべきものなのである。」 とした上で、 「選抜をしなければならない場合も、 これはそれ自体として望ましいことでなく、 やむをえない害悪であって、 経済が復興して新制高等学校で学びたい者に適当な施設を用意することができるようになれば直ちになくすべきものであると考えなければならない。」 と全入の道筋を明確にしたのである。
     では選抜は実際にはどのように行われたのか。 年度によって若干異なるが、 1948年には 「選抜のために如何なる検査も行わず、 新制中学校の報告書に基づいて選抜される」 とされていた。 報告書には 「学力検査」 も含まれるが、 これは 「入学志願者全体に対して一斉に行う」 アチーブメント・テストのことである。 1949年には、 ア・テストは 「中学教育の正常な発展に障害とならないように極力注意」 することとされ、 中学と高校の接続が強く意識されていた。 しかし、 ほどなくして、 高校側に選抜の主体性がないことへの不満が増大していったのである。 戦前の総合選抜をめぐる流れを想起させる展開であった。
  4. 改革の後退から否定へ
     文部省が戦前の反省に基づきながら改革を進めている一方で、 新たな動きが始まる。 それは、 戦後復興や国際情勢といった教育の外に起因するものであった。
     1951年にアメリカの要求によって設置された 「政令改正諮問委員会」 の 「教育制度の改革に関する答申」 が 「画一性の打破」 「実際社会の要求」 などを理由に、 学区制を廃止し事実上の戦前の複線体制への復帰を主張した。 また、 これに呼応するようにして日経連は中等教育・高等教育における職業教育を強化するために教育制度の根本的検討を要望した。 明治初期に学問と教育を分けて考える発想と驚くほど似ている。 おりしも、 1950年から朝鮮戦争が始まり、 日本は急速な経済発展へと舵をきり始めていたのであった。 1953年朝鮮休戦協定が結ばれ、 同年には 「池田・ロバートソン会談」 が行われ、 教育の反動化が急速に進んだことも改革の後退に影響したといえよう。
     このような中、 文部省は1954年に 「入学志願者が募集定員を超過し、 入学者選抜のために学力検査の必要がある場合は、 志願者に対してこれを行うことができる。」 とし、 1956年の学校教育法施行規則改正でこれを法令として規定した。 さらに、 「都道府県及び市町村の教育委員会は、 相互に協力して、 同一の時期、 同一の問題により、 学力検査を行うように努めなければならない」 とした。 学力検査の実施が認められたのである。 選抜に関わる高校側の権限が強化された。 同年の学習指導要領改定が (高等学校のみの改定) 大学への受験体制を強め、 高等学校の性格そのものが変化し始めた。 このことが高校入試制度のあり方を大きく変える契機になったのかもしれない。
     しかし、 学区・入選については教育委員会に実質的な権限があり、 高知県の高校全入などの運動が残っていたのも事実である。  
     1963年の学校教育法施行規則改正では、 入学志願者が定員を超えない場合でも特別な事情がない限り、 学力検査を行うという内容に変更された。 同年に出された改定 「公立高等学校選抜要項」 では旧要項の 「志願者のなるべく多数を入学させるものとする」 が 「多数を入学させることが望ましい」 となる。 さらに、 「高等学校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当でない。 高等学校の入学者選抜は (内申書・学力検査成績等を資料として)、 高等学校教育を受けるに足る資質と能力を判定して行うものとする。」 とし、 適格者主義・排除の原理を推し進め、 高校全入を否定したのである。 こうやって、 中学と高校の分断は進み、 学校間格差などの問題が深刻化していった。
     これらの動きは1960年の安保改定前後から、 政財界が 「人的能力開発」 を唱えたことと同時進行した。 高度経済成長政策の中で 3 %のハイタレントを養成したり、 中堅技術者を養成することが教育の目的とされ、 文部省は 「教育投資」 という言葉さえ使うようになったのである。 明治期の学問と教育を分離する発想ときわめてよく似ている。 そして、 明治から昭和への移り変わりの時と同じように、 人々の進学熱は高くなり、 学校間格差の中で進学競争は激化していくこととなる。
  5. 戦前の入試制度への逆行とさらなる問題の発生
