- 4次報告に出会うまで
平成 4 年、 県立上矢部高校の 「陶芸コース」 づくりが動き出し、 1年 9カ月かかった。
これは、 私が 「陶芸コース」 原案を職員会議へ提出し、 理解され、 「陶芸コース」
が出発するまでの時間である。
それまで学校の中にあったカリキュラムが、 学校の中だけでは完結できなくなっていると実感した。
「カリキュラムは何処にあるか?」 と考えることが多くなり、 このことは、
4次報告に魅力を感じる伏線となった。
その頃から、 専門コースが、 何本か束になって、 学校の特色が作れたら面白いと思っていた。
これも 4次報告と出合い易い体質を、 私自身用意していたことになる。 同僚と埼玉県立伊奈学園総合高校等を見学し、
学校全体の改革の意義を、 人的・物的条件双方から痛感させられた。
注 4次報告
第14期中教審答申具体化のため、 文部省が設置した 「高校教育の改革の推進に関する会議」
が行った報告で、 第 1 次から第 4 次まである。 ここで取り上げているのはそのうち
4 番目のもので、総合学科について、 学科設置の目的、 カリキュラムの内容などが説明されている。
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- 4次報告という「レポート」の強靭さ
平成 6年 4月、 県立大師高校へ赴任し、 6月、 「総合学科準備委員会」 を設立、
4 次報告と出合い、 それと葛藤することになった。
(1) 4 次報告の面白さ
教育には、 前方へ向かう明るい日の光がほしい。 それは、 教育に限らない。
人の世にあって、 子供は 「未来そのもの」 なのだから。 未来が 3年後であってもよい。
10年後でもよい。 見えるものなら、 100年の計でもよい。 私達の向こう側に、
教育の目標が欲しい。 はっきりした、 具体的な教育計画がほしい。 それ故、
教育理念を考えることはとても大切で、 例え実践できなくとも、 大きな意味を持つ。
不思議なことだ。
私にとって 4次報告は、 前方にある総合学科という未だ見ぬ高校づくりの教本であり、
その教本を進捗させたくなる時代分析と教育理念によって裏打ちされた強靭なレポートであった。
4 次報告の面白さは、
- 戦後教育が問いかけ続けてきた、 教育における 「平等」 と 「効率」 についての歴史をよく知って作成されたレポートである点。
- ガイダンス科目 (ガイダンスが科目になったということも大きな変化だが) を学校のバックボーン
(背骨) とする高校教育を提案することで、 中学から90%を超える進学者を抱える高校教育の
「大衆化」 時代に応えようとした点。
- 机上の空論であるはずの 4 次報告が、 4 次報告通りに学校づくりを進めていくと、 その通りに、 総合学科の高校が出現したこと。 これも不思議だ。
(2) 第14期中教審答申に思う
4次報告は、 第14期中教審答申の考え方から、 誕生したものである。 戦後教育の総括的な内容を具体化している。
第14期中教審答申は、 後期中等教育が担っていた教育における 「平等」 と 「効率」
という大きな課題を、 二つながら伸長させ、 発展させた稀有な例として、 我が国の教育を分析している。
このような教育の 「平等」 は、 同時代のほとんどの若者が高校生になるという状況を作り出し、 そのことは一方で、 必ずしも教育の 「効率」 を上昇させる力にはなりにくいものである。
しかしながら、 日本の教育は、 学校間格差を生むこと等により、 教育における 「平等」 と 「効率」 という相入れにくい価値を並立させた。 学校間格差という教育に相応しくない学校の在り方が、 「平等」 と 「効率」 というまったく異なる価値を一方で育てることにもなったのである。
その結果、 偏差値を目安にし、 過度の受験競争が発生し、 その異常な高まりをどうにかしなければ、 人間らしい高校教育は不可能だと思えるほどに加熱していった。 改革の必要性を誰もが感じたのだ。
しかし、 高校教育の改革は、 非常に難しく第14期中教審答申自らが 「絶望的に困難な課題」 だと述べる程のものであった。
この絶望は、 どこから来るのか?
それは、 日本の教育を歪めている偏差値教育、 過度の受験競争等の現象が、 或る一面で戦後に世界的に発展した日本経済を確実に支える人間力・教育力となって来たという現実分析にあるのだろう。
この絶望の中から、 総合学科は誕生した。
それから、 10余年の時間が経過し、 現在、 神奈川県の総合学科の高校は、
他県や大学・企業等から高い評価を得ている。 その主要な理由は、 神奈川県の総合学科が、
4次報告にできるだけ忠実に教育課程を作り、 その授業実践を一人ひとりの教員が、
自己の専門をある意味で離れ、 苦労の多い挑戦に向かったからである。
教育にも 「不易流行」 の言葉がある。 私達が、 前方に対して、 人間らしい夢を持てる高校として、 常に自己を省みる努力をすることで、 総合学科というシステムは、 本来の 「流行」 としての内実を持つのであり、 そうしたことを怠れば、 「流行」 とはなり得ず、 とても教育が求める 「不易」 に繋がる姿にはならない。
今、 目の前の総合学科の高校を見てみる。 その中には、 再度、 偏差値教育の中に学校の存在理由を見出し、 その価値へ向かって奇妙な努力を進めている学校が出てきている。
第14期中教審答申が嘆いた 「絶望」 がここにある。 私達はこの部分を克服しようと努力し続けることで、 4次報告の語り続けた総合学科の高校を、 「流行」 を持ち続ける学校とすることができるのだと思う。
(3) 大師高校の実践と総合学科の高校の拡がり
平成 8年 4月、 大師高校総合学科が開設。 大師高校での総合学科づくりは、
1 年10カ月かかった。 その経緯は、 様々な形で喧伝されているので、 ここには書かない。
「レポート」 通り、 学校を作れば、 良い学校になる。 そんなことはない、 というのが理論と実践との挟間にある。 ところが意外にも、 4 次報告通りに作れば作るほど、 しっかりした総合学科の高校が出来上がっていく。 未来に向かって何がある、 未来に迎える何がある、 ということが4次報告の中にある。 その上、 4 次報告には、 カリキュラム編成上の細かく、 的確なアドバイスも充分にある。
平成11年 4 月、 富岡高校へ赴任。 金沢総合高校づくりに 6 年。 統合 (東金沢)
の準備・出発から、 総合学科のスタートまで。 大師の時に倣って、 グランドのバレーコートを畑にした。
ここでも、 4次報告が活躍したのだ。
平成17年 4月、 神奈川総合産業高校、 平成19年 4月、 平塚商業・向の岡工業・磯子工業の定時制課程に総合学科が導入されたが、
ここでも、 4次報告が中心的な役割を演じた。 神奈川総合産業高校は、 手掛かりの少ない中、
最初の試みを、 渡辺英司先生等が中心となり、 見事に突破した。 定時制課程の総合学科化を進める中で、
定時制課程故に、 「産人」 計画等の具体化の難しさを痛感した。
4次報告を中心に、 4次報告の時代をほんの少し、 振り返った。 今はもう、 4次報告は読まれていない。 第14期中教審答申も同種の運命をたどっている。
今、 読まれていない 4次報告や第14期中教審答申だが、 実は昔もそんなに読まれていなかった。
何故、 読まれないのか?それは、 時代が変わっても変わることのない 「新しさ」
が、 4次報告や第14期中教審答申を強靭なものにし、 今も尚、 輝いているからだと思う。
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