特集T 検証 「高校改革推進計画」
高校教育改革と県立高校再編
 
円 谷 洋 介
はじめに
 私が高教組の執行部に入ったのは1990年 4 月でした。 それから10年間本部役員として活動し、 2000年の 3 月に退任しました。 1996年から 4 年間は副委員長として教育分野を担当、 1997年には県の 「県立高校将来構想検討協議会」 に高教組代表の立場で出席するとともに、 1998年からは園部書記長 (当時・現委員長) とともに高教組としての高校の将来像を描く 「2003年委員会」 を開催し、 その報告 「神奈川の高校教育改革プログラム」 のとりまとめを行いました。
 1999年 2 月、 県教育委員会は 「2000年度から10年間かけて新しいタイプの学校を20数校つくる、 それに伴って30数校が再編の対象となる」 ことを発表し、 前期計画の具体案は1999年 8 月に発表されました。 高教組はただちに対象校を招集して対策会議を発足させ、 再編に対応していくことになりますが、 その会議の発足半年間を私は担当しました。
 それから11年がたち、 その間私は現場から再編の様子を注視していた、 と言いたいところですが、 実際に再編校にいないとその現実が見えているとはいい難いと思います。 再編対象校以外の学校でも、 この10年間は校内組織、 総括教諭制度、 入選、 そして私たちの勤務や給与体系と、 さまざまの変化が襲ってきましたので、 再編校の劇的変化はさぞかしと想像するばかりです。
 したがって、 私がお話しできるのは主として再編計画が策定されるまでの経験をもとにした、 体験的 「高校教育改革と再編」 論、 ということになると思います。 さらに10年間で記憶も曖昧なところがあり、 手元に資料もほとんどないので、 「論考」 と言うにはお粗末であることをあらかじめお詫びしたうえで、 体験談を聞いているかのごとく読んでいただけると幸いです。

1 県立高校将来構想検討協議会
 これはよく覚えているのですが、 県庁で行われた将来構想検の最初の会合のときに、 私は再編を必要とまでは言わないものの、 やむを得ないものと前提して高校教育改革についての意見を述べました。 それは傍聴者によって 「高教組の委員は再編に反対していない」 と宣伝されてずいぶん批判され、 執行部選挙の格好の攻撃材料にもなり身がすくむ思いでした。 先走らずもっと丁寧に発言するべきだったと今でも反省しています。
 その将来構想検のほとんどの議論は、 今の高校のどこが問題か、 どのような高校が望ましいかという 「高校改革」 論に費やされました。 再編=高校の数をどうするのかということは答申を出す間際になって、 しかも具体的な数字には踏み込まないで終わったように思います。 このような審議会は、 県がやりたいことを 「有識者」 に言わせるダミーだろうと予想していたので、 この程度でいいのかと意外な感じがした記憶があります。
 しかし答申に具体性はなくとも、 それを錦の御旗に県は具体的な再編計画を策定するわけですから、 計画の発表を待っているわけにはいかず、 高教組は将来構想検と同時進行で県教委の担当者とたびたび交渉し、 「はじめに再編ありき」 は受け入れられない、 学校規模は一律の尺度で適正かどうか言えるものではなく、 その学校がどのような将来展望を持つかという改革プランがまずあって、 その過程で必要ならば再編ということでなくてはならない、 と主張しました。 ということは、 自分たちも再編絶対反対、 「一校たりとも減らすな」 というアプリオリな立場はとらないということでもありました。 80年代のピーク時に予想した生徒減少数を大きく上回る現実の進行は、 そのような立場を許さないものであったと思います。
 できあがった答申は議論の進行と同様 「改革」 が前面に出され、 再編 (数減らし) は付け足しのようになっている、 少し拍子抜けするようなものでした。 新聞はそのまま受けとめて 「改革」 をアピールする一方で、 「県立高校のリストラのはずなのに、 これではかえってカネがかかるのでは?」 という 「懸念の声」 にも紙面を割いていたように思います。
