寄稿
技高は二度、 「廃校」 となった(3)  技高廃校30年
綿引 光友

1 まえがき
2 技高との出会い
3 技高廃校と最後の技高生の訴え
  (37号)
4 「奇術高校」 と呼ばれた技術高校
5 「特色づくり」 の元祖・技高の特色
6 高校と職訓とのドッキング(38号)


7 「一昼二夜」 のすれちがい通学
 前号では、 技術高校の第一の特色である、 職業訓練機関 (職訓、 1969年以降は専修職業訓練校と呼称) との 「併設・併修」 について検証したが、 ついで今回はまず、 第二の特色である、 「一昼二夜 (いちひるにや)」 ( 2 〜 4 年生) とよばれる変則的な通学形態について詳述する。
(1)一昼一夜から一昼二夜へ
 高石友也という歌手が歌ってヒットした 「受験生ブルース」 (1968年発売、 作詞・中川五郎、 作曲・高石友也) の替え歌の 「技高生ブルース」 が、 技高生の間でひそかに歌われていた。 そのなかに 「 1 週間に一度の全日制/1 週間に二度の定時制/1 週間に六度の会社出勤/1 週間に一度の休みもない」 という一節がある。
 たびたび引用している 『神奈川県立の技術高校』 (1) によれば、 この点に関しては以下のように説明されている。
  「第 1 学年を修了すると、 職業訓練所修了の資格をもって就職する。 雇用条件に週当り昼間 1 日勉学の機会を与えることを入れて、 第 2 学年以降の通学は、 週当り昼間 1 日と夜間 1 晩を原則としている。 これは、 健康的にも、 また勉学の条件としても、 一つの改善と考えることができる」( 6 ページ)
 また別の個所では、 「フリッカーの疲労測定法などによると、 昼間働いているときの、 夜間通学は 4 日が限度のようである」 (同 2 ページ) とある。 定時制課程 (夜間) の場合、 一般的には毎日、 通学しなければならない。 しかし技高の場合、 「昼間 1 日、 夜 1 日」 のあわせて 2 日間だけ通学すればよいのだから、 生徒の立場に立てば、 大幅な負担減となる。 ある技高の 『学校要覧』 には、 「毎夜週 6 日間登校して勉学する一般定時制高校と比べて、 働きながら勉強する生徒の過労を防ぎ、 自宅での勉学の時間も十分とることができ、 恵まれた学生生活を送ることができる」 (2) とあった。
 ところが、 まさしく朝三暮四とはこのことで、 技高開校 2 年目の64年度だけは県の説明通り、 「週当り昼間 1 日と夜間 1 晩」 だったが、 「昭和40年度から昼間 1 日と夜間 2 日に変更」 (3) となった。 「一昼一夜」 はたった 1 年で頓挫したのであった。
 一方、 先の変更に関する記述のあと、 「なお、 大船技術高等学校は昭和39年度夜間 3 日の形態」 (4) との注釈があった。 そこで各技高の通学形態を改めて仔細に検討してみる (5) と、 大船技高以外でも一律的ではないことが判明した。
 すなわち、 63年開校の川崎・平塚の 2 校は65年度から 「一昼二夜」 となった。 しかし横浜の場合、 64年 4 月から 7 月までは 「一昼一夜」 だが、 8 月から 「一昼二夜」 に変更された。 また大船の場合も、 先の説明では、 64年度のみ 「夜間 3 日の形態」 であったかのように読めるが、 細かく見ていくと 1 期生 (68年度入学生) は 3 年間 (64〜66年度)、 「三夜」 ( 4 時間× 3 日=12時間) であったことがわかった。 したがって、 65年度になると、 2 年生 ( 2 期生) が 「一昼二夜」 なのに、 3 年生 ( 1 期生) は 「三夜」 のままだった。 つまり大船では、 「一昼二夜」 と 「三夜」 が 2 年間にわたって併存していたのである。
 設立 2 年目に着任した大船の元教職員の回想記には、 次のように書かれている。
  「 1 期生は週 3 日の登校日はすべて夜、 2 期生以後は一昼一夜の建て前が、 一昼二夜、 教室は建築中の第 2 棟が完成しても、 全学16クラスに対して、 半分の 8 教室、 おまけに月曜夜、 火曜昼、 水曜夜、 木曜昼、 金曜夜、 土曜昼の完全隔日昼夜交代出勤…」 (6)
