「教育三法」 成立で変わる学校 |
金沢 信之 |
はじめに 教育基本法が 「改正」 された。 これは憲法 「改正」 への布石とも言われている。 そして、 この 「改正」 教育基本法を実態化する教育三法案が、 衆議院・参議院で強行採決された。 強行採決は、 「民主的で文化的な国家」 の行為とはとうてい思えないものであるし、 「社会総がかり」 の共通理解を得られたとも言えないだろう。 しかし、 自民党は参議院選で歴史的な大敗北を喫した。 これが民意だとすれば、 「改正」 教育基本法や教育三法案の成立は拙速であったと言えるかもしれない。 だが、 教育現場では、 既にそれらを先取りする形で 「改革」 が進行している。 その中で、 教職員は健康を害している実態もある。 現状に夢や希望を持てない教職員が、 果たして生徒に明るい未来を語り続けることができようか。 生徒は身近な大人である教職員から虚ろな自分たちの未来を感じてしまうのではないか。 時々、 生徒から 「先生の仕事、 大変だよね。」 という言葉さえ聞くようになった。 さらに、 教員免許の更新制導入によって、 教師のなり手も少なくなっているらしい。 (国立の教員養成学部の倍率が今春の入試で大きく下がり、 また、 教育学部に入学しても教員免許をとらない学生が増加している。 来年の志望者は今年度よりさらに減少するとの報道があった。 朝日新聞2007年 8 月21日) 一方で排他的な競争に駆られる人々も増加している。 グローバル化した世界大競争時代において、 教育は投資であると考える人々である。 「彼らは学校への満足度が低く、 学校選択制やエリート教育、 学校間競争、 学校評価の導入に肯定的だ。 いまの教育改革の方向性と一致する。」 (2004年朝日新聞・ベネッセ共同保護者調査、 耳塚寛晃氏) 教育の私事化が進行している。 教職員も自らの身を守ることを余儀なくされ、 格差社会の中で自分たちの生活を守るために教育を利用する人々が増加している。 教育を市場化しようとする流れがある。 全国学力テストでは民間業者が採点を請け負った。 教師を派遣する業者もいる。 高等学校と幼稚園の包括的な民間委託についての検討も継続されている。 株式会社立の学校もできた。 教育はビジネスになろうとしている。 しかし、 イギリスの例からあきらかなように全国学力テストの弊害はすさまじい。 イギリスは、 サッチャー政権から始まったこの20年間の改革についてようやく反省しはじめた。(1)それなのに、 日本は問題点を指摘されている仕組みに舵を切りつつある。 あるいは切ってしまった。 PISAで 1 位となったフィンランドでは教師が尊敬され、 生徒の授業時間も日本よりはるかに少ない。 また、 能力別編成などもない。 日本は目標がフィンランドで方法はイギリス・アメリカということか。 本稿では教育三法案の学校への影響、 また、 それを先取りした現状について報告する。 さらに、 この現状の中で失われつつある 「ソーシャルキャピタル (社会資本)」 のマネジメントについて言及し、 「ソーシャルキャピタル」 の豊かな学校がこれからの時代を生き抜く一つの姿であることも示したい。 1. 主な 「改正」 点 (2) 学校教育法 (この後は学校法と表記) 学校体系が変容する。 「義務教育として行われる普通教育」 と 「高等な普通教育」 からなる学校体系へ変化する。 学校法の中から 「中等教育」 という概念が放棄された。 これまでは中学を前期中等教育、 高等学校を後期中等教育として二者の接続を前提としていたのだが、 意図的にその接続を断ったと考えられる。 これは、 規制改革の流れの中で、 文科省が、 高等学校と幼稚園の包括的な管理運営の民間委託について検討しなけらばならなくなったからかもしれない。 文科省として守るべきは、 義務教育であると明示したかったのだろうか。 また、 高校の複線化を追認する文言として 「進路に応じて」 が挿入された。 様々に多様化した高等学校が、 生徒の進路状況で種別化される。 統一的な高等学校像が描きにくくなるだろう。 各学校種の目的及び目標の見直しが行われ、 教科全体を通して育成されるべき 「徳目」 が明記された。 これは、 「改正教育基本法」 で新設された 「教育の目標」 の実体化と考えられる。 これまでの目標規定には教科名導出基準としての意味があったと考えられてきたが、 そこに徳目基準がかなりの重さで乗ったわけであり、 今後の学校教育にあたえる影響が懸念される。 文科大臣の決定権が 「教科に関する事項」 から、 「教育課程に関する事項」 へと変更された。 