新自由主義的教育再編と[改正]教育基本法 |
藤原 晃 |
はじめに 筆者が高校現場で働くようになってまだ数年しか経っていないがそれでもかなり急速に高校が様変わりしていることを感じる。 「人事評価」 「単位制高校」 「総合学科」 「生徒による授業評価」 「シラバス」 「学力調査」 「観点別評価」 「キャリア教育」 「受験学区の撤廃」 「企画会議と総括教諭」 「副校長」 など、 いずれもその本音と建前の矛盾、 偽善性などが、 現場で働いていれば弥が上にも見えるが、 眉唾な感覚を口にするのがやっとで、 疑問や憤りを押し殺し、 ストレスに換えながら職務に専念させられている。 こんな様子がこんにちの学校を支配している。 そして、 このような現象は神奈川だけではなく、 全国的なものでもある。 そんな中、 とうとう昨年12月22日に新しい教育基本法が公布・施行され、 それに連なる形で教員免許法、 学校教育法、 地方教育行政法の 「改正」 3 法案が強行採決された。 何故このような一連の 「改革」 が今、 せっかちに行われているのか? これらの現象の背景には何か共通たらしめている存在を仮定せざるを得ない。 もちろん枝葉末節では様々に複雑な要素も絡んだ現象もあるだろうが、 「そういう時代だから」 と納得するのでは無思考に等しい。 その 「樹幹」 が何かを議論し理解することは日々の仕事と生活を常に反省的に見るのに必要なことだと考える。 そのためにはまず、 今日的状況の基底をなす新自由主義の説明から始めたい。 (1) 新自由主義という 「信仰」 社会主義世界体制が崩壊し冷戦終結によって、 アメリカの多国籍企業の活動が中心となった新自由主義のグローバリゼーションが急速に進行した(1)。 そのなかで、 アメリカは 「先制攻撃論」 「単独行動主義」 を宣言するなど、 軍事的一局支配を出現させた。 日本はこれらの状況に対応するため、 80年代に中曽根内閣が新自由主義政策(2)をスタートさせ、 2000年代に入り小泉内閣が 「聖域なき構造改革」 というスローガンを挙げ加速さると同時に、 日米軍事同盟をも再編した。 新自由主義の2側面 ―市場原理主義と新保守主義― 新自由主義には必ず 2 つのイデオロギーが相補完的に存在している。 すなわち、 市場原理主義と新保守主義(3)である。 市場原理主義は、 「自由」 「自立」 「自己責任」 をスローガンに掲げることによって、 福祉、 教育、 医療などの社会保障や、 鉄道、 通信、 電気、 ガス、 道路などの社会資本の国家による直接的供給を非難し、 それらの市場化を主張する(4)。 つまり、 貧困者を救い (或いは出さず) 生活の安定を図り、 もって社会不安を防止する国家行政の本来的仕事を投げ出して、 競争分野を拡大する。 その必然的結果として市場から脱落させられる層は膨れ上がり、 彼等の不安と不満は増大していく。 この不満のエネルギーを吸収し、 国際競争への貢献へ流し込むには、 「国家」 を前面に押し出すことが必要となる。 それが、 具体的には 「治安回復」 の名の下に、 「犯罪」、 「テロ」、 「災害」 などへの 「危機管理」 として警察、 軍隊の増強、 それらを承認する心情としての 「愛国心」 や 「道徳心」 が強調されるようになった。 日本においては、 99年以降激しさを増す 「日の丸・君が代」 の強制、 『心のノート』、 「愛国心通知書」、 改正教基法に並べられた 「徳目主義」 などはその現れである。 同時に 「教育投資」 の主な対象である 「エリート層」 の国外流出を防ぎ、 「国家」 とその企業のために 「投資効果」 を上げるためにも、 哲学なき行動規範と価値観である 「徳目」 とナショナリズムが必要となる。 このように、 どんな分野であろうとも自発的な販売と購買のみが購買者の欲求を効率よく満たすことが出来るとする 「市場原理主義」 と、 「国家」 による文化的価値観の教え込みを目指す 「新保守主義」 は補完しあわなければ存在できない関係にある。 「市場原理主義は 規制緩和 をすすめ、 小さな政府 を実現し、 誰でも自由に起業し可能性を出せるのであって、 これは国家権力の増大と監視を思考する新保守主義とは矛盾する」 と捕らえるのは、 レトリックとしてはあり得るが、 実態としては間違っている。 地方分権といいながらその実、 国家統制が強まる方向に進められているのもその一例である。 これが、 「国家の退場」 と、 「国家の過剰」 (5) が共存して見える理由であるが、 ではどのようにして、 このレトリカルな矛盾を迂回しているのだろうか。 