寄稿
技高は二度、 「廃校」 となった  技高廃校30年 (5)
綿引 光友

  1. まえがき
  2. 技高との出会い
  3. 技高廃校と最後の技高生の訴え
     (以上、 37号)
  4. 「奇術高校」 と呼ばれた技術高校
  5. 「特色づくり」 の元祖・技高の特色
  6. 高校と職訓とのドッキング
     (以上、 38号)
  7. 「一昼二夜」 のすれちがい通学
  8. 会社に行くと単位がとれる
      ― 「現場実習制度」 の意義と問題―
    (以上、 39号)
  9. 技高設立の目的と創設までの経緯
  10. 技高構想のルーツをさぐる
  11. 技高発案者たちの教育観
  12. 国の文教政策と技高の誕生
    (以上、 40号)


13 劣悪だった技高の施設・設備
 すでにみてきたように、 技術高校は職業訓練所 (職訓。 1969年以降専修職業訓練校と改称) の施設・設備をそのまま活用したため、 高校とは名ばかりの劣悪な条件のもとで開校した。
(1) 2 年続けてプレハブ校舎の増設工事
 相模原技高は、 東京オリンピックが開催された1964 (昭和39) 年、 横浜技高の相模原分校として、 相模原職訓 (当時は矢部新田長久保133。 現在は淵野辺 2 - 7 - 1 ) に併設された。 そのとき入学した第 1 期生が当時をふりかえり、 次のように記している。
  「当時の母校は 2 教室と職員室・事務室だけで、 実験室・体育館・グランド等もなく、 ないないずくめの状態でした。 (略) 私たちの教室の隣では、 ブルトーザーが整地していて、 授業中騒音に悩まされた。 そして、 1 日の半分は朝登校し、 夜まで机に向かう強行日程であり、 心身ともに疲れ、 苦労しました」 (1)
 開校当時の校舎配置図 (資料 1 ) をみると、 CRと記された教室が 3 教室ある。 また、 同高の沿革概要によれば、 分校開校後の年度末である65年 3 月、 翌66年 3 月と、 2 年連続でプレハブ仮設校舎を 2 教室ずつ、 計 4 教室を新・増設したとある。 初代教頭は 「プレハブという言葉も耳新しいもので、 口に馴染まない時代でした。 (略) 高校の教室にプレハブを利用したのは、 本校がはじめてではないかと思います」 (2) と述懐している。
 筆者は 「『一昼二夜』 のすれちがい通学」 の記述のなかで、 「相模原の場合、 7 技高中唯一の例外と思われるが、 65年度から 3 年間にわたり、 すべての学年 ( 2 〜 4 年) が 『一昼一夜』 登校のままであった」 (3) と書いた。 しかし、 ここではなぜ 「唯一の例外」 であったか、 その理由や背景にまで言及しなかったが、 前述した教室不足の事情をみれば、 納得がいくだろう。
 さらにここで、 64年開校の 3 技高における、 4 学年すべてがそろった67年度における通学日の一覧を示しておこう (資料 2 )。 相模原は金属加工、 自動車整備、 溶接の 3 科 3 クラス編成だが、 驚いたことに同学年の 3 クラスの通学日がまったく違うのである。 このように、 同じ学年の生徒が異なる通学日となっているのは、 相模原だけである。
 一方、 追浜の夜間通学日は 2 〜 4 学年が同一日 (月・木) だが、 秦野の場合、 教室不足のためと思われるが、 夜間通学日が 2 学年ずつで、 3 日 (火・木・金) もある。 うち木曜日は、 昼間が 3 年、 夜間が 2 ・ 4 年と学年は異なるが、 昼夜とも通学日となっている。
(2) 新校舎建設用地の確保
 先に述べたように、 まさにお粗末きわまりない条件の下でスタートを切った相模原技高 (最初は分校) であったが、 66年 3 月、 光が丘 (後に相模原工技高となったが、 総合産業高校への再編により、 廃校となった) に新校舎建設用地を取得したのである。 ここに至る経緯については、 分校開設当初から 「いずれは廃校」 というシナリオが隠されていると 「予感」 した初代教頭 (当時は分校主事) が、 建設用地取得のために奔走したとの 「開校秘話」 がある。 同教頭は次のように書いている。
