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3・11以後、 再び棄民の時代に当事者として抗う
原発災害と日の丸・君が代裁判に通底するもの

 

岡 本 清 弘

《原発事故=組織優先の論理が無辜 む こ の人々や子どもたちを見殺しにする》
 3 月末に、 須賀川の有機栽培農家 (64歳) が自死、 わずか 2 週間後には飯舘村の102歳のお年寄りが避難を苦にして亡くなりました。 どの一つもそれだけで大変な衝撃でしたが、 悲劇はさらに続き、 6 月には相馬市の酪農家 (50代) が 「原発さえなければ」 と書き残して命を絶ちました。 いずれも現代の後方支援なき戦場における犠牲です。
 もはや語らぬ彼らがそれぞれに高潔な人柄を偲ばせるのとは対照的に、 多くの政治家や官僚、 電力会社や 「専門家」 たちの語る言葉は空虚でした。 当事者の自覚が乏しいまま組織の論理で語るだけで、 資力・情報において圧倒的に不利な被災者に手をさしのべない結果、 名もなき人々の生を蹂躙じゅうりんし続けます。 棄民が常態化する戦時下と言えます。
  「組織・制度としての学校」 もまた、 硬直した対応をする例が目立ちました。   ●独自に実施した線量調査をせっかくHPに掲載しながら間もなく削除した郡山のT小学校 (学校は、 情報統制の圧力の実態をいずれ公表する勇気を持つべきでしょう)。  ●弁当を持たせたいという保護者の申し出に対して 「公平性」 や学校給食法をタテに拒絶した学校。   いずれも、 学校が組織の論理とお上への配慮を優先した結果、 子どもや保護者に犠牲を強いるばかりか、 子ども同士・保護者相互を分断して無力化する事態すら生んでいます。

《声を挙げ連帯を加速する市民》
 一方で、 救いは目覚めた市民の出現です。 これまで原発の危険性を指摘してきた科学者や反対運動を続けてきた住民に加えて、 以下のように言挙こと あ げする人々が相次いでいます。  ○勝手に調査するなと圧力を加えた役所に辞表を出し、 汚染地図作りに立ち上がった研究者 ○子供たちを守ろうと官に直接立ち向かう親たち ○原発交付金返上を決意した南相馬市などの自治体 ○被曝者手帳を提案し行政を動かす飯舘村の青年 ○マスメディアが現場に入ろうとしない中で、 真っ先に双葉町に入った広河隆一氏・豊田直巳氏ら真正のジャーナリストたち……こうした実践者に共通するのは、《生きる権利を行使するために自らお上にモノ申す》という当事者意識と、 ネットワークを広げようとする意志です。 若者デモも同じ文脈で広がっています。

《責任回避の官僚用語》
 この間、 「直ちに人体に影響が出るものではない」 と繰り返された政府や専門家のコメントは不安を蔓延させただけでした。 広瀬隆氏が 「『直ちに』 とは、 原爆のように急性放射線障害で亡くなることを指すではないか! 5 年後、 10年後に子供たちがどうなるか、 なぜ考えないのか!!」 と痛撃を向けたのは当然です。 「直ちに〜はない」 こそは、 自らの逃げ道は確保した上で災厄を無辜の市民に押しつける官僚的 「模範解答」 でした。 悲劇的事態を想定していながら、 それを言わず・問わず・備えないのは精神的退廃とすら言えます。

《日の丸・君が代裁判:司法の言葉も官僚的 未成熟な言葉はいずれ書き換えられる運命》
 符節を合わせるように 5 月以降立て続けに出た日の丸・君が代関連の最高裁判決もまた、 同じ言い回しを臆面もなく採用しました   起立斉唱命令は 「思想、 良心を直ちに制約するものとは認められない」、 「思想及び良心の自由を間接的に制約したとしても合憲」 一体、 これを翻訳した時に果たして世界に通じるのか疑問です。 「制約する」 以上、 「間接的/直接的」 の区別は無意味であり、 人格の核心を制約すれば、 その尊厳に深刻な傷をもたらす点で放射能に等しいのです。 留意すべきは、 「は」 という助詞によって実害を極小に見せようとする作為です。 判決を書いた最高裁調査官とそれを諒とした裁判官は、 教職員の職務を行事遂行の局面に限定し、 子どもたちの意見表明権 (もしくは表明しないことの自由) を将来にわたり蝕むおそれについては考慮しない立場を取って教育に向き合うことを回避しました。 ただ、 判決に付された反対意見や補足意見に数条の光があります。 現在は、 相次ぐ提訴に対してようやく、 薄味で賞味期限の短い憲法判断が最高裁から出た段階であり、 いずれこれら未成熟な判決は書き換えられ乗り越えられねばなりません。

《神奈川からの 2 つの日の丸・君が代裁判は何を押しとどめているのか》
 6 月に確定した神奈川こころの自由裁判の成果の一つは 「起立斉唱の職務命令は出されていない」 と事実認定させたことで、 存在しない職務命令に従ういわれはないのは自明です。 ナショナリズムの攻撃から、 子どもたちを守り市民的権利と自由を保障する教師の役割の重さを改めて思います。 一方、 個人情報保護裁判一審判決 (8 月31日横浜地裁) は、 不起立者氏名は思想信条情報であると認めたものの、 それを収集することは不適当とする保護審議会答申の核心部分を無視しさらに、 保護審査会が 「県教委は氏名等を削除すべし」 と 2 度にわたって明示した答申に向き合うことも完全に回避しました。 二つの諮問機関を否定した県教委を裁判所が追認した結果、 貴重な達成である本県の個人情報保護条例は危殆に瀕しています。 危機を招いた責任に口を拭っている当局の退廃を指弾せざるを得ません。 ちなみに92年の沖縄返還20周年記念式典の映像を見ると生真面目な人ほど脱力します  「君が代斉唱」 時、 中曽根・鈴木・竹下・宇野・海部・森ら居並ぶ歴代総理の誰一人として唱和する者はいないのでした。 その程度のものに組織を挙げて忠義を示し、 自縄自縛する義理などないのです。

《未来をひらくために、 学び舎の当事者が自ら声をあげる》
 不合理に対して言葉で抗う福島の詩人として、 高校教員でもある和合亮一がいます。 失った言葉を放射能の闇の底から掬すくい上げて、 「つぶやき」 から 『詩の礫つぶて』 へと結晶させ、 当事者かつ伴走者として我々を督励するその姿勢をまとめると、 以下のようになるでしょう。
(1) 当事者として考え抜いて言葉を発する。
(2) 開かれたネットワークを大切にして動く。
(3) 未来への責任を深く意識して変革を信じる。

 いずれも、 過去の枠組みではもはや対応できない事態に立ち向かう地球市民の武器となるものです。 学校が我々の心の砦であるように願う、 彼の詩の一節を最後に紹介します。

  生徒の赤い目を見てしまったら
  言葉の前に涙が出てしまったのだ 
  生きること  学ぶこと
  学舎こそは  心の砦
  ここから始まる  窓を開けよう
  これ以上に  あり得ない
  優しい  影をつくる
  そんな校庭の木があります

(和合亮一 『詩の邂逅』 より 「邂逅Z」 の自由な抜粋)


 (おかもと きよひろ 元藤沢工科高校教員)

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