- 横浜市で自由社版教科書採択される
2009年 8 月 4 日、 横浜市教育委員会は市内18区中 8 区 (港南区・旭区・金沢区・港北区・緑区・青葉区・都筑区・瀬谷区) で自由社の歴史教科書を採択した。 今年度 (2010年度) から 2 年間、 横浜市内約 1 万 3 千人の中学生がこの教科書で学ぶことになる。 さらに2009年10月15日、 横浜市の教科書採択地区が2010年から市内 1 地区に統合されることも決定され、 すべての市立中学校でこの教科書が使われる可能性もでてきた。
自由社版 『新編 新しい歴史教科書』 (代表執筆者・藤岡信勝氏) は 「新しい歴史教科書をつくる会」 が主導して作成し、 2009年 4 月に文部科学省の教科用図書検定に合格した。 内容は2001年 4 月、 検定に合格して議論を呼んだ扶桑社発行 『新しい歴史教科書』 (代表執筆者・西尾幹二氏) とほとんど同じであり、 天皇崇拝・戦争賛美に偏った歴史観の教科書と危惧されている。
2009年 5 月発行され、 書店に並べられた 『日本人の歴史教科書』 (自由社) は 「日本を読み解く15の視座」 と題された櫻井よしこ・西尾幹二ら15人のエッセイと中学生用教科書である 『新編 新しい歴史教科書』 を併せて収録した、 いわば 「市販本」 歴史教科書である。
今回初めてこの 『新編 新しい歴史教科書』 を通読してみて、 これが極めて特異な教科書であることを実感した。 すでに指摘されていることだが、 例えば 「日本の神話」 「神武天皇と東征伝承」 から始まり、 「まじめで誠実なお人がら」 が強調された昭和天皇の 「お言葉」 で終わる点はまさに戦前の国定教科書を想起させる。 さらに日露戦争に多くのページを割き、 この戦争と続く韓国併合は日本の安全保障のために必要であったと強調し、 「大東亜戦争 (太平洋戦争)」 の項ではインドネシアをはじめアジアの人びとに独立への希望を与えたような文章や写真を多用するなど、 日本の戦争や侵略を正当化する姿勢が目立つ。
しかし、 この教科書には単に 「天皇崇拝・戦争賛美」 にとどまらない多数の問題点が他にも潜んでおり、 1 つ 1 つ検討していくとかなりの量になる。 そこで平素、 高校で日本史を担当している者として気がついたことをいくつか思いつくままレポートしてみたい。 筆者の力量不足・勉強不足から従来の歴史研究の成果をふまえての、 まとまった論考にはならないと思うが、 この教科書の何が問題なのか、 何をねらって編集されているのかを議論するきっかけになれば幸いである。
今年度、 自由社 『新編 新しい歴史教科書』 が採択されなかった10区では東京書籍 『新編 新しい社会 歴史』 または帝国書院 『社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き』 が採択されているので、 適宜この 3 冊の教科書を比較・検討してみたい。 以下、 文中ではそれぞれの教科書を 「自由社」 「東京書籍」 「帝国書院」 と略称で示すこととする。
- 世界史との関連
「自由社」 のページを開くとまずは 「そこに眠っていた歴史」 と題するカラー写真付きの遺跡・遺物に関する特集ページが組まれており、 岩宿遺跡を発見した相澤忠洋や高松塚古墳に続いて出雲大社や戦艦大和が出てくる。 続く 「歴史をまなぶとは」 というページでは 「これから学ぶ歴史は、 日本の歴史である。 これは、 いいかえれば、 みなさんと血のつながった先祖の歴史を学ぶということである」 とうたっている。 「自由社」 には 「ご先祖様のプレゼント」 というページが 6 カ所あり、 「日本の神話」 「神武天皇と東征伝承」 「武士道と忠義の観念」 「明治維新とは何か」 といったテーマ特集が組まれ、 教科書全体を通して執筆者らが考える 「日本」 という国の独自性、 天皇の正統性、 日本固有の伝統文化を重視する姿勢が貫かれている。 一方ではその裏返しとして近隣のアジア諸国、 特に中国・朝鮮に対する侮蔑的なまなざしや優越感が各所で読み取れる。
世界史に関する記述は他の教科書も決して多いとはいえないが、 たとえば 「帝国書院」 では 「世界が一体化する時代に必要な歴史」 を学ぶ大切さを教科書の冒頭でうたい、 「世界史を深めよう」 という特集ページを組んでいる。 また 「帝国書院」 「東京書籍」 ともにアイヌ・琉球の歴史やハワイ・満州への日本人移民などに多くのページを割くといった工夫をしている。
「自由社」 は日本史と世界史との関連性やアイヌ・琉球の歴史に関する記述が少ないばかりか、 かなり偏った歴史観を提示して日本歴史・日本民族の優位性を際だたせ、 さらには自ら起こした侵略戦争を正当化するかのような記述につなげていく。
(1) フランス革命への評価
たとえばフランス革命について 「自由社」 は次のような記述をしている (130頁)。
「1789年にはフランス革命が起こった。 財政難がもとで国王や貴族に対する反乱が起こり、 のちには国王を処刑するなどの過激な流血事件に発展した。 その中で身分の特権を廃止し、 自由・平等をうたう人権宣言が発表された。」 (本文)
「フランス革命では市民や兵士たちがパリ、 マルセーユなど各都市で立ち上がった。 国王や貴族の処刑から、 やがて革命勢力の中での殺し合いが起こった。」 (口絵 「バスチーユの政治犯牢獄を襲う市民」 解説文)
