総合学科はどこに行く? |
中 村 裕 之 |
はじめに 縁あって総合学科高校 3 校に勤務することとなった。 いろいろと嫌になることも多いけど、 私は総合学科が好きだ。 思いもある。 そんな私の思いが少しでも伝えられたらと考えて、 柄にもなくこの原稿の執筆をお引き受けすることにした。 もとより文才もなく、 まとまりのないものとなると思うが、 最後までお読みいただけたら幸いだ。 「青臭いからこそ教師」 ある課題集中校に勤務したとき、 「何で日本史勉強するの?」、 「何で高校卒業しなきゃいけないの?」、 という子供達の問いかけに明確に答えられない自分がいた。 進路変更で学校をやめる際に、 初めてその生徒の人生を共に考えることもしばしばだった。 次に勤務した農業高校はまったく違った。 多くの生徒や卒業生達が農業高校での学びに達成感や充実感を持ち、 それが職業選択に生き、 その後の生き方に自信を持っているなと感じた。 生徒に対する教員の数も多く、 きめ細かく家庭的な雰囲気が、 そうしたものを創り出しているとも思った。 そんな時、 大師高校に着任した。 総合学科改編の年 (1996年) で、 神奈川県で初めての総合学科を創る、 という場にワクワクしながら立ち会うことが出来た。 あれから15年が経つ。 4月 1日に当時の校長に言われた言葉は今でも忘れられない。 「……あなたがたがこれまで教師としてやりたかったけどやれなかったことは何ですか?大師でそれをやってください。 ……そんな青臭いことを何で言うのか、 と思うかもしれないけど、 教師は青臭いからこそ教師なんです。」 と。 総合学科ってスゲぇーや。 教員としての生き様を問う、 この言葉に自分は感動した。 やはり教育はロマンだ。 課題集中校と農業高校での経験から、 充実感や達成感を持って学校生活に取り組み、 それが自分の職業選択や生き方に直結する、 そんな高校がもっと増えていったら良いな、 と思っていた自分は、 その思いを総合学科なら実現できるのではないかと思い描くようになった。 総合学科創設を謳ったいわゆる 「 4 次報告」 にも、 同様のことが書かれていることを後に知り、 「たまには文部省 (当時) もいいこと言うじゃない!」 と思った。 総合学科の創設は日本が成長社会から成熟社会へと転換するひとつの流れではなかっただろうか、 と今改めて思う。 総合学科には間違いなく 「追い風」 が吹いていた。 「おばさん、 口悪いけどいい人だね」 大師高校に着任する1年位前に舞岡公園 (横浜市戸塚区・港南区にある都市公園) を知る機会があった。 住宅地の中に奇跡のように残された田んぼや雑木林からなる横浜の原風景を残す里山の自然だ。 市民がこうした公園をつくるように行政と話し合い、 両者の協働でつくられ現在も運営されている公園だ。 ここをフィールドに市民の皆さんと高校生が共に田んぼや雑木林を保全する活動をどうしてもやりたかった。 その当時、 それが可能なのは総合学科の高校くらいしかなかったのではないだろうか。 早速、 学校設定科目として授業を立ち上げる。 驚くほど授業が簡単に作られた。 1997年度から授業がスタート。 生徒達は川崎から戸塚まで土曜日だというのにやって来て市民の皆さんとこちらの予想以上に頑張って田んぼの活動を行った。 これが授業であることに大きな意義があると今でも思う。 市民の皆さんは、 暖かくそして時には厳しく子供達と接してくれた。 「今日はかったるいから作業やらないよ」、 「ああそうかい。 じゃあ別な作業をやってもらうよ。 こっちにおいで」、 そんな会話が高校生と市民の間で平気で交わされている。 心配で暫くしてその 「別な作業場所」 に行ってみると、 やんちゃだが人の良い高校生が 「おばさん、 口悪いけどいい人だね」 と言いながらも作業をしている。 そういう経験を重ねていく中で、 学校の中だけで教育をやる時代は終わった、 ホンモノを子供達に見せ触らせることが、 これからの教育には必要ではないか、 と自分の体で感じて、 そしてそう思うようになった。 一定の知識や技術を教授する 「教える人」 もいいけど、 いろいろなものをくっつけて 「つなぐ人」 もいいなと強く思った。 