  「これ (用地取得―引用者) が将来本校に昇格するための不可欠な条件であると読んでいた訳です。 その候補地は市内 6 ヵ所にも及び、 その広さは 5 千坪から 1 万坪前後とさまざまでありました。 いずれにしろ、 時には身分を隠しての勝手な調査ですから、 土地の所有者から詰問されたこともあります」 (4)
 こうした尽力があって、 相模原技高の新校舎建設工事は67年10月からスタートし、 翌68年秋に完成・移転し、 同11月18日、 津田文吾県知事 (当時) も出席し、 落成式が行われた。 同技高の学校新聞 「創造」 第 2 号 (68年12月) には、 以下のような新校舎紹介記事が掲載されている。
 「(略) 実習棟の設備もすばらしいの一語につきる。 とりわけ、 旋盤の並ぶ機械工作科の設備は日本一といわれている。 体育館兼講堂も広く、 運動場は一周400mのコースのとれる広さだ。 総工費約 3 億4000万円の相模原の訓練所と技術高校、 『光が丘』 の地名の如く神奈川の技術の光の丘として、 その発展が期待される」 (5)
(3) 小工場なみの校舎
 相模原と同じく、 64年に大船技高の分校として設立された追浜技高の場合、 どんな状況にあったのだろうか。 同校は、 67年に独立したのと同時に新校舎が完成している (6) が、 それより以前の状況については、 次のように記されたものがあった。
 「当時、 追浜分校の校舎は、 ほとんど朽ち果てた木造の校舎であり、 片隅にはプレハブの工具置き場があった。 一部の生徒はそのプレハブ造りの工具置き場に机、 椅子を運んで教室としていた。 壁に縦 1 m、 横 1.5mぐらいの黒板を吊り下げたのが、 わずかに教室らしい雰囲気を示していた。 この小黒板も、 数学の時間、 ちょっと長い式を書くと、 1 行では書ききれないというありさまである。 学校という雰囲気は全くなかった。 町はずれの小工場といった方がよかった。 その小工場なみの校舎すら、 技高のものではなく、 訓練所の所有であったのだ」 (7)
 また、 分校 2 年目に採用された教員が以下のように述懐している。
 「生徒は、 プレハブ教室で、 真夏のギラギラ照りつける太陽がトタン屋根を焦がし、 教室は蒸し風呂と化し、 夜は周りの湿地や洞穴から発生する蚊の襲撃を受け、 蚊取り線香を焚きながらの授業、 また授業中教室のすぐ側では、 校舎の基礎工事で先生の話す声すら聞き取れない騒音に悩まされながら勉強するという状況でした。 そういう環境に加え、 校地は狭く、 体育の授業すらまじめにできない状態でした」 (8)
(4) グラウンドのない技高
 7 技高の敷地面積および運動場 (グラウンド) 面積を表にまとめた。 一般的に、 高校の敷地面積は 1 校あたり 1 万坪 (33,000u) といわれる。 しかし、 その条件を満たした技高は横浜、 相模原の 2 校だけで、 最も狭い追浜はその 4 分の 1 近くの敷地面積しかない。 しかも追浜技高では、 運動場が存在せず、 道路を隔てた反対側にある市営グラウンドや隣接する小学校の校庭を借りたりして、 体育の授業を実施していた。 したがって、 2 年間、 市営グラウンドが使えず、 一切屋外での体育 (運動) ができなかった学年もあった (9) 。
 これは当時調べたわけではないが、 運動場を持たない高校は、 おそらく全国で追浜技高だけだったのではあるまいか。
 ところで 「高等学校設置基準」 第17条には、 「校地、 運動場、 校舎その他の面積に関する基準は、 第 2 号表による」 とあり、 生徒1人当たり面積が以下のように示されている。 なお、 運動場面積については、 「全面積は15,000平方メートルを下らないこと」 との但し書きがついている。
  校地面積……普通科70u、 工業科110u
  運動場面積…普通科30u、 工業科30u
  校舎床面積…普通科10u、 工業科20u
