特集U 教員免許状更新講習始まる
 
忘れていませんか、 一人ひとりが固有名を持っていることを
  教員免許更新講座を受講して
岩崎 民枝

 5年程前、 小学校の卒業を控えていた息子は、 思い出にと東京見学へ行き、 国会議事堂の廊下で、 ある議員とすれ違った。 帰宅後、 テレビを見ながら 「この人に会った。 無愛想な顔して、 僕たちに声もかけないで通り過ぎていった」 と話した。 この印象のとても悪かった人物が、 後に首相となり、 「新国家主義」 を唱えつつ、 2006年12月、 教育基本法の改定を強行した。 「教育再生」 といいながら、 これまでの教育行政に何らの反省もなく、 ただひたすら現場に服従を強いる迷妄が更に深まった。
 新教育基本法に沿って作成された新たな学習指導要領には 「日本人としての自覚」 が強調されている。 特に中学校版で顕著なのだが、 「礼儀正しさ」 は、 昔、 日本人の美徳の 1 つではなかったか。 子どもに挨拶もできずに 「道徳教育の充実」 とか 「子どもの規範意識の低下」 などと語らないで欲しい。 もっとも、 彼には子どもたちが居たことが見えていなかったかもしれない。 教育改革を語った彼の目の中に子どもが見えていなかったように。
 総理としての資質に堪えなかった彼が、 教員の資質を問題にして、 今回の免許更新制を導入した。 私は憤怒に耐えぬ身でありながら、 去年、 今年と受講している。 情けなくて、 悔しくて、 とにかく納得がいかない。 おまけに、 多少焦って申し込んだが為に、 必修部門を 2 大学で24時間も受講するという愚かな私は、 全くの道化師である。
 去年の予備講習では国立劇場に行った。 いわゆる 「伝統文化教育の充実」 を掲げる新学習指導要領に則った講座であった。 今年受講したK大の講師は、 「伝統」 とは曲者の言葉で、 この単語に明確な意味はなく、 イメージだけで語られていると説明していた。 新たな教育の目的はメンタリティ作り、 すなわち 「愛国心」 作りであると語られていた。 「日本文化」 は雑種で、 オリジナルなものではなく、 衣食住においても 「伝統」 として固定できるものはなく、 皆、 異郷から入り、 加工したものであると。
 2002年から子どもたちに配布された 『心のノート』 では、 日本人としての自覚を、 領土によって意識させようとする傾向が見られるそうだ。 「伝統」 を掘り下げていくと 「天皇制」 に行きつくという。 「同じ器は同じ色に染まれ」 ということだ。 圧倒的多数の負け組の不平不満が渦巻き、 社会的統合の崩壊に見舞われた 「日本」 という国を一つにまとめたいというわけで、 欧米にはない 「愛国心」 が盛り込まれた。 欧米諸国では、 「ナショナリズム」 には警戒感が持たれており、 政府がこれを個人に要請することではない。 日本では 「愛国心」 と 「愛郷心」 とを混同させて、 ごまかしているのだ。
 今年の更新講座は、 文科省が大学に開講を要請したので、 内容は各大学任せだそうだ。 しかし、 今後は内容面にも介入があるかもしれない。 私が受講したK大学とS大学は対照的な内容であった。 K大学の基調は政府の教育政策に批判的で、 更新制にも反対という立場だった。 教育学者が不在のままに拘束力を強め、 学校内の 「縦構造」 を鮮明化する教育政策に恐怖感と危機感を持っていた。 教師に対する怨望はファシズムにもつながると指摘し、 それ故、 我々に 「固有名を持った生徒に対応しているという意識」 をとにかく忘れないで欲しいと説いた。 それに対してS大学は、 新教育三法や新学習指導要領を知識として伝達し、 文科省が示した項目に忠実であろうとしていた。 K大学では 「習慣」 や 「態度」 「家庭のあり方」 まで法の条文にある恐ろしさを強調し、 S大学では同じ内容を特徴として解説していた。 ただ、 S大学の講師の 1 人が、 「生きる力」 とは、 権力に騙されない力だと語っていたことが印象に残った。
 今回、 愚かにも重複受講することとなったが、 2 つの講座を体験できて良かったのかもしれない。 この制度が今後どうなるかわからないが、 少なくとも内容は大学の自主性に任せて欲しい。 そして、 私たちも、 強制されるのならば、 せめて受講内容に対して、 能動的に取り組むべきであろう。 判定の合否が気になって、 ひたすら新三法や新要領に線を引いて記憶するだけでは情けない。 K大学のような批判的な講座を展開する大学は、 そのままであって欲しいし、 このような講座なら、 免除された人々にも受講してもらいたい。 管理職や総括教諭は、 S大学方式で県教委当局主催の研修を受けているだろうから。 異なるものの見方を許さず、 画一的な教育観の浸透の具合で、 免許更新の可否を決することになったら最悪である。
 最後に、 私たちは 「創り出す」 ということを忘れてはならないと思う。 「こなす」 という意識から脱却し、 教員は 「a」 ではなく 「the」 (定冠詞) がつく一人ひとりの子どもと接するという視座を大切にしたい。 生徒たちに、 異なる考え方や別の解き方を許さないというのでは、 「同じ器は同じ色に染まれ」 と道徳や 「愛国心」 を押しつけてくる圧力と変わりがない。 しかし、 現実には私たち自身に 「ゆとり」 がなく、 職種として、 心的要因での療休率がbPという実態がある。 まず、 教える側が 「生きる力」 = 「権力に騙されない力」 を持たなくてはならない。 教育行政当局が、 教員に 「研究と修養」 を求めるのなら、 何よりも自主的な研鑽ができる職場環境の保障を強く求めたい。

(いわさき たみえ 県立二宮高校教員)
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