バトンリレー 研究所員による 「書評」
本田由紀 内藤朝雄 後藤和智  「『ニート』 って言うな!」 光文社新書 2006年
阪本 宏児

■ 「ニート」 って何だ?
 私事になるが、 「ニート」 という言葉を初めて耳にしたのは、 一昨年のいつ頃だったろうか、 この教育研究所の定例会議の場でだった。 もとはイギリスで生まれた言葉であること、 日本での使われ方とは意味合いが異なることなどが話題になっていた。 そのとき私は、 「皆よく知っているなあ」 と感心する一方で、 「べつに若年無業者でいいじゃないか」 とか 「新しいカテゴリーを増やして何の意味があるのか」 などと問い返した覚えがある。
  「ニート」 はその後、 現代用語として急速に定着した。 身近にいる生徒たちまでもが、 「お前はニートでもやってろ」 などと会話のネタにするようになり、 厚生労働省は 「ニート対策」 なるものを策定するに至る。 にも関わらず、 私自身は表題の一冊を手にとるまで、 「ニート」 を扱った本を読もうとはしなかった。 「ニート」 はフリーターとは違う、 「引きこもり」 とも違う、 といろいろ聞かされても、 どうしてもこの新たなカテゴリーを受け入れる気になれなかったのだ。 たいした理由があったわけではない。 ただ何となく、 解雇を 「リストラ」 と言い換えるような欺瞞めいたものを感じてしまい、 距離を置きたかったのだ。 そのようなわけで、 新聞の書評欄で本書を知ったときは、 「ニート」 概念のどこがダメなのかを改めて知るために、 一定の期待をもって書店に向かった。
 本書は三人の筆者による、 それぞれ独立した論考で構成されている。 いずれも現在流布している 「ニート」 論のあり方、 とりわけその言説の担い手たちをかなり辛辣に批判しており、 挑発的ですらある。 著者の一人本田由紀は、 「この本以後、 まだ 『ニート』 という言葉で現状を語りたい者がいるとすれば、 本書の掲げた論点にきっちりと反駁した上でそうしない限り、 嘲笑の対象としかならないことを覚悟しなければならない」 とまで言い切っている。

■責任転嫁としての 「ニート」

 本書第T部で本田由紀が重点的に批判しているのが 「ニート」 の定義である。 本田は 「ニート」 の急増を示すとされた内閣府の統計調査を検証し、 「現在 『ニート』 としてカウントされている人の中には、 働く気のない人と、 働きたいけれどとりあえず働いていない人とがちょうど半々の割合で混在している」 ことを指摘する。 そして、 「『働く意欲がない』 という通俗的な 『ニート』」 像に合致する 「非希望型」 は、 過去十年間、 量的にほとんど変化しておらず、 増加しているのは後者 ( = 「非求職型」) であることを明らかにする。
 さらに本田は、 その 「非求職型」 とは 「比較にならないほど飛躍的に増加している」 のは、 仕事を探している若年失業者 ( = 「求職型」) とフリーターであること、 「非求職型」 と失業者・フリーターとの境界も非常に曖昧であること等々を明確にしていく。
 本田論考の要は、 本来 「労働需要側 (企業側) のあり方への問いにつながらざるをえない」 はずの若年層の失業問題が、 「ニート」 論の跋扈によって若者の自己責任論 (働こうともしない本人が悪い!) にすり替えられているのではないか、 という認識にある。 労働需要側の対策が問われ始めた矢先、 「ニート」 キャンペーンが起こり、 若者側の責任ばかりがクローズアップされた事態を、 本田は 「不可解で腹立たしい」 と述べる。 真相は知りようもないが、 何らかの政治力が作用しているのではないかと訝りたくなるのは私だけではあるまい。

■教育問題へのすり替え
 第U部では社会学者内藤朝雄が、 「ニート問題」 を、 「青少年に対する不安と憎悪がペストのように蔓延」 しているなかでの青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つと位置づけ、 労働経済の問題が若者の内面の問題にすり替えられている現状に異議を唱える。 内藤の議論の神髄は、 徹底した 「教育」 批判にあるだろう。 「若年層の構造的な失業や雇用の問題」、 さらには 「職場での人間の尊厳や人権の問題」 を 「教育の問題にすり替え」 ることの政治性に容赦なく言及し、 「教育は阿片である」 と断言する。
  「『育て上げネット』 だの 『若者自立塾』 だのといった」 政策で対応できると信じられてしまう 「嘆かわしい現状」 や、 「ニート」 対策の口実に使われる 「労働体験」 は、 「プチ徴兵制」 ではないのかといった危惧は、 現場の教員でも共有できるのではないか。 しかし一方で私たちは、 日々 「職場体験」 の受け入れ先探しに頭を痛めているわけで、 内藤の批判は本来、 耳が痛いことこの上ない。 その点、 「高校専門学科の再評価と復権」 による 「教育の職業的意義」 に期待する本田の主張のほうが、 専門学科への評価は別として、 教員にとってははるかに親和性が高いだろう。
 とは言え、 私たちが日々準備している 「職場体験」 や 「キャリア教育」 は、 すり替えの片棒担ぎになっているのではないか…内藤の論考を読むと、 そんな冷めた視線を持ち合わせておいたほうがよいかもしれないことを、 改めて考えさせられる。

■ 「ニート」 言説総検証
 最後に、 現役大学生後藤和智による第V部について簡単に触れておきたい。 自らのブログで 「青少年をめぐる言説」 の検証を続けている後藤は、 単行本から雑誌、 新聞の投書に至るまで、 ここ数年の 「ニート」 論をくまなく読み込み、 「幻想のような言説だけが盛り上がりを見せ」 る現状を端的に整理している。 「ニート」 をめぐるメディアの状況を知るには最適の論考であり、 今後の批評活動を期待させるに十分な内容である。
 ただし気になる点もある。 例えば、 「国を愛さない日本の教育」 が 「ニートを生み出す背景」 だと述べる論者に対し、 「そもそも 『ニート』 は英国から導入された…が、 英国でも国旗・国歌を否定する教育が行われているのだろうか」 などと反論している。 いったい日本のどこで、 いかなる 「国旗・国歌を否定する教育が行われているのだろうか」。 この手の的外れな 「了解」 を読まされると、 やはり後藤も近年の時流に染まっていることを感じざるをえない。
 揚げ足をとるようだが、 多用される 「我が国」 という言葉も鼻につく。 問題のすり替えは、 国益を損なう 的な観点からの 「ニート」 論批判なら、 問題のすり替えこそが国益にかなう という観点とどれほどの違いがあるだろう。 「我が国」 を背負うようなスタンスは、 いい意味での若々しさに欠ける気がして、 残念に思える点だ。
(さかもと こうじ  教育研究所所員)
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