学校設定教科・科目(特色科目)を、
「学習指導要領に空いた風穴」 として活用できるか?
 
久 世 公 孝

 09年度の教育研究所・教育討論会 「再編の10年・その到達点を探る」 (11月14日 〔土〕 ・かながわ労働プラザ) に、 パネリストとしてお招き頂いた。 頂いたテーマは 「体験的・課題解決的な学習〜系・系科目〜について」 である。
 私がこのテーマを頂いたのは、 03年から 7 年間高校教育会館の夏季教職員研修講座で、 『ワークショップ表現教育』 という演劇手法を教育活動に取り入れるための体験講座をコーディネートしていたためと推測する。
 現在、 演劇手法を活用した系・系列科目は、 再編校の多くに設定されている。 県教委施策としても、 07年度から09年度までの 「学力向上推進および特色ある高校づくり推進事業」、 また、 10年度からの 「県立高校教育力向上推進事業」 に演劇の活用が位置づけられている。 これは、 「生きる力」 を旗印とした現行指導要領の施行 (高校03年) と、 その目玉である総合学習導入にインスパイアされたアーティストのとりくみの開始、 それらが偶然に、 前期再編校の開校時期と重なったための成果と考える。 神奈川でのアーティストのとりくみとしては、 04年度から08年度の間、 県・県教委との協働事業としてとりくまれたNPO法人STスポット横浜による学校へのアーティスト派遣事業 「アートを活用した新しい教育活動の構築事業」 や、 06年度の、 県教委 「かながわ人づくりフォーラム」 への横内謙介氏 (劇団扉座主宰) の参加などがあり、 『ワークショップ表現教育』 も教職員側からのとりくみとして一助を成したものと自負する。 先の県教育施策への位置づけは、 教育実践からのボトムアップの成果の一つと考えてよいのではないだろうか。

 県立高校再編計画は、 生徒急減にともなう学校の 「適正規模」 の保障、 そして、 急増期に生徒増に比例して増加し年間約2000人にも及んだ高校中退問題の解決を一石二鳥に図ることが目的であった。 公教育のコストダウンであり、 同時に、 その責めを免れるための 「質的向上」 つまり特色多様化推進による不本意入学の解決 (「行ける学校から行きたい学校へ」) と換言できる。
 特色多様化が教育の質的向上であるか否かはいまだ議論があろうが、 さておく。 特色多様化は、 学校の個性化とともにカリキュラムの個性化を必然とする。 『将来構想検答申』 (98年) は、 「個が生きる教育」 を示して、 「自分探しの支援」 「学 (校) 歴から学習歴へ」 とともに 「主体的な選択に基づく学習」 を提唱している。 答申を受けた 『県立高校改革推進計画』 (99年) は、 「柔軟な学びのシステムの実現」 を掲げ、 「選択中心の教育課程」 「学校設定科目」 を提示している。 勤務校であるフレキシブルスクール (完全単位制) は、 当然のことながら個別学習を最重視し、 系科目もその位置上に設定されている。
 これは、 全県全校に一律一斉に指示される教育施策の実施を極めて困難としている。 昨年度までの県立高校学習状況調査の 2 年次生悉皆化は、 全講座が異年齢集団である勤務校ではこの上なく迷惑であった。 今後予定されている日本史必履修化やシティズンシップ教育はその導入の仕方によっては、 また、 現在全体企画が作成されている道徳教育はその硬直化が発生すれば、 「柔軟な学びのシステム」 を破壊することとなる。 言い換えれば、 学校の個性化・カリキュラムの個性化は、 教育施策の 「全体主義化」 を阻止する要因となっている。
 カリキュラムの個性化は、 学校設定教科・科目にもっともよく現れ、 それは、 課題解決型、 参加型、 系・系列として教科横断的であることを要請される。 『ねざす』 44号 (09年11月) 特集 「『県立高校改革推進計画』 を考える」 には、 前期再編に携わった方たちの、 「勉強はしたくない…といったような生徒を何とか授業に参加させなければならない」 ために、 「課題解決学習を取り入れ、 主題・探求・表現という手順で学力を育てる」 ために、 「生徒にとって授業が分かる、 授業に参加して楽しい」 ために、 系・系列科目が置かれているという指摘が並ぶ。 「神高教・高校教育改革プログラム」 も参加型授業を方針の一つとしている。
 課題解決型・参加型の授業は、 新学力観を背景とする。 06年の教基法改変にともなって学校教育法第21条が追加され、 それを受ける第30条 2 項も追加された現在、 新学力観は法規定されているといってもよい。 (…基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、 これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、 判断力、 表現力その他の能力をはぐくみ…)。 無論、 学力を法規定する異常さもさることながら、 基礎基本的知識に対する軽視傾向や関心・意欲・態度に対する客観的評価の問題など、 新学力観の持つ根本的な課題は未解決である。 しかし、 それでも、 授業実践の中心に 「課題解決」 「参加」 を据えることは、 競争原理よりも学び合いの重視を必然化するとともに、 展開上特定の価値観の注入を無力化する機能を授業が持つこととなる。

