所員レポート
地域づくりからみる学校統廃合
武 田 麻佐子

 私は京都によく出かける。 神社仏閣巡りも好きだが、 京都が歩んできた歴史をたどる場所を訪ねてみると、 日本の政治や近代化の姿が見え興味深い。 「京都自由学校」 という市民グループの講座 「歩く・気づく・京都 京の学び舎はいま」 に参加した。
 現在、 少子化の影響で、 全国的に小学校〜高校まで、 公立の学校は統廃合される傾向にある。 神奈川においても百校計画で次々に設立された高校は 「再編」 と言う形で数を減らされている。 同様に、 京都の町中を散歩すると、 そう規模の大きくない小学校を随所で見かけるが、 ここでも統廃合が起こっているようだ。
 私たちはおおまかに、 「明治初期、 学制がしかれ小学校が建てられた。 その結果、 教育が日本の隅々まで普及した。 それは天皇制に基づく近代国家形成に対してきわめて重要な役割を担わされてきた。」 と理解している。 しかし、 京都市内の子どもたちの学び舎の形態は、 それに先駆けて生まれたようだ。
京都の学校の歴史 京都の地図には、 小学校の学区名が明示されているものがある。 神奈川では町名は意識されても、 どの小学校の学区であるかを一般の市民が意識することはない。 ましてや学区名を地図に載せることもない。 京都市民がそれほどまでに学区を意識するのはなぜだろう。
 京都においては、 道路を挟んで形成された地域が 「町 組ちょうぐ み」 として発展してきた。 明治になり新しい行政組織に変わったが、 この町組はそれ以降も残り、 学制発布以前の1869年 (明治 2 ) に、 有志の寄付や寺院の敷地内を利用して 「番組小学校」 と呼ばれる町組会所兼小学校が開校されたという。 これは天皇が東京に去っていった後の京の荒廃を人々が危惧し、 教育に力を入れようと考えたことも影響しているようだ。 この年に建設された小学校は65の町組に対し64校。 1 校は 2 組で合併したため、 全町組に小学校が設立されたといえる。
 その後、 国民学校令が1941年に出されるまでは、 学区は単に通学区分を指すのではなく、 独自の財源を持ち教育経費も負担する自治組織として機能してきたという。 防災・警察・保健組織の一環や地域のコミュニティーとして存在したのである。 現在も望火楼 (火の見櫓) が残る小学校もある。 京都の小学校は、 このように市民の中で生きてきた経緯をもつ。 市内に住む知人によれば、 大昔からあった地蔵盆なども町内あげてのイベントで、 今や宗教的な意味ばかりでなく子どもの共同参加の場として異なる意味や環境で役立っている、 学区あげての防災訓練は町内の組織がしっかりしていることの大切さを実感するなど、 現在でも、 町内という単位が位置づいていると言う。
 しかし、 少子化の波はここにも押し寄せ、 小中学校は統廃合せざるを得ない状況となっている。 約40年前の市内地図と比較すると学校数はかなり減少している。 5 校を統合して 1 校となった学校もあるようだ。 このように変わりつつある学校を巡って市内を歩いてみた。
京都市学校歴史博物館 観光客でにぎわう四条河原町からほど近い、 開智小学校校舎を利用し開設された。 国の有形文化財となっている風格のある校門を入ると、 意外に小さい敷地に驚く。
 ここは 「学校の博物館」 なんておもしろくもあるまい、 という先入観を見事に裏切ってくれる。 展示からは 「番組小学校」 を中心に京都の近代史を伺うことができる。 小学生向けの展示解説カードも 2 種類 (中学年用と高学年用) 用意されていて、 歴史を次世代に伝えようとしている思いが感じられた。
 京都には元々、 国・漢・洋学を尊ぶ気風のほかに、 民衆の学問として、 石田梅岩の心学を学ぶ気風があった。 また、 明治になり、 学校では美術や科学教育に力を入れたという。 それらの下地の元に、 芸術や伝統工芸を担う人材、 新しい技術を開発できる企業も育ってきたのである。 さらに、 芸術家達が自分の作品を出身校に寄贈することもしばしばであった。 訪れた日も、 企画展示室には各校所蔵の有名作家の絵画や陶芸作品がずらりと並んでいた。 おそらく、 子どもも保護者もごく当たり前のこととして芸術品に触れる機会を得ていたのであろう。