 高教組の中にも当然、 改革は隠れ蓑で、 県立高校を減らそうとしているのだから反対、 という声もありました。 またここには、 「改革」 が本丸だ、 再編は必要ないのに、 改革=高校教育を多様化するためにやるのだ、 という反対論もありました。 改革と再編、 どちらが目的でどちらが手段か、 あるいはそういう関係にはないのか、 そのことにはあとで触れたいと思います。

2 神高教2003年委員会
 一方高教組は園部書記長の発案で、 「2003年委員会」 を設置し、 将来構想検の打ち出す改革案、 さらにはその後出てくるであろう県教委の具体的な計画に対して、 自分たちの対案作りを進めることとしました。 委員には高総検等の従来からの検討機関代表とともに、 学校改革にとりくむ分会の組合員にもお願いして参加していただきました。
 この中で議論の中心はつまるところ 「単位制高校」 や 「総合学科高校」 をどう評価するのか、 ということであったと思います。 それらの 「新タイプ」 が文部 (現文科) 省によってうち出されてきた80年代当時は、 日教組や私たちのスタンスは 「高校の多様化反対」 「職業高校・普通高校の別をなくしてすべての学校を総合制に」 というものでしたので、 高校のタイプを増やす、 という方向に賛成するわけはありませんでした。 まだ神奈川に単位制高校や総合学科高校が存在しない時代にはそれで不都合はなかったと思います。
 しかし90年代に入って、 神奈川でも単位制の神奈川総合高校ができ、 大師高校が総合学科に改変される、 という事態が進行しました。 現実にそういう学校が存在し、 そこに組合員もいるとなると、 これまでの理念的な評価だけではない現実的な対応策が要求されることになります。 とくに大師高校は組合員が積極的に改変に動いたという経過もあり、 分会からの 「組合は大師高校を否定するのですか?」 というまなざしにさらされることにもなりました。
 このような新たな事態に対してじっくり検討するまもなく、 将来構想検は 「新しい高校」 づくりを進めることを宣言し、 私たちは 「単位制高校」 や 「総合学科高校」 などの新タイプ校をどう考えるのか、 否定し反対したままで現実の進行にどう対処できるのか、 というような困難な課題に直面することになりました。 2003年、 というのは、 長期的にどのような学校をめざすか、 ということをいったんペンディングにして、 目の前の 5 年間で何ができるか、 何をするのか、 という問題意識で設定されたタイムリミットであったのでした。

3 高校改革の背景
 ところで、 神奈川総合高校や大師高校は、 文部省が推進を要求する 「新タイプ」 を神奈川県教委が忠実になぞっただけなのでしょうか? 最初のこの 2 校に象徴的に、 私は別の要素・条件が付着していると思いました。
 一つは、 職業高校、 特に工業高校の行く末です。 神奈川総合高校は神奈川工業高校の敷地に、 隣接する形で作られました。 神奈川県の職業高校を代表するといってよい学校が、 半分譲るという形でなければ建て替えができなかったのです。 逆に言うなら、 県は単位制高校という宿題にこたえることで、 かろうじて伝統ある工業高校の建て替えができたということになります。
 もう一つは 「課題集中校問題」 です。
 70年代半ばに高校進学率は飽和状態に達し、 80年代からは普通高校の 「底辺校」 問題が顕在化してきました。 「底辺校」 問題の解決はどうすればよいのか? 入試学力によって分別されるから 「底辺校」 (しだいに 「教育困難校」 と呼ばれるようになりました) ができるのだから、 入試をなくせばよい、 小学区制にすればよい、 確かにそうなのかもしれないが、 今そういう改革が展望できないとするなら、 「困難校」 の教員たちは何をしていればよいというのか?
