寄稿
技高は二度、 「廃校」 となった
  技高廃校30年 (2)
綿引 光友

1 まえがき
2 技高との出会い
3 技高廃校と最後の技高生の訴え
  (前号)

4 「奇術高校」 と呼ばれた技術高校
 技高に在職経験のある教職員は今、 何人くらいいるのだろうか。 新採用としては1973年 4 月が最後と思われるので、 あと数年もたてば、 技高を職場とした教職員は皆無となるだろう。 タイトルにも掲げたように、 廃校から数えても30年たったのだから、 当然である。
 今さら、 30年前の昔話をするのもどうかとは思うが、 技高ほど複雑怪奇な学校はないだろう。 技高改革を訴えるため、 あちこちの全日制高校を回り、 その制度や実態を説明したが、 なかなかその内容を理解してもらえなかった。 2 〜 3 年で転勤できたから、 新採用教員が多く、 そのしくみを理解できないまま転勤していった教員も少なくなかった。 管理職でさえわからないような 「謎」 が、 一杯潜んでいた。 だから逆に、 その 「謎解き」 が面白くもあった。
 技術高校を 「奇術高校」 と呼んだのは、 技高創設当時の労働部長である。 この人が 「奇術高校」 の名付け親かどうかは不明だが、 少なくとも次のように述べたくだりがあるので、 その一節を引用してみよう。
  「人呼んでこれを 奇術高校 という。 しかし奇術には、 ごまかしの奇術のほかに工夫と修練による真の奇術がある。 後者は、 時空の芸術の一環として、 人間の体力と精神力が最大限に発揮されるところに成立するものである。 その意味でそう呼ばれるなら、 それはむしろ技術高校に対する無上の賛辞である。」(1)
  「1年間の全日の教育訓練と就職後 3 年間の定時制教育訓練 (週 1 日 1 夜を原則) とによって、 教養のある優秀な技能者をつくり出すことを目的」(2)として、 「これまで別々のレールの上を走っていた別々の電車を 1 つに連結して、 新しいレールにのせよう」 (3)との試みは、 「工夫と修練による真の奇術」 であると自画自賛している。 「人的能力に関する答申が示唆している新しい後期中等教育の構想を現行法規の中でわれわれ流に実現してみせたものである」 (4) とも述べているが、 「工夫と修練」 の結果、 誕生したのが技高に他ならないというである。
 ここでは、 技高が果たして 「真の奇術」 によるものか、 それとも 「ごまかしの奇術」 によるものかを検証するためにも、 「奇術」 と考えられる 「しかけ」 の一端を見ていくことにしよう。
 言うまでもなく、 高校の授業で 1 単位といえば、 週に 1 時間ずつ授業が行われる。 最近は、 半年間、 週 2 時間の授業を受け、 1 単位として認定するとの柔軟なシステムが導入されているが、 多くの高校では、 週に30時間の授業があれば、 年間30単位とカウントされる。
 ところが、 技高の 2 年生以上の場合、 「一昼二夜」 と呼ばれる変則的な登校形態をとっている。 つまり、 登校日が 1 週間のうち 1 日は昼間 ( 7 時間授業)、 2 日間は夜間 ( 1 日は 3 時間授業) に登校すればよかったのである(5)。 この場合、 週あたりの授業時数は13時間、 つまり年間13単位しか履修できないことになるが、 教育課程表には年間22単位 (特別教育活動を除く) も履修しなければならないことになっていた。 22単位から13単位を引くと 9 単位、 つまり 9 単位も足りないわけだが、 この 9 単位分 ( 9 時間分) をどうやって生み出すか  ここで、 県教委の言う 「奇術」 が出番となるのである。
 県教委の説明はこうだ。 「一般の高校が年間35週の授業であるのに対し、 技術高校は、 年間96日 (48週) 通学する仕組みになっているから、 年間履修単位は、 換算すると約17単位になる」(6)
 県の説明では 「一昼一夜の登校、 週12時間」(7)で計算していたので、 17単位となるが、 前述の 「一昼二夜」 だと、 約18単位となる。 17単位だとしても、 年間22単位にするためには、 5 単位が不足している。 この 5 単位は、 「現場実習」 で埋め合わせたのである。 「現場実習」 に関する県教委の説明は、 以下のとおり。
  「生徒が仕上工・整備工として、 現場で行なっている仕事は、 学校の実習の延長として考えることができるので、 現場実習とする。 これについては、 教員が生徒の職場を巡回指導する。」(8)
