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「神奈川方式」 とどんぶり勘定
新磯高校教員 山崎  譲

 昨年、 教育研究所主催の 「教育討論集会」 に参加した。 テーマは学校間格差と階層差についての独自調査を基に、 受験難易度別に授業料減免者率がどうなっているのかを明らかにしたものだった。 折しも神奈川新聞は社説などでこの取り組みについて報じるとともに教育格差の連鎖に警鐘を鳴らす記事を掲載した。 私も会場から現任校で日頃感じていることについて発言した。 20%もの授業料減免者とそれと同じくらいの数の延滞者。 無利子の奨学金希望者への厳しい成績条件。 家庭の経済的理由のための進学から就職への進路変更やせっかく合格した上級学校への入学辞退…。
 その後特別研究員のN氏から原稿依頼を受け、 いいことも悪いこともお世話になった者としては快諾した次第である。 ところが、 3 ヶ月以上の期間をいただき、 テーマも自由でよいというご好意に甘えすぎたためあわてて書いている。 というわけでこれ以降はとりとめのない文になってしまったことをお許しいただきたい。

「勤評闘争」
 あれこれ迷いながら上記の題を選んだ。 神奈川県に採用になる十数年前の1958年、 今から実に50年も前である。 この頃神奈川にも勤務評定の攻撃が激しくなり、 粘り強い交渉の末12月ついに 神奈川の教育効果の向上を期待し、 教師の自発的意欲を高めることに関する人事行政措置= 「教育活動の記録」 として校長の評定権を拒否し、 教師自身が自己反省記録を記入すること とした勤評であった。 これが世に言う 「神奈川方式」 であった。 しかし、 全国では勤評絶対反対、 規則撤回、 提出拒否で闘われている情況のなかで、 日教組は中央委員会で 「神奈川方式」 を否定した。  また、 知事、 高校長会長、 文部省は揃って 「勤評とは似ても似つかぬもの」 だと激しく攻撃してきた。 こうして、 翌1959年に 神奈川方式 の一切を白紙撤回し、 教育委員は総辞職する事態となった。 その後、 1960年になり安保闘争の年に 「第二次神奈川方式」 が成立した。 これらの記述については 「神高教三十年史」 に詳しく、 「神高教50年史」 でも知ることができるので、 興味のある若手組合員は分会の書庫を探してほしい。
 人事、 給与の管理強化の道具がいつの間にか組合の戦術で教育論議になっていた。 第二次神奈川方式でも段階評価は行わず、 実質的に秘密扱いにしない等の内容であった。 特に校長が記入、 署名、 捺印後に公文書として秘密扱いになるのだから、 という論法で校長室に下書きをぞろぞろ見に行ったものだった。

「主任制反対闘争」
 次に、 1971年に出された中教審答申であるが、 「第三の教育改革」 という鳴り物入りで登場した。 その中心は 5 段階賃金で校長、 教頭、 上級教諭、 教諭そして助教諭というものだった。 1975年には主任を法的に位置づけるとともに、 手当を支給しようとする攻撃が始まった。 この決着は実質凍結ともいえる
 「みなす方式」 と全国的には5000円の手当を3000に値切った上に、 2000円の拠出闘争という結果になった。 その当時手当が支給される主任の公選は80%以上の分会で実現していた。 拠出率は非組合員を含め90%という高い実績を誇った。 その貴重な?お金は県民図書室の書籍や教育文化活動に使われている。
 主任という中間管理職を置き、 手当でも優遇しようという文部省の意図は、 ここでも管理規則の見直しという中で話し合われた。 主任の役割は 「連絡調整」 であり、 「指導と助言」 については命令及び監督は含まれないと明確になっていた。 職員会議についても 「…学校として全教職員の意思の統一を図る場である。」 と前進が見られた。 やはり、 「神奈川方式」 であった。
 勤評、 主任制度化阻止の闘いはその時の政治情勢、 彼我の力関係から絶対反対では阻止することが難しいという判断の下に闘われた。 同時に、 分裂から奇跡的な再建を果たした組織を守ることを大切にした戦術だった。 とはいえ、 主任制度化阻止闘争の時はまだ若かった私も何か不純なものを感じていた。 しかし、 今思うにこのような闘い方は教育委員会を一種のパートナーシップとして、 文部省の攻撃をかわす知恵だった。
どんぶり勘定
 教育現場に必要なことは、 目の前の生徒にどのように向き合うかということである。 早朝から仕事をしなくてはならないこともあり、 夜遅くまで、 時には学校に寝泊まりすることもある。 その代わりに生徒のいない時には早帰りすることもある。 「管理規則」 の改悪により、 勤務の適正化 が図られることとなり、 よき慣行は姿を消し、 ただ 5 時15分まで学校で過ごす教員を創り出した。
  神奈川の教員になりませんか! というポスターを見かけた。 義務制の採用試験の倍率が 3 倍を下回りそうで、 地方での説明会も始めているそうだ。 新任の先生が 4 月、 5 月に辞めたり、 療養休暇をとることも珍しくないという。 いつから教職は魅力を無くしてしまったのだろうか?
 2000年から 「県立高校改革推進計画」 が前期、 後期に分けて始まった。 高校再編とともに、 次々と職場の人間関係を破壊するような施策が行われている。 「新たな校内組織」 である。
 「学校経営」 のために、 これまで教育の場に不可欠だった協力、 共同精神が破壊されている。 総括教諭と校長任命の一部教員による学校づくりが横行している。 止めは昇給と勤勉手当の格差支給である。
 こうなったら一つ、 二つ直すくらいでは埒があかない。 とことん教育現場が荒廃し、 もうやっていけないという状況にならないとこの流れは変わらない。 こんな乱暴な感想を抱きながら筆を置くこととする。
 定年退職を 1 年後に控えて……
 

(やまざき ゆずる)

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