 ただし同基準第18条には 「夜間においてのみ授業を行なう高等学校の校地及び運動場の面積は、 前条の規定によらなくてもよい」 とある。 技高の場合、 昼間通学日があり 「夜間においてのみ授業を行なう」 わけではないから、 この規定は該当しない。
 つまり追浜技高は67 (昭和42) 年に独立し、 本校となったが、 以来廃校となる76年までの 9 年間、 「設置基準」 違反が放置されたままで存在し続けたのであった。 ある技高校長は、 「わが国技術教育史に特筆さるべき制度」 であり、 さらに 「神奈川県教育史に一つの金字塔を建て10年にしてその栄光の座から消えさらんとしている」 (10) と最大限の賛辞を述べている。 がしかし、 グラウンドのない高校が存在していても、 果して 「金字塔」 と呼べるのだろうか。

14 技高のカリキュラム
 まずは技高のカリキュラム (教育課程表) を示そう。 この当時、 学習指導要領で示された 「卒業に必要な単位数」 は85単位であったが、 ギリギリの単位数であったことがわかるだろう。 だから生徒の立場からみると、 1単位も落とすことができなかったのである。
(1) 実習偏重の専門科目
 85単位中、 専門教科 (工業) が41単位、 普通教科が44単位と、 専門教科の占める割合がおよそ半分近く (48.2%) に達している。 定時制のA工業高校の場合、 総単位数92単位中専門教科が38単位 (41.3%) に対して、 普通教科は54単位 (58.7%) である。 さらに全日制B工業高校では、 専門教科と普通教科の割合は43.1%、 56.9%となっており、 いずれも普通教科の割合は技高と比べ、 高いことがわかる。
 次いで技高のカリキュラムを学年進行に沿ってみていくと、 1 年次は職業訓練所との併修ということから、 専門教科27単位に対し普通教科が10単位と、 専門教科が普通教科の3倍近くになる。 逆に 2 年次以降になると、 普通教科が12〜10単位、 専門教科が 4 〜 6 単位という具合に、 普通教科の割合が大きくなる。
 一般に、 低学年では基礎学力を修得するために普通教科を多くし、 学年が上がるにつれて専門教科の単位数を増やしていくが、 技高の場合、 これが全く逆転していたのである。
 さらに、 専門教科中に占める実習の割合だが、 技高の場合、 全体で41単位中26単位と 6 割を超えている。 1 年次だけに限ってみると、 27単位中20単位とおよそ 4 分の 3 を占める。 一方、 工業高校の場合は、 全日制で25.0%、 定時制では23.7%といずれも 4 分の 1 程度にすぎない。 技高がいかに実習偏重のカリキュラムを編成していたかがよくわかるであろう。 県教委が各技高に示した学習指導方針の 1 つに、 「職場において作業ができる基礎技術を習得させる」 (11) という項目があるが、 そのねらいが実にわかりやすく、 しかもストレートに表現されている。
(2) 英語がたったの 3 単位
 次に、 普通教科の中身をみていくことにするが、 各科目の単位数を工業高校のそれと比較すると、 一目瞭然となる。 国語、 社会、 理科、 保健体育はほとんど変わらないが、 数学は工業高校が10〜12単位であるのに対して、 技高は 7 単位しかない。 しかも、 数学T( 5 単位) は 3 年間の分割履修なのである。
 さらに際だっているのは英語で、 技高における単位数はわずか 3 単位しかない。 工業高校では、 全・定とも 9 〜10単位であるから、 技高はそれらの 3 分の 1 にしか及ばない。 当時の指導要領では 9 単位が標準単位数であったが、 「特別な事情がある場合には 3 単位まで減ずることができる」 との但し書きがあった。 当時、 全国調査をしたわけではないので断定できないが、 「英語 3 単位」 というのは全国最少記録ではなかろうか。
 3 単位英語は 1 〜 3 年次で 1 単位ずつの履修となり、 4 年次ではゼロとなる。 当時、 ある技高で使用されていた英語の教科書の目次 (12) を次に示そう。 英語担当教員のコメントによれば、 中学 1 〜 2 年程度の内容で、 中学校で英語を学習していない者を対象にした教科書ではないか、 とのことだった。