「教育」 とは 「教える+育てる」 なのに、 「教える」 ことに片寄りすぎていたのではないかと。 だから私はコーディネートやファシリテートをする力も教員には必要だと認識するようになった。 それを試行しながら実践した。 大変というよりも楽しいことであった。 自分の視野や物の見方が、 そして人と人とのつながりによるネットワークが、 広がる。 教員の世界しか知らない私には本当に楽しかった。 そういう試行錯誤が何年かあり、 舞岡公園での体験 (継続的な体験) を通して、 職業選択や進路選択をした生徒達も一定数出るようになった。 また、 卒業してからも舞岡公園を訪れる者もいる。 高校生が普段接する 「大人」 といえば親か教員、 せいぜいアルバイト先にいる大人くらいだろう。 しかしこの少々おせっかいな 「舞岡公園の大人たち」 は子供達にも教員にも新しい活力を与えてくれる。 舞岡公園での大師高校の取り組みは現在でも継続しており、 授業をかつて選択した生徒達 (授業のOB・OG) と市民、 教員の同窓会まで出来ている。 授業のOB会があるという学校 (学科) が他にあるだろうか…。 就職や人生の相談を市民の方にする生徒・卒業生も多い。 市民の方も職業人としてのもうひとつの顔をもっておられる。 そのもうひとつの顔に触れてみる機会にもなっているようだ。 また舞岡公園の市民の皆さんにも高校生の存在は 「寄寓者」 として大切な存在となっていると思える。 これは全て学校の中で環境教育をやるのではなく、 学校の 「外」 で肌に触れ人と人とがふれあい、 出来上がったものだ。 ちなみに私も現在では 「まさか」 であるが、 舞岡公園の市民側の組織のメンバーの一員となっている。 「総合学科だから出来るキャリア教育」 ここまで1996年から数年間の総合学科草創期の大師高校でのある取り組みを書いてみた。 このような取り組みが総合学科 (大師高校) ではいくつも行われるようになって来た。 その取り組みの中に後年 「キャリア教育」 と呼ばれるようになったものが萌芽されていることに、 賢明なる読者の皆さんは気が付かれたであろう。 D・ホールは 「キャリアは他者との関係の中で互いに学びあうことで形成される」 と述べている。 キャリア教育に必要なものはこの 「他者」 であり、 様々な他者との 「学びあい」 である。 そして両者が出会う 「フィールド」 の存在である。 舞岡公園での取り組みはこの条件を充分に満たしている。 一般的に総合学科では 「産業社会と人間」 (以下 「産人」 と表記) を中心としたガイダンス機能が充実しており、 それがキャリア教育の礎となっていると言われている。 従来型の学校では学校は地域や社会とあまり関わりを持たないか、 あるいは一方的な受容体であった。 しかし総合学科、 大師高校の取り組みには、 学校が地域や社会に対して、 その地域や社会の抱える問題解決のパートナーの一員であり、 能動的に地域や社会に一定の発信をしていたことが窺える。 「総合学科はキャリア教育を担う学科である」 とよく言われるが、 特に神奈川県のように普通科から総合学科に改編された事例では、 専門学科のような教育資源をなかなか所有・活用できない。 神奈川県の総合学科はこの欠点を、 学校の 「外」 に出て行き、 教育活動として内部化することにより、 克服していけた。 つまり、 環境、 人権、 国際等の現代の社会や地域が抱える課題を、 学校が地域や社会といった 「外」 に出て行くことによって共有・教材化できたことが、 キャリア教育の基礎や財産になっていったのだ。 その基礎や財産は 「産人」 を豊かにし、 また 「産人」 で築いたものを学校の教育活動全般に還元している。 これは神奈川の持つ特質や強みかもしれない。 さて、 「産人」 は総合学科入学年度に学ぶ必履修科目である。 「総合学科の扇の要の科目」 とも言われている。 言うまでもないが、 2 年次以降将来の職業選択や進路を考えた科目選択を行えるよう、 自己を理解させ、 社会への視野を広げ、 職業観・勤労観を養う科目である。 ほとんど全ての総合学科高校では、 名称は異なるが、 「社会人講話」、 「事業所見学」、 「発表会」、 などを行っている。 