検証
高校改革推進計画・・・その2
 
教育研究所
  
  1. 神奈川県における改革の動き
    (1) 改革の動き
      『ねざす』 前号で検証したように、 百校計画は教育機会を拡大する一方で 「課題集中校」 などの新たな課題を生みだした。 さらに90年代以降の社会構造の変化にこれまでの学校の仕組みが対応できないことも明らかになってきた。 しかし、 各学校は手を拱いていたわけではなく、 さまざまな改革を重ねていた。 改革の動きを工業高校と普通科高校について見ていきたい。

    工業高校の改革
     1970年代の後半から、 工業高校では選択制カリキュラムの導入が試みられた。 藤沢工業高校では 3 類型の選択制が導入されたが、 平塚工業、 川崎工業、向の岡工業、 城北工業、 商工などでも 6 〜 8 単位の選択制カリキュラムが導入された。 ただ、 この選択制には自由選択は含まれていなかったので、 生徒は学校が示した選択科目のうちから 6 〜 8 単位分を必ず履修、 修得しなければならなかった。 自由選択とは、 生徒から見た場合、 履修するかどうかが、 生徒に任されている形態である。
     さらに1980年代から90年代にかけて大きな改革が行われた。 くくり募集と基幹学科への統合である。 県の文書によってその主旨を見ると次の通りである。
      「これからの工業教育のあり方としては、 従来の狭い分野の職業準備教育から、 技術革新によって高度化した社会に柔軟に対応しうる幅広い工業の従事者を目指し、 低学年では基礎的基本的なものに重点を置いて、 工業全般について展望を与える共通科目を履修させ、 高学年では専門性を深めるとともに、 個性に応じた選択履修ができるようにして生涯学習につなげるという理念のもとに改善を図る中で、 小学科 (機械科や電気科など 筆者注) の選択をゆるやかにさせうるようにすることが必要である。」 (神奈川県職業教育改善委員会 「第三次報告」 1983年)
     一方、 学習指導要領では、 専門学科の必履修単位が35単位から30単位に減った。 (1978年改訂の学習指導要領)
     工業高校は、 選択可能なカリキュラムを編成するとともに専門科目の単位数を減らしていくことになった。 いわば専門学科からの普通科への接近である。
     工業高校はもともと中堅技術者の養成を目標としており (1970年改訂の学習指導要領まではこの目標を掲げていた。)、 この目標のためには、 3 年間で35単位以上の専門科目を履修する必要があると考えられていた。 工業高校は生涯学習という理念の下で中堅技術者養成という旗を降ろしたのである。
     化学工業科と工業化学科の統合、 機械科、 造船科、 自動車科の統合、 電気科、 電子科の統合が1990年前後に相次いで行われた。

    普通科の改革
     普通科では、 1990年代に自由選択も含めた選択制が広がっていた。 神奈川県高等学校教職員組合が2001年に実施した 「新教育課程編成の進捗状況調査結果」 (2002年刊行、 回答校数は78校) によって変化の様子を見ていきたい。
    最大修得単位数と最少修得単位数の差が開く傾向にあった。 これまでは90単位を科目登録したら90単位を修得しなければ卒業できない学校が大半であったのが、 科目登録した単位数と修得しなければならない単位数の差が生まれるようになった。 この調査では、 差が全くない学校は 4 %、 不明、 検討中は 5 %で残りは差がある学校である。
    卒業に必要な単位数については、 74単位が24%。
    現行と比較して卒業に必要な単位数を減じた学校が54%、 同じ、 が26%、 増やした、 が 8 %。
     多くの学校が卒業単位数を減らし、 自由選択制を導入したことがわかる。 普通科は、 『ねざす』 が誌上で取り上げていた 「学校のスリム化」 「自由選択制」 などの改革案を取り入れようとしていたわけである。 学校設定科目についてもさまざまな科目が計画されている。

     1970年代まで高校は 完成教育 であるという考え方が強かった。 完成教育とは、 大学の準備教育ではなく、 人間形成の完成教育あるいは 国民教育の完成教育 であると説明された (佐々木享 『高校教育の展開』 1979年 大月書店)。 高校は 3 年間の課程でまとまりを持ち、 完結した教育を提供するという考え方である。 工業高校の目標であった、 中堅技術者の養成 などは完成教育の典型的な例である。 生涯教育という理念の下で工業科も普通科も完成教育という考え方から、 卒業後の学習の基礎 (学び方を身につける、 学ぼうという興味や意欲を育てる、ということを含めて) を身につける、という方向に転換しつつあった。 必要なのは知識の量だけではなく、 学び方の学び 意欲、 興味、 関心 である、 という新学力観はこうした動きを後押しした。

    (2) 改革案の提起
     1990年代後半、 教育行政と高等学校教職員組合から、 間近に迫った高校改革を見据えて相次いで改革案が提起された。 また、 高校も含めた学校教育全体に対する改革の視点として 「支援教育」 が提唱された。
     次にそれを見ていく。