「自由社」 はこれに対して明治維新が 「公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革」 であり 「ヨーロッパの革命、 とくにフランス革命のように、 市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命ではなかった」 (148頁 「明治維新とは何か」 より) ことを強調しようとする。
他の教科書はフランス革命をどのように記述しているだろうか。 「東京書籍」 は本文で革命の起こった原因をより詳しく説明している。
「フランスでは強力な官僚制と常備軍をもとに、 国王が絶対的な権力をにぎっていました (絶対王政)。 しかし、 身分による差別は大きく、 戦争による慢性的な財政赤字もかかえており、 これらに対し、 王政は有効な対策を打ち出せないままでした。 そして、 ついに1789年には、 都市でも農村でも、 貴族も平民もそれぞれの不満から立ち上がり、 フランス革命が起こりました。」 そして 「自由、 平等、 人民主権、 私有財産の不可侵などをうたう人権宣言」 の部分要約をのせ、 この宣言が 「近代の人権確立の基礎」 となったとその世界史的な意義を説明する (125頁)。
「帝国書院」 では 「自由と平等を求めた市民革命」 (136〜137頁) の中で絶対王政と市民革命を取り上げ、 ルソーの思想が日本の自由民権運動に大きな影響を与えたことや人権宣言に示された 「人権の尊重と国民主権の考え」 が日本国憲法につながっていくことを示している。 「自由社」 は後でも触れるが自由民権運動や日本国憲法に対する評価が極めて低く、 これらを世界史的な視野に立った人権確立の歴史の流れに関連づける視点がない。
(2) 反共産主義と満州事変
「自由社」 は同じくロシア革命に対しても暴力的・独裁的側面を強調する (182頁)。
「長引く戦争 (注:第 1 次世界大戦) のさなか、 1917年、 ロシア革命がおこった。 食糧難にあえぐ都市の市民の暴動に兵士が合流し、 ロマノフ王朝がたおれた。 マルクス主義の理論にもとづき、 国外に亡命して革命の機会を待っていたレーニンは、 こうした情勢をただちに利用した。 武装蜂起したレーニンの一派は、 労働者と兵士を中心に組織された代表者会議 (ソビエト) を拠点とする政府をつくった。 その後、 他の党派を武力で排除し、 みずから率いる共産党の一党独裁体制を築いた。 (中略) ロマノフ王朝の皇帝一族をはじめ、 共産党が敵とみなす貴族、 地主、 資本家、 聖職者、 知識人らが数知れないほど、 処刑された。」
さらに 「第 2 次世界大戦の時代」 の節では共産主義とファシズムを 「 2 つの全体主義」 としてスターリン、 ヒトラーの大きな肖像写真とともに掲げ、 スターリンの独裁体制や秘密警察・強制収容所による恐怖政治について中学生用教科書としては異例とも思えるほど詳述する (192頁)。 「帝国書院」 はロシア革命について 「第 1 次世界大戦中の1917年、 ロシアでは民衆の不満が爆発して、 革命がおこり、 レーニンを指導者に、 労働者や農民を中心とする世界初の社会主義国家が誕生しました」 (187頁) と記述し、 スターリンに関しては 「独裁体制のもと、 『五か年計画』 という重工業中心の工業化と農業の集団化が強行におしすすめられており、 世界恐慌の影響は受けませんでした」 (201頁) と簡潔に記述している。 「東京書籍」 では 「総力戦が長引き、 生活が苦しくなると、 ロシアでは戦争や皇帝の専制に対する不満が爆発しました。 1917年に、 『パン・平和・自由』 を求めて労働者のストライキや兵士の反乱が続き、 かれらの代表会議 (ソビエト) が各地に広がったのです。」 と革命の背景を民衆の立場からやや詳しく説明し、 「ロシア革命は、 資本主義に不満をもった世界の人々に、 希望をあたえ、 ドイツでも社会主義者たちが立ち上がりましたが、 鎮圧されました」 と続けている (171頁)。 スターリンについても 「この計画経済によって、 世界恐慌の影響を受けることなく、 発展をとげましたが、 国の強硬な方針に反対した人々は弾圧され、 多くの犠牲者が出ました。」 (182頁) とやや具体的な記述になっている。
革命が暴力を伴うことも、 スターリンの独裁体制の下で多くの人々が 「粛正」 されたことも事実である。 しかし問題なのはこうした記述の後で、 田中義一内閣の山東出兵に対する中国の排日運動が 「暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受け、 過激な性格を帯びるようになった」 「日本人を襲撃する排日運動が活発になった」 と説明して (194頁)、 後の満州事変・ 「満州国」 建国を正当化していくかのような流れをつくっていく点である。 たとえば昭和恐慌の頃、 国民の軍部に対する期待が強まっていく背景として以下のような説明をする。 「軍人のあいだには、 排日運動にさらされていた満州在住の日本人の窮状と、 満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満が生まれていた。 (中略) 国民も、 経済不況による社会不安の中で、 政争に明け暮れ、 問題を解決できない政党政治に失望し、 しだいに軍部に期待を寄せるようになった。」 (195頁) 「関東軍が、 満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、 中国人による排日運動もはげしくなり、 列車妨害や日本人への迫害などが頻発した。」 その結果関東軍が仕組んだ満州事変に対して、 「満州で日本人が受けていた不法行為の被害を解決できない政府の外交方針に不満をつのらせていた国民の中には、 関東軍の行動を支持する者が多く、 陸軍には多額の支援金が寄せられた」 と続く (196頁)。
