所員レポート
こんなに違う 「日本史」 教科書の記述
−「荻原重秀」 はどう書かれているか


 

阪本 宏児

日本史教科書のバリエーション
 昨2007年は、 またも歴史教科書が大きな注目を集めた年となった。 5 社 7 冊の高校教科書 (日本史A・B) における沖縄戦での 「集団自決」 の記述に関し、 文部科学省は検定意見を付して書き直しを求めた。 住民が 「自決」 に追い込まれた背景は曖昧化され (1) 、 沖縄では大規模な抗議行動も起きた。 家永教科書 (三省堂 『新日本史』) の検定 「不合格」 以降、 半世紀近くを経てもなお、 歴史認識をめぐる教科書検定の問題は絶えることがない。
 ところで、 学校単位で採用教科書が決定される高校の教科書は、 中学校用と比べて種類が多い。 2007年度は、 中学社会の 「歴史的分野」 8 社 8 冊に対し、 「日本史A」 6 社 7 冊、 「日本史B」 7 社11冊を数えている。 「集団自決」 をとりあげ、 なおかつ日本軍による強制性を明記した教科書は、 全体の 3 割以下に過ぎないという見方もできるわけで、 日本史教科書の内容は結構多様なのだ (実際には山川出版社の 『詳説日本史』 が 6 割近いシェアを占め、 独占状態にあるのだが)。
 また豊富な選択肢に加え、 事実上教員による主体的な採用が可能な高校現場は、 採択地区での共同採択が行なわれている義務制と比べて、 行政権力による 「不当な支配」 (旧教育基本法第10条、 現行法第16条) からの独立性も格段に保証されているといえよう。

武士はいつから登場するか
 歴史認識にかかわる検定は、 近現代の戦争や植民地支配、 あるいは前近代に属する事項であっても、 天皇制ないし日本国家の政治的正当性に結び付く内容が中心となってきた (2)。 しかし、 今日における日本史教科書の多様性の真骨頂は、 検定のターゲットとなりやすいかかる主題よりも、 前近代史の構成・記述にあらわれているように思えてならない。 戦争認識ではさしたる差異のない教科書どうしであっても、 古代〜近世にかけては、 執筆者の歴史的評価・解釈の相違が明瞭に反映している部分を読みとることができる。
 一例をあげてみたい。 古代から中世への社会的変容は、 荘園公領制とよばれる土地制度の成立をもって説明される。 武士の発生とも関係が深く、 中世史研究ではきわめて重要なテーマであるが、 おそらくこのあたりは高校生にとって、 そして多くの教員にとっても、 最も難解な内容なのではなかろうか。 荘園公領制と武士の発生をめぐる、 「日本史B」 主要教科書 (A 5 判400頁前後のタイプ。 いずれも2007年度版) の差異を比較してみよう。
 実教出版 『日本史B』  「原始・古代」 編の最後、 第 4 章を 「摂関政治と荘園公領制の展開」 とし、 武士の発生は 3 節 「武士団と荘園公領制の展開」 で荘園公領制とセットにして説明している。
 三省堂 『日本史B』  全体を前近代と近・現代の二部構成とし、 第 6 章 「古代から中世へ」 の 1 節を 「荘園公領制の展開」 とする。 しかし、 「武士の登場」 は第 5 章で説明されている。
 桐原書店 『新日本史B』  第 1 編 「原始・古代」 の最後、 第 3 章 「古代国家の推移と社会の変化」 のなかに、 5 節 「荘園の発達と武士の台頭」 を置く。 荘園公領制も武士の発生も同節で解説している。
 東京書籍 『日本史B』  「中世」 編の最初、 第 5 章 1 節を 「院政と荘園公領制」 とするが、 「武士の登場と成長」 は 「原始・古代」 編の最終章に位置付けられている。
 山川出版社 『詳説日本史』  第 2 部 「中世」 の最初、 第 4 章 「中世社会の成立」 の冒頭で荘園公領制の内容を扱っているが、 本文中では 「荘園公領制」 という用語を一切使用していない。 一方、 「武士の成長」 は第 1 部 「原始・古代」 の最後、 第 3 章の最終節で述べられている。
 山川出版社 『高校日本史改訂版』  第 1 部 「原始・古代」 の最後に 「荘園の発達と武士の台頭」 という節を立て、 荘園公領制の内容と武士の発生をセットで説明している。 『詳説日本史』 同様、 「荘園公領制」 という用語は使用していない。
 強引に整理すると、 6 冊いずれも 「武士」 「武士団」 は古代編の最後で登場するが、 それと不可分な荘園公領制の解説は、 古代編で同時に行なう場合と、 続く中世編で行なう場合とに二分される。 さらに 「荘園公領制」 という概念も、 章の見出しに使う教科書がある一方、 用語として採用すらしていない教科書もある。 何をもって 「古代」 とし、 また 「中世」 とするのかという、 編者・執筆者の歴史観を端的に物語る、 大変興味深い相違点と思われるが、 高度な専門性とかかわる領域でもあり、 何より 「集団自決」 のような個別事象の具体的解釈をめぐる相違ではない。 歴史教育の場で実際的な影響が出来する状況は考えがたく、 このような差異が通常耳目を集めることはない。