 昔の学校を思い起こさせる懐かしい品々や給食の歴史の展示などもあり、 思い出に浸るもよし、 学校と地域というテーマを考えるもよし、 観光コースではない京都探索にはうってつけの場所である。 京都芸術センター ここは、 元、 明倫小学校だった場所であり、 1931年に改築された校舎の外観や調度品を生かすように配慮し建てられている。 芸術発表の場としての講堂や展示室、 制作室や稽古場、 情報パンフレット類が並ぶアートスペースなどがある。 地元の喫茶店が入ったカフェもあり、 出席簿の黒表紙を使ったメニューがレトロな雰囲気として観光ガイドブックにも紹介されていたりする。
 芸術家を目指す若い人々に、 創作や発表の場所を提供することは、 文化をはぐくむために必要不可欠な事業だ。 世代や生活スタイルによっては、 現代アートに接する機会は少ないものだが、 かつて通った学校に日常の延長で出かけて行き、 そこで若い感性に触れる機会を得ることは楽しいことで、 高齢化する町の活性化にもつながるだろう。 もちろん身近に芸術を楽しむ人のいる場があることは、 幼い世代の感性も刺激してくれるだろう。 大きなホール、 立派な美術館以外にも、 日常に近いところにもアート空間は存在するのである。 京都国際マンガミュージアム 1929年建造の龍池小学校の校舎を改造し、 京都市とマンガ学科を持つ京都精華大学とが共同運営する施設。 設置に当たっては地元自治会も協力し、 校庭に敷き詰めた人工芝代金もかなりの額を自治会が負担したという。 内部は、 自治会専用のスペースと、 たくさんの蔵書 (もちろんマンガ・そのほとんどが開架で自由閲覧可)・資料展示室・大学生がマンガの描き方を実演するコーナーなどがある。 今や世界的にも有名となった日本のマンガ文化の、 大規模な保存及び調査研究施設として注目を浴びている。
 訪れたのは日曜日であったため、 老若男女かなりの人々が、 芝生に寝ころんでマンガを読んだり、 書架でマンガを手に取ったり、 似顔絵を描いてもらったりと楽しんでいた。 マンガ三昧な一日、 時には昔風紙芝居の上演あり、 という中では決して大人500円の入場料金は高くない。 また、 マンガを学ぶ大学生にとっても、 専門分野を介して市民とつながるスペースとなっているように感じられた。
 旧小学校であった名残もとどめ、 生徒の図工作品が廊下にさりげなく展示されていたし、 龍池小の校歌が流れているコーナーもあった。 地域のシンボルとしての役割を引き継ぎつつ、 新しい文化の発信基地となっているといえよう。 前述の二つの施設同様、 学校であった記憶をとどめつつ、 新しい目的に応じた施設としての工夫がされていた。
京都御池中学校 地下鉄御池駅の近くに 「京都御池中学校」 という校名が燦然と掲げられた建物がある。 この場所は最初の番組小学校である柳池小学校の跡地だが、 その名残は今は碑の中にしかない。 この学校はいくつかの中学校が統合されてできたものだ。
 小中連携を特色とする御池中学は、 掲示板や電光掲示・HPでも新しい学校として積極的な発信を続けている。 休日でもあり中には入らなかったが、 積極的なPRを行っている様子は外からでも十分に伺えた。 どうやら人気の学校であるらしく、 この学校と連携する小学校 (これも数校の統合による) の存在する学区では、 マンション販売価格が高くなっているという噂も聞いた。 また、 新聞報道によると市内の不動産業者のホームページには、 子どもを通わせたい小学校の名前を入力すると、 家賃や間取りの物件情報が一覧表示される機能があるという。 御池中に進学させたい、 よりよい教育環境をと求める保護者が多いためだろう。 建物外観だけを見ても大きく立派で、 他校より比重をかけた行政の予算配分が想像できる。

