新所員自己紹介
 

永田 裕之  県立藤沢総合高校教諭

研究所が始まったときに研究員となり、 その後 1 年間特別研究員を務めました。 それ以来10年以上が経ち、 学校を取りまく環境はすっかり変わってしまいました。 変わりようが激しく、 早いので、 ついていくのは大変ですが、 悪いことばかりではないと思っています。 修学旅行のあとは当たり前のように行われていた業者接待やおみやげはすっかり姿を消しました。 監査というと、 仲間内なのに豪勢な弁当が出されていたのも、 手弁当が当然になりました。 体罰だって、 少なくとも当たり前ではなくなりました。 こうしたことをあげていけばきりがないくらいです。
 一方おかしいと思うこともたくさん生まれました。 こちらもあげていけばきりがありません。 ストレスになるのは、 かっておかしなことを平気でやっていた人が、 昔のことをすっかり忘れたような顔をして、 ただす側に廻っている光景を見る時です。
 つまりは過渡期なのだと思います。 変革期だと言っていいと思います。
 学校では今、 不満が渦巻いています。 しかし不満は職員室の一部や更衣室で話されることが多く、 愚痴にしかなっていないと感じることがあります。 不満の源を突き止め、 変革のエネルギーに転換できるような事実を提供できたらと考えます。

(ながた ひろゆき)


藤原 晃  県立茅ヶ崎高校定時制教諭

本年度から定時制高校に勤務することになった。 私も数学の授業を持っているある 1 年生が先日退学届けを出した。 学力がないわけではない。 家庭の収入も厳しいが学校に来られないほどではない。 学校に未練もあった。 喫煙指導のとき反発もしたが、 全く話が出来ないわけでもなかった。 そんな彼が退学せざる得なくなったのは生活習慣の 「悪い」 仲間との付き合いに耐え切れなくなったのだと語った。 数年前なら、 彼のような生徒でも 「一人一人付き合って、 3 、 4 年になるころには落ち着き卒業させられた」 と聞く。 それがここ数年のうちに、 そういった定時制の 「特色」 が消されつつある現実を目の当たりにしている。 貧困層の国家規模での計画的な拡大と、 近年の全日制高校からの追い出し政策がそれに拍車をかけている。 本号掲載の独自調査の結果はそれを裏付けている。

 少し前に 「学力の機会均等」 を非難するのに、 ゴール前で全員止まらせて、 一斉にゴールさせる、 ある小学校の運動会が 「悪平等」 の 「好例」 として紹介されていた。 考えてみれば競争をするためには 「コース」 を引かなければはじまらない。 「コース」 がハッキリと白線で引かれ、 その外に出る者への制裁の仕組みがなければ整っていなければ、 「走れ!」 と発しても子どもたちは四方八方に好きなように走りまわり、 ある者はその場に立ち止まって地面を凝視するものとまちまちだろう。
  「特色」 とか 「競争」 といったもののカラクリはこんなものだと思っている。

 自己紹介なので私自身について少し書かなければならない。 大学の学部を卒業した後、 「数学のプロ」 になろうと当時は考えていたので大学院に進学した。 その際、 通学時間と費用の節約のために学内にある学生寮に入った。 丁度その学生寮は 「廃寮」 反対運動の最中だったが、 どう考えても 「大学側」 より 「学生側」 の主張が正しいと判断できたので、 入寮することにした。
 そうこうしている内に、 その 「廃寮」 の原因が、 グローバリゼーションの中での 「国家再編」 下の 「教育再編」 下の 「大学再編」 下の自治寮の全国的な 「廃寮」 計画の中にあることが見えはじめた。 ちょうどそのころ国立大学の独立行政法人化計画もだされ、 「学」 の 「産」 への従属が 「産学協同」 のもと当然視され始めた。 そんな中、 このまま研究室に閉じこもって 「研究」 することが 「沈み行く船の壁に絵画を描きつける画家」 の行為に等しいように思えてきた。 それが高校の数学教師へと方向転換するきっかけとなった。

 結局、 その学生寮は名実ともに 「廃寮」 にされ、 すんなり国立大学も 「独法化」 されてしまったが、 その 「教育再編」 の流れと、 背景にある状況が終わったわけではない。 それどころか、 高校も含めた教育現場でより加速しているように見える。
 こんにちの学校状況は知識や思想が侮蔑され、 それらを 「競争」 の道具とする倒錯した計画が前面に押し出されている。 と考えさせられる毎日である。
 日常は理想を押しつぶすに十分ではあるけれども、 生徒も、 したがって教師も、 知識や思想から遠ざけられてしまってはいけない。 知識や思想が民主主義社会の主権者たるに必要なことであるなら、 それは実質的に主権者から排除することにつながるから。

 その意味では 「生徒」 も 「教員」 も同じである。 教育研究所では、 知識や思想が生きるのに不可欠であることの実証を積み上げる一助になれればと考えている。

(ふじわら あきら)

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