満州事変の背景について他の教科書はどのように説明しているだろうか。 「帝国書院」 は以下の通りである。 世界恐慌下、 「民衆のなかで、 資源の豊かな 「満州」 の支配を進め、 不景気を解決しようとする声もしだいに高まって」 きたことにもふれた後 (202頁)、 「中国では、 うばわれた主権を回復しようという動きがさかんになりました。 中国は、 日本の中国での権益の中心であった、 南満州鉄道に並行する鉄道を建設しようとしました。 この動きに対し、 『満州』 にいた日本軍 (関東軍) は、 1931年 9 月、 南満州鉄道の奉天 (現在の瀋陽) 付近で爆破事件をおこし (柳条湖事件)、 これを中国側のしたこととして攻撃をはじめ、 『満州』 全体を占領しました (「満州事変」) (203頁)。 さらに 「歴史の舞台H農村のくらしと近代化 佐久地方」 という特集ページで満州事変以後、 国策として 「満州国」 への開拓移民が呼びかけられ長野県佐久地方からも多くの人が 「満州」 へ渡ったが、 戦後帰国できなかった人が大勢いたこと (199頁) に加えて別の箇所 (「植民地の支配と抵抗」) では 「『満州』 にいた日本人の中には、 日本人以外の民族を下にみる人々がいたことも中国人の抗日意識を強めました」 (209頁) と、 日本人民衆の加害性についてもきちんと触れている。
「東京書籍」 では国民党・蒋介石が中国統一に乗り出したことに触れた後、 「満州の日本権益を確保するため、 満州を中国から分離することを主張していた現地の軍部 (関東軍) は、 1931 (昭和 6 ) 年 9 月18日、 奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、 それを機に軍事行動を開始しました (満州事変)」 (186頁) として 「帝国書院」 同様、 満州における日本の権益確保を満州事変の主な原因としている。
(3) 中華思想への敵対心
藤岡信勝氏は 『日本人の歴史教科書』 (自由社) の 「はじめに」 の中で現在日本の学校で使われている教科書で 「東アジア世界では中国が最上位の国で、 韓国・朝鮮がそれに次ぎ、 最下位の日本は上位の国々から一方的に文化的恩恵を受けてきたことになって」 いるのは 「特異なストーリー」 であり、 近代にいたって日本が 「中韓への忘恩の徒」 として侵略行為をしてきたかのように描くのは 「自虐史観」 だと決めつける。 こうした藤岡氏の考えは 「自由社」 教科書にそのまま反映されている。
中国・朝鮮が日本より文化的に優位な国であることを認めようとしない態度は古代における東アジアの国際関係に関する記述によくあらわれている。 中国の歴史書は 「朝貢する周辺国のカタログ」 であり、 邪馬台国に関する 「魏志倭人伝」 の記述については 「倭人伝の記述には不正確な内容も多」 いため邪馬台国の位置についても未だに論争が続いているという (27頁)。 もちろん歴史研究において史料批判は欠かせないが、 「自由社」 はその一方で 『古事記』 については 「民族の神話と歴史がすじみち立った物語としてまとめられ」、 『日本書紀』 は 「国家の正史として、 歴代の天皇の系譜とその事績が詳細に記述された」 ものとし (46頁)、 批判的な態度でこれらを読み解く姿勢は見られない。
さて、 邪馬台国に戻ろう。 「自由社」 は中華秩序を次のように説明する。 「中国では、 漢の時代から、 周辺諸国とのあいだに、 君主と臣下の関係を結んできた。 臣下の国は、 中国皇帝の求めに応じて出兵したり、 朝貢したりすることが義務づけられ、 皇帝は朝貢した指導者に、 その国の王の称号をあたえて支配権を認めた。 卑弥呼の時代に、 すでに日本は、 こうした中国の皇帝を中心とする東アジアのきびしい国際関係の中に組みこまれていたと考えられる。」 (27頁)
これに対して 「東京書籍」 は 「深めよう 東アジア世界の朝貢体制と日本」 という特集ページを組み、 朝貢制度については 「周辺諸国も、 支配者としての地位を中国の皇帝から認めてもらうほか、 貢ぎ物のお返しに絹や銅銭などを得ることができたので、 朝貢は有利な制度」 でもあったことに言及、 さらに古代の東アジア世界に関しては 「 4 世紀から 6 世紀にかけて東アジアでは新しい国々が次々につくられ、 日本の大和政権のほか、 朝鮮半島でも高句麗、 百済、 新羅などが勢力を争いながら、 中国の王朝にさかんに朝貢を行いました。 朝貢関係を通じて、 漢字や仏教などの文化が東アジアに広まり、 共通の文化をもつ東アジア世界が形作られました。」 と説明し、 現在の国際関係との違いを考えさせる記述になっている。 (77頁)
(4) 聖徳太子と遣隋使