    県立高校将来構想検討協議会 「これからの県立高校のあり方について」
     神奈川県教育委員会は、 1997年 「県立高校将来構想検討協議会」 (以下協議会と言う) を設置し、 中長期の生徒数の動向を展望した県立高校の将来構想について諮問した。 同協議会は答申 「これからの県立高校のありかたについて」 で、 次のような具体策を提案した。
    (1)多様で柔軟な高校教育の展開を行い、 個が生きる高校教育を実現する。 そのため、 単位制普通科や総合学科、 新たな専門学科等、 特色ある学校を作るとともに全体として柔軟なシステムを実現する。
    (2)生徒数を展望した高校の適正規模と適正配置を図るため、 再編統合を含めて検討する。 計画進学率は段階的に引き上げる。
    (3)地域や社会との相互交流を進め、 開かれた高校を作る。 そのため、 一定の地域の人々や県民の意見を聞く 「学校モニター」 のような制度を検討する。

    「2003年委員会」 の改革構想
      「2003年委員会」 は、 高教組の 「高校教育改革に対する (組合としての) 中期プラン」 (1997年定期大会議案) を作成するための委員会である。 「2003年委員会」 は、 1998年に 「神奈川の高校教育改革プログラム」 (以下プログラムと言う。) を公表した。
     プログラムは 「私たちは積極的に、 高校をこのように改革したい、と提起したいと思います。」 として次のような具体策をあげた。
    (1)学級定員を縮小して参加型学習を実現する。
    (2)高校生活を 「自分探しの旅」 ととらえ、 「ガイダンス科目」 を設置する。
    (3)子どもたちの意欲・志向の多様性に対応できるように多様な選択科目を設置する。
    (4)学校を、 「学ぶ」 場としてだけでなく、 「過ごす」 場としてコミュニケーションづくりの観点から魅力あるものにしていく。
    (5)個人の尊重と選択肢の充実を図りながら学校や集団が苦手でも学べる高校を作る。
    (6)柔軟な再履修、 転科、 転学システムを実現し、 高校での 「トライ・アンド・エラー」 を可能にする。
    (7)完全学校五日制でゆとりある生活と学習を確保する。
    (8)高校への希望者全入を実現する。 そのため、 入試方式の抜本的改善を求める。
    (9)学区縮小と学校間格差の是正を図り、 地域と共に歩む高校にする。
    (10)公費での十分な教育予算を確保し、 保護者負担の軽い、 県民に開かれた高校にする。

     教職員組合、 教育行政、 それぞれの立場を反映して表現の仕方や力点の置き方は違うが、 次のような点では改革の方向はほぼ同じだった。
     第一は、 1980年から90年代にかけて批判を浴びた学校の画一性、 硬直性等を改め、 個に応じた教育を進めようという点である。 2003年委員会が 「参加型」 「子どもたちの意欲・志向の多様性に対応できるように多様な選択科目を設置する。」 「柔軟な再履修、 転科、 転学システムを実現し、 高校での トライ・アンド・エラー を可能にする。」、 協議会が 「多様で柔軟な高校教育」 と言った内容である。 政府の教育政策の中にも含まれていた方向性であった。
     第二は、 高校を 「自分探しの場」 と位置づけ、 学ぶ意味を自ら探していくことを積極的に認めようという点である。 「自分探し」 という言葉は2003年委員会、 協議会答申、 中央教育審議会答申に共通して使われた言葉である。 高校は、 学ぶ意志のはっきりした子どもたちの受け皿であるべきだ、 という認識の変更であった。
     第三は、 希望者の全入である。 2003年委員会では文字通りこの言葉が使われた。 協議会答申ではより消極的ではあったが、 「計画進学率を段階的に引き上げる」 と表現された。 1998年の全日制計画進学率93%を引き上げる、 と考えていたわけである。
     1970年代半ば以降、 教育行政は、 高校を 「義務教育終了後、 高等学校教育を履修する意欲と希望を持つものに開放される国民的教育機関」 (教育長プロジェクトチーム 1975年) 「希望する子どもたちに対して門戸を開放するオープンドアポリシーをとったわけです。」 (神奈川県八木教育長) と説明していたから、 より多くの子どもたちの高校への受け入れ という考え方は一貫していたと言える。  
    第四は、 高校間格差の是正である。 2003年委員会ははっきりと 「学校間格差の是正」 と書いたが、 協議会答申は 「個が生きる高校教育」 という文脈で、 「各高校の特色が明確なものになり、 生徒がさまざまな観点から高校を選ぶようになることによって、 高校間の序列意識の変革が促される」 とした。 1991年の第14期中教審で 「現在、 学生生徒を偏差値によって区分けし、 国民の多くに抑圧感情と閉塞感を与えている」 と指摘された学校間の 「格差」 「序列」 を変えたいということである。 高校間格差は社会にねざしたものであり、 特色づくりによって変えられるようなものではない、 という批判はあったが、 中教審答申が 「あの鬱陶しい学校間 格差」 と表現したように課題意識は共通であった。
    第五に 「ゆとり」 の確保である。 協議会も2003年委員会も学校五日制の実施を念頭に 「ゆとり」 の確保を謳った。 言うまでもなく、 「ゆとり」 は2003年から実施される学習指導要領の目玉であった。