     1984年、 学校教育法施行規則が改正され、 第59条 4 項が無くなった。 これによって、 学力検査の同一時期・同一問題という高校入試制度の根幹が消滅した。 いわば、 明治から昭和初期までの学校別入試制度に逆戻りしたのである。 このことは、 当時の問題が再現されるということであり、 戦後文部省が自ら反省・総括してたどり着いた目標をかなぐり捨てたということでもある。 現在の入試制度が抱える諸問題の発端の多くがここにあり、 容易に解決できない状況を作り出したのが、 実は入試制度の改善について歴史的認識を持っていたはずの文部省であった。
     この改正を受けて同年、 文部省は通知を出す。 これによって生徒急減期までを視野に入れた高校入試選抜永続化の目的が鮮明となった。 また、 「新しい教育の多様化」 (新多様化)、 いわば戦前の 「複線型」 につながる 「複線型多様化」 (日教組 『教育改革推進委員会研究協力者会議報告書』 1989年) ともいえる教育制度の転換を入試が下支えする役割を担ったともいえよう。
     7・20通知と呼ばれるこの通知のポイントは次のようなものである。
    1. 公立高校の入試は、 同一時期、 同一問題で行う必要はない。
    2. 各高校・学科等の特色に配慮しつつ、その教育に足る能力・適性などを判断して行う。
    3. 受験機会を複数にする。
    4. 調査書の重視、 学習の成績以外の記録の積極的利用。
    5. 普通科の推薦入学を積極的に行う。
    6. 面接の利用。
    7. 特色ある高校の学科等については、 可能な限り広い範囲から受験できるようにする。

     7・20通知と59条 4 項削除を文部省が決定することにしたのは、 この前年に発足したいわゆる木田会議の報告に基づいている。 だが、 木田会議でさえ、 「59条の原則を全く外してしまうと今度は入試競争を激化させることは」 必然であると考えていた。 だから廃止ではなく、 緩和を報告したのである。 また、 「可能な限り広い範囲から受験できるようにする。」 とは、 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」 第50条 1 項の通学区の規定に反することにもなるのである。 それにも関わらず文部省がこのような決断をしたのは、 当時発足することになっていた臨時教育審議会に対する対抗心か、 あるいは当時の中曽根内閣の指示があったからとしか考えられない。
     1985年の臨教審第一次答申は高校入試について、 「偏差値偏重の是正などを図るため、 その選抜方法も多様にするなどの方策を検討する。」 とした。 さらに、 1987年の第三次答申には、 「学力検査、 調査書、 面接、 論文 (作文) 等の利用の仕方、 比重の置き方は各高等学校・学科の特色に応じて定めるようにする。」 「受験機会の複数化。」 「各学校の個性化・特色化などを推進するとともにそれらを配慮した入学者選抜を行い、 それぞれの学校の教育を受けるのにふさわしい者を入学させる。」 といった内容が盛り込まれた。 その後、 1991年第14期中央審議会答申、 1993年 「高等学校入学者選抜について」 (通称 2・22通知) へと引き継がれていく。
     まさに高校入試制度は際限なき自由化に舵をきっていくこととなった。 限りなく広い学区で、 各学校どころか、 学科やコースごとに時期を違えて内容の異なる入試を行うことが可能になったのである。
  6. 神奈川の入試改革
     このような高校入試制度の大きな変化は神奈川にも押し寄せて来た。 これまでも神奈川の制度は何年かおきに変更されてきたのだが、 1990年当時の入試 「改善」 はア・テスト廃止、 文部省が推し進める入試改革の導入が主たる目的であった。 ア・テストについては 「実質的大学区制のもとで高校間格差と輪切り選抜・年中テスト漬け・早期の進路 (受験校) 決定と学校選択の自由の制限・過年度生や県外からの転入学生に不利」 といった不満が高校進学率の拡大にともなってかなり前から保護者・中学生の間にあったのは事実である。 しかし、 ア・テスト廃止によってこの問題全てが解決できるとは到底思えない。
