キーワードで読む戦後教育史 (15)
技高問題 (7)
杉山 宏

(二十)
 72年の県議会 6 月定例会において、 技高の実態に重点をおいた追及が行われている。 6 月27日の本会議では久保政吉議員 (社会党) が県当局の基本姿勢について追及、 これに対して津田文吾知事は、 「技高には現在の情勢の中では色々問題があり、 検討する時期にきている。 県新総合計画の中で考えてゆきたい」 と、 答弁をしている。
 次いで 6 月28・29日の両日に開かれた県議会文教常任委員会で 「県立技高教員の教諭免許状の有無について」 を県労連出身 (神教組) の鈴木達也議員 (社会党) と同じく県労連出身 (神高教) の伊藤博議員 (社会党) が追及し、 甲斐静信教職員課長は 「現在、 52人の臨時教諭がいるが、 このうち、 12人の先生が免許が切れているので、 早く更新の手続きをするよういっている」 と答えていた。 「無免許の教員に教えられた生徒の単位認定はどうなるか」 の質問には、 青木寅蔵指導部長は 「単位認定は、 先生方が集まって単位認定会議を開き、 最終的には校長が認定するのだから、 単位の効力には影響がない」 と応じ、 八木敏行管理部長も 「監督者が認定しているので問題ない」 と答え、 武田英治教育長は 「本県独自の新制度なので問題点もあり、 徐々に改善している」 と弁明した。
 又、 ロングホーム・ショートホーム・一年専門教科座学等の実施の有無や状況に関する質問に対し、 実施されていない、 或いは、 状況を把握していないと答えたり、 使用教科書については学校教育法第62条違反であるとの追及に、 労働部との関係を挙げ、 逃げの答弁をするなど、 教委側は追い詰められ、 7月に再度技高問題で文教常任委を開くことになった (1) 。
 しかし、 教育長の答弁は 7 月には行われず、 8月18日の文教常任委員会において行われた。 教育長答弁を1ヵ月延ばしたのは、 県教委側の検討が慎重に行われていたとも考えられた。 18日に質問に立ったのは、 前回と同様に鈴木達也議員と伊藤博議員であり、 前回の実態追求を踏まえて、 @実態の把握すらしていない県教委行政の下で、 技高の荒廃はその極に達している。 A県教委として、 現在、 技高にある問題をどのように把握しているのか。 B来年度の募集時期がせまっている情勢の中でどういう姿勢で取り組むつもりなのか明確にせよ、 と激しく追及した。
 これに対し、 武田教育長の答弁要旨は、 次のようなものであった。 @ 技高発足当時は頷けたものもあり、 当時技高の形態が認められた。 その後、 高校進学率の上昇にみられるように県民の高校への期待も変わってきた。 高校に対する現在の必要性はどうかを踏まえ、 それに相応しいものは何かを考えてゆきたい。 A しかし現在の技高生の全部が、 全日制に行きたいのに技高に来ているとは考えていない。 実験、 実習から理論に入るという必要もあろうし、 働きながら学ぶということの必要な者も、 まだいる。 B どういう生徒が対象なのか、 どういう運営が良いのか、 どういう通学形態が良いのか、 職業訓練校との二本立ては良いのかどうか等色々あり、 最初から考えて行かねばならない。 C 教育基本法にあるように、 人格の完成を目指すということを忘れてはならないと思う。 D 7 技高にはいろいろあり、 十把一絡げに考えるのではなく、 それぞれの置かれている実情を踏まえ、 検討して行く。 E 情勢も変わり、 現在置かれている状況は許されないと考えており、 本年中には方針を出すべく検討中である。
 この答弁に対し、 伊藤議員は、 「教育長は情勢の変化で問題が生じたというが、 それは間違いであって、 発足当初から問題があったのであり、 教委の取り組みそのものに問題があったのだ。 それを反省した上で、 今度こそきちんとやるつもりがあるのか」 と追及した。 飯田助丸議員 (自民党) も、 「伊藤、 鈴木両議員の発言を教育長は素直に受けとめよ」 と迫り、 更に鈴木議員は 「校舎等教育財産が技高にはなく、 また学校設置基準にも重大な問題がある」 ことを指摘、 「真に学校教育法に基く学校にすること」 を要求したのに対し、 教育長は 「前言の通り取り組むつもりであり、 その際、 問題を避けて通る姿勢は執りたくない」 と言明しており、 県教委も本格的な検討に入ったと思わせる段階となった。