「自由社」 は中華思想に対抗して 「日本」 (帝国書院は 「ヤマト王権」 と表記) の自立性を打ち立てた人物としての聖徳太子及び遣隋使の記述に多くのスペース ( 4 頁) を割いている。 (ちなみに他の教科書は聖徳太子と遣隋使を合わせて 2 分の 1 頁程度である。)
聖徳太子 (厩戸皇子) の時代の政治については、 「蘇我氏と協力して新しい政治を行いました」 (帝国書院)、 「蘇我馬子と協力しながら、 中国や朝鮮に学んで、 天皇を中心とする政治制度を整えようとしました」 ( 「東京書籍」) とあるように聖徳太子と蘇我馬子との共同で政治を行っていたとするのが定説であろう。 しかし 「自由社」 では 「蘇我馬子と協力しながら政治を進めた」 とはするものの、 聖徳太子という若き皇族出身の指導者がめざした 「政治の本当のねらいは、 豪族の力をおさえ、 天皇を中心とした国家のしくみを整えることだった」 として蘇我馬子との 「協力」 関係があいまいになる。 また遣隋使については見開き 2 頁ものスペースを用い、 607年小野妹子を派遣した際に送った 「日出づる処の天子、 書を日没する処の天子に致す。 恙無きや」 で始まる聖徳太子の書は 「隋に対して服属しないという決意を表明したのだった」 とする。 (36頁) しかしその後の遣隋使・遣唐使は実際には中国に対する朝貢であると理解する意見が有力である。 「自由社」 の記述は誤解を招く表現であろう。 また聖徳太子は 「607年に法隆寺を建てるなど、 蘇我氏とともに仏教を厚く信仰し」 ながらも 「日本古来の神々を大切にすることも忘れなかった。 同じ年には、 推古天皇が、 伝統ある神々をまつり続けることを誓った。 このような聖徳太子の態度は、 外国のすぐれた文化を取り入れつつ、 自国の文化をすてない日本の伝統につながっていったと考えられる」 という記述が続くが (37頁)、 他の教科書にこのような説明はない。 中学生がこの教科書を読んだら混乱しないだろうか。 この他にも聖徳太子に関しては十七条の憲法における 「和を重視する考え方は、 その後の日本社会の伝統となった」 (35頁) 「日本が大陸の文明に吸収されて、 固有の文化を失うことはさけたかった」 (37頁)、 「日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、 その後も使われ続け、 とぎれることなく今日にいたっている」 (37頁) など、 史実というよりは教科書執筆者の願望とも思える記述が目立つ。
- 民衆をどう見ているか
(1) 義務を果たし、 抵抗しない民衆像
- 律令制下の農民
フランス革命を暴力的とみなす 「自由社」 は民衆の抵抗運動には冷淡な態度を示し、 国家が課した義務を粛々と果たす民衆の姿が描かれる。
古代律令制国家において民衆は様々な負担を強いられたが 「自由社」 は以下のような説明をしている。 「兵役などは、 生まれた村を一歩も出たことがなかった人びとが、 地元を離れ、 異郷の見知らぬ仲間と生活するなど、 文化や情報の交流の機会にもなった面もある」 (42頁)。 全く否定はできないかもしれないが、 「文化や情報の交流の機会」 とは言い過ぎではないか。 「帝国書院」 は、 「税は租・調・庸の三つからなっていました。 租は稲の収穫の約 3 %をおさめるもので、 重い負担ではありませんでしたが、 計帳に基づく調 (特産物) と庸 (布) の品は、 自分たちで都まで運ばなければならず、 その負担はたいへん重いものでした。 税のほかに、 国の守りにつく兵役や、 都や寺院をつくるための労役など、 多くの負担が課されました。 (中略) こうした重すぎる負担からのがれるため、 戸籍の性別や年齢をいつわることや、 居住地から逃亡する家族が出てきました」 と本文で説明し、 傍注で兵役のなかでも九州に派遣される防人の負担が特に重かったことをあげ、 参考史料として万葉集に載せられた 「防人をめぐる歌」 をあげている (38〜39頁)。 「東京書籍」 も調・庸を都まで運搬すること、 防人をはじめとする兵役の負担が重く逃亡する者が出てきたことに簡潔に触れている (37頁)。 「自由社」 には逃亡・偽籍など民衆の抵抗には触れず、 逆に 「国家的な慶事や大災害が起きた時などに、 天皇が詔を出して食料などを支給する 『賑給』 という制度があった」 など国家による 「恩恵」 もあったことに触れている (43頁)。 「賑給〈しんごう〉」 などおそらく高校の教科書にも記載されていないであろう。
- 江戸時代の百姓一揆・打ちこわし
江戸時代にはきびしい身分制度が存在した反面、 農民の努力によって農業技術が進歩し、 様々な産業の発達、 交通の整備によって商品経済が発達した時代でもある。 「東京書籍」 「帝国書院」 では生徒に自ら地域の歴史を調べさせる、 江戸時代の生活を自ら体験させるといった参加型学習を促す特集ページも含めて江戸時代の社会経済史に多くのスペースを割いているが 「自由社」 はあっさりとした記述に終わっている。 この教科書は古代・近代に重点が置かれ、 中世・近世史はあっさりしているのだ。 また 「自由社」 は 「江戸の社会の平和と安定」 と題した項で 「百姓は年貢を納めることを当然の公的な義務と心得ていたが、 不当に重い年貢を課せられた場合などには、 百姓一揆をおこしてその非を訴えた。 