「人を支援する」 ということ  

中 田 正 敏
 支援マニュアルというような表題のついた書籍を読んでいると、 事例として、 支援の必要な人の実態についてまとめられたものを目にすることがある。 マニュアルというような一定の手続きを明示して、 その通りにすればうまくいくというような類のものが、 果たして人を支援するために、 どれほど有効なものかについては疑わしいところもある。 しかし、 示唆的なものに出会うこともある。 リアリティのある現場との接点があるためだろう。
 支援が必要な人について、 関わる人がどのように語るかという点について、 2 つの様式がある。 まず、 仮に、 様式Aとしておくが、 そこには、 ある人について、 年齢、 性別、 障害名、 診断名、 服薬している薬品名が極めて詳細に記載されており、 次に行動の履歴として、 様々な問題行動、 大声で叫ぶ、 悲鳴をあげる、 罵る、 自虐、 および身体的攻撃などの頻度とレベルが詳細に記載されている。 こうした問題行動が原因で、 働く場が定着しない、 居場所を転々とせざるを得ない状況が述べられ、 結論として、 この人が将来成功するかどうかは、 まず、 こうした問題行動をなくすこと、 あるいは、 できるだけ少なくすることができるかどうかが鍵になること、 そして、 この目標を達成すれば、 将来の選択の幅を広げることになるだろうという方略が採用される。 問題点が解消されない限り、 社会的な活動への参加は難しいということになる。 この様式の背景には、 「行動の諸特徴のリスト」 を作成し、 実際にはかなり複雑な問題であるものを技術的な問題で解決できるものとする思考があるのかもしれない。
 次に、 まったく同じひとを対象とした別の語り方がある。 これは様式Bとする。
 これは、 例えば、 支援が必要とされる本人に語ってもらう形態をとる。 「私は、 自分が何歳か思い出せません」 という年齢に関する記述に始まり、 好きなものごととして 「人が好きであることや人の世話をすること」 が紹介される。 例えば、 「障害のある子どもの世話をするのが好きであること」 そして、 それは 「そうした子ども達に淋しい思いをさせたくないからボランティアの仕事をしたい」 とか、 「アパートに住んで、 料理や洗濯を覚えたい」 という将来への願望も紹介される。 そして、 自分は子どもでもないのに、 子ども扱いされるので、 時々、 怒って、 悪いことをしたり、 悪いことを言ったりするというように、 自分の行動に関する自分の説明も記載される。 このような本人から聴き取られた言葉の多くは希望、 願望の内容であり、 自己分析でもある。 こうしたことを踏まえて、 この後の展望としては、 本人がやりたいことを軸にして、 いろいろな自立のためのスキルを適切な支援の中で習得し、 実際にボランティアなどの仕事を支援される中でいろいろな活動に参加していく方針が述べられる。 支援付きの参加という方略がとられる。
 様式Aは、 専門的な診断基準などや問題行動のチェックリストなどの伝統的なツール、 つまり、 そうした媒介によって把握されたものを記述している。 媒介は、 それを使って見る人を操って、 様式Aのような実態を描くように働きかけている。 人は、 あまり意識せず使っている媒介によって往々にして操られることがある。
 それでは、 様式Bの媒介は何だろうか?
 それを考える前に、 ある研究によると、 一般的に、 ものを修理する活動をしている時には、 以前のやり方ではうまくいかないことが起こる。 故障は予測を超えることが多いからだ。 例えば、 水漏れを修理する時に、 経験豊富な職人はこれまでにもっている知識・技術を媒介にして仕事に取り組んでいる。 しかし、 これまでのレパートリーではうまくいかないことが必ず起こるのである。 その時、 人は研修に行くのか、 誰かに助けを求めるのか、 マニュアルを読み始めるのか。 多くの場合は、 その現場での解決が仕事の一部になっている。 だから、 解決方法を新たに創り出すため、 時間をかけて、 あれこれ当て推量で、 傍目には、 場当たり的にもみえるような活動をする。 たいていは、 あれこれやってみているうちに、 これまで知っている方法を、 今までにないような方法で組み合わせて、 つまり、 まったく新しい手順で目標に到達する。 それが新しいレパートリーとして、 次の仕事に生きるのである。
 人を支援することなど、 人と関わる活動の場合は、 前例が使えない場合がさらに格段に多くなる。 この人の背景には何があるのかなどを、 いろいろと手を尽くして話に耳を傾けて、 あれこれ考えているうちに、 これまでにない突破口がみつかることがある。 様式Bは、 様式Aと比較して、 おそらく厳密性のレベルは低いかもしれないが、 おそらく誰も考えつかなかったような適切な支援につながる可能性がある。 適切性のレベルは高い。 話を丁寧に聴き、 丁寧に関わるプロセスを経過する中で、 相手がこれまでとは違って見えてくる。 その人が抱えているものの大変さが見いだせた時に、 目の前の人がその瞬間に支援という活動の動機となる。 問題行動がリストアップされた人ではなく、 ある状況にうまく対応できずに苦境にある人として把握され直すのである。 様式Bの媒介は、 対話、 あるいは、 支援的な関わり合いである。
 関わり手がこれまで通りの方法で対応した時、 想定した通りの反応を示してくれない生徒たちがいたとする。 その要因は、 それぞれの生徒が個体としてもっているものにあると考えるかもしれない。 関わり方ではなくて、 働きかける対象に原因があるのだから、 関わり方を変える必要がないことになる。 こうした考え方では、 媒介となっているものはおそらく明瞭であるし、 公平ではあるのかもしれない。 しかし、 それは様式のAとよく似ている。 対話を丁寧にすることは、 その生徒ができなさそうであるが、 うまく支えるとできるかもしれない領域を浮かび上がらせる。 この領域は支援の試行錯誤によって、 次第に明瞭となっていく。 最初からすっきりとした手順が示されるフローチャート風の発想は、 関わり方よりも、 働きかける対象のみに注目させる。 人に関わる仕事をそうした媒介でやろうとすると、 意図せざる結果に終わることが多いと思われる。
 様式Bで示されたような思考は、 フローチャートのように流れるようには進まないことは確かである。 が、 そこから入るしかない。 人を支援するということは、 あれこれ一緒に悩みながら出口を探す営みである。
 (なかた まさとし 明星大学)
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