新自由主義の想定する国家観 ― (株) 日本政府― 市場原理主義者は、 「官」 対 「民」 の対立を描きだし、 民間活動への 「国家」 からの干渉を廃することで、 市場を作り出す 「自由の擁護者」 を自称する。 しかし、 この態度に矛盾を感じるのは、 「国家」 という存在が人民の福祉と幸福追求の手段であることを前提としているからである。 そんな前提すら吹き飛ばすような状況を描きだすことが今行われている。 単純に言えば 「国家」 を株式会社と同様の存在としてみなすところにその本質がある。 つまり、 「国家」 をその諸事業に対する最大の 「出資者」 として存在させ、 その当然の権利として 「基本方針」 と 「基本計画」 を策定し、 受給者がその要求にこたえているかをチェックする。 そうすることによって、 「国家」 を 「官製市場」 をコントロールするに過ぎない存在として民衆に認知させるのである。 さらにこの発想にいったん乗ってしまえば、 最大の納税者であるところの巨大企業は 「最大投資者」 であって、 「国家」 はその 「投資効果」 を保障する義務があるということにもなる。 1996年に橋本内閣に 「たとえ、 火だるまになっても行政改革を断行する」 とまで言わせ、 98年には中央省庁改革基本法で内閣機能が、 国民の代表議会である国会に対抗的に 「強化」 され、 2001年には内閣府が設置され、 そこに計画機能と予算配分機能を集中させる 「基本法方式」 を定着させてきた理由はここにある。 この10年余りの間にも食料、 文化、 エネルギー、 環境のあらゆる分野にわたって 「○○基本法」 「○○基本計画」 が大量に作られている(6)。 新自由主義の主張するところによれば、 自発的な販売と購買が市場において自由に行われることを通じてのみ購買者の要求が効率よく満たされるのであり、 そのためには出資者は何の摩擦も受けずに自由に活動できなければならないということになる。 従って、 出資者の 「行動」 が社会的に大きな影響を持ち、 場合によっては大きな悲惨につながるような事柄についてはそうさせないような 「規制」 が必要になるが、 それも彼等にとっては 「摩擦」 として批判の対象となる。 このように 「国家」 や行政の本来的な意義を後景に追いやる (つまり企業や資本化の利益を人民の権利より優先させる) イデオロギーを強化することによって、 「国家の過剰」 と 「国家の退場」 などという 「国家」 についての議論すら視界の外に押し流しているのである。 新自由主義への 「教育」 の代入 上述したように新自由主義的改革は、 これまでは市場化不能とされてきた社会保障や社会資本の国家による直接的供給を非難し、 市場化を主張する。 それでもこのような分野に 「国家」 の介入が許容されているように見えるが、 実態は国家による直接的サービスの提供は否定され、 市場の創設と維持にのみ 「国家」 の介入を限定するのである。 「自然発生的には市場にならないなら、 コースラインを引いて、 「順位」 を決めるためのルールを与えてやろう」 というわけである。 もちろんその 「コース」 と 「順位」 はグローバル競争のなかでの国家戦略に合わせて引かれる。 支援費制度改革、 介護保険制度、 医療制度改革、 などはその実例である。 そして教育分野を新自由主義イデオロギーに当てはめたものが、 現在進行中の 「教育改革」 なのである。 市場化の条件定式 介入的に 「市場化」 するためには分野を問わず、 大小を問わず次の 5 つの条件が必要になると考えられる。
1947年に施行された旧教育基本法は、 憲法精神の実現を宣言し、 それを 「人格の完成」 に求めたものである。 従って、 その条文解釈はおのずと憲法順接的であり、 その目的は平等主義を背景とする基本的人権を現実のものとすることであった。 そのために公教育における共通条件が設定可能であり、 能力発達上の各段階に応じた教育条件の整備のみを国家の義務とし、 人格破壊的な国家による関与を予防的に制限することが人民の権利であるとしたのだった。 そこから必然的に学校設備、 単線型普通教育課程、 対生徒比教員定数、 教員資格などの学校制度的規準を形式的にせよ議会制民主主義の手順に従い、 法令によって決めなければならないことになるのであった。 そして教育内容については、 子どもの 「学習権」、 保護者の 「教育権」、 教師の 「教育の自由」 の協力によって実現すると考えなければならないのである。 