映画に観る教育と社会[16]

「カイジ」 と 「ミラル」
 
手 島  純
カイジ
  『カイジ』 という漫画がある。 1000万部以上の売り上げがあり、 若者のなかでは圧倒的人気を博するコミックである。 仕事もちゃんと就かずに、 否、 就けずに、 自堕落に生活する伊藤カイジは、 借金も抱え、 人生逆転を賭けてゲームや賭博に精を出す。 しかし、 それはまさに命を賭けたゲームであり賭博であった。
 超高層ビルの間に橋が架けてある。 橋といっても足幅くらいの幅の鉄骨だ。 そこを渡ればカイジたちは2000万円を手にすることができる。 しかし、 途中で落ちれば、 待っているのは死。 電気も流れているので手はつけない。 それでも、 カイジたちは渡ろうとする。 お金が必要だからだ。
 このとんでもない企画を主宰するメンバーである男は言う。 「通常奴らは (カイジたちのこと)、 愚鈍に寝たいだけ寝て、 不機嫌に起き出し、 半ば眠っているような意識で日々を繰り返す。 退屈を忌み嫌いながら、 その根本原因病理にはほおかむり。 少し熱心になる瞬間といったらけちな博打やどーでもいい女を追いかけまわす時くらい…」 「30になろうと40になろうと奴らは言い続ける。 自分の本番はまだ先なんだと! 本当のオレを使っていないから今はこの程度なんだと。 そう、 飽きずに言い続け、 結局は老い、 死ぬ」。 そして、 カイジたちに高層ビル間を渡らせる際には、 「この橋を渡る修羅場こそ、 奴らが生まれ変われるいいきっかけだ」 と言うのだ。
 一方、 カイジたちは命を賭して橋を渡ろうとする。 「負け組」 から抜け出すために…。
 このコミックは映画化された。 佐藤東弥監督 「カイジ」 である。 映画は、 膨大な原作のいくつかのエピソード、 たとえば上述の鉄骨渡りなどをつなぎ合わせながら、 カイジ役の藤原竜也が原作のエキスを上手に表現して見せた。
 豊かで希望があったはずの日本。 今やそこに住む若者たちの心はすさみ、 『カイジ』 にシンパシーを感じる者が増えている。 まともに働くこともできない現代日本の青年たちの心象風景を、 私は 「カイジ」 に見ることができた。

ミラル
 希望がなかなか見えない地域がある。 パレスチナだ。 そこでは、 宗教問題・シオニズム・イギリスの二枚舌 (バルフォア宣言/フセイン・マクマホン協定) などが歴史的に交錯し、 いまだに恒久の平和は訪れていない。
 そのパレスチナを舞台に孤児たちの学校であるダール・エッティフル (子どもの家) に焦点を当てた映画 「ミラル」 (ジュリアン・シュナーベル監督) がある。 私財を注ぎ込んでダール・エッティフルを建てたヒンドゥ (ヒアム・アッバス) は、 「私の目標は子どもたちを教育し、 希望を与えること」 と言う。 彼女は、 教育こそが希望であると信じている。 その学校で、 ミラル (フリーダ・ピント) は成長する。 パレスチナ人が蜂起したインティファーダのために学校は閉鎖されるが、 ミラルたちは難民キャンプに教師として派遣される。 しかし、 そこでミラルが見たものは、 パレスチナ人のおかれた惨い現実であった。
 ミラルは政治的行動にも走るが、 最終的には奨学金を得てイタリアに渡る。 自らの体験とイタリアで学んだことを土台に、 ジャーナリストとして成長していくのである。
  「ミラル」 は実話である。 ルーラ・ジブリールというジャーナリストの原作を映画化したものである。 彼女は 「メディア・ウオッチ賞」 やイタリアの 「ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」 を授与された世界的ジャーナリストで、 現在も活躍しているミラルその人である。
 この映画は手持ちカメラを多用するので、 観ていて目がクラクラする。 しかし、 それがパレスチナという地の臨場感をもたらし、 ドキュメンタリーのような現実感を演出する。 私は、 パレスチナの混沌を残像として引きずりながら、 ミラルの 「門出」 に希望を見ることができた。

希望
 東大社研の玄田有史たちは希望学という学問分野をたちあげた。 それほどに日本には希望を見つけることが困難になったのかと思う。 また、 玄田著 『希望のつくり方』 のなかでも繰り返し引用されるが、 作家の村上龍は 『希望の国のエクソダス』 で 「この国 (日本のこと) には何でもある。 …だが、 希望だけがない」 と書いている。
  「カイジ」 には希望を喪失した青年の必死のもがきが表現されている。 「いつだって人は、 この橋を行くカイジらのように孤立している」 ということである。 そんな状況に対して、 日本の学校は 「キャリア教育」 をたよりに希望を探ってみせるが、 若者は冷ややかに 「カイジ」 を読む。 団塊の世代たちが反抗した 「体制」 は、 反抗した者も飲み込む力があった。 しかし、 今の若者たちが置かれた現実は、 団塊の世代とは違って、 鉄骨の上なのだ。 落ちれば死ぬ…。
 ミラルは希望なきパレスチナの地で、 希望を失わずに生きてきた。 それは確かに少数派だろう。 しかし、 多くのパレスチナ人も絶望からの出口に向かっていて、 希望を語るベクトルの輪郭は鮮明になりつつある。
 希望が横溢しているような日本で、 実は希望が喪失し、 希望がないパレスチナで強く希望が語られる。 それは 「カイジ」 と 「ミラル」 に端的に表れた。
 ふたつの映画は、 私にトゲのように突き刺さったままだ。 私たち日本人は、 出口のない迷路に迷い込んでいるのではないのだろうかと、 ふと思う。


(てしま じゅん 教育研究所員)
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