『勘定奉行 荻原重秀の生涯』
 しかし前近代における個別事象において、 執筆者の解釈や評価の違いが明瞭に表現された箇所もある。 前置きが長くなってしまったが、 ここからが小稿の本題である。
 昨年刊行された村井淳志 『勘定奉行 荻原重秀の生涯』 (集英社新書、 以下 『生涯』) は、 日本史教科書の記述の多様性を改めて確認させてくれた。 近世史研究者を別にすれば、 「荻原重秀」 と聞いてピンとくるのは、 おそらく私のような日本史の教員と一部の高校生に限られるだろう。 書店で平積みされていた新書の書名にこの人物の名を見つけたとき、 珍しさからすぐに手にとった。
  「ケインズより200年も早く今日の貨幣経済を先取りした男の謎!」 と書かれた帯を見て、 著者の執筆意図はすぐにわかった。 荻原重秀という人物は、 いわば教科書に登場する 「悪役」 の代表である。 一昔前であれば、 江戸時代の悪徳政治家と聞いて誰もが思い浮かべるのは、 老中田沼意次ではなかったか。 田沼時代に対する評価は、 遅くとも90年代には大きく転換し、 汚職や賄賂の横行ばかりが強調されるような教科書記述は、 いまやまったく見られない (3) 。 だが、 荻原は違う。
  「荻原重秀 (1658〜1713) は、 5 代将軍・徳川綱吉治世の元禄 8 年 (1695)、 江戸幕府勘定吟味役として、 日本史上初めての大規模な貨幣改鋳を指揮した人物として名高い。 高校の日本史の教科書には荻原重秀と、 太字ゴチックで書かれているから、 受験勉強で暗記した覚えのある人も多いだろう。 教科書や概説書では、 荻原重秀の名前のあとには必ず、 「幕府は改鋳による差益で莫大な収入を得たが、 物価騰貴を招き、 経済を混乱させた」 などといった否定的な記述が続いている」 ( 「序章 評価分かれる荻原重秀」 『生涯』)。
 自分自身の授業を振り返っても、 金銀含有量を下げた 「出目」 によって差益を得ようとした重秀の 「単純」 な経済政策は、 当然インフレを招いて失敗した、 と説明していた。 私が授業で江戸時代中・後期を扱ったのは、 直近でも 6 年以上前になってしまうのだが、 私のなかで荻原重秀は、 疑いなく 「無能」 な政治家であり続けていた。
 詳述は避けるが、 『生涯』 は知名度 (教科書では太字扱い) の割にじつは不明な点も多い重秀の生涯を丹念に探りつつ、 歴史教育で流布している彼の経済政策への低評価、 そのほとんど的外れといってもよいほどの不当性を、 丁寧に、 しかし鋭く明らかにしている。 そして歴史推理的な趣を加味しながら、 今日のごとき重秀像ができあがった黒幕には、 あの新井白石がいたこと、 当の白石の貨幣観といえば、 「天災がうち続くのは、 貨幣改鋳というまちがった政策のせい」 だとか、 「家康時代の幣制に戻せば、 家康時代のように金銀生産量も増加する」 などといった、 まさに儒者の面目躍如 (?) たる非科学的代物であることが説かれている。
 ともかく、 一人の歴史的人物の事績をここまで評価しなおし、 ドラスティックに転換させた本書の意義は相当に大きいのではなかろうか (4) 。

日本史教科書のなかの 「荻原重秀」
 そこで、 改めて手元の教科書で荻原重秀の説明を確認してみることにした。 現任校で06年度から採用している実教出版 『日本史B』 を一読して驚いた。 記述を以下に引く。