 一つの答えは、 みんなでその 「苦痛」 を分かち合う、 というものでした。 80年代末の人事異動ルール新設 (一校15年、 「困難校」 を 「指定校」 とし一度しか行かないようにする) に対して、 高教組が従来の主張であった 「希望と承諾の原則」 が一部くずれるにもかかわらず基本的に賛成に回ったのは、 そのような組合員の切実な悩みに応えるという意味もあったと思います。
 それでは、 「根本的」 解決ができる間は、 みんなで 4, 5 年ずつそういう学校でがまんする、 ということで教員の不満は少しは解消できるとして、 その学校にいる生徒、 その学校にしかいられない生徒にとってはそれが何かの解決になっているといえるのでしょうか。
 そのことに反発して、 1989年の組合大会に 「困難校に人、 カネなど教育資源をたくさんよこせ」 と恥も外聞もかなぐり捨てて修正案を出したのが、 私の所属分会 (かりにA高校としましょう) でした。 この案にたいして私個人はやや及び腰で、 格差をつけて配分せよ、 という主張を組合は受け入れがたいのではないか、 と思っていました。 案の定本部執行部は受け入れませんでしたが、 なんと大会代議員の皆さんの判断は、 格差配分イエス、 修正案可決というものでした。 そのあと当時の執行部から、 「下品な修正案出すなよ」、 とイヤミを言われたのを覚えています。 私が本部入りしたのはその翌年でした。
 もちろん 「困難校」 から要求を吸い上げ、 県に対して交渉する、 ということは従来から行われていましたが、 今から思うと、 このA高 「事件」 によって組合にアクセルがかかったといえる面があるように思います。 と同時に、 「教育困難校」 というような 「教育を与える」 私たちにとって教育活動が 「困難な」 学校である、 というような言い方はやめて、 今の教育の矛盾や課題が集中的に現れている学校、 という意味で 「課題集中校」 という呼び方が生み出されていきました。 これは単なる言い換えではなくて、 教育の主体が誰か、 誰のための教育か、 ということをはっきりさせた画期的なものであると今でも思っています。
 このような 「課題集中校」 に対して教育行政はどんな対策を講じようとしたのか? 高校教育に耐え得ないものは入学させない、 というシャットアウトは通用するか? 
 「高校教育改革」 を提唱した文部 (科) 省や地方教育行政は、 「多様化した生徒のニーズに応える」 といったようなぼかした言い方ではあっても、 従来の高校が対応できない生徒たちが入学している高等学校をどうにかする必要がある、 という問題意識があったであろうことは、 高校改革の重要な側面として押さえておく必要があると思うのです。

4 教育財政と高校改革
 こうして組合の強い 「押し」 もあって、 他県では人とカネが 「進学校」 へと重点配分されるという露骨な 「公立復活」 政策がとられはじめた中で、 神奈川では課題集中校に教育資源を重点配分する、 ということが十分ではないにしろ進められたと思います (今は神奈川も違うようですが)。 私は新人執行委員当時 「課題集中校」 対策の担当として、 94年からは 「教育予算」 担当書記次長としてこのテーマで何度も県と交渉をおこないましたが、 この活動を通じてそれまでしらなかった教育財政というものの、 現場からは見えない構造の一端をうかがい知ることができたと思うのです。
 それは、 教育予算は子どもの小遣いに似ている、 ということです。
 それぞれの学校には、 自分の予算に主体的な決定権はありません。 何にいくら欲しいか、 を言うことはできますが、 すべてあらかじめ決められた基準に従わなくてはなりません。 でも何かの間違いで足りなくなったら、 しぶしぶであれ親からもらうことはできます。 だから学校に赤字も黒字もないのです。 そして親は、 どの子にどんな用途のお金をどれくらい与えるかについて、 けっこう恣意的な決定権を持っているのです。
 そして結局のところ、 その配分を左右するものが小遣いをねだる子どもたちの押しの強さだとすると、 強い校長とか、 教育委員会とのコネだとかがたくさん貰っていくのを阻んで、 体力が弱く切実に資源を必要とする学校へ回させる役割は組合の重要な仕事だ、 と思うようになりました。
 荒れがちな課題集中校にとって、 トイレの破壊を迅速に修理したり、 落書き攻撃にさらされる壁をすぐに塗り直したり、 あるいは生徒にとって教室とは異質の 「和みの空間」 を設置できたりすることが、 どれほど大事か、 それはA校に勤務していた私の実感でもありましたが、 現場の多くの皆さんととともに交渉に臨む中で私は教えられたように思います。