(二十一)
 技高発足以降、 神高教は技高の分会編成に努力、 職場の諸問題解決の闘いを通して組織体制を強化し、 更に68年以降、 技高対策会議を中心に制度改革を追及し、 そして、 72年本格的闘争を開始したが、 県教委に技高問題を問題として一応認めさせ、 改革の方向に踏み切らせるところまでに至った。 しかし、 技高を巡る情勢は、 単に教育委員会だけの問題として解決を期待しうる程、 安易なものではなく、 労働部の対応や文部省・産業界の動き等もあり、 今後も神高教全組合員の問題として闘う態勢を確立してゆかねばならないとした。 そして、 神高教は、 9 月 2 日・ 3 日に拡大分会代表者会議及び 9 月 9 日に技高全役員集会を開き、 「技高の抜本的改革闘争方針について」 を検討し、 基本方針を 「@ 技高だけの問題とせず、 高校教育多様化阻止と関連させて捉える。 A 全神高教の闘いであり、 神教組、 浜高教などとの共闘体制の確立が必要である。 B 神高教が申し入れた 3 原則に立って改革方針を県教委に打ち出させる」 とし、 具体的闘争の組み立てを行っている。 具体的闘争は20,000名地域署名から始めることとした。 9 月16日には、 神高教指示第70号 「技高の抜本的改革闘争についての当面の行動及び神高教組織対策について」 を出し、 9 月25・26日のいづれかの日に、 全分会で技高問題を中心に職場集会を実施するよう指示している。 又、 9 月28日に三崎水産分会が 「技術高校の抜本的改革を要求する決議書」 を県教育長宛提出している。
 10月 2 日の県議会 9 月定例会本会議において、 金木照義議員 (共産党) が、 津田知事に 「技術高校問題」 に関する質問を行なっている。 即ち 「知事は46年 2 月定例会でわが党の質問に答えて、 技術高校制度を 『全国に誇り得るもの』 と大変自慢しました。 ところが、 去る 6 月の定例会では、 社会党久保議員の質問に答えて新総合計画の中で有るべき姿に直していきたいという風に答えておりました。 僅か 1 年そこそこの間に知事が考え方を変えたのは何が原因なのか、 また問題点は何なのか」 「昭和40年発行の 『神奈川県立の技術高校』 は次の様に述べております。 『子供が上級学校に入学することを目的とする様な錯覚から目覚める必要がある。 本来子供のタイプには、 知能型 (言語優位性) と行動型 (動作優位性) とがある……。 知能型に適応させた教育課程を持つ普通高校に、 知能型の者と共に行動型の者を入学させれば当然その枠からはみ出してしまう』 となっております。 知事並びに教育長は高校教育に対する考え方の基本を現時点でもこの様に考えているのか」 「噂に依れば、 技術高校生 2 年生以後の登校を現行の一昼二夜制を一昼三夜または、 3 技高、 4職訓にして当面を糊塗するとも言われておりますが、 この様な姑息な手段に依るののでなく、 技術高校制度を根本的に改め職業訓練校と分離し、 高教組が要求している様に 3 年の全日制高校として独立すべきと思うが」 としている。
 この質問に対する知事答弁は、 「昨年の2月の定例会で共産党の質問に対して、 非常に誇らしげに答弁をしておったが、 この 6 月の定例会の社会党の質問に対して、 前向きで検討するような答え方をしているという。 その間にどういう考え方の変動があったのか、 ということであります。 これは私は今もこの学校教育と職業訓練というものを結びつけてやって行くという考え方、 これは間違っていないと思うのであります」 とし、 全国的に或程度の評価は受けているが、 実状に照らして改善すべき点は改善する方向と説明した。
 更に 「『県立の技術高校40年版』 ですが、 この書物のページを捲りますと、 生徒を二つの性格にタイプをわけておる。 知能型と行動型というふうに分けておるということでありますが、 これはある学者と申しましょうか。 その専門家がそういう風に人間のタイプを分けているということを引用したのであります。 そういう風に言われておると、 そういう見方もあると、 こういう意味で引用しておるのでありまして、 これを編纂したものがそれをこういう風に決め付けておるということではないのであります。 そして、 引用・主旨は狙いとする心は、 この子供達の持っておりまする長所・短所というか、 長所をやはりなるべく伸ばす。 そして個性にあった教育をしていく」 と一応差別教育は本意でないとしながら、 選別教育路線を打ち出している。 又、 「技高を独立させて、 普通高校や工業高校に性格替えをして行ったらどうかということでありますが、 私は先程も申しました様に技術高校は改革すべき所は改善するという行き方で、 研究努力をして行きたい」 としながら、 「技高を併設をしている職業訓練校ということは、 何処迄もこの面子に拘ってそのようなことを続けるんだということは毛頭無い」 とし、 唯、 学校教育と職業訓練というものとの連携は密に執っていきたいと答弁していた。