  『ねざす』 44号特集に元大師高校校長・矢向實氏の寄稿がある。 曰く 「偏差値を目安にし、 過度の受験競争が発生し、 その異常な高まりをどうにかしなければ、 人間らしい高校教育は不可能だと思えるほどに加熱していった。 改革の必要性を誰もが感じたのだ。 …今、 目の前の総合学科の高校を見てみる。 その中には、 再度、 偏差値の中に学校の存在理由を見出し、 その価値へ向かって奇妙な努力を進めている学校が出てきている。」 (『 4 次報告』 の時代〜総合学科づくりに関わって〜)
 勤務校は、 個の尊重を最大の特色とする。 それは、 人間関係の希薄化としても機能する。 フレキシブルスクールは、 人間関係が苦手な生徒が選択する学校でもある。 しかし、 年々 「中堅校」 化する傾向にあり、 それとともに矢向氏と同様の懸念を持つようになってきた。 『県立高校改革推進計画』 の文言そのままに、 「得意を深化」 が学校のキャッチフレーズの一つであるが、 進学予備校も使いそうなフレーズでもあることに気が付く。
 教育討論会では、 勤務校の教育課程表を資料として示し、 系の科目に専門科目が多く、 学校設定科目でも専門科目的である点について述べた。 また、 系以外の学校設定科目も含めると受験対策・資格取得のための対策講座が相当数ある点を指摘した。 無論、 そうした科目があってはいけないわけではなく、 特色科目がそうしたものだけであったとしても、 「じっくり学ぶことや得意な分野の伸長を図る」 「個が生きる教育」 (『県立高校改革推進計画』・フレキシブルスクール) にはなるのだろう。 しかし、 担当者の授業方法にもよるが、 科目として、 課題解決型・参加型・教科横断的という要素は薄い。
 勤務校の対外宣伝用パンフは、 「単位制・フレキシブルスクールのシステム」 から派生するものとして、 「得意の深化」 とともに 「確かな学力の育成」 「キャリア資質の育成」 を 「未来を切り開く力」 と総括した図式を冒頭ページに掲げている。 そこに、 その成果の意味合いで、 主な進路実績も示しているのだが、 08年度版パンフでは難関有名大学への実績のみを記載している。 その人数はわずか14名であり、 07年度卒業生の 6 %にも満たない。 勤務校の 「中堅校」 化が顕著となり始め、 入選方式を変更した (前期 3 科目自由選択制から英国数必須+理社 2 科目から 1 科目選択、 後期面接の廃止) のが08年度からである。 「人間らしい高校教育」 を希求したはずの特色多様化改革が、 結局は、 「受験競争」 を回帰することに対する違和感を、 また、 そこに特色科目を要素とする 「得意の深化」 を位置づける不協和感を、 矢向氏と共有する。 (09年度パンフからは、 大学・短大・専門学校・就職等の大くくりに戻している。)

 現行指導要領導入 (高校03年) 前後の時期には、 文科省以下の教育行政と日教組他の教育課程自主編成運動が、 ともに総合学習に夢中になっていた、 と記憶する。 教育史的に極めて珍しい事例ではないだろうか。
 指導要領は、 総合学習について、 その時間削減を図った新指導要領 (08年 3 月公示・小学校) でも、 目的については、 旧指導要領の趣旨を引き継いで次のように示す。
  「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して、 自ら課題を見付け、 自ら学び、 自ら考え、 主体的に判断し、 よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに、 学び方やものの考え方を身に付け、 問題の解決や探究活動に主体的、 創造的、 協同的に取り組む態度を育て、 自己の生き方を考えることができるようにする。」
 総合学習は、 数値評価さえも放棄している。 新学力観を最も顕著に具現する教育活動であり、 文科省は、 小学生が深夜まで塾通いをして 「剥落する学力」 を詰め込まされている状況と、 それが生むPISA調査での低迷に顕著な国際競争力の低下に恐怖をし、 総合学習を現行指導要領 (高校03年) の目玉とした。 無論、 国民総競争によるパワーエリート養成が不要な時代状況となったという背景もある。
 教育課程自主編成運動は、 総合学習を 「学習指導要領に空いた風穴」 と位置づけ、 学校裁量権を最大活用しての、 平和・人権・環境などの教育実践を提唱した。 「自ら」 「主体的」 を繰り返し主張する教育活動では、 内容や展開について、 教職員から児童生徒へは勿論、 教育行政から学校へもトップダウンで指示をする方式は不可能である。 むしろ教育研究での共有化を経て、 教育実践をボトムアップしていく方に理がある。 特色科目の存在意義は、 総合学習と同じではないだろうか。
 特色科目は、 詰め込み教育から脱却し、 分かる、 楽しい、 剥落しない学力が付く授業をおこなうことに意義がある。 しかし、 それだけではない。 私たちは、 やらせタウンミーティングなどの問題が明らかとなりつつも、 数の暴力といってよい政治的な圧力によって教基法を改変させられた歴史を持つ。 今日は、 いつでも政治が教育に土足で踏み込んでくる時代である。 教育のシステムの中に、 教育施策の 「全体主義化」 を阻止する要因、 学び合いを必然化するとともに特定の価値観の注入を無力化する授業展開を配置しておくことは重要である。
 再編10年目の現在、 体験的・課題解決的な学習/系・系列科目を、 そうした観点から検証する必要があると考える。
 (くぜ きみたか 横浜桜陽高校教員)
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