 そしてさらに、 教育委員会自身も自分に収入があるわけでなく、 県財政から予算を配分して貰う立場にありますから、 どうしてこのカネが必要か、 説得力を持って説明する必要があることがわかりました。 たとえばテレビ一台買い換えるのに、 古くなったから更新する、 で予算を貰える時代はいいですが、 県財政がいったん収縮に入るとたちまち、 どうしても 「理由」 = 「政策」 が必要になります。 そして理由は次々毎年新しくなっていく必要があります。 高校●●事業でテレビがきた。 その同じテレビが必要な別の学校は翌年□□推進事業でないとだめなのです。
 ようやく数ページ前の 「改革は目的か手段か」 というテーマに戻ってきました。 県立高校の施設・設備を更新したい、 それは当たり前の単純なことなのですが、 それではお金は来なくなりました。 90年代初頭のバブル崩壊で県財政の置かれた環境は様変わりしていきます。 余談ですが私が執行委員になった90年秋、 県教委は突然各学校に 「酸素ボンベ」 を配ると言ってきました。 養護専門委員会の担当であった私は養護教諭の皆さんとそんなものいらない、 という交渉に臨みました。 今では考えられませんが、 お金が余りそうなので補正でそれを追加してきたのです。 何か貰っておかないと、 次からくれなくなる、 要はそういうことだったのでしょう。 しかし 「失われた10年」 の進行がこんな逸話を過去のものとしていきました。 校舎のリフォームどころかリフレッシュすらすっかり行われなくなりました。
 そのような激変した財政環境で、 施設設備の整備をするには何が必要か。 それは旗印としての 「改革」 でした。 なんのために 「改革」 するのか? それは県立高校に県財政をより多く配分させるためである。 はっきりとは言わなかったかもしれませんが、 県教委は私たちに、 改革しないと県立高校はボロボロになるばかりだよ? と言いたかったのだと思います。 だから将来構想検答申に対して目敏い政治勢力は、 「改革」 の必要なんかない、 たんにリストラすればいい、 無駄遣いの県立高校延命策だ、 と反応したのでしょう。 そして、 166校全部を改革して残すと言ったのではカネも出てこない、 ということは自明だし、 小さい学校が経済的に非効率であることも確かなので、 その代わりの担保として合理的な数に調整する、 というようなリストラ計画を差し出したのだといえます。
 では、 改革とは口実に過ぎないのか? その面も確かに押さえたうえで、 そうではない面があると私は思います。

5 職業高校 (専門高校)
 「改革」 が口実に過ぎないなら、 それをダシにして予算を確保しようとする (隠れた)姿勢を、 私たちも 「暴露」 して非難することはできます。 かといって、 「とにかく正しいんだから、 必要なんだからください」 と言ったらすぐに金が出てくる環境にはありません。 またそもそも、 「改革」 が必要な背景としての 「課題集中校」 問題、 さらには職業高校をどうするか、 という課題は依然として積み残されることになります。
 こういう事態を前にして、 高教組は頭一つ現実路線に舵をきったのだと私は思います。 というより、 舵を切れと主張したのは私であったことを否定しません。 いま手元にある1998年の大会議案を見ると、 「各学校の主体的な 『学校改革』 の進展によっては、 単位制高校や総合学科を中間的・過渡的なあり方としてとらえていく」 という文言が見られますが、 これは私の文章です。 前後関係抜きだと妥協と読まれても仕方がないこの表現に踏み込むまでには、 執行部でも長い熾烈な論争がありました。 しかしその執行部内の議論は権力闘争的な要素とは無縁な、 かなり純な教育論議であったことは高教組執行部の名誉のために申し添えておきたいと思います。
 結果的には 「単位制」 「総合学科」 を学校改革の中で利用しよう、 という立場が選択されていったわけですが、 これは 「課題集中校改革」 という現場からの学校改革の流れがいちおう存在していたから言えたことで、 もしそういう実態がなかったとしたらたんに政策への迎合でしかないことになり、 そもそもそういう選択が組合としてはあり得なかったかもしれないと思います。 逆に言えばそういう現場からの学校改革というものを信じられた時代だったからこそ、 舵をきることができたとも言えるでしょう。
 では、 なぜ学校改革として 「単位制」 「総合学科」 を容認・利用してもよい、 利用可能である、 と私が考えるようになったのか、 少し紙面をいただいて書いてみたいと思います。 私事に渡りますので、 以下しばらくは読み飛ばしていただいてもけっこうです。
 