これまでは 「教科」 名と時間数の決定権を文科大臣は持ち、 それ以外は指導助言基準であると考えられてきた。 しかし、 今回の 「改正」 により教育課程を構成する教科以外の要素 (例えば道徳) を決定でき、 さらには教科の内容と順序までを決定する権限が与えられたと考えることができる。 副校長その他の新しい職の設置ができることとなった。 そもそも、 現行法における校長・教頭と教諭の関係は行政解釈では監督・指揮関係とされ、 教育法学説では指導・助言関係である。 新しい職と教諭との関係を監督・指揮関係とすれば、 職務職階はかなり硬直したものとなるし、 たとえ指導・助言の関係としても職場の分断は進み、 協力・協働の職場環境は喪失される可能性がある。 学校評価及び情報提供に関する規定の整備が行われた。 各学校の情報公開と学校評価が求められる。 2007年 6 月22日に閣議決定された 「規制改革推進のための 3 か年計画」 の中にも、 「児童生徒・保護者による教員評価制度・学校評価制度の確立」 が盛り込まれた。 規制改革 (市場化) と評価は切り離せない。 つまりは、 教育内容の充実のために評価するのではなく、 評価によって学校を競わせる仕掛けにほかならない。 評価の重圧にあえぐイギリスではナショナルテストの不正が、 2005年には600件にも及んだと報告されている。 東京では、 都と区の学力テストの際に答えを間違った児童の問題文を校長や教員が指さして知らせた問題が発生した。 これらの中には校長が副校長と主幹に指示を出したと確認されたケースも存在する。 また、 テストの結果集計の際、 障害のある児童 3 人について、 保護者の了承無く採点からはずしたとの報道もあった。 また、 区が禁止している前年のテスト問題のコピーも数校の小中学校で行われ、 コピー問題での練習を行い区内の順位を上げた (朝日新聞 2007年 7 月17日)。 評価の桎梏の厳しさ (この区では学校選択制を導入しており、 学力テストの成績をホームページなどで公表している。) を感じるとともに、 意見を封じ込める職務職階の恐ろしさを痛感する。 地方教育行政法 (この後は地教行法と表記) 2003年、 内閣府に設置された総合規制改革会議が今後の課題として、 教育委員会必置規制の廃止を打ち出した。 学校・首長と教育委員会の関係のあり方を見直す方向性を打ち出し、 同時にバウチャーによる利用者補助制度を提言した。 規制を緩和することによって教育の市場化を進行させようとの狙いがある。 これに対して2005年、 中教審の教育制度分科会、 地方教育行政部会が 「部会まとめ」 として教育委員会のあり方をまとめている。 それによると、 教育委員会は、 「首長からの独立性」 「合議制」 「住民による意志決定」 によって今日でも意義あるものとされている。 つまり、 地教行法の 「改正」 は内閣府と文科省の対立が鮮明にあらわれた部分と考えられる。 文科省は未履修問題や国旗・国歌問題を梃子に、 地方教育行政を統制する手段として、 「指示」 や 「是正の要求」 を行い、 それによって教育における国の責任の果たすとした。 しかし、 統制を強めれば教育委員会体制の充実に寄与するとも思えず、 さらに教育委員会制度の意義を踏みにじることにもなる。 文科省は大きなジレンマを抱えた。 また、 この 「改正」 によって首長へ 「スポーツ・文化」 の権限が委譲されたことは、 一見すると教育委員会の首長部局化に文科省が軸足を移したようにも見えるが、 人事権や学校管理・運営については何ら言及されていない。 つまり、 教育委員会の首長部局化 (教育委員会廃止) に文科省が一定の歯止めをかけたとも考えられよう。 教育委員会制度の意義を認めながら、 その制度を教育統制の手段として活用する方法も盛り込まれた。 今回の 「改正」 によって、 教育委員会は、 自己点検・評価を行って報告書を議会に提出するとともに、 公表しなければならないとしたのである。 教育委員会制度へPDCAサイクル (PDCAサイクルについては後述) が導入されたようにも思える。 地方と中央の関係がとても対等とは思えない現状で、 地方教育行政の自立性が脅かされる原因となる可能性が指摘されている。 教員免許法と地方公務員特例法 (この後は免許法と特例法と表記) 教員免許状の有効期間が10年となった。 