 64年度に分校としてスタートした 3 技高中、 追浜・秦野の 2 校は65年度からいきなり 「一昼二夜」 となり、 「一夜」 の経験はない。 しかし相模原の場合、 7 技高中唯一の例外と思われるが、 65年度から 3 年間にわたり、 すべての学年 ( 2 〜 4 年) が 「一昼一夜」 登校のままであった。 相模原が 「一昼二夜」 になったのは、 3 年後の68年度からである。 同じ技高でありながら、 「一昼一夜」 や 「三夜」 「一昼二夜」 と登校形態が学校ごとに違うというのは、 今では考えられないことだろう。
(2) 「すれちがい通学」 と 「とびとび通学」
 2 年生以上は、 「一昼二夜」 の通学と聞けば、 普通は誰もが 2 〜 4 年生が同じ日 (曜日) に通学すると考えるだろう。 しかし、 技高ではそのような常識は通用しない。 この点に関してさらに細かく見るために、 7 技高すべての通学日を一覧表にまとめてみた (次ページの資料 1 )。
 まずは、 学年ごとに昼間通学日 (週 1 日) が異なるということがわかるだろう。 次に週に 2 回の夜間通学日だが、 横浜をはじめ 5 校は 2 〜 4 年生が同時に通学するが、 川崎と大船の場合は、 2 学年しか通学しないシステムになっている。 したがってこの 2 校については、 夜間通学日が週に 3 日存在する。 しかもそのうちの 1 日は、 他学年の昼間通学日と重なるから、 教職員は朝から夜間まで通しで働かなくてはならない。 夜間通学日が同一の 5 校は、 週に 2 日は 1 年生を除く全校生徒が限られた時間ではあっても一緒になるが、 川崎・大船の 2 校は、 2 〜 4 年生の全員が一堂に会する機会はないことになる。 表題に掲げたように 「すれちがい通学」 (7) と呼ぶ由縁である。
 表を見ればわかるように、 平塚・秦野が同じ通学パターンだが、 ここでは 2 年生の通学日は水曜日の昼間と、 月・火曜日の夜間 2 日である。 会社へは水曜日を除く 5 日間、 出勤する。 通学日が月・火・水の 3 日連続となるので、 逆に週後半 3 日間は通学しないことになるわけだ。 「すれちがい通学」 と同時に 「とびとび通学」 (8) でもある。 前述したが、 このような状況であるにもかかわらず、 「恵まれた学生生活を送ることができる」 とは一体、 どういうことだろうか。
 全校生徒が顔をあわせる日が全くないということは、 部活動や生徒会活動、 さらには文化祭・体育祭などの学校行事が成り立たないということを意味する。 夜間通学日が同一の 5 校の場合、 放課後、 部活動や生徒会活動をしようとすれば一応、 3 学年だけは揃うが、 昼間通学日の放課後になると、 1 年生 (訓練生でもある) とたとえば 2 年生といった具合に、 わずか 2 学年しか集まることができないのである。
(3)全校生徒が通学すると教室が足りない
 資料 2 として、 追浜技高の施設平面図を示そう。 図中に 「○○CR」 と記されているのがいわゆるHR教室 (普通教室) である。 これが全部で 8 教室ある。 昼間通学日の場合、 「塗CR」 を塗装技術科純訓生 (訓練生のみで 1 年間の昼間課程)、 「電CR」 を電子技術科純訓生が使用しており、 さらに 1 年生 (訓練生でもある) の 3 科 (自動車整備、 溶接、 機械工作) が入ると、 残りはちょうど 3 教室となる。 幸いなことに、 「通CR」 は本来、 無線通信科の座学用の教室だったが、 ここも技高の 2 〜 4 年生のHR教室として活用することができた。
 しかし、 3 学年 ( 9 クラス) が揃う夜間通学日となると、 1 教室分が不足となった。 そこで、 クラス人数の少ないクラス (72年度の場合、 4 年溶接科生徒) を 2 階にある指導室 (生徒指導室) にあてることにした。 幸い 4 年溶接科は、 昼夜とも同じ生徒指導室をHR教室にすることができたが、 他方、 昼間登校日と夜間登校日ではHR教室が異なるというクラスも少なくなかった (9) 。
