映画に観る教育と社会[12]
「スラムドッグ$ミリオネア」 から 「蟹工船」 へ 
 
手島  純

「スラムドッグ$ミリオネア」

  「スラムドッグ$ミリオネア」 は圧倒的なおもしろさであった。 おもしろいという言葉は映画の内容からして本来なら使うべきではないだろう。 しかし、 世界で最も多くの映画を量産しているインド映画風スパイスのきいたこの映画は、 いわばサダジット・レイ風の哲学的思考と 「踊るマハラジャ」 の正統インド映画をうまくミックスしたような上出来の一品であった。
  「クイズ$ミリオネア」 というクイズショーがある。 これは実際に日本でも世界のあちこちでも似た番組がテレビ放映されていたのだが、 この映画の冒頭、 インドにおけるそのクイズ番組での賞金獲得シーンと警察での取り調べのシーンが交錯する。 よく見ると、 どちらも同じ少年ジャマール (デーヴ・パテル) がいるではないか。 そのジャマールはスラム出身で学校もろくに出たわけではないのに、 次々とクイズの正解を答える。 一方、 映像はそのジャマールが拷問まがいの取り調べをされているシーンを織り込む。
 クイズ番組の司会者はジャマールが高価な額の問題になっても正解するのが信じられない。 きっとインチキをしているのだろうということで、 様々な妨害を行う。 ジャマ−ルは警察で 「インチキをしている」 という 「自白」 を強要される。 しかし、 ジャマールはインチキをしているわけではない。 クイズ問題のすべてが彼の人生に関連したものだったのだ。
 それぞれのクイズ問題にかかわって映像はジャマールの幼い時からの人生を蘇えさせる。 例えば、 クイズで100ドル札に描かれているのは誰かという問題が出る。 スラム出身のジャマールはそんなお金は普段みたことがないはずだ。 しかし、 彼には100ドル札への並々ならぬ思いがある。 というのはジャマールの窃盗仲間で、 声がいいからといって目をつぶされ、 街角で歌を歌いながら物乞いをするように仕立てられた少年がいる。 その少年にジャマールは偶然出会う。 彼は少年に近寄り、 自分がジャマールだとわからせた後、 手にした100ドル札を少年に渡すのである。 その時、 少年は半信半疑ゆえに100ドル札の肖像は何かとためしに聞く。 ジャマールは答える。 「フランクリン=ベンジャミン」 だと。 まちがいなく100ドル札だったのだ。 その体験は、 クイズでの正解を導く。
 結局、 妨害にもめげずに、 ついにジャマールは2000万ルピーという夢の賞金を獲得するのである。
 クイズ一問一問にかかわるジャマールの思い出は、 まさにスラムでの人生そのものであり、 スラムからの脱出劇なのである。 いまだにカースト制度が残り、 とんでもない格差社会であるインドの内部がさらされ、 告発の対象にもなっている。


「蟹工船」

 日本でも 「格差」 「貧困」 の言葉を当たり前のように耳にする時代になったし、 実際に若者を直撃している。 しかし、 高度成長の恩恵を被った世代や大手企業に勤める中高年は、 貧困というまでの生活はしていないし、 実はあまり身近に感じていないかもしれない。 そのひからびた感性を打つように 「蟹工船」 ということばが広がっていった。 いうまでもなく、 「蟹工船」 とはプロレタリア文学者の小林多喜二の作品である。 このプロレタリア文学に関しては、 高度経済成長を支えた世代も学生運動にかかわった団塊の世代も注視しないわけにはいかない。 多くが耳にしている語句だ。 まさに、 若者のおかれた状況を彼ら (我ら?) にプロパガンダするには最適の言葉なのだ。
 その 「蟹工船」 をSABUという日本の映画監督が映画に仕立てた。 蟹工船の中での過酷な労働、 それを国家的事業ということで正当化する会社側の仕打ちに、 とうとう新庄 (松田龍平) らが立ち上がる。 我慢するのではなく闘うのだ。 きっと多くの方は、 「蟹工船」 のあらすじはご存じだろうし、 どんな話が展開するかも想像できるだろう。 でもこんな映画を観たいと私が思ったのは、 「蟹工船」 という映画をまさに今の時代に作ろうと考えた監督の志に触れたいからに他ならなかった。


ふたつの映画の間で

  「スラムドッグ$ミリオネア」 はインドの情景を映画に取り入れながら、 生き生きとした人間像を描いていった。 このテンポ、 このストーリ運びは、 最後に巨万の富を手にするジャマールの 「夢物語」 に 「まてよ」 と考える暇なく、 そして最後はインド映画特有の歌と踊りにうつつを抜かし、 一級のエンターテインメントに爽快感を味わって、 私は席を立った。
  「蟹工船」 では抑圧からの闘いに拍手をおくり、 最後には新庄の死によっても闘う力は人々に引き継がれているというメッセージを読みとり、 私は席を立った。
 その後、 私の中で時間が流れ、 日常に埋没するとき、 「蟹工船」 のやや勧善懲悪的なストーリーに、 「スラムドッグ$ミリオネア」 のような豊饒とした印象が残らない。 なぜなのだろうか。 それはきっと、 プロレタリア文学のもつ限界、 それは人間の幅の描き方という問題にこの映画も陥っているのではないかという印象をもつのである。 観てよかった。 でも、 ガンジス川のようにすべてをのみこんで、 それでも聖なる川として屹立するような幅を 「蟹工船」 にほしかった。 プロレタリア文学の限界を打破しながら 「蟹工船」 のメッセージを現代に披露してほしかった。 「スラムドッグ$ミリオネア」 に軍配をあげる悔しさがある。
 それでも 「蟹工船」 の映画化は、 希望をもてずに暗澹たる状況を歩んでいる日本の若者には意味があると思う。 我慢したりかわしたりするだけではなく、 闘うことも大切だ。 ジャマールも新庄もそうした。 でも、 実はこれらは、 もしかして私たち中年のための映画だったのかも知れないと今は思う。


(てしま じゅん 教育研究所員)
ねざす目次にもどる