  「現場実習」 は、 今日でいうインターンシップの先取りとも言えるシステムだが、 要するに、 会社での仕事 (労働) が年間 5 単位、 3 年間で15単位分を卒業に必要な単位数として組み入れていたのである。 「巡回指導」 とは、 単位認定のために考えられた 「指導措置」 と思われる。 しかし、 会社での働きぶりやその内容について、 果たして学校が 「指導」 し、 その結果を評価し、 単位認定できるだろうか。
 一方では、 「技術高校の教育課程の基準では、 普通教科が44単位、 専門教科 (工業) が45単位、 合計89単位としてあるから、 卒業に必要な最低修得単位数より 4 単位も多いわけである」 とし、 従来の工業高校の 「卒業に必要とする単位数 (普通教科44単位以上、 専門教科40単位以上)」 と比べて、 決して遜色ないとも述べている。
  「現場実習制度」 は、 いわば 「単位の水増し装置」 であって、 これによって、 年間必要単位数をかろうじて確保してきた。 しかし、 この制度は生徒を欺く 「奇術」 であることが後に明らかとなり、 1971年度から廃止となった。 この点に関しては、 次回で詳述する予定である。
 他方、 その 5 単位分を除いた残り17単位分は、 1 週13時間 (昼間 7 時間+夜間 3 時間× 2 日) の中で、 どうやって履修させていたのだろうか。 その 「奇術」 の種明かしをしてみよう。
 まずは、 O技高 3 年生の時間割(9)を見てもらいたい。 授業時間割というのは、 一定期間だけ、 特別時間割を編成する場合もあるが、 一般的には、 1 年間を通じて同一の時間割表が使われる。 ところが技高では、 ここに示したように、 学期ごと (年 3 回) に時間割表が変わるのである。 学校によっては、 年 4 回という技高もあったということだから、 時間割担当者はさぞかし苦労が多かったと思われる。
 注意深く見ないとわかりにくいのだが、 たとえば倫社 (当時の科目の呼称で、 現在では倫理) でいえば、 1 学期には 1 時間だけだが、 2・3 学期には週 2 時間となる。 体育は 1 学期 2 時間、 2 学期 1 時間、 3 学期 2 時間となっている。 数学と保健は 1・2 学期には各 1 時間ずつあるが、 3 学期にはない。 反対に、 古典は 1 学期にはなくて、 3 学期に登場する。 まさしく 「神出鬼没の時間割」 (10) なのである。
 次に、 先の時間割の元になっている年間授業計画表を示す。
 前述したとおり、 技高の教育課程は年間48週 (年間52週だから、 春・夏・冬休み分が残りの 4 週という計算) だが、 この計画表は44週としてある。 学校行事などを除くと、 年間44週というのがぎりぎりの数字だからである。 技高では、 夏休みが 1 年生 (訓練生でもある) で10日間、 2 年生以上ではわずか 3 週間 (といっても、 生徒は会社に行っているので、 休めない) しかないのだ。 「夏休みが 3 週間」 というのも、 技高の大きな 「特色」 の 1 つだ(11)。
 先の時間割を見れば一目瞭然だが、 特別教育活動 (ロングホームルーム) の時間はまったくない。 しかし、 技高によっては、 なんとかロングホームルームの時間を確保しようと、 8 時間授業 ( 1 時間40〜45分で、 休み時間 5 分) や 9 時間授業 ( 1 時間35分授業、 休み時間 5 分) にしている技高もあった。
 計画表を見ると、 古典の28時間を除けば、 ぎりぎり標準時間数を確保しているようにみえるが、 実際に細かくカウントしてみると、 大幅減となっている。 ある技高で行なわれた調査によれば、 国語 ( 3 単位105時間) が平均64時間、 数学( 1 単位35時間) がなんと19時間しか、 授業ができなかったということだ (12)。
 算術を駆使したこれまでの 「奇術」 には、 あちこちにほころびが顔をのぞかせ、 なおかつ 「現場実習」 のように、 途中で破綻したものもあった。 この点を見れば、 「工夫と修練による真の奇術」 (労働部長)とは、 とても言えたものではないことがわかるであろう。 ここに示した 「奇術」 はほんの一例にすぎず、 これら以外にもたくさんの 「奇術」 が技高にはあるが、 それらについては、 また後でふれることにしたい。

