研究所員による 「書評」
『放送禁止歌』
森 達也 著:知恵の森文庫(光文社刊)

 
成田 恭子

 古い本で恐縮である。 2000年 7 月刊、 2003年に文庫化されたものである。 数年前に知人に勧められ初めて手に取った。 森達也氏が何者であるか私はほとんど知らなかった。 オウム真理教信者のドキュメンタリー映画 「A」 がマスコミに取り上げられているのを覚えていたくらいである。 であるから、 この本は読まないまま長らく放置していた。 しかし、 読み始めてみると、 止まらない。 放送禁止歌の謎を追う下りは上質のミステリーのようである。 読後、 私は打たれていた。 その後、 彼はドキュメンタリー映画監督、 テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、 ノンフィクション作家として、 旺盛に活動をしていることを知った。 (「世界が完全に思考停止する前に」 「ご臨終メディア」 「いのちの食べ方」 「視点をずらす思考術」 他著作多数) 蛇足であるが、 彼は私と同郷であった。
 本書は1999年 5 月22日深夜にオンエアされた 「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」 の制作にまつわるノンフィクションである。 放送禁止用語というものがあることは知っていた。 時折 「番組中に不適切な表現があったことを深くお詫びします。」 などと言うわけのわからないテロップが流れることも知っている。 大抵は単なる言葉の問題に過ぎず、 本当に見ている私たちが不適切と思われるような放送内容にテロップが流れることはない。 「バタフライはフリーで」 という演劇作品の中に 「僕はめくらだ」 と大声で叫ぶ盲人の主人公の青年のせりふがあるが、 そこには差別意識などなにもない。 要は言葉を使う側の意識の問題だ。
さて、 放送禁止歌と聞いて、 あっても不思議はないと思った。 そんな規制はくだらないと思う一方、 映倫の18歳以下禁止の映画のように公共の電波では多少そういう規制は必要かなと思ってた。 私も先入観にとらわれた月並みな大人の一人だったわけである。 森氏はどうやら違ったらしい。 「中学から高校という一番多感な時期に、そんな刺激に晒され続けた僕にとって、 『歌』 を抑圧する権力は、 絶対容認できない存在だった。」 放送禁止と銘打ったものをどう放送で検証するかといった壁に一度は企画を没にされながらも彼はずっと追い続けるのである。
  • 歌全体のメッセージ性
  • いわゆる放送禁止用語 (差別用語)
  • 被差別部落を唄ったもの
  • 反社会的な行動をあおるもの
  • 性表現を扱ったもの
  • 天皇制を扱ったもの
 このように放送禁止歌における禁忌も多岐に渡っている。 高校生のころの私の愛唱歌と言ってもよいほどの 「竹田の子守歌」 が放送禁止歌だとあったときには驚きを禁じえなかった。 そういわれてみるといつの間にか放送で流れることがなくなっていたように思うのである。
 さて、 これらの放送禁止歌がいかに選定され、 誰が規制をかけたのか。 この下りがもっとも驚いた。 つまり、 放送禁止歌などというのはないと言ってもいいのである。 「誰もが放送禁止歌を決定する機関として名をあげる民放連。 その民放連が策定する 『要注意歌謡曲指定制度』 は、 放送禁止歌を決定するシステムだと長く思いこまれてきた。 しかしその本質は、 強制力や拘束力など全くないガイドラインでしかないことが、 取材を通して明白になった。 あくまでも各放送局が自主判断するための一つの目安なのだ。」 「『要注意歌謡曲指定制度』 は、 一九八三年度版を最後に消滅していた。 効力は五年間と表記されているから正確には、 一九八八年、 要するに僕がテレビ業界に入ったちょうどそのころに、 『要注意歌謡曲指定制度』 はその機能を完全に失っていたことになる。 砂上の楼閣どころではない。 過去においても、 そしてもちろん現在も、 放送禁止歌は存在していなかった。 噂されるほとんどの楽曲*は記載されていないし、 そのシステムはとっくに消えているし、 何よりそのシステムそのものに実体などなかったのだ。」 (*『イムジン河』 『手紙』 『自衛隊に入ろう』 『竹田の子守歌』)
 なぜこんな事が起こるのか?撃つべき相手がなくなっても森氏は追求をやめない。 行き着いた先は 『集団幻想』 と 『思考停止』 である。 つまり、 これに触れてはいけない、 これは危ないんだ、 と実体もないのに思いこむ集団幻想、 そうして、 それは本当なのかと、 正しいのかと問いかけることもせず、 与えられたものを鵜呑みにする 『思考停止』 である。 ものごとは与えられたものを鵜呑みにする方が楽である。 自ら判断基準を模索するより、 与えられたマニュアル通り、 何も考えずに行動し、 与えられたガイドラインに従って、 判断した方がよほど楽である。 放送禁止歌とは放送局が妥当性を吟味することなく自主規制をかけて自ら創りだしたものだった。 部落問題に抵触し、 つつかれるのが嫌さに被差別部落を唄った 「竹田の子守歌」 をタブーにしてしまったのだ。