(二十二)
 県教委側が技高改革方針を検討しているのに対応し、 神高教も技高全組合員の意思統一と決意結集を計り、 決起集会的性格を持った技術高校抜本改革要求全員集会を11月 4 日に開くとしたが、 集会直前の11月 2 日に、 県教委は技高改革基本方針を決定し、 神高教に提示してきた。 即ち 「@ 7 技高のうち、 相模原技高、 大船技高、 平塚技高については、 73年度から全日制工業高校にする。 A現行の7技高については73年度から生徒の募集を停止し、 在校全生徒が卒業する75年度末まで存続する。 B新設 3 工業には、 技能者養成のための実習に力点をおいた学科を設置する。 C生徒、 職員、 施設などの経過措置については十分配慮する」 であった。
 この県教委案では、 技能者養成のための実習に力点を置いた学科の設置等、 内容に依っては今後の闘いが必要である点もあり、 予定通り、 11月 4 日に神高教技術高校抜本改革要求全員集会を横浜市従会館において280人参加の下に行った。 そして、 これまでの闘争経過と共に、 引き続き改革される学校の性格、 移行に伴う諸問題などについて闘う必要を確認し、 集会の名において 「(1) 全日制の高校に替え、 生徒が毎日通学出来るようにすること。 (2) 職業訓練校とは切り離し、 訓練制度で生徒の進路や教育内容を縛ることがないようにすること (2)。 (3) 教育と職業訓練、 技能養成とは別個のものであることを明確にし、 高校としての充分な教育課程が組めるようにすること。 @ 科の細分を改め、 幅広い性格の学科にすること。 A 実験、 実習は職業訓練、 技能養成としての性格ではなく、 教育としての体系の中に位置づけること。 B 教育課程は教師が責任を持って編成出来るようにすること。 (4)施設、 設備は高校として相応しいものにすること」 の 4 ヵ条を含む決議文を県知事、 県教育委員長宛出している。
 新設 3 校の性格、 内容、 名称等、 設置に伴う諸問題について、 神高教は11月〜12月段階で対県交渉を持ったが、 その中で県側から 「単能工の養成ではなく、 将来の工業技術の発展に対応しうる中堅の技術者を養成する」 とし、 「技能者養成のため」 とした当初の態度を修正しては来た。 しかし、 尚、 技能重視と実習の時間数に強く拘っていた。 交渉がまだ継続されている11月24日に県教委は、 「技高を近年の社会情勢の変化に即応し、 下記のとおり発展的に改編するものとする」 として、 「@ 7 技術高等学校のうち、 県立相模原技術高等学校、 県立大船技術高等学校、 県立平塚技術高等学校については、 昭和48年度から全日制高等学校とする。 A 現行の 7 技術高等学校については、 昭和48年度から生徒の募集を停止し、 在校全生徒が卒業する昭和50年度末まで存続する (学年進行による)。 B 新設 3 工業高等学校には、 技能者養成のための実習に力点をおいた次の学科を設置する (相模原=機械科・自動車科〈仮称。 大船=機械科・電子科〈仮称。 平塚=機械科・自動車科〈仮称)。 C 生徒・職員、 施設等の経過措置については、 十分配慮する。」 と発表した。 3 校の新設を謳いながら、 3 技高を 3 工業高校に改編するとし、 技能者養成の為の実習に力点を置いた学科を設置するとしていた。
 更に、 県議会12月定例会本会議に、 「高等学校設置条例」 の改正案が提出され、 新設校の名称は 「工業技術高校」 とされていた。 しかし、 知事の提案説明からは、 「技能者養成」 等の性格付けは除かれていた。 同月19日に同案は議決されている。

(二十三)
 73年 1 月18日、 神高教は 「73年度当初人事異動についての申入れ」 を県教委高村象平委員長・武田英治教育長宛提出した。 この申入れで最優先異動の対象として列挙した 6 項目の中に 「技術高校改革に伴い技高、 新工業技術高校の人事」 を入れていた。
 神高教は、 次いで 2 月 7 日に 「県立工業技術高等学校の教育課程について」 と題した質問・要望を指導部長宛提出した。

1973年 2 月 7 日

神奈川県高等学校教職員組合
執行委員長 野島邦男

神奈川県教育庁
指導部長 和田順三郎 殿

工業技術高校の基本的性格について、 私たち神高教は、 いわゆる改編の趣旨そのものに反対であり、 この主旨にもとづく教育課程の編成についても同意しているものではない。 このような立場から、 教育課程の編成にあたっての県教委の指導のあり方に重大な関心をもつものであり、 下記の質問および要望について回答されたい。