【資料1】技高3年生の時間割(1972年)


【資料2】技高3年生の時間割(1972年度の技高3年生)
(資料1・2とも出典は「これが高校か」より)

5 「特色づくり」 の元祖・技高の特色

  「特色ある教育活動」 や 「高校の特色づくり」 の推進が叫ばれて久しいが、 技高こそ 「特色ある高校」 の元祖であり、 「特色のデパート」 と呼んでも過言ではあるまい。
 技高の設立にあたって、 「技高の特色」 を県教委がどのように説明していたか見てみよう。 ここでは、 (A) 設立当初と (B) 廃校時という、 2 つの時期の資料(13)の対比を試みる。 (B) は (A) をもとにして作成されたものだが、 比較してみるとその内容が微妙に変化していることがわかる。 このことは、 筆者も今回、 このような比較表を作成して、 初めて気づいた点でもあった。 設立から10年たてば、 当初の特色が色あせてくると考えられるが、 意図的に変色させたと思われる部分も見られるが、 どうだろうか。
 まずは第一に、 Aでは 4 項目あった特色がBでは 3 項目となり、 「公共職業訓練の立場から」 が削除されていることだ。 技高最大の特色ともいうべき部分を全面削除したのは、 なぜなのだろうか。 悪い冗談を敢えて言えば、 これは職業訓練サイドから見たら 「ショック(ン」」 ではないか。
 第二は、 Aでは第一項目が 「学校の立場から」 であったが、 Bでは 「生徒の立場から」 となった。 生徒の立場を一切掲げなかったことの反省から、 このような書き換えを行なったのではないかと勘ぐりたくなる。 その内容をもう少し細かく見ていくと、 AにあったBDが削られ、 Bの(ウ)の後段に 「健康の点から考えると有利である」 との文言が追加された。
 第三に、 「産業界の立場から」 を見ると、 その具体的項目の順序が並べ替えられている。 しかも 「再教育の無駄の排除」 の前には、 Aの 「学校の立場から」 にあった 「(職訓と夜間定時制との) 二重負担の軽減」 が挿入されている。
 第四には、 「社会的・公共的立場から」 の第一項目を見ると、 Aでは 「能力に応じた教育の機会均等がはかられる。 その上、 適性能力に反する教育からうまれる欲求不満・不良化防止に役立つ」 とあったが、 Bでは後段がみごとにカットされた。 しかし別項では 「青少年の非行化を防止する役割の積極面を技術高等学校が担うものであるといっても過言ではない」 (22ページ)との記述が残されている。
 県教委が掲げる 「技高の特色」 を概観してきたが、 それらも重要な特色には違いないが、 何といっても技高最大の特色は次の 3 点に要約されると言ってよいだろう。
 第一は、 職業訓練機関 (設立時は職業訓練所、 1969年から法改正により専修職業訓練校と改称(14)) との 「併設・併修」 であり、 第二は、 2 年生以降の 「一昼二夜」 とよばれる変則的な登校形態、 第三は、 途中で廃止に追い込まれたが、 会社へ行くことによって単位が修得できるという 「現場実習制度」 の 3 つであろう。
 次章以下では、 これら 3 点の特色について詳述し、 技高とはどのような高校であったのか、 その 「学校案内」 をしていこう。


