映画に観る教育と社会 [6]
[靖国の向こうにある日常]
手島 純

靖国参拝
 2006年 8 月15日、 小泉純一郎首相 (当時) は靖国神社に参拝した。 中国や韓国の抗議にもかかわらず、否、 むしろ挑発的に 8 月15日を選んだ参拝であった。 靖国神社を巡る議論は喧しく、 それぞれの言い分は混戦模様である。
 その 3 日後、 私は北京の天安門広場にいた。 さぞかし天安門広場は靖国参拝の抗議で喧噪のなかにあるかと思ったが、 観光客でごった返しているだけで平穏であった。 中国政府は小泉のパフォーマンスに辟易したのか、 次期首相候補の安倍晋三の発言に注視したいという政府見解で、 場をとり繕っていた。
 1931年から始まり1945年で終わるあの15年戦争が、 政治的なコンテクストでのみ語られ、 戦争そのものが語られなくなっていると思うのは杞憂だろうか。 靖国の評価を巡る論戦をする前に、 戦争の現実がもっと語られる必要があるのではないかと私は思う。
 この夏、 映画の世界においては戦争を語る秀逸な映画が静かに上映されていた。 池谷薫監督 「蟻の兵隊」、 黒木和雄監督 「紙屋悦子の青春」、 アレクサンドル・ソクーロフ監督 「太陽」 である。 どれも戦闘場面があるわけでない。 しかし、 先の戦争の悲惨さを強く表現した作品群であった。

「蟻の兵隊」
 この映画は、 日本軍山西省残留問題に焦点をあてたドキュメンタリー映画である。 奥村和一 (80歳) は、 終戦後も武装解除されずに中国に残留し共産軍と戦い続けた。 それは軍司令官が戦争責任を回避するため中国の軍閥と密約を交わした結果だった。 しかし、 戦後補償問題の過程で 「自らの意志で残り、 勝手に戦争を続けた」 とみなされた奥村らは、 事の真相 (自らの意志ではなく上官の命令だったという事実) を証明するため山西省に向かう。 一方、 奥村は 「初年兵教育」 の名目で罪なき中国人を刺殺した経験をもつ。 彼は戦争の被害者でもあるが加害者でもあったのだ。
 奥村の葛藤を軸に、 映画は奥村に寄り添うように撮られていく。 奥村が手探りで真相を解明するまさにその過程を活写し、 封印された真相に肉薄していく。 しかし、 この映画は、 奥村の旅の目的である山西省残留問題の真相究明にとどまらず、 戦争そのものがいかに人間を堕落させ鬼畜化していくかも同時に描いてみせた。
「紙屋悦子の青春」
 九州の病院らしい屋上で 2 人の老人の会話からはじまり、 そして終わるこの映画は、 しかし、 2 人の回想のほとんどのシーンを鹿児島県の紙屋家の居間で占められている。
 戦時下、 紙屋悦子 (原田知世) は兄とその妻と一緒に暮らしていた。 悦子は明石 (松岡俊介) に思いを寄せるが、 彼は海軍特攻隊に所属していて、 すでに命を国に預けた者だ。 その彼の友人である永与 (永瀬正敏) が悦子を気に入り結婚への準備が進む。 冒頭の 2 人の老人とは悦子と永与のことである。
 この映画は、 紙屋家の居間での会話が多く占める。 話の内容は日常の些末なことであって、 食卓のイモが腐っているのかいないのかといった具合である。 戦争の場面などはない。 しかし、 固定された居間のカメラから、 戦争がオーバーラップする。 たとえば、 思いを寄せていた明石が沖縄奪回の作戦に参加することを知った悦子は、 普段の物静かで冷静な様子とは違い、 台所で嗚咽する。 声だけしか聞こえないその嗚咽のシーンで戦争の不条理が一気に浮かび上がってくるのだ。  
  「美しい夏キリシマ」 などでも戦争を描きこだわり続けた黒木和雄は、 小津安二郎を彷彿させるセットだけで戦争をイメージさせる手法をとった。 庶民にとって戦争は日常の幸せを破壊するものでしかない状況をよく表現したと思う。

「太陽」
 この映画は終戦間近の昭和天皇を描いたもので、 イッセー尾形の絶妙な演技は天皇ヒロヒトに人間臭い輪郭を与えて余りあった。 地下防空壕での天皇の訥々とした話しぶり、 チャーリー・チャップリンに似ているといって天皇を 「チャーリー」 とはやし立てる米軍従軍記者の様子、 そしてマッカーサーが 「彼のような人間が世界を支配し何百万の人間を死に…」 と言わしめるシーン。 確かに日本での上映ができるかどうか危惧されていたというのも理解できる。
 ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフはこうした天皇の様子を美化するのでも断罪するのでもなく、 日常における天皇の様子を描くことに徹した。 喜劇的にも見えるヒロヒトの仕草の向こうに、 戦争という現実が重くのしかかっていることを観客は察知しながら、 日本では今まで決して描かれることのなかった天皇ヒロヒトを直視することになる。

美しい国の醜い日常?
 8 月の年中行事の観すらある靖国参拝騒動に比して、 これら 3 本の映画は淡々とした日常を通して戦争の悲惨さを表現した。 どれも戦争をイベントとして語ることから離れ、 戦争が普通の生活をいかに破壊させるかに焦点をおいた映画であった。 靖国参拝問題をイデオロギーとして語ることより、 これら 3 本の映画を観て感想でも語る方がずっと戦争の真実に近づいていくのではないかと思う。
  「美しい国、 日本」 などという情緒的なことばが靖国参拝を正当化するなら、 この国ではますます醜くなる日常を庶民は引き受けなくてはならなくなる。
(てしま じゅん  教育研究所員)
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