もちろん半日程度の講話や見学で職業観・勤労観はそうは養えない。 むしろ 「産人」 で築き上げた 「外」 をどのように教育活動全般に生かすかが総合学科の場合、 重要だろうと思う (もちろんその逆も成り立つ)。 前述の舞岡公園は 「産人」 のフィールドとしても使われ、 またそこで舞岡公園に魅力を感じた生徒が翌年度舞岡公園で行う授業を選択する。 「産人っていうのは総合学科の学習の出発点」 とある先達は書いている。 いかに生き生きと活躍している方や、 働く・生きる現場から生徒達が (もちろん教員達も) 何かを肌で感じて汲み取るかこそが、 先行き不透明な成熟社会をどう生きていくのかの答を見つけ出す 「学力」 となるのだと思う。 キャリア教育とはそのような視点で、 捉えてゆくべきだと私は考えている。 そして、 総合学科で行われる例えば 「日本史」 や 「現代社会」 等の普通教科・科目は、 普通科のそれらと異なる点があると私は考える。 それは、 総合学科の科目は全てその中に 「ガイダンス機能」 を持たせなくてはならないという考えでもある。 ガイダンス機能=キャリア教育の基礎、 である。 しかし難しく考えることはない。 「産人」 を発展的・継続的に捉えればいいのだ。 例えば 「日本史」 なら、 見学を入れる、 江戸時代の本を実際にさわってみる、 専門家の講話を聞く、 等でもいいのだ。 ホンモノ、 輝いているもの、 他者、 にどこかで登場してもらえばいいのだ。 「外を持ち」、 「外と繋がること」 こそ、 総合学科の特質でありキャリア教育の基礎である。 「因数分解をやると職業観が身につく」 とかいう珍説は少なくとも総合学科には通用しない。 総合学科は専門学科と同様に 「外」 の資源を持っているからだ。 むしろ専門学科より多様で広い 「外」 を総合学科は持っているように思われる。 繰り返しになるが、 総合学科はキャリア教育をやりやすい。 「どう生きる?」、 「何になる?」 の問いかけをしやすい。 「産人だけでキャリア教育をやっています」 ではなく、 「総合学科のエッセンスをふりかけた授業=総合学科の全ての教育活動がキャリア教育」 という意見に私は全面的に賛成だ。 そのための (には) 学校の外とのつながりが必要なのだ。 社会のホンモノを見せる・感じさせる、 ことからキャリア教育は始まるのだと言い切っても良いと私は思う。 「パラダイム・チェンジ」 2005年頃から、 総合学科に対する 「逆風」 が吹くようになって来た。 「ゆとり教育」 は成熟社会の教育のあり方のひとつを示したものであるが、 いわゆる学力低下問題が吹き荒れ、 その元凶が全て 「ゆとり教育」 のせいだと決め付けられてしまった。 総合学科は 「生きる力」 をキーワードに展開された 「ゆとり教育」 の産物であり、 そのため総合学科に対する批判は大きなものがある。 成長社会から成熟社会への転換に伴う教育の転換が 「ゆとり教育」 であり、 総合学科の創設であった。 しかし振り子は再び逆の方向に振れている。 一元的で短絡的な振り子の振り戻しに私は当惑したままである。 更に大きいのは、 草創期のメンバーが異動等で離れてしまうことだ。 専門学科であれば、 必ずその学校には専門学科 (教科) の教員が一定数存在する。 専門学科 (教科) の教員が核になり、 専門教育を進めていける。 しかし神奈川県のようにそのほとんどが普通科からの改編や統合によって生まれた総合学科は、 校内には基本的には普通教科の教員しかいない。 総合学科が徐々に普通科化していくと言われるのは、 この問題が大きいように思う。 草創期には熱意と根性で乗り切れた問題だが、 次の段階になるとどうしてもここがネックになってしまう。 「総合学科はよくわからない」、 「産人など必要ない」、 等の声を耳にすることがあるが、 そもそも総合学科は 「第 3 の学科」 であり普通科とは違うのだ。 「やったことがないからやってみよう」 がなぜ出来ないのか。 「青臭いからこそ教師」 ではないだろうか。 もちろん硬直化した教育行政やネット社会の中での子供の質的変化などの問題は大きいが、 それと共に未だに教員の意識改革が求められている。 