映画に観る教育と社会 [9]
若松孝二監督 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」 
 
手島  純

人殺しのための総括
 総括教諭という職名が神奈川でいつの間にか定着してきた。 当初、 この 「総括」 ということばを聞いたときに、 なんということばを使うのだろうかと耳を疑った。 少なくとも、 50歳半ば以上の者なら、 総括ということばに糊塗されたいかがわしいイメージをぬぐい去ることはできないはずなのに。 きっと時代も共有しなかった者が思いつきのようにつけたのだろう。 しかし、 この 「総括」 ということばにはとてつもなく重く恥ずべき歴史がある。
 60年代後半に世界的に広がり、 日本でも激しく展開した学生運動は、 まだ、 社会主義思想も健在で、 中国の文化大革命も北朝鮮のチュチェ思想も熱く語られた時代の産物であった。 しかし、 社共の政治的限界は、 新左翼を生み、 さらに党派間の党争が激化し、 内ゲバや連合赤軍の 「あさま山荘事件」 を生みだしていく。 日本を変えなければ、 社会を変革して不平等をなくさなければと思った若者が、 なぜ、 ただの 「人殺し」 になっていくのか。 その過程に多用されたことば、 それが 「総括せよ」 だった。 運動のベクトルが内部に向き、 相互批判が暴力的制裁へと収斂していく際のことばだった。 若松孝二監督 「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」 は、 この 「総括」 による凄惨な左翼運動の終末を映像化したものだ。

若松孝二監督
 私は、 本誌36号で若松孝二作品 「17歳の風景」 を取りあげた。 そこでは次のように記した。 「若松孝二。 その名はそのまま危険思想であるかのごとく、 『犯された白衣』 『赤軍−PFLP世界戦争宣言』 『天使の恍惚』 などの映画を量産していった。 彼の映画はピンク映画であり、 政治映画である。 そのふたつの世界を強引とも思えるように結びつけていく手法に違和感をもちながらも、 最も気になる監督のひとりであった」 と。 しかし、 若松は彼の原点ともいえる 「あさま山荘事件」 を映画化することで、 実はピンク映画と政治映画のふたつの世界を止揚したのではないか。 彼にとってのピンク映画は、 精神分析学のことばを借用するなら、 無意識を占める 「リビドー (欲望)」 であり、 政治映画は 「意識」 なのである。 このリビドーと意識が「心」 としてひとつであるように、 彼のピンク映画と政治映画は実は一体なのではないかと、 はっと気づかされたのがこの映画であった。

理念と現実
 映画は、 大学のバリケード内の様子を原田芳男のナレーションとともに写し出す。 60年代後半の実際の学生運動を撮った映像も挿入され、 臨場感を高める。 この当時のデモは、 学生も正義感に満ちあふれ、 清々しい。 しかし、 闘争は機動隊導入を呼び込み、 敗北の様相を帯びはじめる。 映像は赤軍派と革命左派に焦点を当て、 追い込まれた状況の中で、 連合赤軍が形成されていく様子が描かれる。 より過激であることがより左派であることと同一視される言動の渦に若者はのみこまれていく。 そして、 学生たちは銃をとる。 また、 爆弾闘争を選択する。 空虚なのはアジテーションばかりではない。 共同軍事訓練と称する茶番の訓練を通して、 また共産主義化するための総括という名のもとで凄惨な粛正が進む。
何より痛々しいのは、 キスをした男女が、 そして化粧をして流し目をするという女が、 殺されていくシーンだ。 あらゆる私情が政治的言語に置き換えられて、 恋愛も否定されて若者は死んでいく。 犬死にではないか。 何度も何度もくり返されるこれら死のシーンに戦慄を覚える。 まぎれもなく、 これらのことは歴史的事実だったし、 若松はその事実から目をそらすなと訴えている。
 「総括」 という名の元で行われる粛正は、 政治的正当性というより、 ルサンチマン・しっと・恐れが渦巻いた結果である。 スターリニズムを批判する者が、 スターリンの侵した最も非情な手段を選び取っている。 若松はその愚かさを徹底的に映像化する。
 しかし、 私は少々不満である。 若松の視点は思想的には新しさはない。 どのようにりっぱな理念であれ、 現実が歪んでいるならそれは問題なのだという認識は広がっている。 実証主義が人々の心をつかむ所以だ。 多くの社会主義国は理想のイデオロギーを有していたし、 オウム真理教には真面目な若者も少なくなかった。 しかし、 現実はどうだったか。 すでにイデオロギーでものを語る時代は終わっているのだ。 ではなぜ、 純粋な思考が凄惨な現実を生むのか。 その問題への関心が若松にはあまりないように思う。 できたら、 そこを左派のイデオロギーから解放されてもっと描いてほしかった。

団塊の世代とともに
 3 時間を超えるこの大作は少しも飽きることがなかった。 そして、 この映画が上映されたテアトル新宿は、 団塊の世代に占拠されたように異様な風景であった。 たぶん闘争の当事者も多いのだろう。 彼らはこの映画に何を 「総括」 するのか。 しかし、 あさま山荘で逮捕された坂口弘は詠む。 「新左翼運動を誰一人として/総括をせぬ/不思議なる国」 と。
                    
   

(てしま じゅん 教育研究所員)
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