1. This is a car.
2. What is this.
3. I am a boy.
4. We are brothers.
5. There is a dish.
6. Where is your school?
7. How tall are you?
8. I have a ball.
9. Do you know him?
10. Wait.
11. What time is it?
12. The days of the week.
13. Kate is walking.
14. I can swim.
15. We are going to skate.
 ある英語科教員が次のように書いている。
「教員仲間と歓談中、 1 人が持ち時間数をたずねたので、 『 3 時間』 と答えた。 『 1 日だろ?』 『いや週 3 時間だ』 相手の怪訝な表情の中に羨望を見た私は、 『技高』 の内容を説明しようと思って、 やめた。 この私でさえわかるまで 1 年はかかったのだから」 (13)
(3) 訓練種目を高校単位に読み替える
 7 技高には、 以下の 9 科が設置されていた。
機械工作科= 7 校、 270人、 機械仕上科= 6 校、 230人、 溶接科= 4 校、 150人、 金属加工科= 2 校、 80人、 機械製図科= 2 校、 70人、 自動車整備科= 2 校、 80人、 電子技術科= 2 校、 80人、 電気工作科= 2 校、 80人、 印刷科= 1 校、 30人、
 技高開校時の63年には、 建築製図科が川崎にあったが、 65年以降、 廃止された。 機械工作科は、 すべての技高に設置されているが、 印刷科は横浜技高にのみ設置されている学科である。
 ここで、 機械系 5 学科の専門科目名および単位数を一覧にまとめてみたが、 あまり大きな違いがないことがわかる。 ここでは追浜の機械工作科の例を示したが、 川崎技高では、 機械仕上科と機械工作科の専門科目の名称および単位数が全く同じなのである。 つまり、 カリキュラム上から見ても、 この両科の区別がつかないことになる。
 資料 5 をみればわかるが、 機械工作という科目は機械実習と並んで、 すべての学科において履修することになっている。 いずれも1年次の訓練科目が読み替えられたものだが、 同じ機械工作といっても、 その内容は溶接科と機械工作科とでは違っている。 以前にもふれたので、 繰り返しになるが、 溶接科の場合、 電気溶接法 (110時間) とガス溶接法 (65時間) という 2 つの訓練科目 (計175時間) を機械工作 5 単位分に、 さらに機械工作科では、 機械工作法 (110時間) を機械工作 2 単位分という具合に、 訓練科目を高校科目として読み替えている。 しかも今見たが、 溶接科では、 機械工作が電気溶接法とガス溶接法というように、 看板と中身が全く違っているのである。
 これらの事実は、 昨年来の流行語で言えば、 まさしく 「偽装」 と呼んでもよいだろう。 牛肉が入っていなかった 「牛肉コロッケ」 のように、 1 年次の専門科目は、 職業訓練法にもとづく訓練科目を寄せ集め、 高校の指導要領にある工業科目に読み替え、 単位認定するという、 「偽装」 が堂々と行われていたことになる。 さらに言えば、 溶接科では 2 つの訓練科目をあわせた時間数は175時間で、 これはぴったり 5 単位分として計算できるが、 機械工作科の場合、 2 単位分ならば70時間でよいはずだが、 訓練科目 (機械工作法) では110時間と 3 単位分以上もあり、 時間数で言えば40時間もオーバーしているのである。
 以上見てきたように、 技高では 「教育的配慮」 とは全く逆行した、 きわめて不適切なことがらがゴロゴロしていたのである。

15 技高生から見た技高制度
前々号でも何度か引用したが、 「技高生ブルース」 は次の一節から始まる。 「おいで皆さん聞いとくれ/僕は悲しい技高生/鉄をかむよな味気ない/僕の話を聞いとくれ」