 記

  1. 質問事項
    1. 工業技術高校の教育目標は 「全人的人間の育成をはかるとともに将来の科学技術の発展にも対応でき、 進路もとざされたものであってはならない」 ものでなければないと考えるが、 どうか。
    2. 今回示された 「編成例」 は、 あくまでも参考の域をでないと考えるが、 どうか。 とりわけ 「実習」 の単位数についても同様であると考えるがどうか。
    3. 人数をわりふってのコース制を県教委として指導していく考えがあるか。
    4. 技能資格の取得を目的とした教育課程の編成を県教委として指導していく考えがあるか。
    5. 各教科、 科目の単位数や学年配当について、 3 校の同一学科を統一的なものにするような指導をしてゆく考えがあるか。
    6. 座学と実習の正しい統一をはかるためには実習の中での実験的実習を重視するとともに、 具体的展開についても早急に準備してゆかなければならないと思うが、 どう考えているのか。
    7. 教育課程の編成にあたっては物的条件も無視することができないので、 施設、 設備等の整備計画について、 学校に対し、 早急に示すべきであると考えるが、 どうか。
    8. 教育課程の編成にあたっては、 学校で充分検討できるだけの時間的配慮が必要だと考えるが、 どうか。
  1. 要望事項
    1. 「普通教科重視」 は全国的傾向であるが、 この状況をふまえて、 職業教育全体の立場から工業技術高校のあり方を再度検討すべきである。
    2. 学校教育の中で技能教育が行なわれるべきなのかどうか、 「すぐれた技能をもつ中堅の技術者」 とは何か、 等、 新工業技術高校の主旨に問題があると考えている。 「技能」 「技術」 の論議は、 言葉上の問題ではなく、 今後の工業技術高校の性格づけにも影響することなので、 このことについては再度検討すべきである。

指第738号
昭和48年 2 月 7 日

神奈川県高等学校教職員組合
執行委員長 野島邦男 殿

神奈川県教育庁指導部
指導課長 的場衛市郎

 県立工業技術高等学校の教育課程について (回答)

 昭和48年2月7日付で質問等のあった標記について、 別紙のとおり回答します。

(別紙)
〔質問事項について〕
  1. 原則的には同感である
  2. 「編成例」 は参考として示している。 ただし、 通知文に示された教育課程編成の趣旨を配慮してほしいと考えている。
     なお、 「実習」 の単位数についても、 学校長から学校事情や教育的見地等の理由をもって相談があれば、 かたくなには考えないつもりである。
  3. 特にない
  4. 特にない
  5. 特にない
  6. 学習指導要領の趣旨にそって同様の考え方をしている。
     なお、 具体的な展開例については、 上記の趣旨をふまえて、 学校において工夫してほしい、 と考えている。
  7. 質問の趣旨にそって努力する。
  8. 配慮していきたい。
    〔要望事項について〕
     要望の趣旨にそいたい。

 4 月 1 日に全技高は生徒募集を停止し、 神奈川県立平塚西工業技術高等学校・相模原工業技術高等学校・大船工業技術高等学校の 3 校が開校した。
 8 月 1 日に追浜技高関係の教員が、 真に民主的な高校教育を創造していくことが重要な課題であり、 その課題に取り組む際に役立てばと、 冊子 『「これが高校か」 差別選別される高校生』 を発行した。
 76年 2 月に技高の歴史を閉じるにあたって、 神奈川県教委は、 技高の創設時から収拾に至るまでの経過、 各校の施設・設備・教育内容などを纏めて 『神奈川県立の技術高等学校史』 として発行した。 同書で県教委は、 技高はそれなりの歴史は果たしたとしていた。
 3 月31日、 7 技高廃校となる。 63年の開校以来13年、 先発 4 校が10回、 後発 3 校は 9 回の卒業生を出したが、 生徒・職員及び多くの関係者の努力と頑張りに拘らず、 矛盾と不合理の下、 真の高校になり得ないまま廃校になった。