また、 単位制に関しては、 総合学科を運営するために単位制をとっているのであり、 最初に単位制ありきではない。 単位制普通科と総合学科は出発点が違うのだ。 この外と中からの 「逆風」 の中、 総合学科は新しいパラダイムを未だ見出せずにいる。 いわゆる 「 4 次報告」 以降、 総合学科のひとつのパラダイムになったのは筑波大学付属坂戸高校 (以後 「坂戸」 と表記) の実践であった。 「坂戸モデル」 を念頭に置きながら、 神奈川県でも全国でも総合学科はその数を増やし発展していった。 しかし 「 4 次報告」 から10余年が立ち、 教育情勢・社会情勢は大きく変化した。 「坂戸モデル」 も変容している。 「 4 次報告」 を金科玉条とするのではなく、 これを古典 (=時代が変わっても普遍的な価値のあるもの) としつつ、 新しい総合学科像を構築しなければならない。 その核のひとつがキャリア教育である。 例えば神戸甲北高校 (以下 「甲北」 と表記) のホームページ、 特に卒業生の進路の記述をぜひ見て欲しい。 ここには新たなパラダイムのヒントがあると私は考える。 これからの総合学科のキャリア教育のひとつのあるべき姿がそこにある。 「坂戸モデル」 から 「甲北モデル」 へのパラダイム・チェンジが、 いま総合学科には求められている。 「これからの総合学科は……」 教員にとって徒労感が強く残る時代となってしまった。 21世紀初頭に跋扈したアメリカ式新自由主義はもはや時代遅れとなりつつあるのに、 説明責任、 教員の人事評価、 学力低下等の教育への批判、 などは亡霊のように私たちを苦しめている。 大師高校を含む前期再編計画が諸々の課題を孕みながらも一定の教育的成果を上げているのは、 ひとえに現場の創意工夫、 草創期の熱意と継承、 であったと、 私は考える。 「やってないから (やれないかもしれないけど) やってみよう」 の精神が我々の中に満ちているとき、 それは大きな改革のパワーとなる。 私自身、 前日の舞岡公園での取り組みは成功例ではあるが、 失敗例もたくさんある。 これをサッカーに例えると、 今年J1に昇格した湘南ベルマーレのように 2 点取られたら 3 点取り返す、 という超攻撃的な戦略と戦術が、 総合学科には似合っていると思われる。 1 点も取らせてはいけないでは 3 点もぎ取ることは不可能だ。 もちろん前提になるのは、 教員ひとりひとりがパソコンではなく子供達と向きあうこと、 現場の創意工夫を出せるような時間的や精神的な余裕がある程度確保されることだ。 その前提を元に、 これからの総合学科はどうあってほしいか、 を少々書いてみたい。 まずは、 「産人」 を入口としたキャリア教育の充実だ。 ホンモノを見て感じる…、 の現段階から、 ホンモノを見て考える、 行動する…、 ようになれる人間を育ててゆきたい。 成熟社会は高度情報化社会でもある。 過多な情報が氾濫する中、 ホンモノの持つ力は大きいと思う。 これはインターンシップやボランティア活動を今以上に総合学科の教育活動の中に取り入れていくことや、 部活動をさらに活性化することで、 可能になると思う。 また、 神奈川の強みとして、 総合学科間の連携が一定程度充実していて、 その連携の中で学校の垣根を取り払った 「夏季連携講座」 や上級学校等との連携講座 (「しごとの学び場」) が行われている。 これらの活用と充実により、 キャリア教育の次へのステップが可能にもなると思う。 一例ではあるが、 2009年の 「夏季連携講座」 のひとつとして、 栃木県那珂川町での農村体験と交流を 2 泊 3 日で行った。 これは事前指導・事後指導の各 1 日を加えて 1 単位と認定される。 参加した13名の高校生は 3 つの総合学科に所属する 1 〜 3 年生である。 この講座は那珂川町 (生涯教育課、 農林振興課) がバックアップし、 また県内の大学生が高校生のサポート役とコーディネート役になってくれた。 都市緑化に関わる企業の関与もあった。 教員である私達と日大の先生は、 全体のファシリテーター役だ。 都市部に住む神奈川の総合学科生にとって那珂川町は実際の距離以上に離れた場所であった。 