寄稿 

関東大震災と朝鮮人虐殺

後 藤   周

 関東大震災 (1923年 9 月 1 日) は関東地方に大きな被害をもたらしました。 とりわけ横浜市は中心部が壊滅し、 市内95%が倒壊・焼失、 死者・行方不明者26,600人、 住民の92.4%が罹災する大災害となりました。 県庁、 市役所、 そして 7 つの警察署のうち 6 署が倒壊・焼失し行政は機能せず、 救援、 治安活動の最もおくれた地域でした。 このような状況の中で、 1 日夜には市南部の避難地では 「朝鮮人が襲ってくる」 という流言が生まれ、 朝鮮人虐殺が 2 日、 3 日と全市に拡大します。 流言から虐殺という動きは東京、 千葉、 埼玉など関東地方全域で起こり、 多数の朝鮮人が虐殺されました。 関東大震災の朝鮮人虐殺について、 できるだけ横浜の事実を見ながら考えてみたいと思います。

1. 朝鮮人虐殺の実相
 横浜には大震災の後に小学校で書かれた子どもたちの作文集が残っています。 そのうち南吉田第二小、 寿小、 石川小は学区を接しており、 火に追われた子どもたちはほぼ同一地域に避難しています。 横浜でもっとも早くデマの流れた中村町から根岸にかけての地域です。 作文は、 この地域の警察と人びとが一体となってむかった虐殺のようすを生々しく伝えています。 その幾つかを紹介します。 (朝鮮人のことを 「鮮人」 と書いている子どももいます。 蔑視を含んだ言葉で現在では使いませんが、 原文通りにしています。)

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 ワーワーという叫び声。 「朝鮮人だ」 「鮮人がせめてきた」 という声がとぎれとぎれに聞こえた。 あまりのおどろきにどうきは急に高くなった。 きん骨たくましい男の方たちはそれぞれ竹を切って棒にしたり、 ハチマキをしたりと用意にいそがしくなった。 …何百何千の山の上にいる人々は、 ただただ朝鮮人が来ないように神に願うほか道はありませんでした。 万一の用意にと女子供までも短い棒をもった。 そして今来るか来るかと、 私とお母さんはたがいにだきあって、 他の人々とすみの方へ息をころしてつっぷしていた。

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 おまわりさんが 「朝鮮人が刃物をもってくるから、 来たら殺してください」 と言って来ました。 ぼくはそれを聞いたとき、 びっくりしました。 ぼくは兄さんとナイフをもって竹林に行って、 まっすぐでじょうぶな竹をとって竹やりを三本こしらえてくると…

 寿小高等科1年 1日夜〜2日朝:横浜植木会社、 唐沢交番 (寿署仮警察署)
  「私、 朝鮮人あります。 らんぼうしません」 といいながら、 私たちにむかっていく度も頭をさげておじぎをしました。 そこへおおぜいの夜警の人が来て…いくら何をされても朝鮮人は一言も話さなかった。 しらべていた人が 「おい、 しかたがねえから警察のだんなの前でお話しろよ」 そういいながら、 おおぜいでよってたかってかつぎあげて門の方へと行ってしまった。 翌朝…寿警察の前をとおりこそうとすると、 門のなかからうむうむとうめき声が聞こえてきた。 私はものずきにも昨夜のことなど、 けろりとわすれて、 門のなかに入った。 うむうむとうなっているのは五、 六人の人が木にしばられ、 顔などはめちゃめちゃで目も口もなく、 ただ胸のあたりがぴくぴく動いているだけだった…         
 石川小高等科2年 2日朝:自宅 (相沢付近)
 …明け方である。 巡査が来て、 今、 桜町方面へ十五、 六人の鮮人が、 松明をつけて残家を焼きつくすと言っておしよせたから用心せよ、 と言って走った。 さあ、 それからと言ふものは、 米がないからじゃがいもをゆでて腹をこしらえ、 大事な物は皆かくし、 又、 極大切な物は持ち、 家はくぎ付けにして来るのをまった。

 寿小高等科1年 2日朝:山元町の交番
  「朝鮮人が交番にしばられているから見に行かないか」 と大きな声で言っていました。 …朝鮮人は電信にゆわいつけられてまっさおな顔をしていました。 よその人は 「こいつはにくらしいやつだ」 と竹棒でぶったので、 朝鮮人はぐったりと下へ頭をさげてしまいました。

 寿小高等科1年 2日朝:横浜植木会社付近
 道のわきに二人ころされていた。 こわいものみたさにそばによって見た。 すると、 頭はわれて血みどろになって、 しゃつは血でそまっていた。 みんなは竹の棒をつっついて 「にくたらしいやつだ。 こいつがゆうべあばれたやつだ」 と、 さもにくにくしげにつばきをはきかけていってしまった。

2. 作文から読み取れること
(1) 人々が 「朝鮮人襲撃」 のデマを信じこみ、 恐怖と憎悪のなか武器をもって虐殺にむかったようすがわかります。 朝鮮人が襲ってくることは実は 1 件もなかった、 その事実が大震災後も伝えられていないこともわかります。 作文は震災の半年後に書かれたものですが、 虐殺への反省や自覚はありません。 「外人が我々のいる所へ来てあばれるなんて、 腹立たしい。 そこへ来て、 鮮人だと聞いてなおさらくやしい。 我が国でありながら、 ああ、 殺してもものたりない」 と書いている子どももいます。
(2) 警察官が朝鮮人襲撃や放火のデマを人々に告げていることや捕らえられた朝鮮人が交番へ連行され、 交番に殺された朝鮮人がしばられていたことを子どもたちは証言しています。 自警団は警察の指導の下に組織されたものもありますし、 少なくとも警察の公認、 黙認のもとに武器を手に取り虐殺にむかっています。 これが 「天下晴れての人殺し」 という意識を民衆に持たせていきます。