 先にもふれたように、 「技高の常識」 では昼間通学日が別々なのだが、 とすると、 「なぜ、 昼間通学日を同一の日にできないのか」 との疑問が湧くだろう。 当然の疑問だが、 それに対する回答を出すとすれば、 「全校生徒を収容するだけの教室がないから」 となる。 しかも初めから、 「すれちがい通学」 を前提にして、 技高および訓練校の校舎 (施設・設備は訓練校のもの) が建設されていたのである。 ここでも 「工夫と修練による真の奇術」 (10) がみごとに演じられていたという他ない。 すなわち、 少ない教室を 「有効活用」 する方策として、 一昼二夜の 「すれちがい通学」 という 「奇術」 が編み出されたと考えられる。
 一方では、 週あたり 1 日の昼間通学日を 3 学年共通にすると、 企業サイドから見た場合、 2 〜 4 年生にまたがる複数の従業員 (技高生) が一挙に現場から離れることになってしまう。 そこで、 学年ごとに通学日をずらした、 今日流で言うシフト制にすれば、 労務対策上都合がよいとの思惑もあったからではなかろうか。
(4) 幻の 「一昼三夜」 案
 追浜では、 68年度末、 学校独自に生徒の通学日を一昼二夜から一昼三夜とする動きがあった。 ここではその取り組みを紹介したい。 まず、 そのねらいを次のようにまとめている。
  「現行の一昼二夜登校では、 夏休みを 3 週間にしようが、 学校行事をいかに減らそうが、 授業時数が全く足りないのである。 科目によっては標準時間数 ( 1 単位35時間) の半分にも達しなかった。 また、 一昼二夜では教師と生徒の接触の機会が少ないから充分な生活指導が行なえない。 さらに生徒間の交流の機会も少ないから、 生徒会活動などにも支障をきたしている。 こうしたいくつもの難点を少しでも緩和させようというのがそのねらいであった。」 (11)
 しかしながら、 「昼間登校日をふやすことは企業との関係で困難なので、 当面学校で可能な夜の登校日をふやし、 県教委が認めない場合は、 補習授業の形でおこなうことにしようと考えた」 (12) というのである。
 こうした教職員の考え方に対して、 当初は拒否していた校長も 「標準時間の半分以下の時間しか授業をやらないで単位を認定する方こそおかしい」 との教職員の声に押され、 年度末の職員会議で 「本校独自の措置として、 補習授業の形で、 来年度から生徒に一昼三夜登校させる」 ことをついに認めるに至った。
 担当分掌で一昼三夜の時間割を作成し、 新学期を迎えるまでこぎつけた。 ところが、 年度末の人事異動で校長が代わり、 一昼三夜案は流産してしまった。 新しく着任した校長は、 「教育委員会でダメだといっているので、 従来どおり一昼二夜でやってくれ」 (13) と言うばかりで、 頑として譲ろうとはしなかった。 「 2 学期以降、 改めて再検討する」 との確認がなされたものの、 一昼三夜案は再び日の目をみることはなかった。 当時、 通学日の拡大を県当局も模索していたようにも思われるが、 提示されるようなことはなかった。
(5) 生徒からみた 「一昼二夜」
 ある技高生が卒業文集に次のように書いている。
  「卒業にあたり、 我高の短所を書いてみたい。 1 つは他の夜間高校に較べてみると、 我高は週に 3 回、 そのうち 2 回が夜で、 昼間丸 1 日登校する制度になっている。 他の夜間高校は毎日夜間の登校制度で、 通勤しながら学校に通う。 生徒にとっては我高の制度の方が肉体的にも精神的にも大分楽である。 これは長所であるが、 同時に短所でもある。
 なぜかというと、 肉体的・精神的に楽でも、 勉強を前提として考えると、 実際は損をしていることがわかる。 他の夜間高校は毎日通っているので、 前日の授業を思い出せば良いわけだし、 我々の約 2 倍の授業を受けられるからである。 それにひきかえ我々は、 授業を受けるたびに前の授業を思い出さなければならない。
 我々はこの状態について考えようともしないで、 反対に喜んでいたのである。 なんと馬鹿げたことだろうか」 (14)
 企業本位に考えられた 「一昼二夜」 という技高の登校形態の本質を突いた鋭い批判になっており、 溜飲がさがる思いがする。
 次いで、 困難な学習環境下にあっても、 大学進学をめざし、 受験勉強に打ち込むある 4 年生の意見を紹介しよう。
  「(略) 1 年生の頃、 工業科目や実習をしたり、 昼休みに狭い校庭で熱い日差しを受けながら寝っころがったり、 まるで、 他の高校から引き離されていくような、 別の世界にいるような気持ちだった。 その時は余り感じなかったが、 2 年、 3 年、 4 年となるに従って、 他とは全くの別世界にいることに気づき、 それがだんだん深くなってきた。