6 高校と職訓とのドッキング
(1)技高生は訓練生でもある
 技高最大の特色は、 高校と職業訓練所とがドッキングしたことであろう。 たびたび引用する 『神奈川県立の技術高校』 には、 次のように書かれてある。
  「本県の公共職業訓練所の施設は、 優れており、 年間の訓練は、 48週に1800時間も行なうから、 訓練所をそのまま高校にできないか、 という意見もでる。 しかし、 簡単に高校にできるわけではない。 現行法令に違背してはならない。 そこで、 諸法令をはじめ、 学習指導要領の研究を何回となく重ね、 いろいろな型式を考え、 文部省にも何かと指導を受けて、 38年 4 月に開校の運びに持ち込めたのである」 (5 ページ)
 当時は 「高校卒業の資格のほしいものは、 訓練所を出て就職したのち、 改めて定時制の高校に入学し、 4 年間毎晩通学して勉強しなければならない。 時間的にも、 身体的にも無理があるわけである」 (同 2 〜 3 ページ) と考えられていた。 だから 「こうした矛盾をなくし、 青少年が誇りをもって、 優れた技能者になれるようでなければならない」 (同 3 ページ)との考え方のもとに、 技高が設立された。
 ある技高の 『学校要覧』 には、 「一般の定時制高校と異なり、 1 年に入学した生徒は同時に職業訓練生でもあり、 訓練生として職業訓練法に基づく、 昼間 1 ヵ年課程の訓練を受ける」(15)との説明があるだけだが、 別のページには資料 4 のような表が掲げられている。 この表中にA、 Bとあるのは、 Aが技高併置、 Bが訓練課程のみの場合 ( 1 年次のみで修了) を示している。 しかしながら、 こうした説明があっても、 入学した生徒の多くは 「高校に入学したと思ったら、 職業訓練所 (校) だった」 と驚かされるのだ。
 そもそも入学試験 (正しくは学力検査) の段階から、 他の定時制高校とは違っていた。 まずは、 定時制課程でありながら、 学力検査の実施日が全日制と同じであった。 しかし、 学力検査の問題は 「技高仕様」 (A群が国語・社会・英語、 B群が数学・理科の 2 種類) であり、 全日制の問題とは大きく異なっていた。 しかも、 この平易な学力検査の後に 「職業適性検査」 が実施された。
 合格すると、 「入学許可証」 と 「入校許可証」 の 2 枚が手渡され、 「入学式」 ではなく 「入校入学式」 と呼ばれる。 「入校入学」 すると、 新入生の中には、 技高生だけでなく訓練生 ( 1 年課程) も混じっていて、 同じクラス・教室で授業を受けるのである。 したがって、 前者を 「技訓生」、 後者を 「純訓生」 と呼ばれている。 入学早々、 「技訓生」 呼ばれ、 ギクンとした生徒もいたとか(16)。

【資料4】技高の修学方式

(県立追浜技高「昭和45年度 要覧」より引用)