そもそも更新制は2000年の教育改革国民会議 「報告」 に 「免許更新制の可能性を検討する」 と示されたが、 2002年の中教審答申 「今後の教員免許制度のあり方について」 では、 免許制の導入は 「なお慎重にならざる得ない」 とされ、 結局は教育公務員特例法を一部改正して、 研修による教員の資質・能力の確保を図った経緯がある。 しかし、 中教審は2006年に 「教員免許制の導入―恒常的に変化する教員として必要な資質能力の確実な保証−」 を答申し、 更新制導入へと態度を一変させる。 折しも安倍官房長官 (当時) が、 その著書の中で 「更新制度の導入」 を主張していた。 同年には安倍内閣が発足する。 そして、 2007年の教育再生会議第一次報告が 「更新制の導入」 を述べ、 今回の 「改正」 となる。 ほんの数年で、 中教審が全く異なる考え方を答申する不自然さを背景に更新制は導入された。 免許更新制とともに特例法を 「改正」 して、 指導が不適切な教員の人事管理の厳格化を打ち出す。 その中で指導改善研修中は更新講習を受講できないことが示された。 また、 研修終了時の認定において、 指導が不適切であると認定した者に対して、 任命権者は免職その他の必要な措置を講ずるものとした。 さらに免許法は分限免職処分を受けた時、 免許状は効力を失うとしたのである。 人事院は分限処分を厳格に行うため、 免許法 「改正」 前の2006年に、 分限処分に該当する可能性のある場合の対応措置の通知を出している。 その中で、 「勤務実績不良」、 「心身の故障で職務遂行に支障がある」、 「官職への適格性を欠く」 などといった処分事由が示された。 通知に基づき 「改正」 前の2006年広島県定例県議会で、 教育長が 「(指導力不足などの研修において) 本人の (辞職の) 自覚を待つだけでなく、 改善が望めないと判断する場合には分限処分等適切な対応をしたい」 といった趣旨の答弁をした。 (2006年12月11日 松岡宏道議員の質問に対する広島県教育長の答弁) つまり、 今回の 「改正」 は一年前に通知された人事院基準による分限処分と指導力不足教員に対する人事管理厳格化 (分限処分) の両者が、 教員免許状失効につながっていることを明記したものでもある。 文科省の説明 文科省は第七回教育再生会議に教育三法案の持つ意義を資料として提出した。 それには次のような箇所がある。 「教職員組合が、 『民主的な学校づくり』 の名のもとに、 いじめ問題など学校にとって大切な事柄を、 教育委員会や校長の指示ではなく、 職員会議で処理してしまっています。 リーダーシップを発揮すべき校長先生が、 逆に孤立させられるといった不適切な学校現場の実態は正さねばなりません。」 「教育委員会が未履修問題を放置したり、 国旗国歌を指導しないなどの著しく不適切な対応をとっている場合には、 文部科学大臣が具体的な措置の内容を示し、 『是正の要求』 ができるよう法律上明記します。」 「最終的な手段を国がとることにより、 法律違反状態にある教育や不適切な教育に、 国がしっかり責任を持って対応できるようにします。」 (傍線筆者) これは、 教職員・学校・教育委員会を批判することで、 国 (文科省) の役割を強化し、 国からの指示・命令系統によって教育行政を行うとの説明なのだろうか。 教育基本法第六条から 「教員は、 全体の奉仕者であって」 の文言が削除され、 「改正」 教育基本法は第九条教員で 「法律に定める学校の教員」 とした。 教員は直接国民に対して責任を負う存在ではなく、 国や行政に対してまず責任を負う存在であるのだろうか。 そうだとすれば、 この教員の位置が、 まさに、 「改正」 三法の骨格である。 教職員は行政の末端として指示命令を受ける存在になることを要求されていることになる。 しかし、 これは二つの面で危うい。 一つは現場の教職員が指示・命令でしか動かない存在であるとしたら、 生徒指導やクラス運営などをスムーズに行えないだろう。 教師は生徒の状況・クラスの状況に対して瞬時の判断を迫られる事が多い。 自分の頭で考え行動することが求められる職業なのだ。 二点目は、 国の統制が強まるのは明らかに地方分権の流れと矛盾する点である。 善し悪しは別として、 規制改革の流れに逆行することから、 政府・財界との摩擦が増すことが予想される。 2. 管理のシステム PDCAサイクル PDCAサイクル (plan-do-check-act cycle) はこれからの学校を考える際のキーワードである。 そもそもこの言葉は、 「工業 (製造業や建設業) などの事業活動において、 生産管理や品質管理などの管理業務を計画通りスムーズに進めるための管理サイクル・マネジメントサイクルの一つ」 として考案された。 