幕府や大名は、 訴えに応じることもしばしばあった」 (109頁) と記し、 一揆や打ちこわしに関する記述は少ない。 「大塩平八郎の乱」 を 「暴動」 と記し (119頁)、 幕末の 「世直し一揆」 「ええじゃないか」 に関しては一切記述がない。 「東京書籍」 は18世紀以降の百姓一揆・打ちこわしについて 「からかさ連判状」 などの図版や統計を用いながら以下のように説明している。 「18世紀になると、 多くの村が団結して、 領主に年貢の軽減や不正な代官の交代などを要求する百姓一揆を起こし、 大名の城下におし寄せることもありました。 都市では、 米の買いしめをした商人に対する打ちこわしが起こりました。 幕府や藩は、 えた身分、 ひにん身分の人びとに対して、 日常生活や服装で、 さらに統制を強めました。 また、 百姓一揆をおさえるために、 農民と対立させることもありました。 このようななかでも、 これらの人々は、 助け合いながら生活を高めていき、 人口に増加も見られました。 107頁)。 幕末に関して例えば 「帝国書院」 は 「民衆が願った 『世直し』」 と題して以下のような記述をしている。 「幕府に反対したのは、 武士たちだけではありませんでした。 大阪周辺で米不足や物価上昇のために打ちこわしがおき、 江戸にも及びました。 それとともに、 『世直し』 をとなえる農民たちの一揆がおこりました。 また、 1867年には 『ええじゃないか』 のさわぎもおこりました。 政治や経済の混乱に対し、 民衆も新しい社会を求めたのです」 (145頁)。 これに対し 「自由社」 はこうした民衆の動きも倒幕を早めた一因であることには一切触れず、 武士階級が自ら犠牲的精神を発揮してその特権的身分を廃し、 「公のために働く」 という彼等の 「理念」 が明治維新を成し遂げた、 という見解を示している (114頁、 148〜149頁)。
- 徴兵令・地租改正反対一揆
さらに明治時代になって他の教科書で当然取り上げられている徴兵令・地租改正に対する民衆の反対一揆についても 「自由社」 は極めて簡単にしか取り上げていない。 徴兵令については本文で 「平民からは一家の若い労働力を提供する負担が苦痛であるとして、 初期のころはいろいろな不安を生んだ」 と記述、 地租改正に関して本文ではこれにより政府の歳入が安定したことだけを述べ、 傍注で地価の 3 %だった地租が 「地租改正に反対する一揆がおきたため、 1877年には 2.5 %に引き下げられた」 と触れている (147頁)。
これに対し 「東京書籍」 は徴兵令に関しては 「負担が増えることなどをきらって、 各地で徴兵反対の一揆が起きました」、 地租改正に関しては 「しかし政府はこれまでの年貢収入を減らさない方針をとったので、 税負担はほとんど変わらず、 各地で地租改正反対の一揆が起きました。 このため政府は1877年に、 地租を地価の 3 %から、 2.5 %に引き下げました」 (141頁) といずれも本文中で説明する。 「帝国書院」 もほぼ同じような記述をしているが (150〜151頁) さらに 「国会開設の歩み@人々の不満と抵抗」 という見開き 2 頁を使って明治新政府の政策に対する 「士族の不満」 「農民の不満」、 および 「有力農民層の動き」 として豪農が自由民権運動に参加していく背景をグラフや図版を併用して説明している (162〜163頁)。
- 太平洋戦争と国民
「自由社」 では太平洋戦争のさなか 「あらゆる物資が不足し、 寺の鐘など、 金属という金属は戦争のため供出され、 生活用品は窮乏をきわめた。 しかし、 このような困難のなか、 多くの国民はよく働き、 よく戦った。 それは戦争の勝利を願っての行動だった」 という国民像が描かれる (208〜209頁)。 同頁には 「勤労動員」、 「『ぜいたく追放』 運動」、 「学徒出陣」、 「日本の都市を爆撃するアメリカのB29」 といった写真に加えて 「アメリカの軍艦に体当たりする特別攻撃機」 の大きな写真が掲載されている。 いわゆる 「特攻」 だがこれに対して 「自殺攻撃」 と説明するのも気にかかる (209頁)。 これまで民衆の主体的な動きについては否定的または軽視する態度を取っていたがここでは一転して国民が主体的に戦争遂行に努力する。 ちなみに 「帝国書院」 は 「長びく戦争と苦しい生活」 という節で 「多くの人々は 『正しい戦争』 であると信じ、 この生活に耐えていました」 (210頁) と表現している。 「東京書籍」 もほぼ同じような記述である (193頁)。
(2) 「治安維持法」 と社会運動
- 治安維持法が出てこない
大正デモクラシー・護憲運動の結果、 1925年男子普通選挙が実現する。 しかし同時に治安維持法が成立、 社会主義運動をはじめさまざまな社会運動を弾圧する中心的な法律となることについては各社教科書が取り上げているが、 「自由社」 には治安維持法が教科書本文にはでてこない。 普通選挙法成立時に関する 「自由社」 の記述は以下の通りである。 原敬が暗殺されてしばらく非政党内閣が続いた後、 1924年に加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立すると 「加藤内閣は、 1925 (大正14) 年、 普通選挙法を成立させた。 これによって、 納税額にかかわらず、 25歳以上の男子全員が選挙権を獲得した。 1928 (昭和3) 年には第一回の普通選挙が行われ、 政友会が第一党となった」 (187頁)。