森林での下草刈りや町有林活用のための実地調査など、 様々な交流と体験を行い、 またホームステイをさせていただいた。 3 日間の滞在で彼らは 「旅人」 から 「寄寓者」 になり、 那珂川町のいろいろな大人や高校生とふれあい、 とにかく話した。 林業や陶芸を生業とするお宅にホームステイした生徒もいた。 最終日には地元の高校生と神奈川から来た総合学科の高校生がサポート役の大学生も交えてワークショップを行い、 3 日間の学びを振り返った。 那珂川町の高校生と今でも交流を続けている生徒や、 那珂川町のような里山保全の学びをさらにしたくてサポート役の大学生が所属する大学に進学した生徒、 などもいる。 高校生のキャリア形成の上で大きな成果を上げたと思う。 つまり、 「外」 を総合学科はこれからも保持して発展させて欲しいということである。 ちなみに私はこの 「日大の先生」 とは前述の舞岡公園で知り合い、 共に夢を語る仲となった。 次に、 前にも書いたような総合学科のパラダイムチェンジである。 「坂戸モデル」 から 「甲北モデル」 へのパラダイムチェンジが早い段階で必要だと思うが、 読者の皆さんはどう考えられるだろうか。 このことについては、 機会があればキャリア教育との関連で改めて検討したい。 「生徒も教員も生き生きとするからこそ総合学科なんだ」 では、 キャリア教育の充実とパラダイムチェンジのためには何が必要だろうか。 一介の教員としての私見を書かせていただきたい。 まずは、 経験豊かな民間人校長を総合学科高校に充ててはどうだろうか。 「外」 の中で最も重要な分野のひとつが経済界・企業である。 モノを作ること、 研究をすることなど、 働くことの中心は何といっても企業である。 その生き生きとした現場を見て感じることの意義は大きい。 経験豊かな民間人校長により、 充実した経済界・企業との関係を築き、 充実したキャリア教育を行っている学校の例もある。 また、 神奈川の場合、 専門学科にあって総合学科にないのが、 専門家 (専門教科) 集団だ。 専門学科にある専門家集団に代わるものを総合学科はこれから創っていく必要がある。 いつまでも草創期の熱意と根性に頼っていては、 総合学科は持続不可能となる。 持続可能な総合学科にするためには、 何らかの方策が絶対必要だ。 そして、 総合学科に勤務したらの利点やインセンティブを創らなくてはダメだ。 例えば授業の持ち時間が少ない、 とか、 少人数が充実している、 といった生徒にも教員もプラスになるようなものが作れないだろうか。 また、 かつての 4 校運動のように 「新タイプ高校 (or専門高校か総合学科高校) には教員のキャリアとして必ず 1 度は勤務する」 というのはどうだろうか。 教育は人、 この場合何よりも大切なのは教員のモチベーションだ。 モチベーションを上げる方策はないだろうか。 生徒が生き生きとするには教員が生き生きとすること、 これを私は総合学科で学んだ気がする。 おしまいに 成熟社会には成熟社会に見合った教育が必要である。 「 4 次報告」 の優れた点の一つが、 成熟社会に見合った教育を模索して、 たどり着いた結果が総合学科の創設とした点である。 日本をめぐる経済・社会状況は厳しさを増す一方だが、 日本が成長社会から成熟社会に転換したという事実がある一方で、 教育の世界ではあまりこの事実が反映されていないように感じられる。 総合学科は成熟社会に適した学科であり、 またそうあり続けて欲しいと私は切に願う。 そして総合学科を卒業して、 総合学科での学びを誇りに思い、 総合学科を愛する卒業生達もたくさんいることを、 ここにぜひ記しておきたい。 最後に草創期の大師高校のメンバーであったある教員の言葉を引用して終わりたいと思う。 「多様な生徒が多様な場面で 『輝いている大人』 と出会い、 生徒ひとりひとりが希望や自信や意欲を自分のものにしていく支援システムとして、 (総合学科が=著者注) 成熟していくことを願ってやまない。」 |
(なかむら ひろゆき 金沢総合高校教員) |
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