 そこで本章では、 手元に残る卒業文集や生徒会誌などに記された技高生の作文や意見をピックアップしてみる。 長い引用となり、 読みにくいかもしれないが、 生徒自身が書いたものを見ていただくことにより、 彼らの生活ぶりや悩み・苦しみを理解する一助になるのではないかと考える。 もちろん、 十人十色といわれるように、 さまざまな技高生がおり、 考え方もいろいろであるから、 ここで紹介する声もそのなかの 1 つの考え方・意見ということで受け止め、 読んでいただけたら幸いである。
(1) ある卒業文集から
 「ぼくは、 昭和42年 4 月、 一度も聞いたことのない高校に入学した。
 1 年の時、 いつ気がついたか思い出せないが、 訓練生 3 分の 1 、 技高生 3 分の 2 で 1 クラスとなっていた。 ぼくはショックだった。 これでも高校かと。 もっと絶望させたことは、 勉強。 それは、 ぼくには中学の復習にしか思えない勉強であった。 1 年の後半ごろから、 ぼくは家に帰って、 試験前日にしか本を開いたことがない。 今でもそうである。 そのころから学校へ行くのが気のりしなかった。 しかし、 何よりのささえであったのは、 3 級整備士を取ることであった。 そして取った。 うれしかった。
そして 2 年、 就職した。 仕事に体全体で体当たりして働いた。 くたびれた。 そのころから、 仕事の方が勉強より楽しかった。 そのころから学校を休むようになった。 学校へ行っても、 中学の復習と思うから足が会社を選ぶ。 そういうのが 2 年の時だった。
 3 年。 いっそう学校がつまらなくなる。 しかし、 そこで同じアパートの先輩が大学進学しようというので(そこまでくるにはいろいろあった)、 テレビ講座などで勉強を始めた。 しかし、 自分 1 人ではとても追いつけなかった。 3 年半というブランクでテレビ講座にも追いつけない。 悲しかった。 そういう時が 3 年生である。
 4 年になり、 大学進学はあきらめた。 現在に至っているわけだが、 誘惑は多い。 酒は飲む。 たばこは吸う。 いいことない。
 ぼくは技高へ入り、 ある面ではよかったし、 ある面では悪かったと思っている。 良い点、 それはただ 1 つ、 整備士の免許だけである。 ぼくが弱いために、 技高をそういうふうにしか見られない。
 ぼくは技高に入る前は、 夢があった。 しかし、 その夢はむざんにひきちぎられた。 今は平凡な夢しかやどらない。 ぼくは皆に現実的だ、 夢がないなどといわれる。 しかし今の立場で、 どうやったら大きな夢、 平凡でない夢が見られるか、 ぼくにはさっぱりわからない。」 (14)
 続けて、 もう 1 人の技高生の文章を掲げる。
「あれから早くも 4 年もたってしまった。
 入学のとき、 各方面から多くの人たちが集まってきた。 これから 4 年間やっていく人たちだ。 いろいろ、 期待、 不安その他いろいろの複雑な気持ちを感じながら、 1 年間が早く終わってしまった。
 成績、 態度、 すべてOK。 2 年目に入ると、 いろいろみんなの良さ、 欠点がほぼわかってくる。 そして社会に出ることになる。 苦しい、 たいへんだ。 昼、 会社でもまれて、 夜、 学校で授業を受ける。 俺にとって初体験のことで、 どうやって行けば良いのか、 いろいろ考えた。
 やがて、 3 年に入る。 みんなの顔を改めて見る。 ずいぶん減ったものだ……。 たしか 2 年前、 俺の知っている限りでは、 訓練生をまぜ、 約50人はいたと見た。 ところが今は、 なんと20名。 ずいぶんやめていってしまったものだ。
 やめてこの学校を出たものは、 今ごろ何をしているのだろうか。 俺たちは、 卒業までガンバルつもりだ。 決してやめはしない。 つらいことをここまでやって来たのだから、 ぜったいに……。