 「綱吉は、 財政難を解決するために、 ひきつづき代官の綱紀をひき締めるとともに、 荻原重秀を勘定吟味役 (のち勘定奉行) に登用して諸改革を実施した。 重秀はまず、 このころ産出量が最高に達していた銅の輸出を奨励して長崎貿易の増大をはかったほか、 貿易業者・酒造業者や金箔の座などに、 営業税である運上をかけて増収をはかった。 さらに貨幣改鋳をおこない、 慶長金銀よりも金銀含有量をさげた元禄金銀などを鋳造して、 その差額 (出目) を収益とし、 銭貨についても十文の大銭 (宝永通宝) を鋳造したB。 しかし、 通貨の流通に混乱をまねき、 物価上昇をひきおこした」。
 欄外B 「荻原重秀は、 貨幣は実質の価値がなくとも信用の裏付けがあればよいと考えていた。 しかし、 品質の異なる通貨をつぎつぎと発行したことや、 品質の悪さがきらわれ、 彼の政策は成功しなかった。 また、 かれが銀座の商人とむすびついていたことも非難された」 (第 8 章幕藩体制の動揺と文化の成熟 1・幕府政治の展開 「綱吉の政治」)。

 これは予想外の説明である。 改鋳政策以外の経済改革についても詳述しており、 名目貨幣論者であった事実までもが欄外の註で補われている (5) 。 もしもこうした記述が一般的なものであるなら、 私の認識が時代遅れということになるし、 教科書記述に関する 『生涯』 の説明も不適ということになる。 他の教科書からも当該箇所を引用してみよう。
 三省堂 『日本史B』   「しかも金銀の産出量が激減していたので、 幕府は、 勘定吟味役 (のち勘定奉行) 荻原重秀の意見をとり入れ、 慶長小判に錫や銅をまぜた貨幣価値の低い元禄小判を大量に発行しておぎなったが、 貨幣の信用が落ちて物価上昇などの経済混乱がおこった」。
 桐原書店 『新日本史B』   「そこで幕府は勘定吟味役荻原重秀の意見を入れ、 金銀貨幣を改鋳して品質を落とし、 その差益 (出目) を幕府の収入とすることで、 一時的に財政危機を切り抜けようとした。 そのため経済が混乱して物価の高騰を招き、 一般武士や庶民の生活が脅かされた」。  
 東京書籍 『日本史B』  「勘定吟味役 (のち勘定奉行) の荻原重秀は、 慶長金銀を改鋳して品質の悪い元禄金銀を発行して差額分を幕府の歳入とした。 しかし、 この政策は物価の上昇をまねき、 武士や庶民の生活は困窮した」。
 山川出版社 『詳説日本史』  「そこで勘定吟味役 (のちに勘定奉行) の荻原重秀は、 収入増の方策として貨幣の改鋳を上申し、 綱吉はこれを採用した。 改鋳で幕府は金の含有量を減らし、 質のおとった小判の発行を増加して多大な収益をあげたが、 貨幣価値の下落は物価の騰貴を引きおこし、 人びとの生活を圧迫した」。
 山川出版社 『高校日本史改訂版』  「そこで、 幕府は質を落とした元禄金銀を大量に発行した。 増発された貨幣により財政は一時的にはうるおったが、 貨幣1枚あたりの価値が下がったために物価は上がり、 生類憐れみの令への不満とともに、 人びとの政権への不満が高まった」。
 5 冊とも大同小異である。 やはり、 相変わらず重秀の貨幣政策は否定的に述べられていた。 物価上昇を招いて人びとを困窮に陥れた 「主犯」 であることが簡潔にまとめられるにとどまり、 実教 『日本史B』 の個性が際立つ結果となった。
 『生涯』 で参照される、 重秀に対する評価を転回させた最初の例は、 大石慎三郎 『江戸転換期の群像』 (東京新聞出版局、 1982年) である。 勝手な推測に過ぎないが、 実教 『日本史B』 の執筆陣のなかに、 この著名な近世史家の学問的影響を受けた執筆者がいるのかもしれない。

実教 『日本史B』 を遡る
 それでは、 実教 『日本史B』 の、 荻原重秀に関する詳細で公正な説明は、 いつ頃に起点があるのだろうか。 不十分ではあるが、 県立総合教育センターの書庫で調べてみた。
 実教出版の日本史教科書は、 確認できた範囲で1960年代から二本立てになっていた。 一つは現行 『日本史B』 の系譜で、 現在こそ外れているが、 古代史家の直木孝次郎が2000年代まで一貫して著者・監修に入っており、 単独監修者となっていた時期もある (以下、 直木 『日本史』 とよぶ)。 もう一つは 『高校日本史』 の系譜である。 宮原武夫、 黒羽清隆を代表執筆者とする 『高校日本史』 は、 直木 『日本史』 より若干詳しい感もあるが、 判型・総頁数は同じで、 両書の性格の違いは判然としない (6) 。 ただし、 重秀に関する記述は、 80年代の時点で既に大きく説を異にしている。
 現行 『日本史B』 とほぼ同じ記述は、 遅くとも1982年発行の直木 『日本史』 で確認できた (欄外の註で 「荻原重秀は、 当時すでに藩札など紙幣が発行されていたことから、 貨幣について実質の価値がなくても、 信用の裏づけがあればよいと考えていた」 等と記されている)。 対して 『高校日本史』 の記述内容は現行他社版と変わりがない。 82年は 『江戸転換期の群像』 が刊行された年であり、 あるいは80年前後から、 大石らの研究が一部教科書に反映されるようになったのかもしれない。
 残念ながら、 1982年の直前版で確認できたのは、 1976年発行のものであった。 記述は以下のとおり。

