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学校外の世界に眼を開き、その力も借りて実践を進めよう
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小 林 孝 生 |
藤沢北、 寛政、 神工勤務を経て、 昨年 4 月、 瀬谷高校に異動した。 あと 7 年 (+ 3 年?) をこの学校ですごすことになる。 この十数年に必要に迫られて関わった保育・子育て運動の経験から、 今の高校現場に提言したい。 育休取得で初めて職場を離れて 「夫協力分娩」 と 「自宅出産」 で、 3 人の娘の誕生に立ち会う幸運を得た。 この 3 月、 2 番目の娘が高校を卒業した。 生まれたのは1993年 2 月27日。 自宅でのハプニング出産で、 私が取り上げる羽目になった子だ。 この子が 6 ヶ月、 上の娘が 2 歳半の1993年 9 月から半年間、 育児休業を取得した。 寛政で担任した 1 年生のクラス40人のうち、 28人しか進級できず、 落ち込んでいたときだった。 2 年生では担任を降り、 9 月から学校を休み、 半年間の 「主夫生活」 に入った。 妻が出勤したあと、 子どもたちに食事をさせ、 6 ヶ月の娘には、 母乳を解凍して飲ませる。 掃除・洗濯・布団干し、 あっという間に昼ごはん、 また食事の世話をすると、 今度はお昼寝の時間。 1 日の過ぎるのがなんと早かったことか。 上野動物園への 「小さな旅」 育休中のある秋の日、 3 歳になった上の娘の手を引き、 8 ヶ月の娘をバギーに乗せ、 上野動物園まで父娘 3 人でお出かけした。 神奈川区六角橋からJR東神奈川駅まで 2 人の子どもを連れてのバス移動、 東神奈川駅の階段を上り、 改札から駅のホームに下りること、 どれもが大変だった。 当時はまだエスカレーターもエレベーターもなく、 駅や公共交通機関が障がい者や子連れにとっていかにやさしくないか、 今まで、 自分自身がいかに弱者の立場に立っていなかったかを実感した。 この 「小さな旅」 では、 ちょっとした 「感動」 があった。 上野駅に着き、 2 人の子どもとバギーを抱え、 さて、 どうやって階段を上ろうかと思案していたとき、 イラン系 (?) の外国人が上の娘をひょいっと抱え、 階段を上っていく。 「誘拐か?」 と思いきや、 さり気ないやさしさで助けられたのである。 私は、 バギーを持って下の娘を抱き、 階段を上ることができた。 さりげないやさしさに感謝! 保育園に入れない! 戻れない! しかし、 そんな私たち夫婦に危機が訪れた。 妻が育休に入った93年 5 月、 育休中は親が家にいるからと、 上の娘 (当時 2 歳半) が保育園を辞めさせられ、 育休期間が終了しても、 保育園に入ることができないまま、 職場復帰を迎えた。 私学教員の妻と二人で年休を交代で取りながらの復帰であった。 幸い無認可保育所に 「一時保育」 で 3 月下旬の 2 週間ほど預けることができ、 94年 4 月からは認可保育園に入れたが、 この時の 「怒り」 がきっかけで以後しばらく保育運動にかかわることになる。 僕が保育から学んだこと この体験から、 認可保育園の保護者でつくる 「横浜民間保育園父母協議会 (民間父母協)」 の活動に関わることになる。 子どもたちが通っていた白百合乳児保育園 (横浜市神奈川区) は、 社会福祉法人が経営する認可保育園。 保育労働は、 過酷な労働と低賃金のため、 若い保育士が多く、 民間ではベテランの多い職場は稀であるが、 この保育園は労働組合もあり、 経験豊富な保育士が子どもたちによりよい保育を、 と保護者と手をつないで行政に保育の改善を求め頑張っておられた。 この保育園で、 親として、 市民として多くのことを学んだ。 保育・子育て運動にかかわる 「民間父母協」 会長などの役員として、 保護者の要求をまとめ、 横浜市の保育推進課 (当時) に要求書を提出し、 各保育園から集まった50名前後の保護者とともに、 「対市交渉」 をおこなうなどした。 横浜の保育運動の中心的な存在である 「横浜保育問題協議会」 の運動にも関わり、 公私立保育園の保護者、 保育士、 園長などとも知り合った。 また、 横浜の子育て全般の運動を進めている 「子どもを守る横浜各界連絡会」 にも関わることになり、 フリースクールの保護者、 市立高校の教職員組合、 横浜学童保育連絡協議会、 横浜市従業員労働組合の方達とも知り合うことができた。 その後、 神奈川区内の保育士、 学童保育指導員、 小中学校教員、 区役所職員等、 子どもに関わる様々な人たちと 「かならず元気がわく子育て・教育のつどい」 (会場神工) を開催したり、 子育てにかかわる諸要求を神奈川区長に要求し、 具体的に対処させる等、 神奈川区での子育て運動にも取り組んできた。 子育ての各分野の課題や運動を間近に見聞きできたことは、 私にとって貴重な経験であった。 子育て運動と 「九条の会」 の運動 神奈川区では2007年秋、 日本国憲法の制定過程を描いた映画 「日本の青空」 の上映運動に取り組む中で、 「かながわく九条の会」 が誕生した。 母体となったのは上述の子育て運動だ。 「九条の会」 では、 建設職人、 年金者、 女性運動に取り組んでいる人、 教会の牧師さんや教会員の人たちなど、 子育て運動ではつながることができなかった方たちとも知己を得た。 いま、 これらの人たちとの知遇が、 私自身の教師としての血肉にもなっていることを実感できる。 学校の外の世界に眼を開こう いま現場では、 「日の丸・君が代」 を突破口とする 「無理難題」 の押し付けが横行しているが、 そんな状況を一般市民の方たちに話すと、 誰もが学校の 「異常さ」 に驚く。 職場の状況は、 暗くなる一方だが、 保護者や市民の方たちに支えられていると思えば、 生徒たちに明るく希望を語ることもできる。 自分自身の 「怒り」 や 「願い」 から出発して、 学校外の人たちと一緒に何か (平和・人権・環境・子育て等) に取り組むことを皆さんにもおすすめしたい。 多忙な日常からは 「無駄なこと」 のように見えるかもしれないが、 きっと自分自身に返ってくると思う。 勤務地の瀬谷区でも多くの市民の方たちと知り合い、 教育・子育て・平和・環境などの課題に共に取り組みながら、 その力も借りて教育実践をすすめていこうと思っている。 |
(こばやし たかお 瀬谷高校教員) |
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