(2)職業訓練所に 「併置」 された技高
 技高の正門には 「○○技術高等学校」 と 「○○専修職業訓練校」 (設立当初は 「職業訓練所」) の 2 つの看板が懸かっていた。 しかし、 相模原、 大船、 平塚など 5 校は同じ名称だが、 川崎と横浜の 2 校は違っており、 川崎技高は中原職訓に、 横浜技高は横浜工業技術職訓に 「同居」 していた。
 現場レベルで技高問題を論じる際に、 職業訓練校職員から 「軒先を貸して、 母屋を取られた」 などといった発言がよくあった。 確かに技高は、 もともとあった職業訓練所に併置されたわけだから、 そうした表現があたっているかもしれない。 技高運営連絡協議会の申し合わせにも、 はっきりと 「県立技術高等学校の土地および建物の管理は、 労働部所管の行政財産とし労働部において行なう」(17)とあるから、 わかりやすく言えば、 訓練校 (労働部) が 「家主」 で、 技高 (教育委員会) はその 「店子」 だったのである。
 そこで以下には、 職業訓練所に技高がどのように 「併置」 されたのか、 その経緯を辿ってみる。 この部分は、 従来はあまり注目されてこなかったので、 今回整理を試み、 記録に残そうと考えた(18)。
  「併置」 の事情は各校それぞれで、 複雑である。 ほとんどの職業訓練所は、 技高開校前後に、 校舎の新設や建て替えを行なっており、 その関係から開校後、 移転した技高が 7 校中 4 校もある。
 63年開校の横浜技高は当初、 鶴見職訓 (鶴見区市場町) に併置されたが、 3 年後の66年、 横浜工業技術職訓 (保土ヶ谷〈現・旭〉区中尾町) の新校舎完成にともない、 移転した。 その間、 横浜立野高校の校舎の一部を使用し、 授業をしていたこともあった。 同じように川崎技高も、 63年の開校時には川崎職訓 (川崎市境町) に併設されたが、 翌64年、 中原職訓 (同市下小田中) が新設されたため、 川崎から中原へ移転している。
 大船技高の場合は、 創立時 (63年) は藤沢職訓 (藤沢市藤沢) に間借りしていたが、 2 カ月後の 6 月には、 大船職訓 (鎌倉市岡本) が新しく開所の運びとなったので、 そこへ引っ越しとなった。
 相模原技高は横浜技高の相模原分校として、 64年 4 月、 相模原職訓 (相模原市矢部新田) に併置され、 スタートを切った。 3 年後の67年、 独立したが、 その半年後から新校舎建設工事に着手し、 68年11月、 同市内の光が丘に移転した。 これにともない、 旧相模原職訓は一時、 淵野辺分校となった。 しかしその後、 淵野辺職訓と改称、 さらに相模原工技高の開校 (このことは、 相模原職訓の廃校を意味した) をきっかけに、 76年、 再び相模原職訓と 「昔の名前」 に戻ったのである。
 残る平塚・秦野・追浜の 3 技高はいずれも、 開校から数年以内に、 新校舎や実習棟・体育館の建設がなされるなど、 施設・設備の充実が図られた。

