寄稿
「格差」 社会を克服する 「強い信念」 教育討論会に参加して

 

横山  滋

 昨年11月、 教育研究所主催の教育討論会 「格差社会の中で高校はどうなるのか?」 に参加した。 3 人のコーディネーターの問題提起は、 改めて 「格差社会の実態」 を浮き彫りにし、 経済・所得格差が 「世代継承」 され、 階層化している現在社会に警鐘を発するものであった。 私は、 「シニア運動」 の一員として参加させてもらい、 発言の機会もいただいたが、 言いそびれてしまったことを含めて何点か述べさせていただきたい。

私たちはどう闘い、 何に負けているのだろうか?
 問題提起者の佐藤香さんが述べたように、 私たちは 「高校間格差」 の実態把握とその克服を教育政策として提言する取り組みを行ってきた。 神奈川では、 100校計画とその実現でほぼ全ての学区が大学区になった。 各学区で 「高校間格差」 は顕著になり、 高教組は70年代後半から80年代にかけて、 「学区縮小」 を求めて粘り強い運動を進めてきた。 手元にデータがないが、 「入試の成績 (国語・数学・英語) と教育困難校 (当時の表現)」 の相関関係、 全校調査ではなかったが 「授業料免除者数と高校格差」 などの調査も行ない、 高校格差の背景に親の 「経済的格差」 があることを示唆してきた。 (後者の調査は、 神高教教研小委員会 「後中教小委員会」 が行ったものだと思う)
 そうした調査を待つまでもなく、 現場の実感として 「親の所得水準と生徒の学力」 が 「高校間格差」 と相関関係を強く持っていることは、 周知のことだった。 だからこそ、 「教育困難校への異動」 を促進する 「人事異動の 3 校運動」 なども提起された。
 問題なのは、 こうした取り組みにかかわらず、 「高校間格差の克服」 が何故実現できなかったのかであり、 何に負けていたのかの総括が必要なのだ。  
 各パネリストの発言から、 こうした高校格差の実態は、 総合高校や総合学科・専門学科の多様化、 「特色ある学校づくり」 にもかかわらず (だからこそ?) 拡大し、 より深刻化していることが明らかになった。 入試機会の多様化によって、 「学力上位者」 の選択幅だけが拡大し、 格差が拡大する結果になっている。 私立校との競争に 「勝つため」 に、 公立中高一貫校への期待が大きい、 と言う。 こうした競争促進の教育政策が、 一部財界や保守政権の独善的なものでなく、 国民の 「多数意見」 として展開されている実態を直視する必要がある。 「国民が欺かれている」 という指摘だけでなく、 私たちは、 「主張の正しさはどこにあるのか」 「私たちに欠けているのは何か、 何に負けているのか」 を総括する必要がある。

私たちは 「味方・理解者」 をどこに見つけようとしているのか?
 私たちは、 「国民に直接責任を負う自覚と責任感」 を持って教育活動・実践 (仕事・労働) に取り組んでいる、 と言ってきた。 (教育公務員の基本的な理念であるが) 教育労働運動も、 「国民の理解と支持」 を前提にまたはその獲得を目標に展開してきた。 その国民とは、 目の前の生徒や、 その保護者であった。 しかし、 私たちの眼の前にいるのは、 「生徒」 ・ 「保護者」 であり、 「学校という枠」 の中の関係であって、 そのままでは 「国民・市民・労働者」 の関係ではない。 私たちが 「理解者」 として獲得するためには、 「学校の枠」 を越えた関係の再構成が必要なのだ。
 戦後生まれの総理大臣が 「改憲」 の先導をする状況は、 戦後教育の中で日教組運動の理念が 「国民の多数」 を獲得できなかった、 ということだ。 私たちは、 実態不明確な 「国民」 をどうとらえ、 どのように情報を発信し、 関わってきたのだろうか?
  「地域に開かれた学校」 への取り組みを進めると、 「学校の現状や課題」 を地域社会に伝えることの 「難しさ」 を思い知らされる。 管理職がお膳立てした 「地域社会」 ではなく、 私たちが切り開こうとする、 「学校の枠」 を超えた 「地域社会の人々」 との出会う場すら得られないのが現状ではないだろうか。 私たちは、 情報をどこに、 どのように届けてきたのか?私たちの理念や運動の理解者や味方をどう作ろうとしてきたのだろうか?上部団体が連合であれ全労連・全労協であれ、 民間労組の組合員と話しあうとすぐ気がつくことであるが、 学校現場の抱えている課題や問題がほとんど知られていない。 また、 その逆も言える。 私たちは、 民間労働者の職場実態や課題・取り組みについてほとんど知らないし、 知ろうとしてこなかった、 のでないだろうか?高教組の理念や運動の最も良き理解者である (と思う) 「かながわ地域労働運動交流」 に参加している国労横浜や全造船関東地協・ユニオン協議会との関係でも、 執行部間の 「理解」 に止まっていて、 職場・現場での顔が見える関係には至っていない。