つまり唯一万能の管理システムではなく、 「成功するかどうか最善かどうか不明で、 かつ大金を投資する事業計画を立てた場合(P)、 実施して(D)、 結果が失敗であれば(C)、 反省しても既に遅く失敗の損害は回復できない(A)。 PDCAサイクルは極めて特殊な場合 (失敗してもやり直しが可能な場合) にしか使えず、 一般的な管理手法ではない。」 とする批判も存在する。 このような管理手法が教育の現場に導入されつつある。 企業の従業員は主体的に企業活動全体の達成目標を設定したり変更したりすることはできない。 経営層が作成した達成目標が従業員に課せられるのである。 これを国レベルの枠組みで教育にあてはめて考えると、 「改正」 教育基本法の第二条教育の目標 (新設) と第十七条教育振興基本計画 (新設) による政策目標 (達成目標) を文科省 (経営層) が設定し、 文科省−教委−学校<校長−職務職階 (新しい職) −教諭>という一元的な管理体制を公教育に導入しようとしているようにも思える。 そうなれば、 地域や学校は結果に責任を負うだけで、 教育の目標設定には参画できない場合も生じるだろう。(3) このような全体の構図を見定めて各地方公共団体は教育政策を立案する必要がある。 地方分権の流れは否定されてはいないはずだから、 各地方公共団体が主体的な教育施策を打ち出すことで、 国による一元管理の色合いを薄めることができるかもしれない。 ただし、 地方公共団体がPDCAサイクルを導入し、 経営者として振る舞えば、 国の行いと何ら変わるところがない。 現場の活力は失われるだろう。 東京都・PDCAサイクル PDCAサイクルの先進地東京の場合をみてみよう。 学校法が 「改正」 される前に主幹が導入された。 旧学校法の 「その他必要な職員」 を根拠とした独自の職であり、 任用体系が教諭とは異なる。 職務としては、 担当する校務に関する事項について教頭を補佐し、 所属職員を監督するとされた。 しかし、 その責任と職務の困難さの割には処遇の低いことから希望者少なく、 必要人数の六割程度しか配置できていない (朝日新聞 2007年 6 月19日)。 しかし、 さらに主任教諭を導入する。 この職は、 10年目程度の中堅層が対象で中堅層の過半数を採用する予定だそうだ。 また、 「東京都教師道場」 で二年間の指導を受けた 「授業力リーダー」 は、 十年を待たずに選考の有資格者になるという。 こうして学校法が 「改正」 される前に、 PDCAサイクルの基盤となる職務職階が、 「学校長−副校長・教頭−主幹−主任教諭−教諭」 と構成された。 なお、 学校長も中等学校や複数課程併置校などの困難度の高い学校に 「統括校長」 が置かれ階層化する。 東京都は2002年、 「教育サービスの質を向上するため、 計画、 実施、 評価を行い、 改善を図るマネジメントサイクル (PDCA) の仕組みを用いた 『学校経営計画』 (これまで東京都は 『学校運営』 と表現していたのをこう改めたらしい。) を平成15年度 (2003年) から、 全都立学校及び全都立盲・ろう・養護学校に導入する。」 とした。 学校経営計画の内容に関しては、 「校長が、 学校のビジョンを明らかにし、 中長期目標をたて、 各年度における学習指導、 進路指導、 学校運営などの教育活動の目標と、 これを達成するための具体的方策及び数値目標を示すものである。」 とした。 さて、 実際に策定された数値目標は、 「国公立大学合格150名以上のうち東大合格者20名以上」 「難関私立 3 大学現役合格100名以上」 や 「推薦応募倍率 4 倍以上」 「中学校訪問90校以上」、 「転退学者の割合 5 %以下、 遅刻者の割合 5 %以下」 などであった。 各学校は当該年度末に達成状況の自己評価を行い、 「学校経営報告書」 を作成する。 それに基づき東京都教育委員会は学校経営診断書を作成し、 具体的な支援・指導を行う事になっている。 その支援を具体的に行うとされているのが 「学校経営支援センター」 である。 このセンターは都内六カ所に置かれ、 それぞれが約四十五校を担当する。 校長のリーダーシップ発揮を支援し、 より自立的な学校運営ができるようにするために設置されたという。 主な業務は、 契約などの事務の集中化により、 学校事務の軽減を図る業務ラインと、 教職員人事 (教職員の異動、 人事考課等)・教育課程 (教育課程の管理、 授業改善等)・学校経営 (学校経営計画と報告、 経営診断等) などを支援する経営ラインとで構成されているという。 