 夜、 勉強をしようとしても、 目がパチパチ絶え間なく動き、 ツーレツな眠気に誘われる。 肉体労働を終えての勉強は、 ほんとうに辛い。 夢も希望もなく、 夜になれば眠ることだけが楽しみである。
 今の僕たちの時期は、 こんなことではいけない。 もっともっと、 勉強しなければいけない。 社会に出るのが早過ぎた。 精神的に大事な時期である。 しかし、 言うことなすことが思うように一致しない。 自分がイヤになる。
 壁に掲げられた新聞の技高の記事を見た時、 思わず胸が熱くなった。 つくづく学校がイヤになる。 知らない人から 『技高とは?』 と聞かれても、 答えられない。 答えたくない。 技高に入りたいと思っている人がいたら、 『やめなさい』 と言いたい。
 技高の問題点は限りなく多いが、 それを 1 つ 1 つ解明していき、 最後には、 『あそこは良い学校だ』 と呼ばれるような学校にしたい。 おそらく、 この学校にいる生徒が他の学校へ行けば、 その学校の雰囲気になじむだろうし、 反対に他の学校の生徒がここの学校に来たとすれば、 この学校の雰囲気に溶け込むだろう。 だから、 生徒も先生もみんなが、 学校をよくするように努力していけば、 必ず良くなるはずである。 そう信じます。 努力していくことは難関だと思うが、 生徒諸君から心を新たにして、 厚い壁に積極的にぶつかっていかなければ、 解決することは程遠いだろう」 (15)
 過去にも引用したことがある文章だが、 30年ぶりに読み直してみると、 このような辛い思いをさせてしまったことに対して、 教員として申し訳ない思いで一杯となる。
  『神奈川県立の技術高等学校史』 に列挙された通学形態に関する技高の問題点を示す。
  「ア 週あたり 1 昼 2 夜の授業では、 授業時数が少なく、 充実した授業にすることが困難である。 また、 生徒指導、 学校行事などが十分に行えない。
 イ 夏季休暇が一般の高等学校のようにとれないし、 年間をとおした時間割編成ができにくい。
 ウ 昼間通学が 1 日あるため、 就職先が限定される。」 (16)
 その意味するところが不可解なのだが、 別な箇所では、 次のように書かれている。
  「日本においては、 宗教上のことを含めての家庭における教育のことや職業教育に対する職場の教育態勢などが西ドイツと著しく異なり、 しつけのことも職業教育のことも学校依存という形になっているので、 1 昼・2 夜という通学形態が実情に適合しにくい面をもっている」 (17)
 最後に、 開校当初の県教委PR文を紹介する。 誇大広告の極みであろう。
  「生徒にとっては、 1 日の勤務にかえて学校で勉強できるのではなはだ幸福なことなのです。 毎週 3 〜 4 日は、 夜間、 家庭ですごせるので、 休養がとれ、 家での予習復習の時間もあります。 勤労青年にとって理想的な登校の仕方といえます」 (18)

8 会社に行くと単位がとれる
   ― 「現場実習制度」 の意義と問題―
 技高の 3 番目の特色として、 会社へ行くことによって単位が修得できるという 「現場実習単位認定制度」 (以下、 現場実習制度と呼ぶ)をあげることができる。 「単位の水増し装置」 ともいえるこの制度は、 1971年度から廃止されたが、 ここでの 「奇術高校」 ぶりを紹介し、 廃止に至る経緯にもふれていきたい。
(1) 「現場実習制度」 創設の根拠
 まずは定番だが、 「現場実習」 に関する県教委の説明文から。
  「技術高校は、 学科の規模が機械仕上・自動車整備などの特定の分野であって、 教育課程もその分野について、 実習を行ないながら理論の裏付けをして技能の習得をさせるように編成する方針であるから、 生徒が仕上工・整備工として、 現場で行なっている仕事は、 学校の実習の延長として考えることができるので、 現場実習とする。 これについては、 教員が生徒の職場を巡回指導する。」 (19)
 この前段では、 「職業を主とする学科においては、 現場実習をもって実習にかえることができる。 (後略)」 と書かれた学習指導要領を引用し、 現場実習制度創設の根拠にも言及している。