 私の初任校は1973年開校の神奈川県で最後に設立された工業高校でした。 高校進学率が飽和に達しようとするこの時期に、 なぜ工業高校新設なのか? それについては60年代の高校第一次多様化期に神奈川で作られていった 「技術高校」 が時代に適応できず廃校となっていく、 その流れを受け止める必要があった、 という後ろ向きの現実があったことを否定できないでしょう (技高については高校教育会館が助成した詳細な研究がありますのでそちらを参照してください)。 さて工業高校の新設が当時の 「15の春を泣かせるな」 という高校増設運動にはどう受け止められたのか、 想像するに難くありません。 15の春は18の春の前提となりつつある時代でした。
 この学校を創立した初代校長は、 この逆風に対して独自のポリシーをもって教育課程を組み立てました。 それは、 工業高校であるにもかかわらず、 より多様な 「類型選択」 を設置し、 大学進学にも対応できる、 というものでした。 具体的には、 1 年次には共通科目、 2 年で 3 類型から選択し、 原則的に卒業までの 2 年間同じクラスでも三つに分かれて授業を受ける、 というものです。 3 類型は工業高校のカリキュラムとして許される限りで、 工業科目最大、 普通科目最大、 そしてその中間、 と分けたものでした。 これは 2 年に進級するときに基本的には生徒の希望で決められました。
 これを実現するには、 教員定数でも施設・ 設備面でも従来の工業高校にまして巨額の投資が必要になります。 数字はよく覚えていないのですが、 その創業者校長は 「工業高校をつくるには普通高校のX倍費用がかかる。 うちはさらにそのY倍かかった」 と豪語していました。 露骨に言えば、 大学進学熱に遠慮しながら作られなければならなかった最後の工業高校が自己アピールするには、 これだけの費用がかかった、 ということでしょう。
 生徒に目を向けると、 校長は生徒の能力・適性・志向に応じた多彩なカリキュラムがこれからの学校には必要、 との立場でした。 このような選択制に生徒はとくに満足とも不満とも言わずに 3 類型のどれかを選択していきましたが、 大雑把に言うならできる子は進学型、 できない子は就職型、 中間型は専門学校かな、 という傾向がなかったかというとそれは嘘になります。
 工業科の職員の多くは、 この 「中途半端な」 学校に不満だったのではないでしょうか。 また普通科はほとんどが新採用の若手で、 おおむね短期間のうちに普通高校に異動していき、 どのような工業高校像を目指すか、 という議論にはからまなかったのではないでしょうか。
 私は比較的長めの 8 年をこの学校で過ごしましたが、 最初の 4 年間はこの学校を肯定する気持ちにはなれませんでした。 大学志向で普通高校に行きたかったのに行けなかった、 そのため工業科目はほとんど無視して工業科の教員から疎まれている子。 逆に普通科目なんか屁だと思って私の社会科の時間は息抜きだと言ってはばからない子。 いったん 「工業」 が合わないとなると退学しかないとても狭い通路。 そういう学校と生徒のミスマッチを、 類型選択制がフォローできるとは思えなかったのです。
 一方この学校が 「工業も」 「大学も」 をうたったのとは裏腹に、 年々入学生の学力は落ちていきました。 100校計画の残りの99校は普通科だったので、 学校ができるたびに追い越されていったのでした。 1980年に私は再び担任になりましたが、 70年代と打って変わって生徒指導や生徒の退学に追いまくられる日々でした (とはいえ今でも交流があるのはこのクラスの生徒たちです)。
 のちにこの学校の 3 類型制は解消されたと聞きました。 私がこのコンセプトは悪くなかったのではないか、 もし工業高校での試みでなかったとしたら、 と思うようになったのは次の学校へ行ってからでした。

6 課題集中校
 84年に私は先述のA高校に異動します。 今度は普通高校ということでちょっと楽しみでもありました。 その幻想はすぐに打ち砕かれましたが。
 普通科でも 「底辺校」 がある、 ということは知識としては知っていたのですが、 実体験は比べものになりません。 いわゆる輪切りの最下位に置かれた高校のドラマを私は執行部入りするまでの 6 年間体験することになりますが、 それは同時に 「教育研究所」 の所員であった時代と重なり、 私は何度か 「国民的教育機関としての高校」 と題して、 A高校の現実を下敷きに 「若者の居場所としての高校」 という高校像を報告していきました。