 京都市だからこその施設利用形態で他の都市にはそぐわない側面もあるし、 京都の学校再編が果たしてうまくいっているのかどうかはここではわからない。 平成16年度京都市教育推進方針という資料には 「『小規模校問題は教育問題であるとともに、 地元問題である』 という観点から、 町衆の進取の気風と教育に寄せる熱意、 地元の叡智に信頼を置いた 『地元主導』 のもと、 昭和58年 4 月の開智小学校と永松小学校の統合以来、 小規模化が先行していた上京区・中京区・下京区の小学校の保護者・地元住民に小規模問題を考えていただくための冊子 『学校は今…』 の配布等による地元合意の形成を図るなど、 16年 4 月まで、 小学校34校が11校に、 中学校 5 校が 2 校に、 幼稚園25園が17園に、 地域・保護者の十分な論議により統合が進められてきました。」 とある。 行政側からの資料だけでその成否を判断することは避けたい。 京都市教委は教員フリーエージェント制などの 「改革」 も行ってきたとも言われており、 その内実は検証が必要と思われるからである。 実際に、 御池中のような校舎がある一方で、 築70年以上の小学校校舎で講堂や天井に穴や雨漏りの跡があちこちにあるとの指摘もあるようだ。 新たな学校改革の名の下、 学校間の財政配分の軽重がつけられているのだろう。 それらをどう考えるのかはまた別の場で議論したい。 しかし、 ある程度の地元との連携がなければ、 前述のようないくつかの施設は作れなかったというのは事実かもしれない。
 いずれにしても各地で、 学校の再編が行われている。 その流れを完全には食い止められないとすれば、 再編をどうすれば市民の視線にたった地域活性化につなげられるかを考えたい。
 感情的な言い分だとは思うが、 再編に該当し校舎が取り崩され、 グラウンドが草ぼうぼうになるのは、 その学校にいた生徒や職員にとって一抹の寂しさを覚えるものだ。 施設が何らかの形で地域の中に生き続ける道はないのだろうか。 あるいは、 廃校後は土地が売却され財政を一時的にでも助け、 しかし、 代わりに地域との関わりを失っていくのだろうか。
 廃校となるとしても、 学校が地域の資産として考えられ、 人々に有効活用される道を考えたい。 世の中が効率よく便利になる反面、 町が活力を失い全国どこも同じような光景がならぶ町となる中、 私たちは本当に充実した生活を送り続けられるのか。 人々は社会の中で分断され、 地域の中にも生活や文化の香りがない毎日を過ごすことがよいことなのか。 そうではないだろう。 効率を追求した結果、 小さいものや個性のあるものは苦しい立場を余儀なくされている。 地域において安定した雇用を確保することも難しくなっている。 町がいつまでも同じ形であることができないとしても、 それを作り替えていける市民の力が必要だ。 人々がつながる場所として、 学校や公民館・図書館などの果たす役割にはより目を向けられてよいはずだ。 学校を統合せざるを得ないのであっても、 コミュニティーの場として、 または新たに人や文化を育て続ける場として再生させることは可能かもしれない。 場合によってはそれが介護や福祉の場となることがよいこともあろう。
 ともに歩いた一人の参加者は 「学校としての役割を終えた。 だがその多くは、 地域の人を結ぶ交差点としての 『番組』 小学校としての役割を継承している。」 とまとめの文章で述べた。 「交差点」。 言い得て妙である。 もちろん、 神奈川の地は、 京都のように自治組織に支えられて100年以上を過ごしてきたわけではないが、 それでも学校という場を何らか人と人とがつながる場として生かせる方途を考えていくことは、 これからの世の中で重要ではないかと感じ一日であった。
  (たけだ まさこ 教育研究所員)
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