しかし、 新自由主義はこれら一切のことを 「資金提供者 (=国家) の自由」 への 「規制」 だと非難する。 「改正」 教育基本法の中身 「改正」 教基法の文面には、 市場原理や国家主義を露骨に推進する言葉は見当たらない。 むしろ、 微妙な表現の変更または追加を行っているだけであるとも言える。 それは、 「これまでの教育基本法に規定されていた個人の尊厳などの普遍的な理念は引き続き規定しつつ…」 (7) という文科省の言い回しにも現れている。 しかし、 よく見ると、 本号の武田論文に詳述してあるように、 その文言は新自由主義的教育再編を進めるのに必要な法令や施策やイデオロギーを積極的に追認できるか、 或いはそれらと矛盾の無いような表現となっている。 そうすることで 「改正」 前は、 ハッキリとした目的であった 「憲法精神の実現」 とは真っ向から対立する意味合いを準備しているのである。 その中で決定的内容を持つのは17条の 「教育振興基本計画」 である。 この一条を以って他の条項にある曖昧な文面を固定することが出来る。 先述した株式会社化した国家行政により、 市場化条件とこれを補完する国家主義的政策が経営方針として示され、 そこに向けた競争コースが 「教育振興基本計画」 という形で具体的に示されるのである。 17条はその 1 項で、 「政府は、 教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、 教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、 基本的な計画を定め、 これを国会に報告するとともに、 公表しなければならない。」 第 2 項には 「地方公共団体は、 前項の計画を参酌し、 その地域の実情に応じ、 当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。」 と書かれている。 国会に対しては報告義務だけを要求し、 政府 (=内閣府におかれる教育振興基本計画会議) が 「基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項」 を決定すると言うのである(8)。 このように国家による教育への公費支出が 「先行投資」 として方向付けられ、 その 「投資効果」 (9) が判断されることになるのである。 そこには 「学問の自由」 も 「教育の自由」 も存在しない。 ただ国際競争の中での 「投資者」 への 「貢献」 が追及されるだけとなる。 その必然的結果として 「国家」 − 「個人」 関係を、 「手段」 − 「目的」 から、 「目的」 − 「手段」 へと180度回転させることになる。 これは、 おのずと人民を国家的権力から防護する存在としての 「憲法」 を否定する「反」 立憲主義へと通じるのである。 おわりに 「小さな政府」 と称されるものを、 政府の人民抑圧的側面が 「小さく」 なるという気分で解釈するのは間違いである。 「改正」 教基法のスタンスが180度転換したのと同様、 政府による人民監視・統制機能はより強大となる代わりに、 国家への最大出資者である巨大資本やその代表達への、 監視の目は小さくなる。 若者の 3 人に 1 人が安定的な職を保障されていない代わりに、 盗聴法や繁華街への監視カメラ、 規範意識の強調などの 「目」 は日常的に人民の生活へと入り込んでいる。 その一方で、 企業活動や投機活動から人民を守るさまざまな 「規制」 は縮小、 あるいは撤廃され、 所得税と法人税は90年から2004年で20兆円も減税された。 このような事実の根本理由をわれわれは考えるべきである。 今後、 新自由主義的再編がいっそう顕現化してくるのは明らかである。 そしてこの再編 (教育分野だけではないが) は明らかに、 人民主権、 議会制民主主義、 平等主義、 平和主義、 そして立憲主義精神にすら敵対する。 そのとき 「人権としての教育」 と 「教育の自由」 を新自由主義的信仰に対抗して自覚し、 あらゆる場で、 あらゆる手段で問題化することができるか否かが人民の為の公教育を護る鍵となるのではないだろうか。 【注】
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(ふじわら あきら 教育研究所員) |
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