さらに、 学校の状況を把握するため、 教員出身の指導主事を含む七人がチームを組んで、 学校を月一回訪問し、 授業や職員会議を傍聴する。 これにともなって学校事務室は 「経営企画型事務室」 に機能強化されるという。 つまりは細分化された職務職階のもと、 PDCAサイクルによって数値目標の実現をはかる成果主義の中、 学校経営支援を名目に学校を管理しようとする姿勢が強く打ち出されたのである。 このような学校の雰囲気が次のように報告されている。 「いまは管理職と教員を含めて、 みんなで力を合わせて、 信頼関係の中で学校教育を成り立たせていこうという、 絆が断ち切られているんです。 校長は校長で教育委員会を意識し自己保身に走る。 副校長は副校長で校長からの自己保身に走る。」 「教師達からは管理職に対するリーダーとしての尊敬があり、 管理職からは教師達に対する信頼がある。 その中で教育の土壌が培われていく。 その姿が今は見えない。 皆、 自分のことで精いっぱい。」 (4) 3. 分断される教育現場 教員免許更新制−先進諸国ではアメリカのみ 教員免許の更新制は、 先進諸国ではアメリカにしかない。 それも独自の事情があるという。 上越教育大学の佐久間亜紀氏は次のように報告している。 「(米国では) 教員に関しては、 養成は大学、 免許授与は州、 採用は校長、 研修は 『学校区』 と呼ばれる地域ごとの組織が、 権限を持っている。 ところが、 十九世紀末以降、 財政状況の厳しい地域では研修が行われず、 地域ごとの教員の質の格差が問題になった。 それゆえ州政府が、 自ら権限を持つ免許制度を利用し、 更新の条件として研修を課すことで、 教員研修の普及と保証を図ってきたのである。 不適格教員の排除は目的とされておらず、 一定の研修を受ければ免許は更新される。 更新によって免許が失効するかもしれないという不安を抱く教員は、 皆無といってよい。」 また、 アメリカでは1980年代以降、 教員の不足は深刻で、 四年制大学も卒業せず免許も保持しない多数の教員が存在するという。 そのような状況下で、 「優秀教員」 の定義は 「学士号保持、 州の教員免許状保持、 担当教科の知識理解」 であるという。(5)日本では当たり前の事が、 アメリカではそうではない。 それによって惹起される諸問題を解決するために研修が必要とされ、 州政府は教育水準維持・確保のために研修を課し、 それが終了すれば自動的に免許の更新を行うのである。 今回導入された日本の免許更新制がいかに特異なものであるかがよく分かる。 前に紹介した報告にあるように、 一元的な教員管理 (PDCAサイクルと強固な職務職階) によって教師の横の結びつきが失われ始めている。 この上、 教員免許の更新制が実施されれば、 自分の事で精一杯との思いに拍車がかかるのは自明のことである。 失われる教職員の健康 2005年度に全国で病気で仕事に支障が出たりして休職処分を受けた公立学校の教員は、 7017人で12年連続で過去最高を更新した。 この内 6 割にあたる4178人は、 うつ病やストレスによる精神疾患であるという。 文科省は理由について特に分析はしていないが、 「上司、 同僚との人間関係や、 保護者との対応など職場を取り巻く環境が厳しくなっている」 としている。 (朝日新聞2006年12月16日) また、 横浜市立学校では2005年度中に精神疾患で休職した教員が全体の 0.65%、 91人に急増したという。 (毎年60人前後であったが、 04年が73人に増加) 「(市の担当者は) 増えている原因はわからないが、 生徒指導や保護者との関係に苦慮したまま、 うつ病になるケースが多く危機感を持っている」 と報道された。 (朝日新聞2006年12月 1 日) 地方も中央もこの異常な状況について原因不明と言うだけである。 しかし、 こうした状況についての原因分析の調査は存在する。 全国的な健康調査ではないが、 (財) 労働科学研究所を事務局として組織された 「教職員の健康調査委員会」 は、 2005年11月に 「教職員の健康調査」 を大阪府や神奈川県などで実施し、 2006年10月にその結果を公表した。 (分析対象の属性や特徴 :6000人の小中高の教員を対象として、 有効回答数2485名、 その内約 2/3 の教員が対応に注意や時間を要する生徒がいる、 80%以上の教員が中心的役割を担う校務分掌に携わっている。) 調査によると、 高いレベルの抑うつ感にあるものが11.5%、 同様に不安感が10.3%。 