「もうひとつの可能な世界」
 カナダ生まれのナオミ・クライン (ジャーナリスト) のアメリカ社会学総会での講演録が、 雑誌 「世界」 (07年12月号、 岩波書店) に載っていた。 アメリカの 「グローバリズム」 と尖鋭に対抗し続けている彼女が、 「世界社会フォーラム」 への希望と期待を語ったものだが、 印象深かったのは次のようなことだ。 「もう一つの世界に近づけないのは、 私たちに理想がないからではありません」 「理想が現実にできないのは、 資金が足りないからではありません」 「では何が問題なのか。 問題なのは信念です。 私たちに欠けているのは強い信念です。 自信に満ちた態度でエリートが怯えるほど強い力で理想を求め続ける。 この運動を支える力、 それらが私たちに欠けている」
 詳細は、 是非本文を読んで欲しいが、 私はこの講演録を読みながら、 女性賃金差別を訴えて闘って勝訴判決 (横浜地裁・高裁で和解) を得たMさんが、 「私を支えたのは、 こんな差別は許せないという信念だった」 という発言やキャノン東京工場前で 「誇りを持って責任ある仕事をしたい」 と訴えていた青年派遣労働者のことを思った。 今、 「格差社会」 への若者たちの怒りは広がり始め、 格差のほころびが至る所で表れ始めている。 日本の大企業の代表格である 「トヨタ」 の現場には、 フィリピンでもアメリカでも日本でも、 労働者の抵抗と闘いが起きている。 権力を握っている者は、 必死で労働現場の支配・ 「砦」 を守り、 あらゆる虚言・暴力・権力を使って抑圧・懐柔することに 「強い信念」 を持っている。 私たちは、 それを上回る 「強い信念で理想を求め続けること」 が必要なのだろう。 「自信に満ちた態度」 は、 「理想を求め続ける力」 が生むものと思う。
  「日の丸・君が代」 への闘いを圧殺しようとする強い圧力が学校現場を支配しようとしている。 私が学校の仕事についた1960年代末、 多くの学校では当然のごとく 「日の君」 が行われていた。 「職場の民主化」 と連動しながら、 「教育実践」 として、 「日の君」 のない学校行事を作ってきたのだ。 管理強化や現場軽視への抵抗闘争と同時に、 改めて現情勢にふさわしい 「職場の民主化」 と教育実践・職場闘争に取り組み、 地域社会に情報発信して欲しい、 と思う。 (既に取り組み始めているのかも知れませんが。)

  

(よこやま しげる 元県立高校教員)

2008年度研究所独自調査について
 当研究所では、 2008年度、 高等学校で徴収している 「私費」 について調査する予定です。 2007年度には、 授業料やその免除について調査しました。 しかし、 生徒や保護者が高等学校に入学して払うお金は授業料だけではありません。
 千葉県では、 入学金が支払えず入学式に出席できなかった生徒がいたことが報道されました。 新聞には、 入学式に、 90,000円を持参するように言われていたと報道されましたが、 入学金は5,650円で、 残りは教科書代です。
 高等学校に入学すると様々な費用がかかります。 振興費等の名目で毎月決まった金額を徴収されますし、 周年行事のための積み立てをしている学校もあります。 1980年代には私費負担軽減の動きが強まった時期もありましたが、 今はどうなっているのでしょうか。
 高等学校の公共性、 という視点で調査していきたいと思っていますが、 読者の皆さんからもご意見をお寄せいただきたいと思います。

(財) 神奈川県高等学校教育会館教育研究所研究所

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