 「そこで幕府は、 貢租の増額をはかるとともに、 荻原重秀Dの意見によって貨幣を改悪して、 財政の窮迫を一時的にしのいだE」。
 欄外D 「綱吉のもとで勘定奉行になったが、 私利をむさぼり、 新井白石によって失脚させられた」。
 欄外E 「しかしそのために貨幣の価値が下がり、 物価が騰貴して、 武士や民衆を苦しめることになった」。 (第 6 章封建社会の確立と文化の興隆 4 . 社会の発展 「文治政治の展開」)

 「私利をむさぼり」 とはなかなか手厳しい。 これを読む限り、 この間に直木 『日本史』 の執筆陣のなかで、 重秀への評価に変化が起きたようである。 換言すれば、 重秀が近代的貨幣観の持ち主であったことは、 少なくとも四半世紀前から教科書検定を通過する学説となっていたのに、 歴史教育の場ではほとんど等閑に付されて今日に至ったということになる。
 さらに指摘したいのは、 「新井白石によって失脚させられた」 とする記述だ。 『生涯』 のエッセンスの一つといえるこの事実が、 既に触れられている点は興味深い。 重秀と白石の貨幣観を対比して、 幕府内部の経済路線をめぐる争点を描出できれば、 近代への過渡期である江戸時代の情況をよく示す、 生徒にも理解しやすい話になるだろう。 現在の教科書から両者の関係がことごとく省かれてしまったのは何故だろうか。

教科書の個性と多様性
 ところで、 実教 『日本史B』 には、 ほかにも特徴的な部分がいくつかある。 例えば 「聖徳太子 (廐戸王)」 である。 聖徳太子の実在・実像をめぐっては、 1999年に刊行された大山誠一 『<聖徳太子>の誕生』 (吉川弘文館) によって大きな議論が呼び起こされた。 冠位十二階や憲法十七条とのかかわりについて、 疑う余地が多分にある人物であることは、 もはや否定できない。 現在、 高校の教科書でもこの辺はかなり意識されているようで、 「聖徳太子 (廐戸皇子)」 あるいは 「廐戸王 (聖徳太子)」 などと、 必ず廐戸王 (少なくとも実在は確実) の名が補われている。 冠位十二階などを廐戸王の政策と断言する記述も巧妙に避けられているし、 東京書籍 『日本史B』 は、 欄外で 「さまざまな伝説に彩られた聖徳太子」 と 「太子信仰」 についても説明している。
 しかし、 太字扱いまで外しているのは実教 『日本史B』 だけだ (「廐戸皇子 (聖徳太子)」 とする)。 小学校社会の学習指導要領では、 いまも聖徳太子は、 「例えば, 次に掲げる人物を取り上げ, 人物の働きや代表的な文化遺産を通して学習できるように指導する」 とされる42名の人物の一人である (7) 。 にもかかわらず、 実教 『日本史B』 の執筆陣は、 実在こそ確かであっても、 「一人の蘇我系の、 独立した宮殿と氏寺を持てるほど有力な王族がいた」 (『<聖徳太子>の誕生』) ということしかわからない廐戸王を、 日本通史を学ぶうえで、 必須の重要人物とは見なさないと意思表示しているに等しい。
 生徒たちに、 授業でこの辺の事情と研究の現状を簡単に話したところ、 強い驚きの反応が返ってきた。 「わけがわからなくなった」 「何を信じればいいのか」 といった声も当然あがるが、 聖徳太子が太字でない教科書の存在は、 歴史学の醍醐味を生徒に伝えるうえで、 これ以上ない生きた教材だと実感した。
 実教 『日本史B』 は、 一見、 非常に正統的で無難な教科書の体裁をとる。 私の現任校で採用した理由も、 じつはその点が大きかった。 しかし、 熟読・吟味していくと、 歴史学研究の現状がさまざまに反映した、 個性的な中身を具備した教科書であることに、 遅まきながら気付いた。 荻原重秀の経済政策が詳述され、 彼の近代的貨幣観に触れる一方で、 太字にすらならない廐戸王がいる。
 高校日本史教科書は、 さまざまな制約があるとはいえ、 やはり多様だ。 近現代の歴史認識・戦争認識に対しては、 強い政治性が発揮される教科書検定も、 そこから離れると上述のごとき実情となる。 逆説的にいえば、 前近代部分の検定は この程度 なのだ。
 断るまでもなく、 私は荻原重秀の評価を一律に上げろ、 廐戸王を一律太字から外せ、 文部科学省はそうした点こそまず検定すべきだ、 などと主張したいわけではない。 執筆者たちの認識と良識、 それを判断して主体的に選択できる教員の力量こそが、 教科書を切磋琢磨させる。 評価・解釈の領域に踏み込む検定が広がり、 教科書の個性・多様性が薄れていくことは、 歴史教育の質を乏しくする。 仮に検定制度が続くにせよ、 近現代にあっても前近代と同程度の 「幅」 を求めたい。