     当時ア・テストは学力検査よりも比重が重く設定されていた。 そこが問題とされたのかもしれない。 また、 ア・テストが選抜資料の一部となってしまっては、 その意味合いはすでに無くなっていたとも言えよう。 高校が中学の学習を継続・発展させるものであるのなら、 入試は細心の配慮 (例えば、 戦後すぐはそうであったように作問・実施に中学が関わる態勢など。) が必要なのだが、 高校進学率の上昇の中で競争が激化すればするほどア・テストへの不満が増大していったのは自然な成り行きではあった。 新制高校発足時は学力検査と言えばア・テストであったのだが、 その時代には既に戻ることはできなくなっていたのである。
     神奈川において、 この検討を行ったのは 「神奈川県高等学校教育課題研究協議会」 (略称 「高課研」、 以後高課研と略す。) であった。 発足は1991年である。 第14期中教審答申と同年である。 1992年には当時の文部大臣が神奈川のア・テスト批判を行ってもいる。 1993年には通称 2・22通知が出され、 同年に文部省は 「高校入試の多様化」 実施状況について全国調査を行った。 こういった状況の中で高課研は発足したのである。 文部省の強い影響を受けての審議となったのは当然のことであった。
     1997年よりア・テストは入試の資料から無くなった。 (なお、 同時に健康診断・出欠の記録も削除された。 健康診断・出欠を選抜資料に含めないことは評価できる。) 同時に文部省が推し進める様々な 「高校入試多様化」 (神奈川における多様な選抜方法、 第一希望と第二希望同時志願、 推薦入試の拡大、 調査書記載事項の活用、 傾斜配点など) が神奈川に導入されたのである。 ここから始まる改革は、 戦後入試改革にはあった中学教育への影響・配慮といった視点がほとんど感じられない。
     その後、 第一希望と第二希望の同一校志願が増大していく。 そういった問題を解決するために2004年 (2005年完全実施) に前期選抜・後期選抜へと制度が変更された。 この前期選抜は学力試験を実施しない。 面接はあるものの調査書の比率が高く、 中学の学習が評価されるという点では、 今後この制度の意味を検証する必要もあるだろう。 しかし、 進学校と言われる高校では、 前期の募集枠を許された下限に設定するといった状況もあった。 後期の学力試験による入試の比重を高めていたのである。
     中学の評価が絶対評価になったことから調査書に対する信頼は大きく揺らいでいた。 中学校は絶対評価を現状の入試にはふさわしくないと考えていた。 また、 調査書の記載事項を活用するためにはそれを点数化するしかなく、 複雑な読み取り基準は多くの問題を発生させたのである。 様々な記載事項の点数化は中学校教育に悪影響を与えたことは想像に難くない。
     また、 2005年から学区が撤廃された。 戦後入試改革で重要な柱であった学区が消滅したということは、 競争を緩和する大きな手段を失ったことに他ならない。 同年には翆嵐高校などで独自問題が導入され、 学校現場に大きな負担を強いた。 さらに、 入学定員の公私比率が 6:4 に固定された。 それによって、 目標とされる計画進学率が示されなくなった。 しかし、 経済の落ち込みから公立高校への入学希望者が増加し、 増加した枠を定時制・通信制が受け入れることとなり、 結果として神奈川県は全国最低レベルの全日制普通科進学率となっていったのである。
おわりに
 現中学 2 年生から、 新たな入試制度が導入される。 「調査書の記載事項の点数化を行わない、 日程の一本化、 独自問題の取りやめ」 などは改善点ではある。 だが、 学力検査と面接を全ての受検生に実施するのでは、 高校も受検生もかなりの負担であるのは確かなことだ。 高校の採点・点検はこれまでより量的に増加する。 結局は大きく揺れているだけで根本的な解決を目指した議論がなされていないことに不満を感じる。
 公立高校への入学者増を吸収する現実的な手法として、 定時制と通信制は入試が 2 回になった。 矛盾を定通に押しつけているにすぎない。 全日制普通科進学率を回復し、 さらに上昇させるためには、 公私 6:4 の固定募集枠を撤廃する必要があるのは誰が見ても明らかなことだ。 早急にその議論をしてもらいたいと思う。
 短期・中期的には現実的な対応も必要だと思うが、 長期的な視野にたった段階的な改革案を行政は持ってほしい。 何しろ公立の中等学校も存在しているのである。 中高の接続の視点から中学教育を歪めない入試のありようを模索したいものである。 学区については地方分権の視点から学区設定の権限を地方に移譲したたというのが文科省の見解である。 主体的な議論をぜひしたい。 また、 戦前から現代にいたるまで続く 「教育の自由化」 をめぐる議論については、 公共性と私事性の視点から議論が行われることを期待したい。