(3)併任辞令と無資格校長・無資格教師問題
 技高では、 校務分掌とはいわず、 事務分掌と呼ばれた。 学校なら校務分掌と呼ぶべきところだが、 職業訓練所 (労働部の出先機関) との調整をはかる意味で、 事務分掌との表現が用いられたと思われる。 所長 (校長) と管理課長 (当初は庶務課長と呼ばれた。 事務長) は併任 (一人二役) で、 教頭・学校職員・事務職員は教育委員会に、 また指導課長・訓練所職員・事務職員は労働部に所属している。 そして、 技高の教員 (教諭) には訓練所の 「事務主事」、 訓練所の指導員 (正式な職名は 「主任技師」 「技師」) には、 技高の 「教諭」 「助教諭」 の併任辞令が出された。 着任時 (70年 4 月) に併任辞令をもらったかどうかの記憶は全くないが、 転任にあたっては 「神奈川県事務吏員併任を免ずる」 との人事異動通知書をもらった。 蛇足だが、 技高問題を語る上での貴重な 「物的資料」 なので、 大切に保管している (次ページ資料 5 )。
  「(略) 訓練所長を教育庁の職員に併任して、 学校と県教委との連絡を密にするようにした」 (19)とあったが、 7 技高の校長ポストは、 当初は労働部 4 、 教育委員会 3 と配分されていた。 校長 (所長) が労働部関係者であれば、 一般行政職だから、 教員免許状は持っていない。 今ならば、 「民間人校長」 や 「行政経験のある校長」 が認められ、 実際に県内にも存在するが、 当時は法的に問題となったのである。 70年 8 月、 「技高に 『無資格校長』」 などと新聞に報じられ、 あわせて技高が 「曲がり角」 にあることも指摘された。
 この問題に関連して、 ずっと後になってから、 次のような事実が関係者によって明らかにされた。 すなわち、 「無資格校長」 に関するコメントを新聞記者から求められた教育長が、 「穏便な取り扱い」 を新聞社幹部に依頼したというものだ。 しかも、 この後日談にはもう 1 つの後日談がついている。 その教育長は、 記者に取材を要請した仕掛人が小室実氏 (当時、 高教組書記長) だったという事実を、 小室氏が亡くなった直後に初めて知らされたというのだ(20)。
  「無資格校長」 の発覚からちょうど 2 年後の72年 6 月、 今度は校長ではなく、 「県立技高 無免許教師が12人」 などといった見出しで、 訓練校指導員に対する臨時免許状の交付や更新手続きがなされていない事実が明るみに出た。 その時の県議会文教常任委員会でのやりとり (質疑の要旨) を以下に再録しよう。 前段は教科書問題になっているが、 これも訓練所との併修にともなう大きな問題の 1 つであった。
議員A 「(略) 教科書は 1 年で労働省のものを使用している。 学校教育法施行規則では文部省教科書が得られない場合にのみ、 他のものを使用できることになっている。 おかしいではないか」
県教委 「文部省、 労働省の教科書の一方のみを使えば、 職訓、 高校のどちらかの満足がえられぬ」
議員B 「だから技高は高校ではないのだ」
議員A 「免許法により、 助教諭は教諭採用困難なときのみ発令できるとある。 7 技高で52名も助教諭を乱発しているのは、 免許法違反だ」
県教委 「 1 年の職訓の中からは教諭がみあたらず困難なので、 助教諭を出した」
議員A 「それでは、 職訓併設なので、 訓練校職員を採用せざるをえない、 ということではないか。 さらに、 助教諭臨時免許状は 3 年間のみ有効だが、 更新されているのか」
県教委 「更新してないものが現在12名おり、 44年 4 月から切れてるものもある。 授業は教諭の指導の下に行われ、 単位認定するのは教諭だから問題ない」
議員A 「免許のないものをどうやって教諭が指導するのか、 重大な失態だ。 45年 8 月に無資格校長が新聞で問題になったが、 現在でもいるではないか。 校長もしかり、 助教諭もしかり、 学校教育法、 免許法違反だ。 責任を明らかにせよ」
教育長 「最初から完全なものはない。 徐々に改善してきた。 本人の一生のことでもあるので、 新聞に出たからといって、 すぐに発令をかえるようなことはやりたくない」
議員A 「一生の問題だからといって、 ニセ医者を放置していてよいのか。 学校教育法の精神すら知らないではないか。 法を否定する教育長との審議には、 これ以上応じられぬ」
議員B 「要求した資料の提出もできない、 法規違反  ニセ医者なら逮捕されるところだ」
教育長 「私の答弁が学校教育法を無視するかの感を与えたことは遺憾であり、 これを取り消し、 今後はこういうことのないようつとめる」 (21)
  1 年生の教科書使用をめぐっては、 次のような技高教員の証言もある。
  「 1 年生の製図を担当することになったので、 高校の検定教科書を使おうと思ったところ、 職訓の指導員の方から職業訓練用の教科書を使ってくれと言われた。 製図の内容が変わるわけではないのだが、 高校の教科書でもよいではないかというと、 高校と職訓とは教え方がちがうのだから是非、 職訓用のものを使ってくれと言われ、 やむなくそうした」 (22)
 技高設立から数年後の話ではあるが、 学校教育法や学習指導要領などといった教育論よりも、 職訓と技高の職員間の力関係によって決められたことが伺える。 職員の年齢構成でも訓練校職員の方が平均年齢は高かったので、 大学を出て間もない教員が大半だった技高側の言い分は、 正論であってもなかなか通らない場面が多かった。