 このときの私のコンセプトを思い出してみると、 生徒たちに居やすい高校は、 外観はどの学校も変わらす 「普通」 「共通」 に見えるが、 生徒によっては中身は国語とか数学とかいっても知的なものを要求することはほどほどにし、 身の丈に合った学びができるところ、 それも与えられるのではなく、 自分で選んだ、 という階段を踏めるもの、 ということでした。 前の工業高校の時には余りよいものと見えなかった 「類型選択」 ですが、 場合によってはよりましではないか、 と思うようになっていました。
 その根拠となったことの一つに、 数年間続けた 「倫理」 の授業での経験があります。 「学校とは」 といったテーマで生徒にアンケートをとりながら授業を進めていたときに、 「その人の能力や適性、 将来の希望といったことで進学する学校を分けるのがいいかどうか」 「わけるとしたらいつがいいか」 という質問に答えてもらいました (これはきわめて興味深かったので毎年やりました)。
 生徒たちの答えは私の予想に反して、 圧倒的に 「分けるのがいい」 でした。 いつ分けるか、 についても、 「大学から」 よりも 「高校から」 の方が圧倒的に多く、 中には 「中学から」 という回答も少なからずありました。 中学時代教室ではすっかりお客さん扱いで我慢に我慢を重ねてきた子どもたちにとって、 分けられる痛みよりも、 意味のない空間に放置される痛みの方が大きかった、 ということを私は学びました。 ようやく自分がいられる 「課題集中校」 にきてほっとしている生徒たち、 それならもう少し居やすくしてやれる方法はないだろうか、 と思いました。 そのような学校と、 他の 「普通の」 学校や 「進学校」 は別世界かもしれないが、 それでもひとくくりに 「普通高校」 と呼ばれる日本の高校制度、 これは捨てたものではないのではないかと。
 もちろん、 この些細な発見を根拠に 「だから競争でいいんだ」 「自由化でいいんだ」 と結論づけるつもりはありません。 しかし小学区制だの総合選抜だのという 「平等化」 を彼らに押しつけたなら、 彼らの多くは学校にいられるのでしょうか? 
 ここからかすかに見えてくるものは、 すべての子どもに共通のあるべき高校像、 をしばらく離れて、 個別の 「この学校」 に来た子どもたちにあわせた 「学校改革」 を追求することによって、 将来的に原理原則が見いだせればよいのではないかということでした。 普通科と職業科を一つの器に入れた総合選択制がいいのかもしれないが、 一挙にそこへもっていくことが不可能だとすれば、 まずはいま居る子がいやすく、 またどんな子が来ても対応できるような多様な選択制を持った学校を作ること、 何回か失敗することも許容範囲に入れた柔軟な単位修得のシステムを提供すること、 これがすべてを解決するものではないが、 少なくとも今よりましではないか。 そのような積み重ねがじつは 「改革」 と呼べるものなのではないだろうか。
 このように学校改革を発想すると、 「単位制」 や 「総合学科」 との違いは 「看板」 だけということに限りなく近くなります。 もしばらばらの選択が学習の体系性・継続性を欠く、 というのなら、 かの 「類型選択制」 でもいいのではないか。 自分が選んでこれを学んでいるという実感が大事だ、 とも思いました。

7 県立高校再編計画 
 以上のような自分の教員体験を下敷きにしながら、 私は 「 3 つの目標」 「10の指針」 というキャッチフレーズにまとめた 「神奈川の高校教育改革プログラム」 を書き、 それは2003年委員会や執行部の議論を経て高教組の中期的な教育改革方針に位置付いていきました。 これはまた 「高校を変える 教育が変わる」 と題した県民向けリーフレットにもなりました。 これらが示す高校像は 「単位制」 「総合学科」 のコンセプトとも重なるところが多かったと思います。
 さて、 高教組がようやく新たな高校改革のイメージを提起して 1 年を待たずに県の具体的な再編計画 (前期計画) が発表されました。 まず驚いたのは 2 校統合方式で、 「廃校」 はない、 というものでした。 単純な廃校ではない、 というのはもちろんいい面もあるでしょう。 しかし 2 校が 1 校になるのは 2 校ともなくなるとも言えます。 そうすると痛みを持つ学校数は多くなったとも言えるし、 なにより 「改革」 に加えて 「統合」 にかかるエネルギーは相当なものになります。 校舎を引き続き使用する学校の方に 「存続校」 意識、 廃校ではないといいながらも別の学校に統合される学校には 「廃校」 意識が漂うことも否定できません。