    支援教育の提唱
     1990年代後半、 県の施策として提唱されたのが支援教育である。 1998年の研究報告書 「インクルージョンをめざした学校教育の改革」 (第二教育センター 教育上配慮を必要とする子どもたちの教育のあり方研究委員会)は、 インクルージョンについて次のように述べている。 「たまたま障がい児教育のあり方を検討する中で言われてきた概念ではあるが、 ただ単に障がい児のための措置にとどまらず、 学校教育全体の個別対応性や質的改善充実のためにどう考えていくかということにつながるのである。」
      「個に応じた教育の実現、 誰も切り捨てない教育の実現、 喜んで通える学校教育のためのキーワードがインクルージョンなのである。」
     また、 2002年に出された 「これからの支援教育の在り方」 (これからの支援教育の在り方検討協議会) によれば、 支援教育とは 「小・中学校、 高等学校、 または盲・聾・養護学校という学校種を超えて、 どの学校でも行わなければならない、 個々の子どもを大切にする学校教育そのもの」 と定義されている。 文部科学省の考える 「特別支援教育」 に対する批判の上で展開されている考え方である。 (支援教育についてくわしくは 『ねざす』 47号の特集 「支援教育」 2011年参照)
     つまり、 支援教育とはインクルージョンという理念に基づいて障がいのあるなしに関係なく、 個々の生徒が必要とする教育的ニーズを提供しようとする考え方である。 その実現のためにはこれまでの学校教育の再構築が必要だとされている。 (前掲研究報告書)
     支援教育は、 学校教育全般に及ぶ改革の提起であるが、 なかでも集団を重視した教育への批判は、 さきの二つの改革案と共通した内容であった。

    (3) 改革の試み―学校づくりの実践―
     改革案の提唱と前後して実際の学校改革も試みられた。 神奈川県では、 1994年、 各学校に 「魅力と特色ある学校づくりプラン」 の作成を要請したので、 これに対応して改革を試みたところが多かった。 高校改革推進計画に先行して現場からの改革も試みられていたのである。
     1990年代後半には、 教育行政主導の改革、 現場からの改革、 両者が重なり合った試み等さまざまな動きがあった。 次にそれを見たい。

    神奈川総合高校の設置
     1995年に開校した神奈川総合高校は教育行政にとって改革のモデルともなる試みであった。 神奈川総合高校の特色は次の通りである (山梨彰 「県立大師高校と県立神奈川総合高校を訪ねて」 『ねざす』 18号 1996年、 以下の記述は主としてこの論文による。)。
    (1)学校に生徒が適応するのではなく、 生徒が選択し、 それぞれの可能性を伸ばていくことが求められている。
    (2)教員から見るとマスとしての生徒集団ではなく、 生徒個々人に向き合いながら、学校としての体制を維持していくことが求められている。
     こうした特色によって生徒の学校生活は従来の高校生とはおよそ異なるものとなっている。 入学式前からガイダンスが行われ、 3 年間の履修計画と 1 年次の履修計画がつくられ、 授業が始まるのは 4 月17日頃となる。 通常の授業の他に夏休み直前の集中講座、 野外活動など多彩な科目が選択できる。
     生徒指導の面でもこれまでの高校等は異なった方針がとられている。 制服はなく、 校則らしい校則もない。 義務としての清掃もない (校内清掃ボランティアはある)。 学校からの連絡事項は掲示板と生徒一人一人のロッカーが利用されている。 空き時間は特に縛りはなく、 時間割によっては登校しない日もあるというのが生徒の日常生活である。
     ここに実現しているのは、 集団主義によって運営されている学校の対極であり、 集団主義批判の視点で構想されていた学校そのものと言っても良い。 神奈川総合高校は、 単位制高校規定に基づいた学校である。 単位制であることによって以上のような特色が生まれていた。
     前掲の論文は神奈川総合高校の問題点として次の三点を挙げている。
    教員の勤務が多忙であること。 多忙さによって学校のシステムが維持されていること。
    入学する生徒の 「学力」 が高く、 「贅沢な教育は選ばれたものだけが享受する」 という状態に結果的になっていること
    充実した施設や設備がこの学校だけの 「一点豪華主義」 になってしまっていること。