【資料5】筆者に交付された通知書



【資料6】「無免許教師」問題を報じた新聞


(4) 「拡大解釈」 によってつくられた高校
 技高のことを全国紙で最初に報道したのは、 「毎日新聞」 連載の 「教育の森」 ではないかと思われるが、 ここでは技高を 「公共職業訓練所と定時制高校との連係教育」 (23)と書いている。 しかし、 「連係教育」 に関する具体的な説明はない。
 県教委は、 「第 1 学年は、 年間35週の午前中が技術高校の授業であり、 午後が職業訓練生として、 実習などの訓練を受ける」 とし、 さらに 「そのほか、 13週の午前・午後は、 職業訓練生として、 訓練を受ける。 計48週の授業である。 1 ヵ年のうち、 残りの 4 週が休業となる。 もちろん、 土曜日は半日で、 日曜は休日である」(25)と説明する。 しかし、 訓練所との関係がどういう法的根拠で成り立っているのか、 の説明はないのだ。 別なところで、 「(略) 細かい授業時数の計算によって、 技術高校と訓練所の併立が可能となった」(26)と述べ、 「技術高校は、 工業高校の枠内で、 現行法の限度内において、 拡大解釈していく方針である」 との文部省の見解を掲げているだけにすぎない。
 ここにも 「奇術」 が施されているのかもしれないと、 当時、 職場の工業科教員に聞いたが、 よくわからないとのことだった。 学校教育法第45条の 2 (1961年追加) に 「技能教育のための施設における学習を当該高等学校 (定時制または通信制課程の高校―引用者) における教科の一部の履修とみなす」 との規定があり、 これに該当するのかもしれないと調べたところ、 神奈川の職業訓練所は文部大臣の指定を受けていないことが判明した(28)。 また、 学習指導要領にある 「現場実習」 でもなかった。
 先にふれた学校教育法第45条の 2 に基づく技能教育施設は、 政令で 「修業年限 3 年以上」 との制約があったので、 1 年課程の職業訓練所は当然、 対象外であった。 しかし恐らく、 これを 「現行法の限度内において、 拡大解釈」 し、 技高が創設されたと考えられる。 技高設立の 4 年後 (67年)、 「 3 年以上」 を 「 1 年以上」 にと、 政令 (学校教育法施行令第33条) 改正がなされた。 「拡大解釈」 の追認である。 「既成事実をつくってから法規をかえるというやり方は、 多様化政策の常套手段」(29)であり、 設立時点では 「学校教育法に基づかない定時制高校」 「もぐりの連携教育」(30)と言われる所以でもある。
  「学校で受けた普通教科は、 訓練生の授業として採用し、 訓練所で受ける実習は、 学習指導要領による要件のもとに、 学校の実習時数に繰り入れるようにした」(31)とあるが、 要するに 1 つの授業や実習が、 高校の単位にも訓練所の訓練時間 (年間1800時間) にもカウントされるという 「相互併修 (併立)」 方式なのであった。 しかし、 この 「併修」 の実態は不透明かつ複雑で、 「職訓のどの専門科目が高校の単位として認定されているのかをほとんど知らなかったし、 そういう問題に関心を示す教員が少なかった」(32)という状況にあった。
 たとえば、 自動車整備科の高校専門科目には、 「自動車構造」 ( 4 単位)があるが、 これは訓練科目の 「自動車構造」 (96時間)、 「内燃機関」 (96時間)、 「電気装置」 (47時間) の 3 科目を寄せ集め、 単位認定されていた。 よく見ると、 4 単位だから、 標準時間数は140時間のはずだが、 訓練科目の 3 科目合計時数は239時間、 約 7 単位分となった。 一方、 溶接科では、 訓練科目の 「電気溶接法」 (110時間) 「ガス溶接法」 (65時間)の 2 科目が、 高校科目の 「機械工作」 ( 5 単位)と読み替えられた(33)。 まさに 「奇怪」 というほかない。 「実習」 に至っては、 自動車整備科の場合、 15単位 (70年度の場合) だが、 訓練科目では 「基本実技」 (600時間)、 「応用実技」 (289時間)とあり、 どの部分が高校の単位 (標準時間数でいえば525時間分) となるかあいまいなのである。 しかもさらに 「奇怪」 なのは、 66年度まではこの 「実習」 が 3 単位だったのが、 67年度から15単位、 さらに71年度からは 「現場実習制度」 の廃止もからんで20単位となっている。 このことからも、 訓練科目のどの部分が高校で認定されるのか、 さらにどの科目が純粋に訓練科目なのか、 はっきりとは区分されていなかったのではないかと思われる。
  「人間の体力と精神力が最大限に発揮されるところに成立」 した 「工夫と修練による真の奇術」 (労働部長) によって設立されたのが技高だと言われたが、 「 1 年生にとっては靴と下駄を片足ずつはいているようなものであった」(34)。 先に掲げた設立時の技高の 4 つ特色 (資料 3 ) には、 学校・訓練所・産業界の立場からだけで、 生徒の立場にたった 「特色」 の説明は一切なかった。 「ごまかしの奇術」 に翻弄され、 「靴と下駄」 をむりやり履かされた生徒こそ、 技高制度の最大の被害者であったと言えるのではないだろうか。  (つづく)