【注】
(1) 例えば、 「日本軍により、 県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、 幼児を殺されたり、 スパイ容疑などの理由で殺されたりする事件が多発した」 という記述から、 「日本軍により」 の部分が削除されたり (実教出版 『日本史B』)、 「さらに日本軍に 「集団自決」 を強いられたり、 戦闘の邪魔になるとか、 スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、 沖縄戦は悲惨をきわめた」 という記述が、 「追いつめられて 「集団自決」 した人や…」 に変更を余儀なくされたりした (三省堂 『日本史B』)。 ただし、 その後の批判や抗議の高まりを受け、 2007年12月26日、 文科省が 6 社の訂正申請を承認した経緯は周知のとおりである。 訂正後も 「強制」 という表記が容れられなかったことで評価は分かれているが、 訂正前よりむしろ詳細な記述となった教科書も増えたことに注目したい。
(2) 1962年度の家永教科書の検定 「不合格」 においては、 「大友皇子の即位問題」 「古事記・日本書紀編纂の意図と史料批判」 「蝦夷の征討は 「征服」 ではなかったのか」 「神皇正統記執筆の意図」 「江戸時代の天皇の地位」 といったテーマが、 前近代での論点となっていた (安在・加藤・三宅・安田編 『法廷に立つ歴史学』 大月書店、 1993年)。
(3) 『詳説日本史』 で比較してみよう。 私が高校生のときに使用していた1984年版では、 田沼時代の諸政策に19行を充て、 最後の 7 行を 「商業資本を利用して実利をもとめる意次の政策は、 役人と商人の間の不正をうみ、 賄賂を横行させる結果となった。 役人の地位も金で左右される風潮が広がり、 民衆の反発をうけた。 (天明の大飢饉、 浅間山の大噴火を経て) 民衆は天災を意次の悪政によるものとして批判し、 将軍家治の死とともに意次は失脚した」 と結ぶ。 対して現行 『詳説日本史』 は、 20年前と同じく19行を田沼時代に充てるが、 最後の 9 行を 「意次の政策は、 商人の力を利用しながら、 幕府財政を思い切って改善しようとするものであり、 これに刺激を受けて、 民間の学問・文化・芸術が多様な発展をとげた。 一方で幕府役人のあいだで、 賄賂や縁故による人事が横行するなど、 武士本来の士風を退廃させたとする批判が強まった。 天明の飢饉がはじまり、 百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発するなかで、 …意次の勢力は急速におとろえ、 1786 (天明 6 ) 年、 将軍徳川家治が死去するとすぐに老中を罷免され、 多くの政策も中止となった」 としている。 読後に受ける印象は大きく異なる。
(4) 『朝日新聞』 の書評委員18人による 「今年の 3 点」 のなかで、 野口武彦が本書をあげていた。 いわく 「断片的な史料を博捜して復原する史料調査が行き届いている」 ( 『朝日新聞』 2007年12月23日付朝刊)。
(5) もっとも、 実教 『日本史B』 の記述は、 長崎貿易の増大をはかる→貨幣改鋳という流れになっている。 これは誤りで、 実際は逆である (村井氏の御教示による)。
(6) 現在はB 5 判の簡略版、 『高校日本史B』 となり、 問題提起型の特徴的な編集方針に変わっている。
(7) 1989年の指導要領改定によって、 卑弥呼・聖徳太子から始まり、 野口英世に至る42人が例示されるようになった。 東郷平八郎などが含まれる、 この 国定人物群 は、 指導要領の弊害を最も象徴する一項だと考える。

(さかもと こうじ 旭高校教員)

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