公表されている一般企業などの標準値がそれぞれ6.5%と7.1%であるから、 教員はかなり高率であることがわかる。 また、 標準値そのものが1980年代より上昇傾向にあり、 社会問題化していることを考えると、 教員のそれは異常値と考えても良いのだろう。 同調査はパス解析によって教員のストレスの発生経路 (緒要因間の全体構造) を分析している。 分析結果から、 精神的ストレスの直接的な原因 (「教育活動をとりまく環境」 「仕事と生活への影響」 「心理的な仕事の負担度」 「学習外の指導などの職務の多さ」) の背後に、 「学校運営・職務遂行の仕組み (「管理主義的学校運営」 「教職員の負担軽減措置の遅れ」 「事務作業の増大」 「職務分担の偏り」)」 の問題があり、 それが特に 「教育活動を取り巻く環境」 と強い相関関係にあることが指摘された。 また、 「仕事と生活への影響」 には、 「職場内コミュニケーションの余裕不足」 「教育のための研究・準備時間確保の困難化」 と強い関係があることが分析結果に示されている。(6) この調査結果から、 ここ数年の学校の変化 (改革) が教職員の健康を著しく害している原因であることが分かる。 教育三法の成立によって強化される職務職階と教員を不安定な身分へ追いやる世界でも珍しい教員免許の更新、 PDCAサイクルの遂行によって生じる膨大な仕事量は、 まさに教師のストレスの直接的・間接的主要因である。 教育三法の 「改正」 は労働安全衛生の視点でも分析すべき側面があるということだ。(7) ソーシャルキャピタル (社会資本) の豊かな学校 ここで言う社会資本とは、 橋や道路などといったものを意味しない。 様々な定義があるようだが、 パットナムは 「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を高めることのできる、 『信頼』 『規範』 『ネットワーク』 といった社会組織の特徴」 とした。 OECDでは、 「グループ内部またはグループ間での協力を容易にする共通の規範や価値観、 理解を伴ったネットワーク」 と定義している。 ソーシャルキャピタルは 「結合型」 と 「橋渡し型」 に分類される。 「橋渡し型」 は異なる組織間における異質な人や組織を結びつけるネットワークとされ、 結合型は組織の内部における人と人との同質的な結びつきで、 内部で信頼や協力、 結束を生むものとされている。(8) 日本総研の東一洋氏は、 「(構造改革を進めると) 『強者と弱者の格差』 から大きな暗闇すなわち 『社会の不安定性』 を生むことにつながる。」 「(しかし、 そのような 『社会の不安定性』 の中で) 『市場メカニズム第一主義』 で良いのであろうかという問いかけが、 経済学でいう 『利己的人間』 ではなく、 本来の人間像 (信頼を背景に多少自分にとって不利でも自発的な協調行動をとる) に立脚する 『ソーシャルキャピタル』 論に期待を抱かせるのではないか」 と述べる。 さらに氏は 「人材を資源としてではなくキャピタル (資本) としてとらえた上で、」 「資本たる人と人との関係 (人間関係) こそ組織を効率的に動かす潤滑油との認識が生まれ、 アメリカの経営者を中心に 『ソーシャルキャピタル』 の考え方が使われはじめた。 (1990年代)」 と紹介している。 教職員を精神的に追い込むようなマネジメントは、 経済界でも見直しがされているということは重要だ。 強固な職務職階による上位下達の古いマネジメントと成果主義を背景にした職場 (市場メカニズム第一主義の職場) では人間関係が荒廃し、 何をするのにも契約や規則を必要とするだろう。 結局は高コスト体質になるだけなのである。 「信頼を背景に多少自分にとって不利でも自発的な協調行動をとる」 姿は、 教師の原風景だと言っても過言ではない。 自発的に時間と労力を使って、 教師は仕事や研修をしてきた。 原風景を失わないために、 あるいは取り戻すために管理職や同僚はお互いの信頼から職場を構築しなければならない。 まさに、 ソーシャルキャピタルの視点から学校を検証し続ける必要があるということだ。 学校はソーシャルキャピタルが豊かな場所でなければならない。 内閣府もソーシャルキャピタルの重要性を意識し、 調査を行い報告書をまとめた。(9) 先に述べたように、 PDCAサイクルが最良・完全なマネジメントではないい。 上意下達のリーダーシップによってこの不安定な社会を乗り切ることが難しいのは、 ソーシャルキャピタルの視点からも明らかではないだろうか。 