    大師高校の学科改編
     大師高校は、 1996年に普通科から総合学科へと学科変更を行った。 大師高校が 「課題集中校」 の一つであったこと、 また、 大師高校の改革は、 同校の生徒の実態を踏まえた 「現場に根付いた改革」 (『ねざす』 24号の編集担当者の表現) と考えられていたことは神奈川総合高校との違いであった。 一方、 神奈川県教育委員会は大師高校の試みを 「神奈川の総合学科における教育を先導的に実践するモデル校」 と位置づけた。
     大師高校の特色や学科改編 3 年後の様子について次に述べたい。 (『ねざす』 18号前掲論文、 県立大師高校 「総合学科設置の基本的視点」 『教育研究所ニュースレター』 15 1995年、 大師高校総合学科 1 期生担任団 「県立大師高校の 3 年間」 『ねざす』 24号、 25号 1999年)
     大師高校によれば、 その特色は次の通りである。
    (1)「産業社会と人間」 によって 「自己の進路への自覚を深めさせる学習」 を用意し、 多様な選択への主体的態度を準備する。 また、 自己を知るために地域に住む多様な人々との出会いを大切にする。
    (2)多様な選択科目と系列を用意し、 生徒の主体的選択を保障する。
    (3)普通科目と職業科目の結合による 「総合制」 を実現する。
     学習の中で、多くの実習・体験を積むことが強調されており、 従来型の学習に加えて参加型の学習形態が提起されている。
     始まったばかりの総合学科の課題として 『教育研究所ニュースレター』 16の 「匿名」 氏は次のように指摘している。
      「(課題は) 学習意欲や学習習慣があまりない生徒をどのように教育するかである。 (中略) 作業や体験などの内容を多く取り入れて生徒の学習の立て直しができるかどうか、 これが多様な選択科目によってどの程度できるか。 そして進路の自覚を深めさせ、 自立心を育てることが 産業社会と人間 を軸としてどれだけ実現できるか」 (「いま、 総合学科」 を考える (2) 『教育研究所ニュースレター』 16 1995年)
     大師高校の改編が、 課題集中校の問題を解決する糸口になるかどうか、 という問題意識がうかがわれる。
     総合学科 1 期生が卒業した段階で、 担任の 6 人が 3 年間を振り返って書かれたものが前掲の 「県立大師高校の 3 年間」 である。 ここでは、 「現場から出発した改革」 らしく中退者が減っていないなどの課題が率直に出され、 そうした課題をいかにに解決したらいいか、 等といった記述が見られる。 また、 入学してくる生徒の幅が広く、 「 7 校時も 8 校時も設定してほしい、 勉強したい科目をすべて選択できるようにしてほしいという生徒から、 とりあえず高校に進学したんだという気持ちの生徒や、 勉強する気持ちを忘れている生徒までいたと思います。」 という現状について、 担任のひとりである鈴木市朗氏は 「(推薦入試の実施について) 結果的に、 入学者の学力・興味・意欲・関心は広く分布し、 輪切り選抜 に一石を投じたと考えている。」 と述べている。 (前掲 『ねざす』 25号)
    総合学科の試みが、 検証その 1 で述べたようなさまざまな改革の理念を実現しようとしたものであったことがわかる。

    『ねざす』 の誌上等で提起された改革案、改革の試み
      『ねざす』 の誌上等でも多くの改革案や改革の試みが紹介された。 そこに共通するのは次のような内容である。
    課題集中校に来ている生徒を引き受け、 その課題を解決することを第一義とする。
    生徒たちのアイデンティティの確立を目ざし、 自主的主体的な活動を組織する。
    居場所、 生活空間としての環境を整える。
    小集団学習、 多様な選択制の導入、 授業の改善、 評価の見直し、 再入学制度の活用
    主体的な進路選択を促す 3 年間のプログラムの用意。 労働観や勤労観の育成
    (中野和己 「学校間格差と課題集中校」 『ねざす』 16号 1995年、 中野和己 「課題集中校の学校づくり、 『学校づくり最前線』 高等学校教職員組合 1997年)
     1997年に、 教育研究所が行った教育討論会、 「現場教師が語る 神奈川の高校教育改革」 では、 4 人のシンポジストがそれぞれ違った立場で改革を語った。 4 人には改革に対する視点の違いはあったが、 「課題集中校からの教育改革」 を語ったという点が共通であった。
    その中で語られた改革の試みには次のようなものがあった。 (『ねざす』 19と 『ニュースレター』 19より) ただし、 シンポジストの内一人は大師高校からの参加で、 総合学科のシンポジストの発言は、 前掲の 「大師高校の設置」 の項と内容が重なっている。
    【普通科高校の改革―普通科高校のシンポジストから】
    ◆少人数編成の授業による学習環境の整備
    ◆卒業単位をへらし、 学校をスリム化すること (当時は80単位が最小必要単位)
    ◆生活指導の適正化と中退者を減らすこと
    ◆沖縄修学旅行などを軸とした平和人権教育
    【総合学科への改編―総合学科のシンポジストから】
    ◆改編以前からの取り組み 「小集団学習の保障」 「選択科目の充実」 「人権、 環境教育の推進」 などを引き継ぐ。 その他の教科・科目の活用 (「その他の教科・科目」 は学習指導要領に記載されていない教科・科目で、現在の 「学校設定教科・科目」 に近い)。
    ◆ 「産業社会と人間」 を軸に自己発見と自己開発を進める。
    ◆人権、 環境、 福祉、 国際理解を共通基盤として教育内容を考える。
    ◆偏差値偏重からの脱却
    【総合選択制をめざして―普通科高校のシンポジストから】
    ◆多様な選択科目の設置 (職業科目などを含む) 「その他の教科・科目」 の活用。
    ◆ 「自分探し」 を目標としたカリキュラムの編成と単位制的運用
    ◆卒業に必要な単位は80単位とする。
    【職業高校における改革―工業高校のシンポジストから】
    ◆ 1 年次における少人数学級の実施
    ◆生徒を引っ張り込むのではなく、 教員が生徒に近づくやり方
    ◆基礎学力の充実 (職業技術教育の保障のために)
     ここで語られたのは、 単なるプランではなく、 それぞれの学校で試みられている改革実践であった。