「東京書籍」 は普通選挙法成立の後に 「しかし、 同時に治安維持法が制定され、 共産主義に対する取りしまりが強められました」 という一文が続く (177頁)。 「帝国書院」 はさらに詳しく以下のように 「治安維持法の成立」 を説明する。
「男子普通選挙の実現した同じ年に、 政府は治安維持法を成立させました。 これは国家をくつがえそうとしたり、 私有財産制度の廃止を主張したりする社会主義の動きに対し、 重い刑罰を加えようとするものでした。 1928年の選挙では、 労働者を代表する政党の代議士も当選したため、 政府は内容を改正し、 社会主義だけではなく社会運動全般のとりしまりにも利用するようになりました」 (193頁)。
「自由社」 で治安維持法がでてくるのは 「二つの全体主義」 という節の本文中に出てくるコミンテルン (他社には記載なし) に関する記述の傍注の一部としてである。 「世界各国の共産党は、 コミンテルン支部と位置づけられ、 モスクワの本部の指示を実行し、 自国の政府を打倒しようとした」 という本文に関連して傍注が付され、 日本でも日本共産党が創立され、 1925年に日本がソ連と国交を結んだ結果 「国内に破壊活動がおよぶことを警戒」 して治安維持法が制定されたことになっている (193頁)。 「自由社」 の教科書では 「全体主義国家」 とはヒトラーのナチス・ドイツとスターリンの共産主義国家のことをさし、 日本はファシズム国家の範疇には入らない。 そしてなぜ普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が制定されたのかは理解しづらい記述となっている。
- 社会運動をどう見ているか
そもそも日本における資本主義の発達に伴って発生した社会の矛盾や社会運動に関して 「自由社」 の記述は非常に簡単である。 たとえば日露戦争では東郷平八郎や秋山真之らの活躍する日本海海戦の説明に多くのスペースを割いている反面、 内村鑑三・与謝野晶子らの非戦論・反戦論には一切触れていない。
日清・日露戦争期を中心に勃興した日本の産業革命を底辺で支えたのは農村から流入した安価な労働力であった。 しかし 「自由社」 では以下のような記述となる。 「農村でも様々な副業が試みられ、 生活水準の向上で米食が普及し、 人口も着実に増加していった。 子女を製糸工場の女工に出稼ぎに出したり、 都市に移住して工場の労働者になる人々も多数でるようになった」 (167頁)。 それゆえ一応は低賃金や長時間労働が問題になって労働組合運動が始まったことや足尾銅山鉱毒事件に触れてはいるものの、 それらの社会運動の背景や実態について他社の教科書のような詳細な説明は省かれている。 例えば 「帝国書院」 には見開き 2 頁の 「『一等国』 の光と影」 と題した頁があり、 日清・日露戦争における勝利の一方で国内の貧富の差が拡大し、 農村では地主と小作人の二極分解が進行、 その結果貧しい小作人の次男・三男と娘たちが低賃金の工場労働者となったこと、 ハワイ等へ移住する人々も出てきたことを踏まえた上で労働運動や大逆事件等の社会運動の発生へと順々に説明していく (178〜179頁)。 「自由社」 では小作人や労働者の生活が実感されず、 なぜ日本で労働運動・社会運動が発生したのかを筋道立てて考え、 理解することも困難である。
大正デモクラシー期の社会運動についても 「自由社」 の記述はきわめて簡単で 2 分の 1 頁程度にまとめられている。 「東京書籍」 は見開き2頁の 「広がる社会運動」 で労働運動、 小作争議、 社会主義運動、 水平社運動、 女性解放運動などこの時代の様々な動きを水平社宣言・青鞜社宣言などの史料や図版を多用しながら説明している (178〜179頁)。 「帝国書院」 もほぼ同様である (192〜193頁 「民衆が選ぶ政党による政治」、 194〜195頁 「都市の発展と社会運動」)。
- 大日本帝国憲法をめぐって
(1) 「五箇条のご誓文」 から議会政治が始まったのか
「自由社」 は 「五箇条の御誓文」 が 「会議を開き、 世論にもとづいて政治を行うこと、 言論活動を活発にすること」 をうたい、 これによって 「近代的な立憲国家として発展していく道すじが切り開かれた」 と説明する (143頁)。 さらに 「自由民権運動と政党の誕生」 という節では再び以下のような記述から始まる。 「1868 (明治元) 年に発布された五箇条の御誓文は、 会議を開き、 世論にもとづいて政治を行うことを国の根本方針として宣言した。 その後、 何度か議会開設にむけての試みが行われたが、 実現しなかった」 (158頁)。 しかし 「五箇条の御誓文」 の中の 「広ク会議ヲ興シ」 とは立憲政治における 「議会」 をストレートにさすものではない。 「五箇条の御誓文」 の原案では 「会議」 が 「列侯会議」 となっており、 それが削除された背景には薩摩・長州藩を中心とした下級武士層がいわゆる 「公議政体派」 を排して新政府内で権力を握っていった経過があるが 「自由社」 にはそうした視点はない。 明治政府が国会開設を公式に示したのは1874年板垣退助らの民撰議院設立建白書の提出からはじまる自由民権運動の流れの中、 もりあがる国会開設運動と北海道開拓使官有物払い下げ事件をきっかけとする1881年の 「国会開設の勅諭」 であろう。 「自由社」 は自由民権運動の成果としてよりも 「五箇条の御誓文」 をスタートに政府内で 「慎重に」 憲法制定・国会開設が準備されてきたことを強調しようとする (158〜159頁)。