むすびにかえて
 56年 7 月の経済白書が唱えた 「もはや 『戦後』 ではない」 という言葉が、 55年から70年代初まで続く高度成長の影響等から楽観的な立場での言葉に取られることがあるが、 白書が掲げた意味はそうではなく、 深刻な問題提起であった。 白書は 「もはや 『戦後』 ではない。 我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。 回復を通じての成長は終わった。 今後の成長は近代化によって支えられる。 そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである」 と述べており、 戦後復興による経済成長はもはや期待出来ない、 復興経済は終焉した (3)。 今後も成長を維持するには自己改造が必要であり、 この改造は日本経済の近代化によってもたらされると、 これからの産業近代化を呼び掛けていたのであった。
 この白書に応える様に、 日経連は、 同年11月 「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」 を出し、 「経済の画期的な成長発展に対応する技術者・技能者の養成計画」 の必要性を強調し、 産業界の技術教育に対する意向を示した (4)。
 又、 個々の大企業も、 白書の産業近代化の呼び掛けに応じ、 50年代後半には激しい設備投資競争を行っていった。 この結果、 企業での労働の在り方に変化が出てきた。 設備の近代化、 自動化が進められた結果、 従来型の熟練労働者より、 近代化された設備に適応出来る能力、 新しいものへの順応性を備え、 しかも労働力として安価である若年労働者の確保に各企業は狂奔した。 また、 当時は、 多くの職場での通常の形態は、 終身雇用制と企業別組合であり、 確保した若年労働者に相当量の職業訓練の為の資金を注ぎ込んでも、 将来必ず企業に大きなプラスとなって戻ってくる。 即ち、 企業にとって、 労働者への訓練投資は高利回りの投資であるとされた。 企業内訓練機関の整備が大企業内で行われ、 その訓練機関に有能な若年労働者が集められていった。
 60年 9 月 5 日に自民党は所得倍増策を発表したが、 これを受けて10月25日に経済審議会 (5)教育訓練小委員会は、 26,000字程の長文の報告 「所得倍増計画にともなう長期教育計画」 を出した。 「技術革新が求めているのは、 初等教育や前期中等教育を超える後期中等教育であり、 すなわち完成した中等教育である」 としており、 技術革新下の労働力の質は、 後期中等教育段階修了の質を必要としていた。 また、 「中等教育を学校教育に限定することは適当でない。 高等学校 (定時制および通信制を含む) のほか、 各種形態の職業訓練各種学校、 通信教育等の組織的教育訓練も、 その期間の長短をとわず、 本来中等教育の一環とみなすべきである」 と、 従来の高等学校に拘らない新しい形の中等教育の完成を目指す政策の必要性を強調し、 後期中等教育の在り方に関して提言する等、 広く教育制度にも要望を広げた。 又、 社会的要請と職業訓練の役割として 「最近の生産技術の進歩は、 過去のものとは異なった生産工程および機械の自動化などによる有機的な生産工程を生み、 これが中小企業にまで及びつつある。 したがって、 生産構造の高度化に対応した専門的実技に幅広い基礎訓練と近代的人間形成を含んだ教育を行なうことが必要である」 と技能者の積極的養成が必要であり、 それが、 広く産業界全体の経済発展に繋がるとしており、 更に、 「将来における科学技術の急速な進歩は社会的要請として教育訓練の飛躍的向上を求めている」 「中等教育を終えた青少年が企業の中でエキスパートとして高く評価され、 大学卒の人々に劣らぬ物質的・精神的待遇を受けるようになること」 とも記し、 高等学校に拘らない拡大された形態の後期中等教育を受けた人々を含めた中等教育修了者への社会の遇し方に注文を付け、 その要望実現の為には、 企業内での労務管理方式が近代化され、 改善が行われなければならない。 並びに、 教育訓練の向上強化は社会的要求であり、 教育計画を長期的に見るなら、 それは将来一層強力に求められなければならないとしている。