 1 年間の職業訓練を修了した生徒は、 職安などの斡旋によって、 学科に関連した会社に就職する。 2 年生からは先にも述べたように、 「一昼二夜」 の通学となるが、 会社での仕事が工業の 「実習」 の単位として認定されるというのが、 現場実習制度であった。 つまり技高生は 3 年間、 会社で働き、 「実習」 単位をきちんと修得しなければ高校を卒業できない、 というしくみになっていた。 職業訓練を受けた後、 就職したくない (働きたくない) と思っても、 就職しなければならなかった。 また、 自分の学科と異なる分野の仕事をしたいと思っても、 嫌でも関連会社に就職しなければならないのだ。 「勤労青少年に誇りと希望をもたせ、 1 か年の在学期間を使って、 職場の選定ができるので、 特に定着性が期待できる」 (20) と謳われているが、 現場実習制度という重しがあるからこそ、 「定着性が期待できる」 のである。
(2)現場実習と巡回指導
  「現場実習単位認定制度」 とは、 前述したように、 関連会社での労働が工業科目の 1 つである 「実習」 の単位として認定され、 進級・卒業できるシステムだが、 ではその労働 (実習) ぶりを、 「誰が、 どのように評価するのか」 との疑問が出てくるだろう。 もちろん、 会社の上司が人事評価や査定と同じようにできるわけではない。
 県の説明文を注意深く読むと、 「教員が生徒の職場を巡回指導する」 との一節があるが、 「指導」 といっても、 会社の仕事内容に対して 「行政指導」 できる筋合いはない。 当時は 「職場訪問」 とか 「会社訪問」 とか呼ばれ、 生徒が働く企業に出かけ、 生徒の上司らとその働きぶりについて話をしたことがあった。 その後、 生徒本人とも面会するが、 学校で見せる表情とは違い、 真剣な顔つきで作業に取り組む姿に感心するとともに、 想像を超える厳しい職場環境の下で働いている実態を知り、 考えさせられることも少なくなかった。
 以下は、 ある技高から企業向けに出された 「教育主任を決めていただく件」 との表題の依頼状 (68年 4 月付) である。 長くなるが、 引用する。
  「(前略) さて当校はご存じのように、 時代の要請にもとずいて設立された全国に例をみない制度で、 特に学校教育法にきめられた工業科実習単位取得については、 学校所定の実習単位の 7 割を貴社現場作業における実務をあてることになっております。 尚御参考までに学校教育法の単位認定はきわめて厳重で、 たとえ 1 単位欠けましても卒業できないきびしいものであります。 従って貴社における生徒の実務は、 当校としまして授業の一部の実習と考えておりますので、 仕事の内容とその勤怠についてご理解ときびしいご指導をお願いする次第です。 勿論学校でも巡回指導の教職員を派遣し、 生活指導、 実務内容につき貴社係員の方と相談するようになっておりますが、 何分にも多数の生徒のことで充分なことが出来ず申し訳なく存じております。 幸いにも昨年 9 月協力会の誕生を見まして雇傭問題を前向きに進めるいと口ができましたが、 今後とも定着指導等の生活指導を含めて、 より一層の緊密な連絡をはかるため、 貴社勤務の本校生徒の実習指導にあたる貴社職員を 1 名 教育主任 としておきめ下さるようにお願い申し上げます。 そして毎学期 1 回程度その方々のご参集をいただき、 生徒の諸問題に効果的な指導を展開していきたいと考えております。 宜しくご理解、 ご協力の程お願いする次第であります」
 このような依頼文がすべての技高から出されていたか不明だが、 会社における現場実習 (追浜技高では、 事業所勤務の 2 〜 4 年生を 「委託実習生」 と呼んでいた) の単位認定や定着指導をめぐって、 苦労していた様子を垣間見ることができる。
 なお、 追浜技高の 『要覧』 には、 「事業所との指導連携は次の形で行なう」 と以下の 3 項目の指導法が掲げられていた。 (2)は実施されていたが、 (1)(3)についての詳細は把握していない。
 (1)職業実習の作業報告書の提出とこれ についての添削指導
 (2)学校職員 (訓練校併任職員を含む)  の職場訪問及び文書による連絡指導
 (3)職場実習に於ける課題研究学習の指 導
(3) 突如の現場実習廃止
