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警戒しよう 自戒を込めて涵養 という手法
津久井高校教員 湯原 清隆

 涵養 という語彙がある。 戦前の 「国体明徴運動」 で使われ、 03年中教審答申などで、 水が地表に浸み込むように奉仕精神や愛国心を浸透させるとの意味で使われたこの語彙は、 科学的に思考し理性的に認識することの対極に位置するが、 今風に言えば洗脳、 マインドコントロールと言うべきこの手法が今教育を歪めつつある。
 小中学校で使用を強制されている 『こころのノート』 の 「反省」 や 「愛国心」 への執拗な誘導などもこの手法である。 差別を見抜き差別と戦うという視点もなく 思いやり 自他への尊重 を説く 「人権教育」、 国家や企業による乱開発や汚染等の代わりに地球への 優しさ や 3 Rを説く 「環境教育」、 植民地支配や多国籍企業のもたらすものを抜きに異文化体験や難民援助食試食に英語、 という 「国際理解教育」 にも同じ 涵養 の手法が見られる。 それらは、 問題の実態や因果関係を社会科学的、 自然科学的に学習し、 理性的に認識させず、 もっぱら本人の心構えという次元に留め反省を促す 徳育 に矮小化し、 途上国や被差別者への同情差別や他国への優越意識をも抱かせ、 その結果政治や企業による環境破壊も、 戦争責任も不問に付して疑問や批判の芽を摘み取り、 さらには年間自殺 3 万人をもたらす自国の労働や医療福祉の貧困からも目を逸らさせ、 忍従させるものである。
 「日の丸」 「君が代」 強制はこの古典的手法である。 「君が代」 不起立の筆者は、 起立する同僚たちに寂しい思いを抱くのだが、 まさか彼らが 忠良なる臣民 として国家神道や身分差別を礼賛しているとは思わない (そう言われても仕方がないが)。 儀式の 厳粛さ に、 着席が波紋を投掛けるのを避けたいという配慮?であろう。 儀式の醸し出す 厳粛さ が理性的な批判を抑制させることは、 「日の丸」 「御真影」 礼拝や 「君が代」 斉唱、 「勅語奉読」 という儀式を通して、 現人神としての天皇に対する畏敬と忠誠心を 涵養 した 「皇国臣民」 化教育と共通するものがある。 幼稚園時代からこの儀式に慣れさせられては、 いかに 「国民が主権者」 と習おうが、 自らを国家・社会の形成者であると思えるはずもない。 県教委の 「日の丸」 「君が代」 実施は 「国際的なマナーを学ぶ権利」 との強弁に、 神高教本部執行委員会が 「思想、 良心の自由はマナーに優る」 として、 マナーとする点では県教委と足並みを揃えていることに、 この 涵養 を容認しかねない危惧を感じるのである。
 この手法を 売り に、 高校の教育現場にも浸透を図っているのが、 あのベネッセである。 その修学旅行のコースプランや事前学習のプログラムは、 沖縄では 「戦いに身を投じた生徒たち」 の 「生きざまを追う」 とし、 「皇民」 化教育や学校による動員強制を隠蔽して 殉国美談 の悲壮感を 涵養 し、 アイヌ民族を 「滅びゆく民族」 としてその異文化のみを取り上げ 「彼らにどんなことが起こったのか」 と哀感を 涵養 して 「皇民」 化や今日の差別を隠蔽するなど、 政府の望む沖縄戦美化・先住民性否定を感性に訴える。 韓国修学旅行ではチマチョゴリにキムチに加え板門店を 「ホンモノとの出会い」 とプログラム化し (軍事境界線を38度線と誤記)、 独立記念館もナヌムの家もなく植民地支配を抹殺しながら 北の脅威 を 涵養 し、 中国では 「日本とのかかわりから考える中国の歴史」 から日本の侵略を抹消し南京大虐殺記念館も紹介しない。 総合的学習の時間 を持て余し、 修学旅行の事前学習を負担と感じる教員が、 自ら教育内容を創造することなく、 こうしたプログラムと教材を受け入れて民間資本に教育を市場として開放し、 生徒の理性でなく心情に訴えて、 殉国 や 「滅びゆく民」 への感興を成果と勘違いし、 効率的に政府の望む通りの 涵養 が行われていくのではとの危うさを感じる。
 沖縄修学旅行で常に 「皇軍」 の住民虐殺や軍隊 「慰安婦」 を取り上げてきた筆者であるが、 我々が行うガマでの暗闇体験にも同じ危うさを感じる。 軍が居座り 「慰安婦」 まで連行していた時に照明が灯っていたガマは、 軍が移動して暗闇に戻った時に住民にとって安全となったのであり、 そうした軍隊の本質を理解させることなく安易に暗闇に脅えさせ戦争の悲惨を伝えたつもりの 「平和教育」 にも、 同じ 涵養 を見ないわけにはいかない。
* (註) なおベネッセは以上のような筆者の 批判的質問に 「参考にします」 との一言の み回答?した。

 (ゆはら きよたか)

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