3. なぜ、 朝鮮人虐殺は起こったのか
 第一に、 政府・行政の動きがあります。 大災害に際して、 正しい情報を伝え、 人々に冷静な行動を呼びかけて安全をはかるのが政府の役目です。 ところが、 政府は当初はデマを肯定し、 朝鮮人への警戒を呼びかけました。 例えば内務省警保局長から各地方長官 (知事のこと) 宛の電報があります。 東京の電信所が壊滅したため、 2 日午後伝騎により船橋海軍送信所へ送られ 3 日午前 8 時15分に打電されたものです。 「東京附近の震災を利用し、 朝鮮人は各地に放火し、 不逞の目的を遂行せんとし、 現に東京市内に於て爆弾を所持し、 石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、 各地に於て充分周密なる視察を加へ、 鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。」  次に、 出動した軍隊、 警察の行動があります。 当初はデマを信じての治安行動ですから軍隊による虐殺、 警察官が自警団と一緒になって虐殺を引き起こしています。 従来から軍隊の虐殺証言はありましたが、 1993年に始まった松尾章一氏たち研究者の東京都公文書館、 防衛省防衛研究所図書館、 国立公文書館の史料発掘によって関東戒厳令司令官 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」 が発見され、 東京、 千葉の軍隊による虐殺が軍の史料によって明らかにされています。
 横浜の場合も 2 日に上陸した海軍陸戦隊は、 朝鮮人放火などのデマを肯定する報告を送っていますし、 加賀町署とともに 「不逞者防圧」 に出動したとあります。 寿小の作文では、 兵隊が 「朝鮮人と戦うために来たのだ」 と言ったと書かれています。 また先にあげた震災作文のように、 警察によるデマの肯定、 伝播があったことは明らかです。
 このような政府・行政の動きの背後に朝鮮支配という絶対的な敵視・敵対関係がありました。 朝鮮の支配があり、 民族運動への弾圧があり、 それが朝鮮人への強い恐れと警戒となったのです。 大災害による治安の不安が、 軍隊による虐殺、 警察による自警団の組織化と民衆による朝鮮人虐殺を生み出したのです。
 最後にデマを信じ虐殺にむかった民衆の問題があります。 目の前にいたのは朝鮮から仕事を求めて来ていた出稼ぎの朝鮮人労働者です。 地震に逃げ惑い火に追われた同じ被災民でした。 その実像とかけ離れたデマを容易に信じたのはなぜでしょう。
 日本の朝鮮支配がありました。 植民地となったため朝鮮の農民は土地を失い生活が苦しくなり、 日本へ働きにきました。 差別のため日本人よりも低い賃金で建設現場や工場で働きました。 きびしい状況の中にあってもけんめいに働き生活をしていました。
 多くの日本人はこのような朝鮮人の姿を理解できませんでした。 日本語のしゃべれない出稼ぎ労働者に対しては無関心でした。 植民地の人びとと見下し、 べっ視しました。 また、 独立運動を見て危険な人びとと警戒し、 恐れもしました。 無関心・無理解、 べっ視や何をするかわからない危険な人びとと見る偏見や差別が、 デマを広げ虐殺をひきおこしました。 偏見や差別が人を殺す、 関東大震災の虐殺はこうして広がったのです。

4. 朝鮮人虐殺から学ぶこと
 デマが広がり虐殺が激しく行われた 2 日、 3 日、 少数ですが朝鮮人を守った日本人がいます。 その多くは土木請負業、 木賃宿営業など日頃から朝鮮人労働者と接していた人々です。 また、 田島町助役の栗谷三男や鶴見警察署長大川常吉がいます。 大川署長のことは地元の佐久間権蔵の 「日記」 や当時町議だった渡辺歌郎の手記 「感要漫録」 の発見によってその朝鮮人保護の経過が明らかになりました。
 朝鮮人、 中国人約400名を警察署に収容保護した大川は、 朝鮮人追放を叫ぶ町民を粘り強く説得しています。 「恐るべき朝鮮人」 「憎むべき朝鮮人」 「悪魔」 とまで言って追放を要求する町議たちに確かな事実を示して、 「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者であり、 あわれな被災者だ」 と反論し説得に成功します。 そして、 町の有力者、 町議たちの協力によって、 警察署の朝鮮人を襲おうとする町民の動きを止めます。 警察官という立場からであっても朝鮮人の親方たちとの日常のかかわりは、 この人たちを殺してはならないという強い思いとなって、 迫害される朝鮮人を守りぬいたのです。
 関東大震災の朝鮮人虐殺は繰り返してはならない重い歴史事実です。 それは政府・行政の朝鮮人の抵抗運動に対する恐怖、 警戒から生まれました。 その背後に日本の朝鮮支配という絶対的な敵対関係がありました。 そして、 日本の民衆は目の前の朝鮮人労働者の存在に無関心でした。 かかわりが薄く、 関心のないところには理解は生まれず、 蔑視や偏見が育ちます。 そして、 朝鮮人労働者の実像からかけ離れたデマを容易に信じ、 虐殺へとむかったのです。
 私たちが学ぶこと、 それは平和な国際関係 (敵対する国や民族をつくらない)、 社会のマイノリティへ関心をもつこと、 かかわりの大切さ、 理解、 そして、 正しい理解を実現する勇気、 人々を説得する力です。
  「たとえ自分の身を犠牲にしても朝鮮人を保護するのは、 それが私の警察官としての責任であり、 また人の道に従うことだからです」 当時の史料 (中島司 「震災美談」 1924年 7 月) が伝える大川常吉のことばです。

  

(ごとう あまね 在日外国人相談センター・信愛塾理事)

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