 この様な状態に置かれる中で、 独自の企業内訓練所を持てない多くの中小企業が、 地方自治体立の職業訓練所に期待を掛けたのは当然な結果であろう。 また、 同小委の計画の中にも、 中小企業の為に、 公共職業訓練所の受託制度の検討、 集合職業訓練施設の検討の必要性が挙げられていた。
 翌11月 1 日に出された経済審議会の答申は、 前述の教育訓練小委に対応するものであったが、 その中に 「産業構造の高度化は、 労働力の質的向上を強く要請することになる」 「経済政策の一環として、 人的能力の向上を図る必要がある (6) 」 とあり、 産業構造の近代化に対応して、 工業教育・職業訓練の充実を図る必要性が記されていた。 そして、 教育訓練について、 更に今後重要となることは産学協同であるとしていた。 この答申を受けた池田内閣は、 同年12月27日に 「人的能力の向上と科学技術の振興」 等を含んだ 「国民所得倍増計画」 を閣議決定している。
 61年12月21日付 『日経連タイムス』 は、 企業内訓練と学校教育とは元来法体系が違うから、 文部省や学校が技能教育の内容や生徒指導に介入することは好ましくないと記しており、 職業訓練各種学校を中等教育の一環にという動きの中で、 中等教育機関に位置付けられても、 企業内訓練所には訓練所としての独自性があると主張していた (7)。
 62年11月 1 日に 『日本の成長と教育』 と題した教育白書が刊行された。 同白書は 「人間能力をひろく開発することが、 将来の経済成長を促す重要な要因であり、 その開発は教育の普及と高度化に依存しているという認識が、 今日の教育を投資の面からとらえようとする考え方の背景となっている」 と述べている。 又、 教育の発展と経済的効果との関連を重く見て 「将来の経済発展のためには、 現在の諸資源を開発するための投資が必要であって、 その資源のひとつとしての人的能力を開発するために、 教育もまた一つの重要な投資部門を形成するとみることができる」 「教育は生産の展開において、 特に技術革新の行なわれるときにおいて、 技術革新の成果を生産過程の中におりこんで軌道にのせてゆくための、 欠くべからざる要素である。 このような時代にあっては教育を投資とみる視点がいっそう重視されなければならない」 としている。 そして、 教育投資の配分の問題は、 投資効果を挙げる意味で重視すべきであるとし、 後期中等教育への投資は有効な配分としている。 「後期中等教育を完全に普及するためには、 まず、 この年齢層の青少年の発達段階から考えて、 その能力、 適性および進路に応じた適切な教育を与えることが必要である。 そのためには、 必ずしも従来の学校制度の既成概念にとらわれない弾力性のある教育制度を検討することが必要であろう」 と記し、 後期中等教育の拡充と完成は、 既存の教育機関に限らず柔軟な運営が必要であり、 その様な当を得た運営への投資は、 効率的な教育投資に繋がり得るとしている。
 この教育白書を、 技高発足の一つの理論的拠り所としたのが鈴木重信県教育長であった。 前述の教育長の講演 (8)で白書から 「教育投資」 という言葉を採り上げると共に、 白書提案の中で最も重要なのは、 後期中等教育の完成についてであるとしている。 そして、 「(技術高校は) 社会的要求に即した後期中等教育の一つの新しい試みとして発足した」 としていた。 「人間の才能というものは15才以前にも早期に発見されなければなりません。 ことに技術とか職業とかを考えますと、 現在のように高校進学が70%から80%に進んだ場合に、 もう一つの才能、 つまり学校の通信簿の成績ではなく、 技能的な才能というものを発見し、 それを訓練する必要があります」 とも述べている。
 61年〜64年に中学校 2・3 年生を対象に行なわれた学力テスト (国・数・社・理・英) は悉皆調査で、 「何よりも優れた人材を早期に発見し、 適切な教育訓練をほどこすことが大切」 とする文部省の意図は、 所得倍増計画に応ずるものであった。 ペーパーテストの結果で中学生を序列化し、 その順位によって前期中等教育修了後の進路を決め、 効率的な教育や訓練を施そうとするもので、 鈴木教育長の言う 「通信簿の成績」 以上に知識偏重の結果での選別に繋がるものであった。