(2) 民間の憲法草案は 「愛国心」 の表れか
また 「五日市憲法」 をはじめ、 民間において憲法草案が作成されていたことについて 「自由社」 は 「これらの民間の憲法草案は、 一般国民の向学心と知的水準の高さを示すとともに、 国民の強い愛国心をあらわすものでもあった」 と記述する (159頁)。 民間の憲法草案が 「愛国心」 の表れとは初見である。 「東京書籍」 「帝国書院」 ともに 「五日市憲法」 の抜粋・要約を史料として掲載し、 「当時、 地元の青年たちが学習会を重ねてまとめた憲法草案」 (「東京書籍」 151頁) 「五日市 (東京都) でも、 そこに住む豪農たちを中心に、 『五日市憲法草案』 全204条がつくられました。 このうちの36条は、 国民の権利についての規定で、 人権を尊重する立場から書かれているのが特徴です」 (「帝国書院」 165頁) と説明されている。 「帝国書院」 は特に五日市憲法草案制定の中心となった豪農層が自由民権運動の担い手になっていく経過を詳しく説明している。 少し長くなるが以下に引用する。
「農村には、 豪農とよばれる有力な農民たちがおり、 土地を持ち、 養蚕や酒づくりなどを行っていました。 そして地域の農民たちを小作人にしたり、 働き手として雇ったりしていました。 そのため豪農たちは、 地域で強い発言力をもち、 農民たちの意見のとりまとめもしていました。 土地を広げて力をつけた豪農たちのなかには、 地域の自治を求める者もいました。 府県に議会ができると、 そこに参加して、 地租の重さや徴兵令を批判しました。 また、 外国の製品に対抗し養蚕など地域の産業を守るために、 関税自主権の回復を主張しました。 国会開設を必要と感じた豪農たちは、 のちに自由民権運動に参加することになりました」 (163頁)。 高校で使用している教科書にも見られないような、 きわめて丁寧な説明であり政府が上から主導権を握って立憲国家を建設していったという 「自由社」 とは対照的である。
(3) 「天皇大権」 が出てこない大日本帝国憲法
大日本帝国憲法に関して、 「自由社」 は 「憲法を賞賛した内外の声」 を紹介して高く評価する。 その内容について 「まず天皇が日本を統治すると定めた。 そのうえで実際の政治は、 各大臣の輔弼 (助言) にもとづいて行うものとし、 天皇に政治的責任を負わせないこともうたわれた」 として、 天皇の統治権に触れながら統帥権をはじめとする天皇大権には触れていない (160頁)。 「東京書籍」 は 「天皇が国の元首として統治すると定められ、 議会の招集・解散、 軍隊の指揮、 条約の締結や戦争を始めることなどは、 天皇の権限とされました。」 (152〜153頁) として天皇の権限について具体的に列挙する。 「帝国書院」 も同様に 「大日本帝国憲法では、 主権は天皇にあると定められ、 軍隊をひきいる権限、 外交権や戦争開始・終結の権限なども天皇にありました」 と説明し、 国民= 「天皇の臣民」 とされていたことにも触れている (166頁)。
「自由社」 は大日本帝国憲法における天皇の権限をできるだけ小さいものに描き、 天皇は政治に深く関与していなかったかのような印象を与える記述になっているのに加え、 「教育勅語」 についても 「父母への孝行や、 学問の大切さ、 そして非常時には国のためにつくす姿勢など、 国民としての心得を説いた教え」 と説明して肝心の 「天皇」 が登場しない (161頁)。 「帝国書院」 は 「天皇への 『忠』 と親への 『孝』 を基本とする教育勅語」 (166頁)、 「東京書籍」 は 「忠君愛国の道徳」 (153頁) という形で、 簡潔ながらも 「忠君」 という柱は外していないといえる。 「自由社」 はさらに教育勅語の抜粋 (現代文) を史料として掲載 (他社はなし)、 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」 の部分を 「国家や社会に危急のことが起こったときは、 義勇の心を発揮して、 公共のために奉仕しなければならない」 と訳している (161頁)。 ちなみに高校で使用している第一学習社 『精選日本史史料集』 ではこの部分を 「国家の危急存亡の時には忠義と勇気をもって国家のために働き、 天地とともに永遠に続く天皇の運命をたすけなければならない」 と現代語訳している (128頁)。 「皇運」 を 「公共」 とするのは無理がある。 なぜこのような記述をするのであろうか。