    翠嵐高校定時制の改革
     翠嵐高校の定時制では、 1999年度から単位制に限りなく近い運用を軸に 3 年修業を可能にした教育課程を導入した (阪本宏児 「下からの教育課程改革は可能か」 『ねざす』 24号 1999年、 「座談会― 単位制 と 3 修制 で学校はどう変わったか。」 同31号 2003年 以下の記述はこの二つによる)。  
    この改革は、 1998年、 県教委が各学校に 「定時制教育内容改善計画書」 の提出を求めたことをきっかけにしているが、 翠嵐高校定時制の生徒の実態などを踏まえて学校独自に行われたものである。
    この改革の要点は次の通りである。
    (1)従来の 1 〜 4 限の前後に 0 時限目と 5 時限目を設定し、 そこに自由選択科目を開講、 そこから 3 年間で20単位を修得できれば必修時間帯 ( 1 〜 4 限) の修得とあわせて 3 年卒業が可能になる。 ( 3 修制、 校内では修業年限の選択制と呼称)
    (2)教育課程の学年制的進行を最小限にとどめ、 全体を単位制的に運用する。 1 年次に 1 単位以上修得すれば 2 年次に進級でき、 入学後 2 年間で20単位以上修得すれば、 以降は修得単位数 0 でも 6 年間は (入学後 8 年間) 在籍できる。
     この試みが大師高校と違うところは、 行政の全面的な協力を得られていないように見えることである。 中学校に対する説明会の際、 単位制と標榜しないように指導されたことなどは、 単位制高校規定に基づく単位制と区別したいという教育行政の意向からであろう。
     しかし、 「新教育課程のねらいの一つは、 卒業年限から授業選択に至るまで、生徒に出来るだけ多くの選択肢を提示することであった。」 (前掲論文 『ねざす』 24号) というように、 全日制の改革の試みと同様の理念がそこにはあった。 しかも、職員会議の論議を経て 「下からの教育課程改革」 が実現していた。 下からの改革らしく、 4 年後、 生徒も交えた座談会で課題を率直に出していることにも触れておきたい。 (前掲 『ねざす』 31号)
  2. 県立高校改革推進計画の発表
     1999年11月、 2000年から10年間にわたる 「県立高校改革推進計画」 が発表された。 (関連年表、 再編校の校名、 学科等については 『ねざす』 44号を参照) また、 計画の基本的枠組みについては既に紹介した 「これからの県立高校のあり方について」 (1998年 県立高校将来構想検討協議会) と重なるのでごく簡単に確認しておきたい。
    1. 計画の基本的枠組み
      目的:生徒の多様化、 生徒数の減少、生涯学習社会などに対応しつつ県立高校の将来像を示す。
      計画の基本的考え方: 「多様な教育の提供」 「柔軟な学びのシステムの提供」 「地域や社会に開かれた高校づくり」 「県立高校の再編整備」