  「技能的才能を発見し早期に訓練」 という言葉は、 差別教育の現実を糊塗する時に使用されることが時としてあるが、 少なくとも60年代前半の悉皆学テによる選別は、 鈴木教育長が考えていた 「才能の発見と訓練」 等が行われる状態とは縁遠い現状であった。 この現実と狙いとの乖離を結果的には無視する形で発足した技高は、 多くはペーパーテストで高点を取り損なった生徒の集まる場所となり、 必ずしも技能的才能を持ち合わせた生徒が多く集まる場所とは言い切れない結果となった。
 技高発足直前の63年 1 月14日に、 経済審議会は 「経済発展における人的能力開発の課題と対策」 を提言した。 即ち 「科学技術の進歩、 産業構造の高度化は、 労働力の質的向上を強く要請することとなろう。 とくに現代社会経済の大きな特徴は、 急速な科学技術の発展に支えられて経済の高度成長がつづく技術革新時代ということである」 と労働力の質的向上は時代の要求としている。 そして、 戦後教育の欠点として 「画一化のきらいがあり、 多様な人間の能力や適性を観察、 発見し、 これを系統的効率的に伸長するという面においては問題が少なくない」 と述べている。 能力を効率良く延ばさせる為、 戦後教育制度の中核であった単線型から複線型への転換の必要性を論じ、 一応条件は付けているが 「能力に応じた教育」 の制度化を求めている。 更に、 「技能労働力を養成する職業訓練を社会的な制度として確立し、 職業につくものはすべて何らかの職業訓練をうけるということを慣行化すべきである」 「養成された技能労働者が国の経済成長を担う有力な一員になるのであるから、 公教育の一環として国が統一的な基準を作るとか、 教材を作成しあるいは指導員を養成する」 と職業訓練の社会的慣行化と体系化を提言し、 人的能力政策の必要性についての意向をのべている。
 高度成長期が終焉しようとしていた72年 3 月、 (社) 日本経済調査協議会は 「新しい産業社会における人間形成」 と題した提言を行っている。 「はしがき」 で狭い産業社会に拘らず一般的立場からの人間形成の課題の検討を心掛けたとしているが、 元々の立場は産業界であり、 その立場から広く一般的に調査・検討を広げての提言と言うことであろう。 「従来 『企業のための教育』 に性急であり過ぎた弊風を是正する必要」 「今やわが国は重化学工業化の段階から大きく前進して、 “脱工業化”の段階に移行しつつある」 「新しい産業社会に発展しつつあるわが国の人間形成のあり方として、 『生涯学習』 の必要性をとくに強調し、 このための環境条件を速やかに整備すべきことを提唱する」 「企業は従来、 企業のための教育に性急であった。 企業で働く人びとは良き企業人であることを通じて良き市民であり、 良き市民であることを通じて良き企業人であることが要請されるのである」 「従来の企業内における集合定型教育のお仕着せを排し、 企業の内外にわたって従業員が自由に費用の一部を負担して参加できる多彩な教育機会を提供することが望ましく、 企業はこの学習費用を補助し、 時間と場所についても配慮すべきである」 としており、 50年代後半から60年代に掛けての企業とは、 対従業員政策に大きな変化が出てきた。 従来、 企業が目指した 「重厚長大」 路線に陰りが生じ、 新規採用抑制等による減量経営へ移行していく企業経営路線への胎動であって、 先駆的な企業経営者は従業員対策を考え始めたのであろう。
 この考えは、 高校進学率の急速な上昇と共に、 企業内訓練所での若年労働者確保にも繋がるものであった。 企業内訓練所が後期中等教育機関の役割を果たし、 そこで養成された労働力の大きさが、 企業の将来を決めるという段階ではなくなった。 このことは、 公立職業訓練所に対する要求にも繋がり、 技高に対する産業界の受け止め方にも変化が出てきた。 技高の教育機関として在り方に諸矛盾が出てきた時と波が重なり技高廃校を早めたと考えられる。