 これは放送業界だけの話ではない。 社会全体がもはや 『集団幻想』 と 『思考停止』 に落ち込んでいるのではないか。 小泉政権の 『聖域なき改革』 などがよい例で、 多くの人が自分の頭で考えもせず、 鵜呑みにしたのではなかったか。 もっとも腹立たしかったのは 『自己責任』 という幻想である。 日本中が熱に浮かれたように自己責任を連呼したあのころ、 命を落とした若者がいた。 家族は悲しみさえ表に出すことができず沈黙を余儀なくされた。 マニュアルの隆盛はコンビニやファーストフードだけではない。
 学校だって例外ではない。 例えば、 いわゆる、 県民の声、 県民の目、 と言う存在だ。 あの県民の実体とは何か。 ほんの一部の苦情電話だったり、 県会での議員の発言だったりするのである。 時には、 当事者である、 生徒や保護者、 そして教職員よりもごく一部の 『県民の声』 が大事にされることさえある。 『モンスターペアレント』 という最近の幻想もまさしく怪物のようである。 テレビのドラマでも、 学校にもの申すのは罪悪であるかのイメージが繰り返し作られる。 保護者は学校に物も言えなくなる。 少なくとも私はモンスターペアレントと呼んでいいような保護者にあったことはない。
 これは大人だけの問題ではない。 子供たちもマニュアルを求めている。 レールに乗ることを求めている。 途中で枝道に迷い込んでしまうこと、 挫折すること、 失敗すること、 時間をかけること、 それらを嫌がる子供たちは多い。 苦労して考えて答えを探すことより、 答えそのものを欲しがるのだ。
 怖いのはその幻想が意図的に作られているということだ。 そして、 教員も子供たちも全く考えることなく、 疑うことなくその幻想を鵜呑みにしてしまうことだ。
 キャリア教育を考えてみよう。 「あなたはどんな大人になりたいの」 という問に 「ニートだけにはなりたくない」 と吐き捨てるようにいった生徒がいる。 「他人のために役に立つ仕事がしたい」 と目を輝かせて語る生徒もいる。 「僕は看護師の学校を受けることにした。 貧困の連鎖を断ち切るためには進学したいけれど、 僕の学力と今の経済力で行ける大学がない。 看護師の学校なら学費が安いから。」
 私には 3 番目の生徒の話が一番安心できる。 なぜなら、 少なくとも彼の選択は自分で現実を見据え、 選び取ったものだからである。
 キャリア教育の中にはいくつも仕組まれた幻想がある。 「現代の高校生は、 身体的には早熟傾向があるにもかかわらず、 精神的・社会的な成熟が遅れ、 社会生活に不可欠な一般常識や挨拶などの基本的な生活習慣、 さらに人間関係形成能力等を十分に身に付けていない生徒が少なくない。 また、 自らの将来に対して肯定的に考えることができず、 目的意識を持って意欲的に生活を送ることができない生徒も見受けられる。 このことは、 『なぜ学ぶのか』 そして 『なぜ学校に通うのか』 といった高校での学習の意味を理解できず、 長期欠席などの様々な問題を抱える生徒や、 卒業時において自らの進路を主体的に決定できない生徒の事例などに顕著に現れている。 その意味においても高等学校におけるキャリア教育の必要性は高く、 その実践に当たっては、 まず高校生活への適応を十分に援助し、 学ぶことの楽しさを学習活動を通じて味わうことができるようにすることがキャリア教育の最重要課題である。」 という文部科学省の言葉の耳障りは悪くない。 その言葉のもとに、 「環境に適応」 「他者との望ましい人間関係」 「自らの役割」 「積極的に役割を果たす学習活動」 「望ましい勤労観、 職業観」 「価値観形成」 「理想と現実との葛藤や経験等を通し、 様々な困難を克服するスキル」 を身につけるべく、 ボランティア体験・奉仕活動・マナー学習が組み込まれる。 「労働者の権利」 「自分たちの生存権をいかに守るか」 の学習は課題とされず、 ここで言う望ましい勤労観は雇用側にとって大変都合がよい。 もし、 そのプログラムに乗っからなければ、 あなたはニート・負け組 になってしまうという脅迫付きのプログラムである。 まるで、 ゲームの中の仮想現実のようで気味が悪い。 現実は、 ゲームより、 おもしろい。 そして怖い。 だから、 失敗したり、 助け合ったり、 転んだり、 傷ついたりしながら、 学校以外のいろいろな場で私たちは成長してきた。 今の子供たちは、 立ち止まったり、 悩んだり、 迷っていることは許されない。 文部科学省のプログラムが一人一人の子供たちに対応していないのは考えてみれば当たり前だ。 そういったプログラムを、 現実も子供たちをしっかりみまもりながら、 血の通ったものにするのは現場の教師たちのはずだ。 だが、 日々の多忙に教師は思考を停止せざる得なくなっている。 子供も教職員もそうして親も実体のない幻想に追いかけられているにすぎない。
 今、 学校にも社会にもそんな怪物のような幻想がたくさん跋扈している。

(なりた きょうこ 教育研究所員)
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