【注】参考文献など
 戦前から戦後にかけての記述については次の文献を参考にした。
高校入試制度の改革 国民教育研究所 木下春男 労働旬報社 (1988)
別冊国民教育 戦後教育改革を考える 国民教育研究所労働旬報社 (1982)
高校教育多様化と入試制の問題 国民教育研究所 労働旬報社 (1968) 
近代日本教育小史 国民教育研究所 草土文化 (1973)
「'90年代日本の教育」 小川利夫・海老原治善他 エイデル研究所 (1990)
どの子も希望する高校へ 日本教職員組合高校準義務化促進委員会報告 (1995)

 神奈川の入試改革については次の文献を参考にした。
神奈川県高等学校教職員組合・高校教育問題総合検討委員会報告
W期報告 (1986) [期報告 (1995) \期報告 (1997)
(財)神奈川県高等学校教育会館 教育研究所 所誌 「ねざす」
13号 高校教育改革を考える 永田裕之 (1994)
19号別冊 新神奈川方式へのシナリオ 中野渡強志(1997)
34号 神奈川の04年度入試を考える 金沢信之 (2004)
戦後神奈川における新制高等学校についての一考察
       (神奈川県立総合教育センター長期 研究員研究報告)  荻野賢 (2011) 

【参考資料】
  1. 神奈川県通学区域の変遷・経緯
    1949年 新制高校発足、高等学校通学区域設定、9学区
    1950年 新制中学第1回卒業生入学、高等学校通学区域施行、19学区
    1951年 高等学校通学区域の公示、20学区
    1953年  「高等学校通学区域規則」 制定
    1962年 <神奈川県公立高等学校学区制調査会>
    1963年
    「神奈川県公立高等学校通学区域規則」 制定
    9学区 学区外枠10% (湘南高校など越境入学の多い学校を追認)
    横浜市内の10の小学区を北部・中部・南部の 3 学区
    愛甲・高座・中郡・相模原・津久井を県央学区として 1 学区
    平塚・大磯秦野・伊勢原を平塚秦野として 1 学区
    1973年  「高校百校新設計画」
    1976年 神奈川県公立高等学校入学者選抜制度研究協議会 (入選協) 〜1980年
    1978年 学区外枠 8 % 
    1981年
    16学区 横浜北部・中部・南部を 6 学区程度に改変分割
    川崎・鎌倉湘南・平塚秦野をそれぞれ 2 分割
    1985年 神奈川県公立高等学校入学者選抜制度検討協議会(入選検)〜1988年
    1990年  18学区 県央・県北学区をそれぞれ 2 分割
    1997年 <県立高等学校将来構想検討協議会>〜1998年
    1999年 県立高校改革推進計画
    2001年 <入学者選抜制度・学区検討協議会>〜2003年
    学区外枠25%
    2005年  学区撤廃 、入学者選抜制度・学区検討協議会で示された懸念
        (1)受験競争の激化の懸念
        (2)学校の序列化の懸念
        (3)近隣の高校の入学を希望する生徒への影響
        (4)地域とのつながりの希薄化の懸念
        (5)中学校の進路指導への影響
  2. 戦前の主な受験競争緩和施策(「公立高等学校入学者選抜について 文部省通達 1951」 より)
    1924年 テストによる選抜の実施
    1927年 教科に基づく筆記試験を廃し、 口頭試問による人物考査を実施
    1930年 準備授業を厳禁 筆記試問の復活
    1931年 実業学校への入学を勧奨
    1935年 教科書から出題することに改める。問題の検閲とその報告を地方庁に命ずる
    1937年 身体検査を重視。筆記試験はなるべく一科目につき行うことを勧める。進学指導を奨励
    1939年 教科に関する試験を再び全廃し、 報告書、 人物考査、 身体検査の三者総合判定で選抜
    1940年 収容力の増加を奨励
    1941年 身体検査を緩和し、 学区制および総合考査制を奨励
  3. 次ページ 『神奈川の戦後入試制度の変遷』 (中野渡強志 『新神奈川方式へのシナリオ』 1997年の表をもとに一部追加して作成)

 (かなざわ のぶゆき 教育研究所員)

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