【注および参考文献】
  1. 佐々木典比古 「学校教育と職業訓練  県立技術高校の背景  」 神奈川県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 65年11月、 所収。
  2. 前掲書( 1 )
  3. 前掲書( 1 )
  4. 前掲書( 1 )
  5. 『神奈川県立の技術高校』 (65年11月)では 「一昼一夜」 となっているが、 『神奈川県立の技術高等学校史』 (76年 2 月)には、 「昭和40年度から昼間 1 日と夜間 2 日に変更、 なお、 大船技術高等学校は昭和39年度夜間 3 日の形態」 の授業が行なわれていたと記されている。
  6. 神奈川県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』  65年11月。
  7. 前掲書( 6 )
  8. )前掲書( 6 )
  9. 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か 差別・選別される高校生 』 73年 8 月。
  10. 前掲書( 9 )では、 これを 「消えては現れる幽霊時間割」 と呼んだ。
  11. 当時の 「管理運営規則」 (61年 4 月 1 日公布) の第 6 条第 6 項には、 「夏季休業 7 月15日から9月10日までの間において40日間」 とあるから、 技高の 「夏休み 3 週間」 は何を根拠として決められたものか定かではない。 「管理規則」 違反 (拡大解釈?) の疑いもある。
  12. 前掲書( 9 )
  13. 前掲書( 6 )と県教育委員会 『神奈川県立の技術高等学校史』 76年 2 月、 をもとに作成。
  14. 職業訓練所 (訓練所) は69年10月の 「職業訓練法」 改正により、 専修職業訓練校 (訓練校) と呼び名が変わった。 「訓練校」 との名称で統一すべきかもしれないが、 『神奈川県立の技術高校』 などでは設立時の 「訓練所」 が使用されており、 引用などでは当然そのまま使った。
  15. 県立追浜専修職業訓練校・県立追浜技術高校 『昭和45年度 要覧』
  16. 前掲書( 9 )
  17. 県教育委員会 『神奈川県立の技術高等学校史』  76年 2 月。
  18. 前掲書(17)をもとにし、 大船と相模原については 『創立20周年記念誌』 (大船) や 『創立10周年記念誌』 (相模原) などを参考にした。
  19. 前掲書( 6 )
  20. 曽山晧 「技術高校と小室さん」 神奈川県高等学校教職員組合 『労働運動に捧げた生涯 小室実追悼文集 』 85年 3 月、 所収。 曽山氏は67年 6 月から71年 6 月までの教育長で、 その後副知事となった人物。 佐々井典比古氏の後、 労働部長も務めた。
  21. 神奈川県高等学校教職員組合 「神高教情報」 1248号、 72年 7 月 5 日。
  22. 「技術高校の実態と連携教育の拡大」 日本教職員組合 『中等教育の視点』 10号、 68年 5 月、 所収。
  23. 村松喬 『教育の森 ( 7 )   再編下 の高校 』 毎日新聞社、 67年 3 月。
  24. 前掲書( 6 )
  25. 前掲書( 6 )
  26. 前掲書( 6 )
  27. 前掲書( 6 )
  28. 前掲書(22)には、 67年 9 月現在の 「技能教育施設および連携高校」 の一覧 (全国で54施設、 12高校) が掲載されており、 神奈川では岡村製作所など13施設が出ているが、 県立職業訓練所の名前は見当たらない。
  29. 前掲書(22)
  30. 前掲書(22)
  31. 前掲書(17)
  32. 前掲書(22)
  33. 前掲書( 9 )
  34. 神奈川県高等学校教職員組合 『神高教30年史』 82年 3 月。

 
(わたひき みつとも 県立相模原高校教員)  
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