        「これからの県立高校のあり方について」と変わったのは 「ゆとりの確保」 という文言がなくなったことと、 「学校運営等の改善充実」 が付け加わったことである。
    2. 計画の基本方向
       計画の基本方向が県教委の 「活力と魅力ある県立高校をめざして」 (県立高校改革推進計画) の中に図で示されているので文末に揚げた。 この図は改革の全体像を示していると考えて良い。
  3. 教育政策の転換―学力低下批判― 
     改革推進計画が発表された1999年ごろからいわゆる学力低下批判が起こった。 学力低下批判に始まる 「学力論争」 は、 広範囲な論者を巻き込み文部科学省 (中央省庁の名称変更は2001年 1 月からだが、 煩雑なので以下、 文部科学省と言う。) がすすめてきた 「ゆとり教育」 全般を批判することになり、 結果的に文部科学省はその政策を転換した。 ここではその経過と意味を述べたい。
     2000年、 文部科学省の寺脇研は学力低下批判に答えて 学習指導要領は最低基準 と説明し始めた (たとえば、 『論座』 1999年10月号)。 寺脇研は、 運用を変えるだけだと雑誌や新聞で説明したが、 新しい学習指導要領では学習内容を 3 割程度減らしたということは文部科学省が明言していた。 (文部時報1482号 平成12年) さらに、 文部科学省教科調査官は 「学習内容は従前の約四分の一程度の減らし方では対応できず、 理想的には二分の一程度にすることが望ましいということになるであろう。」 としていた。 (『改訂中学校学習指導要領の展開』 明治図書 2000年) ここで、 教科調査官は学校での学習量のことを言っているのである。 政策の転換は明確であった。 2002年小中学校の、 2003年高校の学習指導要領が実施されるとすぐの2003年10月再改訂が行われ、 学習指導要領は最低基準 ということが書き込まれた。 高校の場合は実施後半年で再改訂が行われたわけである。
     2001年に入ると ゆとり教育転換 という報道が行われるようになり、 2002年には文部科学大臣のアピール 学びのすすめ が行われた。 ここで使われた言葉が 確かな学力 である。 すでに検証 1 で説明したように 「ゆとり教育」 の基礎となった学力観を文部科学省は 新しい学力 と言い、 その内容を 「自分で課題を見つけ、 自ら学び、 自ら考え、 主体的に判断し、 行動し、 よりよく問題を解決する資質や能力」 と説明していた。 その上で、 基礎・基本は必ずしも知識や技能だけではないから、 弾力性や多様性があること、 基礎・基本は、 「関心・意欲・態度」 「思考・判断」 「技能・表現」 「知識・理解」 がその中心的な資質となること、とも説明していたのである。 確かな学力 とは、 2008年改定の学習指導要領によれば 「基礎的な知識、 技能を習得し、 それらを活用して、自ら考え、 判断し、 表現することにより、 さまざまな問題に積極的に対応し、 解決する力」 と説明されたから 新しい学力 とは大きな違いがある。 なによりも 新しい学力 が学力観のパラダイム転換であったのに対し、 確かな学力 はその点があいまいになった。
     学力観の転換に基づいてすでに授業実践が行われていた小学校に比べ、 多くがこれからの課題であった高校の場合、 確かな学力 への再転換は改革の要を失ったようなものだった。
     2002年には、 小中学校では 「学力向上フロンティアプラン」、 高校には 「スーパーサイエンスハイスクール」 「スーパーイングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」 の事業を始めた。 特に高校の場合、 政策の力点は 学力の高い子ども に移ったと言える。
    更に大きな影響を与えたのは、 全国一斉学力テストの実施である (2007年実施)。 学力テストの実施に影響を与えたのは、 学力低下に対するさまざまな懸念、 文部科学省の政策には根拠になるデータがないという批判、 「平成14年度高等学校教育課程実施状況調査」 で、 設定通過率が予定の正答率に達しなかったこと、 PISA2003における順位低下等さまざまな要因がある。 しかし、 最終的には、 国が目標を掲げ、 地方、 学校が実施し、 その結果を国が学力テストによって検証する、 という、教育分野におけるPDCAサイクルの一環として位置づけられることになった。 この仕組みは、 「義務教育の構造改革」 とも言われ 「競争と選択の導入」 の重視でもあった。 (「全国学力調査 をめぐる議論」 戸澤幾子 国立国会図書館調査及び立法考査局 レファレンス、 2009.5)
     2002年の 「学びのすすめ」 によって始まった政策の転換は全国学力テストの実施によって完了した。 しかし、 文部科学省は、 「理念は変わりません」 と言い続けた (2007年に文部科学省からすべての教職員に配布された 「生きる力」 と題したパンフレットの副題) ので、 転換によって何がどう変わるのか、 と言うことは、 あいまいなままで推移することになった。
     神奈川での高校改革も、特段の説明もなく、 事実上の修正を受けながら進行した。   
  4. 改革の展開
    (1) 学校組織の改革
     改革推進計画は、 改革推進計画のための条件整備の一つとして 「学校運営等の改革・充実」 を掲げた。 その内容として 「校長のリーダーシップの確立」 を掲げ、 「校長が学校の責任者としてリーダーシップを発揮するとともに、 教職員の協力体制を確立し、 改革に主体的に取り組むことができるよう、 学校運営組織のあり方を改善します。」 とした。
     この部分は県立高校将来構想検討協議会の 「これからの県立高校のあり方について」 にはなかったもので、 1998年の中教審答申 「今後の地方教育行政のあり方について」 を踏まえたものであった。 以後その具体化は次のように行われた。
    2000年 4 月 職員会議の規定を管理規則に追加。 補助機関化。  
    2001年 4 月 事故防止会議発足
    2002年 4 月 学校評議員制度発足
    2006年 4 月 校内組織をグループに分ける。 総括教諭、 企画会議を設置。
     この改革によって学校現場は大きく変わった。 単に組織が変わっただけでなく、 学校としての意志決定の仕方、 教職員の仕事の仕方などに大きな影響を与えた。
     学校によってばらつきはあるが、 「校長のリーダーシップの確立」 は一気に進んだ。 全職員による協議を基に運営される方式から校長らの管理職と彼らを補助する総括教諭を中心に運営される学校が多くなった。 神奈川県立高校は、 1980年頃から20年間にわたって、 全職員による協議を基に運営される方式が定着していたため、 この変化の影響は大きかった。
     高校教育改革は、 検証その 1 でも述べてきたように、 これまでの高等学校教育にとっていくつかのパラダイム転換を含んでいる。 これまでの高校教育のやり方と違っているということは生徒にとっても戸惑う場面があるということである。 学校はそうした生徒の戸惑いや不安を細やかにキャッチしてそれを学校全体に反映させていくことが求められる。 生徒の戸惑いや不安は、 個々の教師と生徒との対応、 何気ないやりとりなどの中から掬いだしていくように掴んでいかなければならない。 この点は、 1990年代以降の社会変動にさらされた高校生と向き合う高等学校にとって特に求められたことであった。
     新しい校内組織は、 こうした課題に応えることが出来ただろうか。