註(1) 県会文教常任委における具体的な交渉については、 『ねざす』 No38 「技高は二度、 『廃校』 となった」   6 高校と職訓とのドッキング」 参照。

註(2) 職業訓練校と切り離し、 職訓制度で生徒の進路や教育内容を拘束することが無い様にする、 ということであるが、 技高と別組織の訓練校は存在するが、 しかし、 技高内で行なわれている職業訓練は、 指導者や施設は訓練校関係の人や物であっても技高として行なっているのであって、 技高の教育活動であり、 技高と提携した別組織の訓練校が行なっていたのではない。 第一学年の時に訓練校で職業訓練法に基いて訓練を受させることは技高本来の在り方であり、 これに伴う諸矛盾は元々内在していたものであって、 職業訓練法に基いた訓練を認めないということは、 技高廃校以外には有り得なかった。 この段階で、 技高問題は、 改善の域を超えて廃校が決定的になる段階に入ったと言える。

註(3) 戦後10年の経済成長は、 復興経済に依るものだけでなく、 朝鮮戦争に伴う特需により齎された利益も大きかったと考えるべきであろう。

註(4) 渡辺治氏は、 日経連の50年代の要望を 「発言はもっぱら当時の資本の要請に直接的に対応する極めて狭いものであったといえよう。 もちろん技術教育を重視せよという主張自体はその後も資本が一貫して追求する目標であったし、 この日経連の主張を徹底させていけば戦後改革によって作られた六・三・三・四の一貫教育体系の改変に行きつくことが予想されたが、 しかし日経連の重点はあくまで現行制を前提にし産業界に即効的な要望に止まっており、 教育体系全体への眼くばりを持つものではなかった」 としている。 (渡辺治 「現代日本国家の特殊な構造」 東京大学社会科学研究所編 『現代日本社会 1 課題と視角』 所収 東京大学出版会 91年)。 小論では (一) で、 52年10月・54年12月・56年11月・57年12月に日経連から出された要望・意見について記したが、 52年の日経連の要望は 「もともと高等以上の学校においては、 学生生徒の知識能力に応じそれぞれ職業乃至産業面の教育指導が行われ、 学校卒業後にはその習得した学識技術技能を通じ職業人として社会国家の進歩に貢献すべき人物が育成さるべきである。 然るに新教育制度について産業人の立場よりこれをみるに社会人としての普通教育を強調する余りこれと並び行われるべき職業乃至産業教育の面が著しく等閑に附されこの点、 新教育制度の基本的欠陥と言うべく、 これが是正こそ先ず考慮されねばならぬ重要事である」 とあり、 教育面において、 人間を 「職業人・産業人」 と 「社会人」 とに分け、 従来の制度は後者の育成に重点が置かれ、 前者の育成のことは等閑視されてきたと、 指摘している。 知識能力に応じた職業・産業面の教育であり、 この能力に応じた教育こそが産業界の教育体制への基本要求の中心であった。
  54年の要望も、 教育制度と産業界に受入れ態勢との間に懸隔があり、 人材活用、 産業の発展の為に教育制度を改善せよとするものであった。
  56年の意見は技能者養成制度へのもので 「生産性向上を図るには、 各業種の要請に対応する多能工・単能工の養成をさらに推進する必要があるが、 現行の労働基準法による技能者養成制度は監督行政の見地に立って制定され、 画一的な拘束が存する」 と問題を投げ掛け、 次いで、 技能者養成において、 産業界の要請に質量共に応える為に、 基幹工員養成を積極的に助長する単行法制定を求めていた。 この法の成立により 「大企業おいてはこの新立法に基いて単独に多能工・単能工の養成施設を設けることができるが、 単独で企業内に養成施設をもち得ない中小企業については、 共同養成方式を奨励してこれに国が助成の道を講ずるとともに、 国または地方自治体が有力な技能者養成施設を設けてこれらの企業における養成を援助すべきであり」 と、 地方自治体立の技能者養成施設設置要求を行っているが、 この産業界の要求は技高設立の一要因であった、 と言える。
  57年の科学技術教育振興に関する意見は、 基本方針を立て長期計画に従って施策を講ずる必要があるとしながら、 58年度予算に所期の効果を挙げる措置を採ることを要望している。
  上記、 日経連要望・意見が技術教育振興を中心に置きながら表題で、 52・54年は共に 「教育制度」 の語が使用され、 56・57年には 「技術教育」 の語に変ったのは、 56年の経済白書の提言 「日本経済の近代化」 の影響が各企業に現れてきたことに因るものであろう。

註(5) 経済審議会は、 国の経済計画や重要な経済政策等に関する内閣総理大臣の諮問機関で、 総理府の外局経済企画庁 (1952年 8 月 1 日から2001年 1 月 5 日まで存在) に属し、 学識経験者、 経済界代表等民間人30人の委員で構成されていたが、 2001年の中央省庁再編で廃止され、 内閣府に新設された経済財政諮問会議に引き継がれた。 しかし、 新設の諮問会議の構成員は一変し、 会議の性格も大きく変った。 諮問を行う内閣総理大臣が議長に就き、 議員に内閣官房長官・内閣府特命担当大臣と各省大臣のうちから内閣総理大臣が指定する者として財務・総務・経済産業の各大臣が、 又、 日銀総裁が議員となることが慣例化され、 更に、 民間有識者が議員の 4 割以上を占めることが法制化されているが、 慣行として経済人・学究者各 2 人が議員となっている。

註(6) 経済審議会答申 「国民所得倍増計画」 から、 将来の労働力増加率の鈍化と技術革新時代という中での経済成長と人的能力の向上の必要性を述べている部分を引用した。 高度経済成長の下での労働力の在り方に対する政府・財界の意見を表示するものであり、 工業教育・職業訓練の必要性を述べているので本文引用の前後の文を記載してみる 「従来、 日本経済において、 労働力が経済成長の阻害要因となることはなかった。 それはわが国が豊富な、 しかも安価な労働力にめぐまれていたからである。 しかしこのような状態は現在次第に変ってきており、 長期的にみれば労働力増加率の鈍化が予想され、 しかも将来における科学技術の進歩、 産業構造の高度化は、 労働力の質的向上を強く要請することになる。 この場合とくに現代社会経済の大きな特徴は、 高い経済成長の持続と急速な科学技術の発展に支えられた技術革新時代ということである。 この科学技術を充分に理解し利用し、 社会と産業の要請に即応し、 進んで将来の社会経済の高度発展を維持し続けて行くには、 経済政策の一環として、 人的能力の向上を図る必要がある」 である。

註(7) 『中等教育問題の視点』 No3 日教組 1962年。

註(8) 小論 「技高問題」 (3) 『ねざす』 No39 2007年。
  

(すぎやま ひろし 教育研究所共同研究員)

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