【寄稿】

真っ当であることについて

成 田 恭 子

 真っ当であるということ、 人間の真っ当さとは何か。
 学生のころ、 社会科教育法の最終講義で、 一人の学生が質問した。 「自分が正しいと思うことを次代に伝えていくのが教育だとしても、 第二次世界大戦中の教師たちの何人かはこの戦争の遂行は正しいと心から信じて生徒に教えたと聞きます。 自分がそうならないとは限らないと思うのですが……」
 先生は答えた。 「自分の属している文明が正しいかどうかはあとになってみないとわからないこともあるでしょう。 それでも責任ある大人として、 責任を持って次代の担い手である子供たちに自分の正しいと思うことを伝えるべきでしょう。 ただし、 胸の内に自分の教えていることは本当に正しいかどうか懐疑の念を持って」
 人間の真っ当さとはそのようなことではなかろうか。 つまり真っ当であるとは、 責任を持って自分の信ずるところを大多数の人が納得できる形でなすことであり、 しかし同時に、 自分の立ち位置はもしかしたら間違っているかもしれないと常に懐疑の念を持って臨むことだと思っている。

 岩波ブックレット 『学校から言論の自由がなくなる』 (土肥信雄・藤田英典・尾木直樹・西原博史・石坂啓) を読んだ。 土肥信雄先生は昨年 3 月まで都立三鷹高校の校長先生であった。 都教委に 職員会議での挙手・採決禁止 の06.6.4 の通知の撤回を求めて異議申し立てをしたことは新聞等のマスコミにも大きく取り上げられた。 この本は08年 9 月27日に行われた 「『土肥校長とともに学校の言論の自由をもとめる』 保護者市民の会」 主催の集会をベースにまとめられたものである。 会場には定員の 2 倍以上の人が集まり、 入りきれなかったと聞く。
 語られている東京都の現状は胸がふさがれる思いがする。 批判や異議を全く受け付けない上意下達の都教委の硬直化した様子・都教委の意向をそのまま伝えるロボット化した校長の姿・言論の自由を奪われていく教員や生徒の姿はもはや対岸の出来事ではない。

  「教員は、 一方的に生徒に教えるのではなく、 生徒からも、 実に多くのことを学ぶのです。 そして、 生徒一人ひとりに直接向き合っている現場の教員たちから校長自身も、 たくさんのことを学びます。 もちろん、 校長も生徒から学びます。 このような相互の協働関係が、 教育だと思うのです。
 したがって、 上意下達で、 上からの命令は絶対という論理では、 教育は成り立ちません。 そして、 教育に限らず組織というものは、 自由にものが言い合えるような、 民主主義的なルールがなければ活気あるものにはならないと思います。」
  「そうはいっても、 『何をいってもしかたがない』 という雰囲気は、 じわじわと広がっていると思うのです。 そこには、 業績評価も大きな要素として絡んできます。 校長に反対するようなことを言ったら、 業績評価が悪くなり、 自分の給与や昇進に影響してしまう。 現在のように業績評価を厳しく推し進めれば、 教員たちはそういう恐怖心をますます抱くようになるでしょう。 そうすれば、 当然、 『黙っておこう』 『従っておけばいいや』 という気持ちになります。」
  「また、 業績評価と同時に、 現在、 教員組織が厳しいヒエラルキー構造になっていることも、 ますます 『ものを言わない教員』 を増やすことになるでしょう。 そうやって、 教員を細かく分断してしまえば、 教員同士の協働意識も失われてしまうでしょう。 そして、 教員はますます、 ものが言えなくなります。」

 土肥信雄先生は実に真っ当な人ではないか。 「私は、 自分が正しいなどとは思っていません。 私は私の考えで、 生徒のため、 あるいは東京都の教育ために、 日々、 苦闘しながら、 頑張ってきたつもりです。 ……にもかかわらず、 今回のような意見の相違が生まれる。 だったら、 お互いに意見を出し合って討論を行い、 どちらが正しいか、 公の場で判断してもらいたいと考えたからです。」 と述べる土肥校長は到底、 都の教育委員会から何度もヒアリングを受けたり、 厳しく指導を受けるようなことを言っているとは思えない。 先日、 加藤周一氏の追悼テレビ番組で姜尚中氏が 正当性 ということばをつかっていた。 真っ当さ は 正当性 と言ってもよいと思う。 世の中には真っ当でない論理が充ち満ちているように思う。 その番組で加藤氏の 『言葉と戦車』 を取り上げていた。 プラハの春で氏が見たのは 『圧倒的で無力な戦車と無力であるが圧倒的な言葉』 である。 その言葉を借りれば、 『圧倒的で無力な戦車』 のような言葉が多すぎる。 『自分の立ち位置はもしかしたら間違っているかもしれないという懐疑の念』 を内在していない言葉、 他者の言葉に全く聞く耳を持たない言葉、 自身では全く無力な言葉が、 権力を背景に正当な言葉を押しつぶしていく。 (そこに私たちの民主主義の脆弱さがあるように思うのであるが。)

