寄稿
技高は二度、 「廃校」 となった
  技高廃校30年 (1)
綿 引 光 友

1 まえがき
  技術高校 (以下、 技高と表記) が廃校となってから、 今春 (2006年) でちょうど30年を数える。 1976 (昭和51) 年 3 月、 技高改編によって誕生した 3 校の工業技術高校 (工技) では、 廃校となる技高最後の生徒と工技 1 期生が同時期に卒業した(1)。 技高の寿命はわずか13年、 工技は平塚西、 大船の 2 校がちょうど30年、 相模原が32年で消滅したことになる。 誤解を恐れずに言えば、 「技高は二度廃校となった」 のである。
 一昨年 (2004年) 3 月、 廃校となった追浜技高の卒業生から電話があり、 「卒業証明書が必要となったので、 大船工技に何度も電話したが通じない」 とのことだった。 統廃合の概略を話し、 藤沢工科高校に問い合わせるよう説明した。 廃校となった技高の卒業生は、 どこへ卒業証明書を取りに行けばよいのかわからないだろう(2)。 平塚工科、 藤沢工科、 神奈川総合産業 (総産) にはそれぞれ 「記念室」 があるとのことだが、 すでに消滅した技高の記念物品も保存されているのだろうか。
 05年 3 月 5 日、 相模原工技が卒業式および 「完校式」 を行い、 31日をもって廃校となった。 これで技高の流れを受け継ぐ 3 工技が完全消滅したことになるわけだが、 以来、 ちょうど30年前に廃校となった技高のことを改めてまとめ直してみたいと考えるようになった。 それは、 技高に直接かかわった当事者の責任ではないかとも思った。
 本稿をまとめるにあたって、 県立総合教育センターや高校教育会館県民図書室で当時の資料を探したが、 30年以上前の資料を見つけ出すことは予想通り困難を極めた。 教育センター内には未整理の 「笹尾資料」 と呼ぶものがあるとのことだが、 それらを見ることはできなかった。 筆者は、 わずか 5 年間だが技高に在職していた経験から、 若干の研究資料を保存していたので、 それらも加えこの小論をまとめることにした。 しかしながら、 技高に関する詳細な研究がすでに存在するので(3)、 本稿はそれを上回るレポートには到底なりえないと思われる。 それでもあえてここで再整理にチャレンジするのは、 まもなく現場を去る者の 「遺書」 として書き残しておきたい、 との思いがあるからでもある。
  「技高の産みの親」 と言える笹尾利男氏は、 「技術高校に対する評価は、 後世の人々がしてくれるであろう」(4)と述べている。 筆者はそのようなことができる立場も力量も持ち備えていないが、 廃校から30年を迎えた今こそ、 笹尾氏の提起に応える好機かもしれない。
 今回の調査研究は、 資料的に見てもまだまだ不十分であり、 もう少し時間をかけ、 さまざまな関係者への聞き取りなどを行う必要もあるが、 筆者の身勝手な都合もあり、 ここでまとめることとした。 懐古趣味に陥るかも知れないが、 この小論がきっかけとなって、 笹尾氏が言う 「技高の評価」 やその歴史的な意味や教育的意義などに関する本格的な議論が巻き起これば、 これにまさる喜びはない。 あと 2 〜 3 年たてば、 間違いなく技高に在職した経験をもつ教職員はいなくなる。 そうなれば、 技高のことは誰も語れなくなるし、 まったく忘れ去られてしまうだろう。 「今さら技高のことを蒸し返しても…」 と思われる向きもあるかもしれないが、 本稿は、 「30年前、 技高という高校が存在したのだ」 という 「技高の存在証明書」 でもある。

2 技高との出会い
 筆者が技高に新任教員として着任したのは、 1970 (昭和45) 年 4 月である。 そして技高廃校にともなう教員定数減により、 75年に異動した。 わずか 5 年間しか在職しなかったことになるが、 その倍以上の年限を勤務したように錯覚してしまうほど、 密度の濃い 5 年であった。 さてこの章では、 やや自分史風な書き方になるが、 筆者の技高との出会いから離任までの 5 年間をふりかえってみることにする。 30数年前のことでもあり、 記憶は怪しいが、 残っている記録などを参考にしながら、 記述していきたい。
