バトンリレー 研究所員による 「書評」
『格差をなくせばこどもの学力は伸びる』
〜驚きのフィンランド教育〜
福 田 誠 治 著 (亜 紀 書 房)
金沢 信之

■ フィンランドは新自由主義と社会民主主義のハイブリット社会、 日本は新自由主義と新保守主義の格差社会。

■ 学力低下が話題になるたびにPISA (OECD生徒の学習到達度調査、 Programme for International Student Assessment、 頭文字をとってPISAと略される。) が持ち出される。 確かに、 2000年、 2003年、 2006年を比較するとその低下は顕著である。 科学的リテラシーが 2 位→ 2 位→ 6 位、 数学的リテラシーが 1 位→ 6 位→10位、 読解力にいたっては 8 位→14位→15位という結果である。 このような状況に対処するために、 ゆとり教育を見直すとして、 授業時間の増加、 削減された学習内容の復活、 総合的な学習の時間の見直しなどがとりざたされている。 (学習指導要領が全面改定される。 高等学校は2013年完全実施の予定。) さらには教員免許の更新制や人事評価などの改革も進行している。
 だが、 このような方法では、 少なくともPISAの順位は上がらないだろう。 PISAが要求する学力を向上させるためには、 知識の詰め込みだけでは無理だからである。 PISAがめざす学力観に近い総合的な学習の時間を削減したり、 その内容を教科学習に近づけたりでは、 あまり効果は期待できない。 そして、 教師の自発性を削ぐ管理強化は、 教師の力量を低下させるだろう。 フィンランドの教師は自由と自発性が尊重され、 自らの能力を高めている。 教師の力量の向上こそが生徒の学力向上へと結びつく。

■ さて、 PISAといえば、 高順位にいるのがフィンランドである。 とりあえずフィンランドの名前は知っていても、 その実際となるとなかなか詳細には分からない。 福田氏はフィンランドがその学力観や教育システムを転換した状況について次のように語る。 「フィンランドでは、 学力観の転換が、 社会民主主義を土台にし、 規制緩和・分権化という新自由主義の動きを受けて、 1990年代前半に徹底することになる。」 しかし、 新自由主義は良い意味での教育改革を我々に思い起こさせない。 それは氏が言うように、 教育を商品と同じようにとらえる市場原理主義が、 日本を席巻しているからである。 また、 新自由主義と市場原理主義は同義であり、 強者の論理であり、 少なくとも教育に対してはマイナスのイメージを多くの人が感じているからでもある。 まさに、 「学力低下問題は教育に市場原理を導入するための露払いとなった」 という氏の見解は妥当なものである。 その結果、 学校は運営される場所ではなく、 経営する場所と説明されることともなった。 学習者は利用者であり、 顧客・消費者として位置づけられ、 学校と個人の双方に選択と競争が持ち込まれてきた。 社会民主主義が個人を尊重し、 学習者を 「権利主体」 と位置づけているのとは大違いである。
 フィンランドでは社会民主主義が土台となって改革が進行したため、 「現場に権限を降ろし格差をなくすように市場原理を抑制する」 ようになった。 具体的には、 「教える教育から学ぶ教育」 へと教育観が転換し、 教科書検定や視学官制度など監視・査察体制も廃止され、 管理や監視の無駄がなくなり、 少人数学級が実現したという。 (教員に対する人事考課はなく、 生徒には授業料の無料をはじめ、 手厚い経済的援助がある。) では日本はどうか。 氏は新保守主義を土台にしていると語る。 新保守主義は 「格差を前提に、 少数者が特権を保持できるように管理」 する。 まさに現在の格差構造であり、 日本の教育問題の根源に潜む課題、 つまりは経済的な格差が、 子どもの進路を決定する状況に通じている。 しかし、 フィンランドでは子ども達は地元の学校に通い、 国際比較でみても学校間格差は小さい。 社会的・経済的な格差を福祉国家が消しているのである。 社会的・経済的な格差によって教育の機会を奪われることはない。
 それに反して、 日本では規制緩和によって学区がなくなり、 学校選択の自由が広まっている。 そして、 教科書検定は依然として強固に続いているし、 文科省を頂点としたピラミッド型の管理体制は、 地方分権が進んでいるはずなのに、 以前にも増して強化されているように思える。 また、 学校教育法が改正され、 教育現場に職務職階が持ち込まれ、 管理強化が一層進行しそうなことも、 フィンランドとはあまりに違いすぎる。