    (2) 現場教職員の反応
      『ねざす』 36号の座談会 「理念 は実現されたか」 は2005年 8 月に行われており、 校内組織が大きく変わる前年である。 参加者は 4 名で、 いずれも新校の準備に関わった経験の持ち主である。 このうち 2 名 ( 2 校) は自らの経験を、 次に見られるように肯定的に語っている。
    推進計画が発表されたとき計画に対する強い反対はなかった。
    これを機会に生徒にプラスになる学校づくりをしていこう、と前向きに受け止める職員が多かった。
    再編担当の職員に積極的にやろうという人がかなり多くて全体の三分の一は超えていたと思う。
    校内での話し合いは分掌単位でしたからまったく関わらない人はいなかった。
    (なぜ新校に関わろうとしたかと聞かれて) 学校をつくるのはおもしろい仕事だと思ったからです。
    学校改革が成功するかどうかは、 現場教職員の情熱がどれほど持続するかどうかにかかっていると思う。
     他の 2 名 ( 1 校―厚木清南高校) は比較的改革に否定的である。 この原因は改革をめぐる経過の中にある、 と語られている。
     座談会で語られた 2 名の経験を整理すると次のようになる。
    1999年 新校準備委員会と全職員で構成される 「フレキシブルスクール校内協議会」 が編成される。 校内協議会は希望者で構成。 改革はすべての職員が担当するという前提で進められた。
    全定通の一体化や同一のカリキュラム表を持つ、 ということが議論の中心だった。
    2003年 新校長、着任。 秋に 「校内開校準備担当」 を立ち上げ。 メンバーは校長指名。 協議会等は事実上消滅。
    新しい新校構想を打ち出す。 進学を目指すカリキュラム構想を中心にするようになる。
    このことを参加者の一人は 「膨大な時間をかけて議論されてきたことが一夜にしてなしになったのが厚木南でした。」 「管理職が交代したら、 その 嗜好 にあわせて方向性も変わるようでは無駄もなくならないし、 情熱も続かないでしょう。」 と発言している。
     開校した厚木清南高校のホームページには フレキシブルスクール という文言は一語も載っていない、 と紹介されている。 (2011年 8 月のホームページには載っている。) 座談会だけでは細かいことはわからないが、 改革構想の中の フレキシブル の理念が一時的に後退したのではないかと推測される。
     この座談会からわかることは、 同時期に準備を進めた学校の中で職員の受け止め方には、 大きな違いがあったこと、 その違いは 校長のリーダーシップ から生まれたものではないかと推測できることである。