神奈川県のソーシャル・キャピタル (下線筆者) 職員会議について神奈川県教育委員会は 「新たな学校運営組織、 教員の新たな職Q&A」 の中で次のように述べている。 「職員会議は、 校長を中心に職員が一致協力して教育活動を展開するために、 学校運営に関する校長の方針や教育課題への対応方策についての共通理解を深め、 職員間の情報交換や意思疎通を図る等、 学校運営上重要な役割を果たすのは従来通りである。」 また、 新たに設置された企画会議と職員会議の関係については、 「この 2 つの会議は上下関係ではなく、 職員会議と企画会議は、 相互連携、 機能分担のもとで学校運営の重要な役割を担うものである。」 とした。 さらに 「神奈川県立高等学校の管理運営に関する規則の運用について」 の中で、 「 (職員会議は) 職員の資質や能力を高める上でも重要な役割を果たすものであることから、 各学校に置くことにしたものであること。」 と述べ、 「(校長は) 日ごろから職員との円滑なコミュニケーションを保つとともに、 職員会議における職員の建設的な意見を参考に、 学校運営の円滑化・活性化が図られるよう努めるものであること。」 と続ける。 新たな職である総括教諭については学校教育職の 「教諭」・「養護教諭」 をもって充てるとし、 管理職ではないことを 「Q&A」 に明記した。 つまり、 総括教諭には 「服務監督権」 や 「職務命令権」 はない。 教諭とは異なる任用の東京の主幹とは一線を画した。 (東京都の主幹は管理運営規則で 「担当する校務に関する事項について教頭を補佐し、 所属職員を監督する。」 とされた。) 「一致協力」 「共通理解」 「意思疎通」 「重要な役割」 「上下関係ではなく」 「円滑なコミュニケーション」 などといった表現は、 ソーシャルキャピタルの視点を感じさせる。 経営学では人間関係の蓄積・資産という意味で 「リレーショナル・アセット」 と言うらしい。 管理職を筆頭に現場は、 「リレーショナル・アセット」 「ソーシャル・キャピタル」 の重要性を再確認する必要があるだろう。 もしもそれが生かされていなかったり、 忘れ去られていたとしたら、 その原因を早急に突き止める必要がある。 「ソーシャルキャピタル」 を発揮する組織運営になっていないのなら、 「Q&A」 や 「管理運営に関する規則の運用」 に齟齬をきたしているとも言えよう。 「ソーシャルキャピタル」 という神奈川らしさを維持することで、 難問山積の状況を乗り切っていきたいものである。 おわりに 新自由主義・市場メカニズム第一主義の下、 教師も代替可能な商品として扱われる可能性が出てきている。 教師だけが現代の労働環境と別の次元で生きていけると考えるのは、 最早幻想であろう。(10) 派遣の教師がいる。 派遣として教師の職業に就くことが悪いのではない。 代替可能な職業として教職が扱われていることに違和感を感じる。 教職とはマニュアル化してこなせる取り替えのきく職業なのだろうか。 生徒指導の問題などで教師が生徒にかける言葉は、 その人の人柄を色濃く反映する。 同じ言葉を異なる教師から聞く事があるとしても、 受け取る側の印象はそれぞれの教師によって決定的に違うだろう。 教師の経験、 今までに語りかけてきた言葉の蓄積が、 一つの言葉を地層のように支えることがあると思う。 いかに生きたかを反映するのが言葉であれば、 教職は決してマニュアル化できない。 教師とは言葉を紡ぎながら日々成長する職業なのではなかろうか。 もちろん、 こうした理想論を口にしつつ、 現代の教職は労働問題を抱え、 社会問題の渦中にあるとの認識を持たなければならないのも事実だ。 教師が自らの労働条件を知ることでリアルなキャリア教育もできるだろう。 職場の労働安全衛生について議論や交渉をする中で学ぶことも多いはずである。 格差社会と言われる今日、 流動化した理不尽な労働環境にいる若者達は既に行動を開始している。(11) 教師はこれまで以上に社会に目を向けなければならないだろう。 教育三法の 「改正」 は決して教育に明るい未来を約束しない。 先行するイギリスの例からも明らかなように教育は混沌とし、 生徒も教師もこれまで以上に疲弊するのは確かなことだ。 しかし、 安穏な日常からは見えないものをそれらは明らかにするかもしれない。 そこから立ち上がることが必要だろう。 多分、 教師も社会に出た生徒達も、 働く者としてつながる事が必要なのだと思う。 【注】 1 スコットランドでは学習内容を減らして教師に大幅な自由裁量を与え、 個々の生徒の需要にあった改革が進行中。 