■ フィンランドの教育の特徴の一つとして、 氏は社会構成主義をあげる。 「構成という活動は、 孤立した個人の活動ではなく、 社会的な脈絡、 すなわち社会的な人間関係の中で起きてくる。」 つまり、 社会構成主義で得られた知識は、 「協同の知」 と呼べるものであるという。 学習形態としては、 教科横断的な課題解決型を取ることが多い。 また、 義務教育段階の学力について、 フィンランドをはじめEUは、 「コンピテンシー」 という概念で定義している。 学力を実践的な能力でとらえ直し、 三つのキー・コンピテンシーを取り出した。 その中の一つが 「相互交流的に道具を使用する能力」 であり、 道具として 「言語、 情報、 数学、 科学、 技術」 などをあげる。 PISAは現代の社会と産業に深い結びつきのある 「言語・情報、 数学、 科学」 について、 リテラシー ※ という形で測定することにした。 二つめが 「異質集団内で相互交流する能力」 であり、 これによって習熟度別学級が否定された。 三つ目は 「自立的に行動する能力」 であり、 批判力とともに自律的に行動することが必要条件とされた。
 このような氏の説明を概観すると、 日本がPISA型の学力を向上させることの困難性が浮かび上がる。 社会民主主義とはほど遠い日本社会。 学力は系統的な教科学習を基盤としたものであり、 それを必要とする進学圧力も強い。 能力別・習熟度別編成も進行している。 では私たちは何ができるのか。 今後、 急速に社会民主主義が主流となり、 福祉国家に日本が転換するとも思えない。 このような閉塞感を乗り越える何か具体的なビジョンがほしい。 また、 産業界の要請に基づく学力観に危うさは無いのか。 フランスではかなりの批判があった事が紹介されているが、 このあたりについてはさらに客観的に分析する必要もあるような気がした。 しかし、 とりあえずフィンランドの方が、 日本よりは魅力的であるのは確かなことだ。
※ ・PISA調査では、 義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、 実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。
  (特定の学校カリキュラムがどれだけ習得されているかをみるものではない。)
 ・PISA調査では、 思考プロセスの習得、 概念の理解、 及び様々な状況でそれらを生かす力を重視。 (http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/07032813.htm 国際学力調査−文部科学省〜2006年調査国際結果の要約〜より)  

■ また、 本書には、 日本にもPISA型の学力観が戦後一時期存在し、 現在と同じように学力低下論が登場したことも紹介されている。 学力低下論争は今に始まったことでない。
 さらに、 総合的な学習の時間が失敗したことについての整理もあり、 このあたりの流れを概観するための良書であると言えよう。 そして、 本書の中心をなすフィンランドの学校や生徒・教師の具体的な日常風景は、 日本の現状からは想像もできないものであり、 学校関係者にとっては、 理想の形態に近いものとして受け止められるだろう。 行政がPISA型の学力向上をめざすのなら、 このあたりをぜひとも参考にしてもらいたい。
 同氏の別の著作である 「競争しても学力行き止まり イギリスの教育の失敗とフィンランドの成功 (朝日新聞社)」 は、 イギリスの失敗について、 分かりやすく整理してある。  日本において進行中の教育改革がイギリス型であり、 日本がイギリスを反面教師として学ぶべき点が多々あることが分かる。 両書を読むことで、 日本の教育を時間の縦軸と世界の横軸といった広い視野で見つめ直すことができ、 問題のありかが明瞭になるのではなかろうか。
福田誠治 (ふくだせいじ) 
1950年岐阜県生まれ。 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。  現在、 都留文科大学比較文化学科教授。

 (かなざわ のぶゆき 教育研究所員)
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