 そして 4 年。 この学校も最後の年になってしまった。 俺もよくここまで、 やってこれたものだ。 いろいろあったし。 でも、 うれしい 4 年間は短いようで、 長い。 または長いようで、 短かった。
 今残っているのは、 20名。 みんなここまでやって来れたのだから、 一緒になってここを出たいものだなあ」 (15)
 およそ30年ほど前の卒業文集を読み返しながら、 改めて、 技高制度とは何であったのか思いを巡らせたが、 なかなか整理がつかない。 迷路に足を踏み入れたまま、 出口が見い出せないという気分に似ている。
卒業文集には、 卒業生の全員 (書いた時点では卒業予定者) が 4 年間の思い出などを綴っているが、 中には数行程度しか書かれていないものもある。 また手元に残る数冊ほどの文集の中で、 たった 1 人だったが、 「?マーク」 をいくつも並べただけで、 一言も文章を書いていないものがあった。 本人の立場にたって考えれば、 なんと表現したらよいか、 自分でもわからない 4 年間であったからなのかもしれない。
(2) おまえの行ける高校は技高だけ
最初に示した卒業生の文に 「一度も聞いたことのない高校」 との表現があったが、 技高がどういう高校かよく知らないで入学した生徒も少なくなかった。 もう 1 人の卒業生が書いたものを以下に記す。
 「私は、 中学校の先生に言われた。 おまえの行ける高校は追浜の技高しかないと言われ、 私は技高がどんなところかも知らずに入学しました。 最初はこんな私でも、 高校に入れたのかな、 なんて思って、 まじめではなかったけれど懸命にがんばりました。
 1 年間が終わって 2 年目。 2 年目からは、 会社に入って仕事をしながら、 勉強するのです。 学業はいつもビリ。 こんな私でありましたが、 会社に入って 1 年目に、 努力賞などというものをいただきました。 うれしかったです。 でもその反面、 社会のむずかしさも見たような気もしました。 (略) 技高の 4 年間で私は、 ほんの一部ではありますが、 世の中のしくみが多少でもわかるようになりました。 少しなまいきかな。
 でも世の中って、 シベリアの風より寒い風のように感じます。 でも、 自分の思ったとおりに進んでいきたいと思うのであります。 技高を出たって、 私の 4 年間はダメでした。 何にもしないで終わるような気がします。 ただ座っていれば、 卒業できるなんて思っていましたから。 でもこれからは、 立って歩かなければなりません。 (略)」 (16)
 「技高に入学したと思ったら、 訓練所だった」 など、 入学直後、 生徒はいくつかのカルチャー・ショックに見舞われる。 これは、 中学校における進路指導の不十分さに起因するところが大きい (17) 。 「おまえが行ける高校は技高だけ」 と露骨に言われた生徒がどれだけ傷つくか、 中学校の教員には考えられないのであろうか。
 1 年次の夏休みは、 たったの10日間であった。 2 年次以降は 3 週間だが、 実質は 3 日。 わずかな夏休みも、 学校で認定した休みにすぎないから、 会社に出勤せざるをえない生徒が多かったと思われる。
(3) 会社と学校の両立に悩む技高生
 2 年生からは職業安定所の斡旋により、 関連企業に就職し、 いわゆる 「一昼二夜」 の通学が始まる。 「技高生ブルース」 にあるように、 2 年生になると 「ガタッと変わる 2 年生」 と言われるようになり、 生徒は学校と会社との両立に苦しめられるのである。
 「ともすれば忘れがちな学校、 朝 7 時に家を出て、 会社へすべり込む。 4 時頃仕事を終わり、 学校へ急ぐ。 8 時45分に終わり家に帰り、 予習・復習するでもなく寝てしまう。 そんなことが週 2 日、 水曜日は全日制であるから、 それほど苦にはならない。 朝学校へ行って、 会社のことや何かを友人たちと話し合い、 結構楽しい。 しかし会社に行くと、 何か重いものがのしかかるような気がしてならない。 われわれは社会人であるのか、 学生であるのか。