  「改革」 の中身も、 それぞれの学校が自前で構想したプランには、 県が決めた枠組みが大きな壁として立ちはだかりました。 私が経験したのはここまでですので、 これ以上知らないことには踏み込みませんが、 とくにスタート地点と現実の進行が食い違ったことの大きな原因は県の財政問題だと思います。
 バブル崩壊以後すぐに財政は厳しくなっていったわけですが、 それでも将来構想検当時は 「きびしい」 程度であり、 破綻の状況にはなかったと思います。 日本経済の大きな後退は97年以降にやってきました。 将来構想検や前期計画はそれら以前の状況を前提としたものであって、 そこには大きなタイムラグが生まれたと思います。 もちろん前期計画での 「単位制」 や 「総合学科」 の各学校が利用することのできた人、 カネといった教育資源は、 それ以前の神奈川総合高校や大師高校とは比べものにならないほど小さかったと思いますが、 それでも後期計画校よりははるかにまし、 という実情ではないでしょうか。 また前期計画期は教職員定数に対して実員が多い時期に当たっていたので、 新タイプ校が過員を吸収していったという面もあると思いますが、 大量退職期を迎えるこれからは人の確保にも困ることになると思います。
 多様な選択制や単位制を支えるには費用がかかります。 カネをかけず人もなく選択制を布いていくと何が起こるか、 私は再編校にはいませんでしたが、 「総合的な学習の時間」 の理想と現実のギャップを見ると、 これのもっと大きな矛盾が再編校に現れているのではないか、 と危惧せざるを得ません。 果たして教職員の 「改革への熱意」 だけでこれを克服することができるでしょうか。

おわりに
 以上で、 半分思い出話のようになり恐縮ですが、 私にとっての 「高校再編とはなんであったか」 というテーマを巡る話を終わらせていただくことにします。    
 最後に再び最初の問い、 再編のための改革であったのか、 改革のための再編であったのか、 に戻ってみたいと思います。  
 多様化のために再編が利用された。 多様化が目的で再編は手段でしょうか。
 再編のために多様化を利用した。 再編が目的で多様化が手段でしょうか。
 前者の見方によれば文部省 (後文科省) や教育委員会は、 教育政策として高校多様化をすすめるために、 中卒者減少期を利用して元々減らす必要のなかった高校を、 多様化に応じないならリストラするぞ、 と脅かした。
 後者の見方をとれば、 再編は必至でやらざるを得ないが、 数だけ減らしたのではたんなるリストラに見えて反対が多いから、 単純なリストラにならないよう、 あるいはそう見えないように多様化を絡ませる。 そのことによって学校数や教員数を確保していった。
 どちらの分析もある程度はそのとおりだと思います。 しかしそのような二分法では、 70年代後半から80年代にかけて顕在化してきた、 課題集中校に見られる 「学校と生徒のミスマッチ」 をどう解消していくか、 という視点は沈んでしまいます。
 基本的には 「高校全入」 (そこからも排除されている生徒がまだいますが) 時代に、 誰もが入れ、 みんな同じ高校生として位置づけられまなざしを受けているが、 その実それぞれの生徒にあった教育内容や学校環境が提供されている、 そのような高校像をどう求めるか、 ということが問われているのでしょう。 教育行政による改革 (計画) が最終段階を迎えた今日、 総合学科や単位制の学校がいくつもできている今日、 「再編」 がらみ、 という過去から脱して、 シンプルにどんな学校がいいのか、 それぞれの高校の現実をふまえながら議論していける、 議論すべき段階に来ているのだろうと思います。
 高教組は90年代後半、 組合の教育政策を 「課題集中校からの教育改革」 とネーミングしました。 課題集中校がよくないからそれを変える、 という観点ではなく、 切実に改革を必要とする課題集中校に先にどんどん進んでもらい、 それに学んで全学校それぞれが自前の改革をやっていこう、 という考え方であったと思います。 思い返すとやや理想主義的過ぎるかな、 と恥ずかしさを感じてしまいますが、 すべての学校、 すべての生徒に配慮していくことと、 目の前のその子のために、 というアンビバレントな要請に応えていくことは、 学校教育の宿命であるようにも思うのです。
 
  
(えんたに ようすけ 元県立霧が丘高校教員)
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