    (3) 学力向上重点校の登場と学校間格差
     2005年、 法改正によって学区の撤廃が可能になり、 神奈川県は学区を撤廃した。 また、 この年から入学者選抜の学力テストに独自問題を導入することが可能となり、 同年、 3 校が独自問題によって入学者選抜を行った(科目は国、 数、 英)。 2007年には学力向上・進学重点校が10校指定された (2008年には10校で独自問題)。 同年 8 月11日には学力向上・進学重点校10校によって合同説明会が開かれ、 報道 (8月20日付け神奈川新聞) によるとこの説明会で校長たちは次のように語った。
      (全国模試を授業の一環として義務づけたことを紹介しながら) 「多様なデータを分析して何を指導すればいいのかデータから読み取ることが大切」  
      「全国の単位制普通科高校のモデル校をめざし、 第一希望の現役合格率を高める」     「目的や使命を生徒や教職員に浸透させるには、退路を断つ言い方が必要。 数値目標を出すしかない。」
     新聞は、 「今回の指定を契機に指定校は東大など難関校への合格実績の向上に取り組むことになる。」 と報じている。
     学力向上・進学重点校は研究指定であり、 予算は 1 校10万円である。 研究指定だということは、 指定が外れれば元に戻るということでもある。 このことから神奈川におけるこうした試みは特に注目すべき政策ではないという見方も成り立つ。 しかし、 全国的な学力向上のかけ声と相まって学力向上・進学重点校の指定は県立高校全体に大きな影響を与えた。
     一つは、 独自問題を実施した県立高校と東京などの難関といわれる私学の間の併願が可能になったことだ。 一部の県立高校はこれまで別な土俵にあると考えられていた難関私学と同じ土俵にのることになったのである。 (難関私学と県立高校との併願については2011年 8 月 2 日に高校教育会館で開催された夏季講座 「学習塾から見た神奈川の公立高校入試」 鈴木道博 で提供された資料に基づく)
     これまでの学力検査の平均点は教科によっては50点満点で48点になることもある。 (中萬学院 『2010年度高校入試対策説明会』 2010年) つまりほとんど差がつかないことになるが、 独自問題だと平均20点台という教科もある。 例えば翠嵐高校の数学 (独自問題) の平均点は前掲、 中萬学院の資料によれば23.8点である。 (この数字は簡易開示と自己採点による資料であり、 データ数は97である。) 問題が難しくなったのである。 受験生の中に難しい問題を目標に受験勉強する子どもとそうでない子どもがいることになり、 一般の県立高校と独自問題を実施する県立高校との間には、 ペーパーテストで測られる学力においては明確な差がつくことになった。
     また、 学区の撤廃によって、 希望校の変更は地域を広げて行われるようになった。 旧学区の一番手校が無理ではないかと思われた場合、 従来だと 2 番手校に変更したが、 他の旧学区の一番手校に変更することが多くなったということである。 (前掲 「学習塾から見た神奈川の公立高校入試」 による)
     この結果、 県立高校は大きく、 独自問題を実施する学校、 進学重点校とその他の学校に分けられることになった。
     さらに、 「難関大学」 を学校をあげてめざす、 という学校が登場し、 世間から注目されるようになると、 他の多くの県立高校でも進学実績を目標にする、 という傾向が生じるようになった。 学力向上・進学重点校は2010年にはさらに 7 校が指定され、 計17校となった。
    個々の生徒が難関と言われる大学を目指すことは、当然あり得ることである。 しかし、 高校として 「難関大学」 への合格者増を目指す、 ということになれば話が違う。 改革で目指されているのは学校としてどうか、 と言うことではなく、 個々の生徒の進路希望の実現のはずだからである。 高等学校の学校要覧で大学合格者数をあげているが、 その数字はあくまで通算である。 一人の生徒が多くの大学に合格すれば加算される。 文学部と経済学部に合格すれば 2 とカウントされるのである。 また、 進学実績のなかで医学部合格者数を掲載している学校がある。 医学部に合格する数が多いことが学校として進学実績を上げていることになるからだろうか。

    (4) 計画進学率と全日制進学率の低下
     高校改革推進計画では、 全日制への計画進学率を、 2000年に94%と見込んでいた。 しかし、 2000年、 全日制への進学率は91.7%にとどまった。 2005年には計画進学率を策定しなくなり、 2006年には90%を切ることになった。 90%を下回ったのは1972年以来である。 (「定時制から見た 高校再編」 保永博行 『ねざす』 44号 2009年)
     そのかわり定時制、 通信制への進学率は上がり続け、 2001年の 5.8 %から2009年には 8.7 %になった。 全日制への進学希望率は2005年に92.3 %なので定時制、 通信制へは不本意入学が増加していることになる。 (教育研究所独自調査2005 「定時制高校から見えるもの」 『ねざす』 36号)  

検証その 2 まとめ
 1990年代後半、 大きな社会変動を背景にさまざな高校改革のプランが出され、 実際の試みも行われた。 神奈川県では、 改革に向けたうねりがあったと見るべきであろう。
 2000年には高校改革推進計画が始まったが、 その直後の2002年をターニングポイントとして教育政策は転換した。 改革構想の中心にあった学力観はあいまいにされ、 中身は問わないままに、 学力向上 だけが叫ばれるようになった。 その象徴的存在が学力向上・進学重点校である。 計画進学率という 数値目標 はなくなり、 全日制進学率は低下し続けた。
 県立高校は、 独自問題を学力テストに含める学力向上・進学重点校、 その他の全日制高校、 定時制・通信制高校、 という 3 つのグループにわかれることになった。
 改革の理念、 1990年代後半の改革への動きはどうなったのか、 再編された新タイプ校、 その他の県立高校の改革の様子などについては、 その 3 (次号) で検証したい。 (担当は永田裕之)  
          

お断り:検証は当初 2 回で完結する予定でしたが、 分量が多くなったことと、 検討が遅れたため、 3 回で行うこととします。 引き続き49号で掲載いたします。 ご了承下さい。
                                
ねざす目次にもどる