  「生徒の進路・職業選択の自由を奪う懸念がある」 など数々の問題点が指摘されながらも、 設立以来約 7 年間続いてきた現場実習制度だったが、 これが71年度より突如廃止となった。 県知事選挙 (21) があった直後の71年 5 月31日付で出された教育長通知 「技術高等学校における現場実習の取り扱いについて」 (指第225号) には、 その理由を以下のように述べている。
  「(略)情勢の変化等により、 すべての生徒の職場における仕事を現場実習として認めることには、 学習指導要領に示されている内容からみて、 そぐわない面がでてきている」
 この通知に添付されていたと思われる付属資料 (22) には、 職場の仕事を現場実習として認める問題点として、 次の 3 点をあげている。
 ア 関連職種に就職していない者の取り扱いがむずかしい。
 イ 関連職種に就職している者でも、 職場の仕事が当該学科における技能習得上からみて、 現場実習として認めることが適当でない仕事についている生徒が多くなっている。
 ウ 職場の仕事を現場実習として認めるための指導計画の立案や教育評価がきわめて困難である。
 通知に示された取り扱い方針は、 以下の 2 点にあった。
 1 昭和46年度以降、 職場における仕事を現場実習として、 2 〜 4 年次の実習の一部に含めることは、 取りやめる。
 2 現場実習の取り扱いをしないことによる実習時数の補充については、 昭和46年度以降の1年次のものには、 1 年次における職業訓練の実習の一部を現場実習として追加することにより措置する。
   昭和46年度の 2 〜 3 年次のものには、 各学校における可能な方法 (たとえば、 特別な課題を与えてレポートを提出させる等の措置) により措置する。」
 3 点目として、 留意事項があり、 「技術高等学校の性格から、 企業側と学校との協力関係は、 従来と何ら変わるものではなく、 従来からの両者の間で実施している事項は、 引き続き行なうようにする」 と記されていた。 「付属資料」 には、 「企業に対する説明 (例示)」 があり、 上記の内容とともに、 「従来から両者の間で実施している事項」 に関して、 以下のように具体的に列挙されている。
 ア 1 年修了時の生徒の就職については、 当該学科に関連する職種につかせるよう強力に指導する。
 イ 巡回指導は従来通り実施し、 生徒の技能習得上ならびに生活面などの指導に役立てる。
 ウ 企業と学校の懇談会は、 今後とも開催する。
 エ 生徒の勤務先における業務をは (ママ) 握し、 指導について企業と学校が連携を図るため、 連絡票を作成する。
 オ 登校日の出欠状況は、 従来通り企業に連絡する。
 この資料の別な箇所には 「職場の仕事を現場実習からはずしても、 技術高校創設の精神に変更を与えるものではない」 との一文があった。 「創設の精神」 が何をさすのかわからないが、 アに 「強力に指導する」 とあるから、 企業と学校との関係は不変だということなのだろう。
(4) 現場実習単位数の変遷
 前節で現場実習単位制度の廃止をめぐる経緯にふれたが、 ここで技高の実習単位数の変遷を表にまとめておく (資料 3 )。 71年度から現場実習 (会社における仕事) が廃止されたため、 2 〜 4 年生で各 2 単位ずつ、 計 6 単位あった現場実習はゼロとなり、 その分が 1 年の現場実習 (訓練校における実習) に上乗せされたため、 14単位となった。 したがって、 7 単位の校内実習 (これも訓練校における実習) をあわせると、 何と21単位にもなる。
 この表を見ると、 63〜66年度の現場実習単位数は各学年 5 単位で、 合計15単位となっている。 しかし当初は一昼一夜 ( 8 + 4 =12時間) だったはずだから、 厳密に計算すると、 企業における現場実習は、 年間194時間 (約5.5単位) となるのだが、 この資料には 5 単位と表示されている。
 それはさておき、 この資料から、 会社の仕事内容は変わらなくとも、 現場実習単位数が15単位 (63〜66年度)、 6 単位 (67〜70年度) となり、 挙句の果てには 0 単位 (71年度以降) となった経過がよくわかるであろう。 しかも校内・現場をあわせた実習単位数は27単位と変わらない。 にもかかわらず、 朝令暮改ともいうべき数字合わせ (23) によって、 単位数がはじき出されているのだから、 驚くほかはない。