たとえば太平洋戦争下の植民地朝鮮・台湾における政策に関して 「自由社」 は 「日本人化」 という用語を、 他社は 「皇民化」 という用語を使用していることに注目したい。 「自由社」 は以下の通りである。 「朝鮮半島と台湾では、 日中戦争開始後、 日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われ、 朝鮮人や台湾人を日本人化する政策が強められた」 (208頁)。 これに対し 「東京書籍」 は 「朝鮮では、 『皇民化』 の名のもとに、 日本語の使用や姓名のあらわし方を日本式に改めさせる創氏改名をおし進めました。 さらに志願兵制度を実施し、 朝鮮の人々も戦場に動員しました。 『皇民化』 は台湾でも進められました」 (189頁) と記述する。 「帝国書院」 はさらに詳しく 「戦争が激しくなると、 日本は総力をあげて戦争を進めるため、 植民地であった朝鮮や台湾の人々を 「皇国臣民」 とする、 皇民化政策を行いました」 というように皇民化政策の目的が植民地の人々を日本の戦争遂行に協力させることにあったことを説明し、 創氏改名・日本語使用の強制に加えて 「皇居に向かって敬礼させるなど、 天皇への崇拝も強制した」 ことにも言及している。 創氏改名についての説明 (傍注) も単に名前を変えるだけではなく 「日本の家族制度が朝鮮に持ちこまれることになりました」 としており、 より正確な記述になっているといえる (209頁)。 大日本帝国憲法下の政治や戦争においてわざと天皇の存在感を薄くするかのような記述をするのは、 天皇の戦争責任を否定するためであろうか。
それを裏付けるのが 「自由社」 の最後に置かれた 「歴史のこの人 昭和天皇」 という特集ページである。 ここで 「各国との友好と親善を心から願っていた」 昭和天皇は 「たとえ意に反する場合でも、 政府や軍の指導者が決定したことは認めるという、 立憲君主としての立場」 を貫きながら、 終戦直後は 『マッカーサー回想記』 を引用してマッカーサーと初めて会見した天皇が 「私は、 国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、 私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」 と発言してマッカーサーを感動させたことになっている (226頁)。 『マッカーサー回想記』 の史料的価値については異論もあり史実としては認めがたいという論者も多い。 このページは昭和天皇の戦争責任を回避し、 天皇個人の 「お人柄」 を強調するための記述になっている。
また 「自由社」 は日本国憲法について 「明治憲法に多少の修正をほどこすだけで民主化は可能だと考えていたが」、
GHQに憲法の 「根本的改正」 を求められ、 天皇制の存続を守るため 「やむをえずこれを受け入れた」、
「日本国憲法は、 世襲の天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めた」 と述べたあとに国民主権・議院内閣制・基本的人権・戦争放棄を示す
(213頁)。 憲法の三大原則よりも象徴天皇制を先に挙げているのだ。 旧憲法体制における天皇の存在感をあえて薄くしたのは旧憲法と新憲法の象徴天皇制の連続性を主張したい意図もあるのかもしれない。
「東京書籍」 (205頁)、 「帝国書院」 (221頁) ともに新憲法については国民主権・平和主義・基本的人権の尊重の三大原則を中心とした説明になっている。
- 最後に〜まとめにかえて〜
「自由社」 の最後に置かれた 「歴史を学んで」 という文章には執筆者の中学生に対するメッセージが記されている。 要約すれば以下の通りである。
「日本人は古代および明治以降、 外国の文化から謙虚に学んできたが、 それによって自国の独自性を失うことがなかった。 しかし 『大東亜戦争 (太平洋戦争) 』 で敗北して以来、 日本人は自信を失い、 方向性を見失っている。 日本人が深い考えもなく外国を基準にしたりモデルにして独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことを警戒しなければならない。 そのためにも自国の歴史と伝統を学んで自分をしっかりともってほしい。」
日本人が 「自信」 を取り戻すために過去の戦争を美化したりアジア諸国の人々を蔑視するようなこの教科書の記述に多くの人々が危惧の念を抱いている。 今回はとりあげなかった元寇や豊臣秀吉の朝鮮侵略におけるアジア蔑視、 日本の台湾・朝鮮に対する植民地政策は 「近代化事業」 であったとする記述など他にも問題点は多々ある。 文化面で活躍した明治の女性の筆頭に美子 はる こ 皇后 (明治天皇の后) があげられ (174頁)、 女子英学塾 (「自由社」 はこれを 「女子英語塾」 と表記するミスをしている) を創立した津田梅子が公式の席では必ず和服を着て日本の伝統を大事にしていたことを強調する (176頁) など女性の描き方も恣意的である。
日本人が自信をもち、 しっかりした自己を確立するには 「日本人」 の独自性を追求するあまりに一面的で独りよがりな歴史観を持つことではなく、 異なる文化や歴史を持った他者と出会い、 理解しようと努力する中で相互信頼を築くことがこれからの時代に益々必要になってくるのではないだろうか。
この教科書は 「公」 に奉仕する民衆像を描いてみせたり、 天皇の戦争責任を曖昧にする、 中国をあからさまに敵視するなどかなり政治的・戦略的な意図をもって執筆されているようにも思われる。 なぜこのような教科書が今の時代に現れたのか、 自由社版教科書が本当に中学生用教科書として適切であるのか、 多くの方に議論してほしい。
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