映画に観る教育と社会[15]

「太平洋の奇跡   フォックスと呼ばれた男」
 
手 島  純

 教師を描く数多ある映画より、 主人公が何気なく語る 「自分が教師であること」 の呟きに思わず微笑むことがある。 教師を描く映画はどうしても 「教師はこうあるべきだ」 という、 いわばイドラのようなものに支配されて興なしであることが多い。 特にテレビドラマで教師が描かれるものはどうにも見る気になれない。 できたらそうした 「描かれ方」 を分析して、 昨今の 「教師像」 の解明に当たるべきかもしれないが……。
 一方、 コミックで教師が描かれているものは、 あまりにも戯画的でそれが不思議に魅力的である。 最近では、 板垣恵介&RIN著 『どげせん』 がくだらなすぎて、 不思議におもしろかった。 あらゆるもめ事を 「土下座」 で解決する瀬戸発 (せとはじめ) は、 現国と古典を教える高校の補助教員だ。 この土下座の迫力にはやくざも一目置くというストーリーである。 『どげせん』 とは、 土下座をする先生という意味である。
 スピルバーグ監督の 「プライベート・ライアン」 という映画がある。 第二次世界大戦の最中、 トム・ハンクス演じるミラー中隊長は、 軍上層部の命令でライアン上等兵を救出する任務を命令される。 敵陣にあっても苛酷な状況を切り抜け任務を遂行するミラーに対して、 どうにか見つかったライアンが聞く。 「本当に学校の先生ですか」。 ミラーは答える。 「教師だ」。 ライアンはすかさず言う。 「僕らが先生にした悪さを思うと、 僕にはなれない」。 それに対してミラーはこう言うのだ。 「悪いのが何人もいた…」。 的確な判断で敵を退け、 難局を打開するミラーのすごさに尊敬の念を込めてライアンは職業を聞いたのだが、 そのミラーが 「悪いのが何人もいた」 教壇に立っていたとは、 なんと興味をひく言葉ではないか。 ミラーが兵士になる前の職業がさりげなく語られるこのシーンは、 「プライベート・ライアン」 におけるノルマンディー上陸作戦のリィアリティとともに、 私には忘れられない。

太平洋の奇跡
 平山秀幸監督 「太平洋の奇跡   フォックスと呼ばれた男   」 も同じく第二次世界大戦中の話である。 この映画は実話をもとに作られた。
 太平洋戦争末期、 日本が統治する北マリアナ諸島に位置するサイパン島は、 アメリカ軍にとっても重要な島であった。 実際、 終戦前にはB29爆撃機はすべてサイパンのテニアン飛行場から飛び立っている。 1944年 6 月、 アメリカ軍はサイパン島への上陸作戦を開始した。 戦局を読み違えた日本のサイパン防備は甘く、 20日たらずで壊滅した。 生存した民間人と日本軍は島を北上しながら避難していった。 投降した民間人もいたが、 1 万人近い民間人が北端のマッピ岬から身を投じ、 あるいは刺し違えて命を絶った。 いわゆる 「サイパンの悲劇」 である。
 それでも、 サイパン島のタッポーチョ山近辺に潜み、 抵抗を続けた者がいた。 それがこの映画の主人公で竹野内豊演じる大場大尉である。 彼は、 米軍に対して執拗に抵抗をしていく。 地形を熟知し、 風を読み、 アメリカ軍を困惑させる。 それゆえ、 米軍側からは 「フォックス」 (狐) と恐れられた。
 しかし、 大場は捕虜になることが当時の日本兵にとってどういうことだかを知りながら、 リーダーとしてある選択をする。 つまり、 無駄な犠牲を出すことをせずに、 白旗を立てて降伏するという選択である。 こうした判断は当時の日本軍にとってはあまりない選択だったが、 大場は生き続けることの大切さを知り、 また降伏することが 「戦争捕虜」 ではないという信念のもとで、 米軍の前に部下と共に姿を現すのである。 すでに1945年 8 月15日を過ぎた後の12月のことであった。  
 この大場大尉こそ、 実はかつて地理を教えた教師だったのだ。 その知識がアメリカ軍に抵抗する戦術を練り上げていた。 また、 彼の人望にひきつけられて、 多くの兵士や民間人が集うようになった。
 彼が、 地図を書くシーンがある。 それを見ていた民間人が言う。 「お上手ですね」。 それに対して大場は言うのだ。 「学校で地理を教 えていましたから」 と。 アメリカ軍からフォックスと言われて恐れられた男の職業は、 地理の教師だった。 実際の話だ。 映画全体もよかったが、 このさりげないシーンは特に忘れられない。

3 .11以降
 3 .11大震災以降、 強く思うことがある。 我々は自然の怖さを過小評価することなく、 真摯に自然に向き合わなくてはなるまい。 そして、 神をも恐れぬ原発のような 「創造物」 はもう作らずに、 自然と共存する方策を考えるべきだ。
 それは学校という近代教育の場でも言えること。 自然について教えるだけではなく、 自然と共存する道を模索することも大切だ。 自校の宣伝のために、 エネルギーを過剰に消費する新自由主義的な戦略はもうやめよう。 夏休みにクーラーをかけまくり、 行事をするのはやめよう。 春夏秋冬のサイクルにそった自然で普通の学校こそ大切にしたい。 競争ではなく共存が大切である。
 「教育改革」 で玉砕するのではなく、 勇気ある撤退と降伏が必要だ。 地理教師であった大場大尉の行動に私が教えられたことは多かった。
 


(てしま じゅん 教育研究所員)
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