 昨秋、 「未履修問題」 が大きな問題になったが、 技高の現場実習単位をめぐる問題はその比ではあるまい。 4 年間で英語の単位数がわずか 3 単位 (24) 、 芸術 1 単位という教育課程上の問題点を含め、 技高は 「未履修」 の宝庫であったと言っても過言ではないだろう。
(5) 現場実習と技高生
 冒頭で紹介した 「技高生ブルース」 に、 以下の歌詞がある。
 「制服制帽 1 年生/ガタッと変わる 2 年生/あきらめムードの 3 年生/どうにもならない 4 年生」
 2 年生になると、 技高の生徒たちの生活は激変する。 仮に全く働く必要がない生徒であっても、 職安などの斡旋により、 技高生は学科に関連のある企業に就職するからだ。 というか、 「就職させられる」 と言った方がよいかもしれない。 働きながら学ぶ定時制高校の生徒ではあるが、 3 年間、 一昼二夜という変則的な通学体制を余儀なくされ、 学校と会社との往復をすることになる。 しかも複雑怪奇な技高制度の下で、 さまざまな矛盾や問題点に包まれ、 彼らはもがき苦しんでいたと言えるだろう。
 学校新聞や文集などから、 当時の技高生の苦悩ぶりを伝えたい。
  「(略)しかし、 2 年生になると、 会社と学校という二通りの配慮をしなければならない。 最初の 2 、 3 週間はただ疲れ、 社会の厳しさを知る。 3 カ月もするとタバコや酒を飲み出す者が現れてくる。 確かに、 2 年になると人が変わる。 そして、 夏休みが終わる頃になると、 何人かが脱落する。 脱落した者はきまって技高を馬鹿にして行った。 このような現状に追い込んでしまったものはなんであろうか? 本校のほとんどの者が知っていたと思うが、 根本は最初が悪かったの一言につきるということである。 すなわち技高制度自体、 欠陥があったのだ。 (略)」 (25)
  「(略) 2 年
2 年から一昼二夜/体の調子が悪くなる/原因、 食事が不規則になるため/治るのに半年、 学校へ行くのがつらかった/毎日、 会社から帰ると、 ネルノミ
 3 年
学校、 会社にも慣れる/自分が、 ますますだめになる/勉強、 まったくやる気なし/早く4年になりたいと思う/ 3 年の思い出は、 少ない (略)
  『4年間』
わかっていても、 だめになる自分/結局、 何事も自分しだいである/頼れるのは、 最終的には、 自分しかいない/社会に出ると、 よくわかる/そのためにも、 無知ではいけない/偏狭な人間にならないように勉強/勉強は自分のためにやるのだ」 (26)
 以下の引用は、 教員から見た技高生の生活実態に関する記述。
  「(略) 真面目な生徒、 物事をよく考える生徒ほど始めに崩壊します。 ある生徒は無気力に、 ある生徒は非行に、 『どうせ俺は技高生だ』 と自嘲する生徒、 『俺が悪いのじゃない、 技高が悪いのだ』 とうそぶく生徒。 (略) 技高は生徒も教師もだめにしてしまう。 これが偽らざる技高の実態です」 (27)
 技高生を取り巻く過酷な運命に同情を禁じえなかったが、 同時に、 多くの矛盾に満ちあふれ、 「生徒も教師もだめにしてしまう」 (同上) 技高制度の抜本的な改革なくして、 展望を切り開くことはできない、 明るい未来はないと多くの技高教員たちは思いつめ、 改革闘争に立ち上がった。 実態は大きく変わらなかったとはいえ、 「現場実習制度」 という制度改革が技高制度の根幹を揺るがす大きな一歩である(28)ことを、 当時は実感できずにいた。 そうした総括をする間もなく、 大きな課題に直面していたからだ。
 (次号につづく)


【注および参考文献】
( 1 ) 県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 1965年11月。
( 2 ) 県立追浜専修職業訓練校・県立追浜技術高校 『昭和45年度 要覧』 70年。
( 3 ) 県教育委員会 『神奈川県立の技術高等学校史』  76年2月。
( 4 ) ( 5 )前掲書( 3 )
( 6 ) 県立大船工業技術高等学校 『開校10周年創立20周年記念誌』 82年11月。