北アイルランドは統一学力テストの結果公表を止め、 2007年度までに同テストを廃止することを決めている。 ウェールズ教育省の資格・カリキュラム部門責任者、 ジョン・ウイリアムズ氏が繰り返し協調した言葉 「競争原理を基にした現行の教育体制から こども中心 の教育に移行する」 ナショナル・テスト廃止を決めた理由を同氏は 「テストの結果が学校の業績評価に直結し、 学校の 成功 を測る基準になってしまったからだ」 と語った。 2006年 5 月初め、 スコットランドを除くイギリス連合王国の小・中等学校長約三万人で構成する全英校長会が 「イングランドでのテスト結果公表廃止」 を求める決議を全会一致で採択した。 校長会は他の教員組合や親の会に呼びかけてキャンペーンを張ると言った。 校長会がこのような挑戦的な行動を起こすのは史上初めて。 (阿部菜穂子 「岐路に立つイギリスの教育改革」 『世界』 2006年 9 月号) 2 教育基本法改正情報センター (http://www.stop-ner.jp/) 2007年 4 月 8 日 「センター主催緊急集会 学校法、 教免法、 地教行法 「改正」 で教育はどうかわる?―教育三法の批判的検討― 報告の概要」 に掲載された次の各氏の論考を参考にしている。 教員免許法改正案の批判的検討 浪本勝年 (立正大学) 学校教育法改正案の批判的検討 現行法と改正案における教育目標の異同 世取山洋介 (新潟大学) 地教行法改正案の批判的検討 中嶋哲彦 (名古屋大学) 3 中島哲彦 「全国学力テストは公教育に何をもたらすか公教育の目標管理と排他的競争の組織化」 『世界』 2007年 9 月号を参考にした。 4 「いま教育現場で何が起きているか」 『世界』 2007年 2 月号より引用 5 佐久間亜紀 「なぜ、 いま教員免許更新制なのか」 『世界』 2007年 2 月号に詳しい。 6 高橋誠 「教職員の健康調査」 の結果が意味するもの 『世界』 2007年 2 月号に詳しい。 また、 同調査を実施した (財) 労働科学研究所の酒井一博常務理事・研究主幹は教員は高度な専門職でありながら、 労働環境があまり良くないので調査対象に選んだと語っている。 7 労働安全衛生法は労働安全衛生規則によって運用される。 もちろん学校にも適用されるが、 メンタルヘルスはもちろんの事これが実働している実感はない。 ちなみに、 中央労働災害防止協会が運営する労働安全衛生センター (http://www.jaish.gr.jp) の 「快適職場づくり」 には次のような箇所がある。 「快適化の第一歩は作業環境等のハード面の改善を行い、 人が不快と感ずる要因を取り除くことですが、 それだけでなく、 労働時間、 安全衛生管理の水準、 職場の人間関係、 働きがいなども、 人が快適さを感じるための重要な要因です。 (傍線筆者)」 果たして学校はどうか。 8 「平成14年度 内閣府委託調査ソーシャル・キャピタル:豊かな人間関係と市民動の好循環を求めて」 (http://www.npo-homepage.go.jp/data/report9_1.html) 中の 「ソーシャルキャピタルという新しい概念」 を参考にした。 9 上記調査以外に内閣府経済社会総合研究所 「コミュニティ機能再生とソーシャル・キャピタルに関する研究調査報告書」 (http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou020/hou015.html) が公表されている。 10 2007年 6 月に閣議決定された 「骨太の方針2007」 でハローワークの無料職業紹紹介業務が 「市場化テスト」 の対象となった。 労働を商品として扱うと 「人間の商品化」 につながる。 ILO88号条約では、 国に無料の公共職業安定機関を維持するように求め、 営利追求を目的とした民間事業者に職業紹介事業を委ねることを規制している。 国が社会的なセーフティーネットを放棄することにつながる。 (青木春男 『朝日新聞』 2007年 8 月 9 日 「私の視点」) 11 牛丼店フリーター 「ユニオン」 を結成 (朝日新聞 2006年11月11日) バイトなのに 「事業主」 扱い 残業代や慰謝料を求めて東京地裁に提訴 労働組合も結成した。 (朝日新聞 2006年11月22日) |
(かなざわ のぶゆき 教育研究所員) |
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