 神奈川県でも、 職員会議の位置づけが大きく変わり、 新たな人事評価制度や職場のシステムが導入された。 職員会議での最終決定を校長がするとしても、 職員の意向を確認することは決して意味のないことではない。 校長が職員の意向を確認しつつ学校を運営していこうとする態度は職員に活力を生み、 逆に校長自身も信頼を得られる。 ところが、 どうだろう。 管理職は職員の意向を確認することすら、 悪いことだと考えているのではないだろうか。 ここ最近、 私の職場でも職員会議での議事における審議事項は激減し、 報告事項ばかりである。 その中でも 校長より という項目のみが増えている。 企画会議や総括教諭の導入はグループ内の討論が充分為されていることが前提で機能するものと理解しているが、 私の知見の範囲ではうまく機能している学校の方が稀である。 『何をいってもしかたがない』 『黙っておこう』 『従っておけばいいや』 というような雰囲気がどんどん醸成されていく。 むしろ、 考えることそのものが放棄されているように思うのである。 管理職が変わるたびにうちだされる 「本校の進むべき方針」。 まるで、 水戸黄門のご印籠のように示される 教育長通知。 実体不詳の県民の目。 錦の御旗、 金科玉条となった 説明責任。 学校現場にも一方的に権威付けされた言葉、 根拠のない言葉、 もしくは権力をかさに着た無力な言葉の群れが戦車のようになだれ込んでいる。 そこには反映されていないのは、 結局生徒一人一人である。 なぜなら、 現実の生徒一人一人を見ているはずの教員の意見は何ら反映されていないからである。
 ここで管理職や、 教育委員会に全ての責任を担わせるのは簡単なことかもしれない。 もちろん、 彼らは私たちにはない 力 を持っているわけだから、 当然責任も大きい。 しかし、 私たちも 『ものを言わない教員』 のままでいていいのか。 いいわけがないだろうと思うのである。 『自分の立ち位置はもしかしたら間違っているかもしれないという懐疑の念』 を内在していない言葉は無力だと書いたが、 言葉を組織に置き換えてみるとよくわかる。 内部に自己を批判する能力のない組織は 無力 だ。 飛躍しすぎるかもしれないが、 なぜ、 日本が過去にあんな無謀な戦争に突入してしまったのか。 はたして大正デモクラシーはあだ花だったのだろうか。 なぜ 「君死にたまふことなかれ」 と書いた与謝野晶子は変質していくのか。 不思議でならなかったが、 日本国全体が 自己を批判する能力のない組織 に作り替えられて言ってしまったからだと思う。 為政者やA級戦犯だけが悪く庶民は無垢とばかり言えないのではないだろうか。 私たちの責任を自覚しなければ、 きっと 『圧倒的で無力な戦車』 に負け続けてしまう。 負けと書いたが、 拳を振り上げることが責任を全うすることではないだろう。 圧倒的な力に負けないように、 言葉によって正当性を模索していくこと。 私たちの正当性は他者との対話によって獲得されて行くものではないか。 土肥校長はあくまで、 都教委に討論を求めている。 公開討論が実現されれば、 新たな対話が生まれていく。 まさしく、 これが 開かれた学校 であるはずだが。 なぜ、 都教委はそれに応じないのであろうか。
 神奈川県に土肥校長のような管理職が出現するのを待ってばかりでは、 現状は変わらないだろう。 また、 土肥校長のように教育委員会に真っ向から立ち向かう勇気はなかなか持ち得ない。 それでも私たちは民主主義の大切さ、 ルールを守る大切さ、 ルールの作り方を生徒に教える身なのである。 とにかく、 グループで、 学年で、 身のまわりで互いに話し始めることが必要だと思う。 考えることをやめない、 言うべきこと、 伝えるべきことをきちんと言う、 あきらめない、 それだけでもまずは私たちの職場でやらなくてはならない。
   
(なりた きょうこ 
      日本教職員組合中央執行委員)
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