( 7 ) 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 73年 8 月。
( 8 ) 前掲書( 7 )
( 9 ) 前掲書( 7 )では、 「さすらいのホームルーム」 などと表現したことがある。
(10) 佐々木典比古 「学校教育と職業訓練―県立技術高校の背景―」 県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 65年11月、 所収。
(11) 神奈川高教組追浜技高分会 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』 75年11月。
(12) (13)前掲書(11)
(14) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま』 72年3月。
(15) 拙稿 『神奈川県立技術高校の実態と問題点』 72年 7 月、 B 5 サイズのガリ版刷り冊子。
(16) (17)前掲書( 3 )
(18) 県教育委員会 『神奈川の教育』 第22号、 65年10月。
(19) (20)前掲書( 3 )
(21) 県知事選挙直前の 2 月県議会において、 津田文吾知事(当時)は技高と企業との関係にかかわる議員の質問に対して、 次のように答えている。
   「これ (技術高校のこと―引用者) は全国に先がけて神奈川県が開設したものでございます。 全国的に非常に高く評価をされておる学校であります。 (略) 少なくともわれわれは全国に誇りうる施策、 施設の 1 つである、 こういうふうに考えております。 (略) あなたは、 教育が企業に従属すると、 そういう言われ方をなさっておりますけれども、 そういうことじゃなしに、 産業と教育というものが連携をとりながら産業に役に立つ教育ということは、 決して企業に従属する教育ということにはならぬと思います」
  このように答弁し、 知事選に臨み再選されたが、 わずか 1 カ月後の 5 月31日には、 現場実習を 4 月にさかのぼって廃止するとの教育長通知が出された。
(22) B 4 サイズで、 3 枚からなるプリント(タイプ印刷)。 おそらく職員全員に配布されたものと思うが、 技高校長会などで配られた資料かもしれない。
(23) 67年度より、 現場実習の単位数が各学年 5 単位 (計15単位) から同 2 単位 (計 6 単位)と半減した理由などについては検証できていない。
(24) 前号で 「幽霊時間割」 のことにふれたが、 3 単位英語の授業 (追浜技高の72年度) は次のように展開されていた。 1 年生 (訓練生) は、 1 学期が週 2 時間、 2 学期からは週 1 時間となるが、 11月上旬で終わりとなる。 2 年生の場合、 週 1 時間で 1・2 学期のみで、 3 学期には授業がなくなる。 しかし 3 年では、 1 〜 3 学期通して週 1 時間の通年授業が可能となる。 4 年生になると英語の授業はまったくない。
  それでも曲がりなりにも週あたり 1 時間ずつ 3 年間、 英語の授業があるわけだが、 技高開校当初は、 1 年 2 単位、 2 年で 1 単位となっていた。 つまり、 3 ・4 年生は英語の授業が 2 年間、 「未履修」 だったのである。
(25) 「平塚技高新聞」 第11号、 70年 8 月19日。
(26) 前掲書(14)
(27) 高教組技高対策会議 「全組合員への手紙」 72年 6 月17日。
(28) 神奈川高教組 『神高教30年史』 (82年 3 月刊)には、 次のような分析的な記述がある。 「技高制度は、 企業・職訓・高校の三者連携にあったが、 連携の柱は職訓と高校にある。 これに比して企業との連携は比較的制度の定着度合も弱く、 かつ、 それが学校教育の放棄であることも明確な部分であった。 ここにくさびを打ち込むことによって、 改革闘争への突破口を開きうるのではないか。 このように期するところを秘めながら企業連携制の矛盾を県教委に対して追及、 71年度からの廃止へと追い込むことに成功していった」 (163ページ)

(わたひき みつとも 県立相模原高校教員)
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