 会社では右手にドライバーを持ち、 左手にスパナを持ち、 1 日中機械に取り組み、 学校へ行けばエンピツを持つ。 (略)
 われわれは社会人であるのか、 また学生であるのか、 どちらか一方をとれというのか。 このような環境じゃ、 とりようがないと思う。 学校の方に力を入れ、 会社はどうでもいいのか。 また会社の方に力を入れ、 学校の方はそっちのけで行くか。 これを両立させるには大変なことである。
 中には、 途中で落ちていくものも何人かいる。 私はあのようになりたくない。 スパナ、 ドライバーを持つ手で何かをつかみ、 学校と会社を両立させたい」 (18)
 高教組が行なった生徒意識調査によれば、 「働かないと経済的に学校を続けることが困難」 と答えた生徒が16.7%であるのに対して、 「それほど困難でない」 52.3%、 「必要なし」 31.1%となっている (19) 。 つまり、 8 割を超える大半の技高生は働かなくてもよい家庭環境にありながら、 技高制度が持つ単位認定のしくみにより、 2 年次より会社に就職させられる運命にあった。 しかも、 「現場実習単位認定制度」 があった1970年度までは、 学科と関連の深い会社で働かなければ、 技高を卒業することができないという、 職業選択の自由を侵害しかねないような 縛り もあったのである。        (次号につづく)

【注および参考文献】
(1) 県立相模原技術高等学校 『創立10周年記念誌』 1974年 5 月。
(2) 前掲書 (1)。
(3) 拙稿 「技高は二度、 『廃校』 となった (3)」 『ねざす』 第39号、 2007年 5 月。
(4) 県立相模原工業技術高等学校 『創立十周年記念誌』 83年10月。
(5) 県立相模原工業技術高等学校 『創立30周年記念誌』 93年10月。
(6) 1967年 6 月 3 日に、 本校昇格ならびに校舎落成記念式が行なわれている。
(7) 神奈川高教組追浜技高分会 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』 75年11月。
(8) 前掲書 (7)。
(9) 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 73年8月。
(10) 前掲書 (1)。
(11) 県教育委員会 「技術高等学校の学習指導について」 65年 2 月。
(12) 拙稿 『神奈川県立技術高校の実態と問題点』 72年 7 月、 B 5 サイズ、 33ページのガリ版刷り冊子。
(13) 前掲書 (7)。
(14) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま―第4回卒業記念―』 71年 3 月。
(15) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま―第 8 回卒業記念―』 75年 3 月。
(16) 前掲書 (14)。
(17) 高教組技高対策会議が70年 2 月に実施 (公表は 4 月) した 「技術高等学校生徒の意識調査」 (調査対象は 7 技高2,115人) の質問項目に、 「中学の進路指導で技高の説明は十分であったか」 という項目があったが、 その結果は以下のとおり。 「十分であった」 2.7% (58人)、 「まあまあ」 27.6% (583人)、 「不十分であった」 66.6% (1,396人)。 3 分の 2 の生徒が 「不十分」 と答えている。
(18) 県立川崎技術高等学校 『ともがき』 第4号、 70年 3 月。
(19) 高教組技高対策会議 「技術高等学校生徒の意識調査」 70年 4 月。 ただし、 この項目は4技高789人分を集計したものになっている。

 


(わたひき みつとも、 元県立高校教員)
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