 70年 3 月中旬ごろ、 追浜技高の校長より連絡があり、 いわゆる校長面接を受けたが、 それまで筆者は技高という名の高校の存在を知らなかった。 毎日新聞朝刊連載の 「教育の森」 で 「再編下 の高校」 と題するシリーズが始まったのが66年12月。 このシリーズは富山県のいわゆる 「三七教育」 を中心に高校多様化の現状をルポしたものだが、 この中で技高のことにもわずかながらふれている(5)。 当時大学 1 年で、 これを切り抜きながら読んでいたが、 富山の印象が強く、 技高のことに関してはまったく記憶になかった。
 技高設立の経緯についてはあとで詳述するが、 開校は63 (昭和38) 年 4 月、 東京オリンピック開催の前年であった。 ここで、 技高設立前後の高校新設状況を見てみる。
 1962年 磯子工、 向の岡工、 相模台工、城北工
 1963年 川和、 新城、 大和、 追浜、 平塚商、 (川)工、 (浜)東
 1964年 二俣川、 相模原、 茅ヶ崎北陵、 (浜)港商
 1965年 横浜日野、 貿易外語
 1967年 柏陽
 1968年 光陵
 1969年 港北、 生田
 1972年 松陽、 座間、 厚木商、 (須)横須賀
 下線を引いた高校は職業高校であり、 (川) は川崎市立、 (浜) は横浜市立、 (須) は横須賀市立の各高校を示している。
 ちなみに62年以前をさかのぼると、 西湘 (1957年開校) 以降の 5 年間、 高校新設はまったくなかったことがわかる。
 前述したように、 技高は63年、 まず 4 校 (川崎、 横浜、 大船、 平塚) が県立職業訓練所に併設する形で発足し、 翌64年、 追浜、 相模原、 秦野の各訓練所に技高分校 3 校を設立した。 この 3 分校は67年に独立、 ここで県下に 7 つの技高が揃ったことになった。
  「団塊の世代」 にあたる筆者が横浜市立高校に入学したのは62年、 奇しくも技高が設立された前年であった。 しかも、 筆者の現任校である相模原高校が開校したのが、 技高が設立された翌年の64年なのである。 戦後ベビーブーマーをなんとか収容すべく、 この間、 高校増設が進められたはずだが、 62〜4 年の 3 年間に限ってみると、 神奈川県は全部で18校 (64年設立の 3 つの技高分校を含む) の高校を設立したが、 いわゆる普通高校は 6 校だけだった。 つまり、 全体の 3 分の 2 が職業高校 (今日では、 専門高校という呼び方になっている) なのであった。
 筆者は65年、 高校を卒業したが、 1 年間浪人生活を送り、 翌66年 4 月、 学園闘争で混乱するなか、 ようやく大学に入ることができた(6)。 卒業時も、 大学立法阻止闘争のあおりをまともに受け、 卒業式もなく、 ぎりぎりで卒業、 冒頭に述べたように奇跡的に県立追浜技高に採用された。
 ちょうど追浜技高が独立した頃、 私は横須賀市夏島にある日産自動車で 1 カ月半近くアルバイト ( 2 交替勤務制で日給が千円だった) をしていた。 通勤途上、 技高前の道路を通っていたことになるのだが、 道路の真向かいにあった技高のことはもちろん、 訓練所の存在すらまったく知らなかった。
 筆者を含め 3 人の新採用教員がいたが、 4 年生の副担任となり、 教科は日本史と倫理社会を担当した。 教員採用試験は地理で受験したが、 先輩教員が地理を担当していた関係から、 技高 5 年間ではとうとう地理を担当することはなかった。 強い問題意識があったわけではないが、 「教員になったら日教組に入るもの」 と漠然と思っていたので、 組合本部からいわゆる 「オルグ」 が来た時は 「即加入」 した。 しかし、 後で知ったところだが、 当時の神奈川高教組は 「中立組織」 であった。
 技高は生徒にとっては 「一昼二夜」 ( 2 年生以降、 1 週間のうち 1 日は昼間、 2 日間は夜登校する) と呼ばれる登校形態だが、 教員の勤務は、 2 日間が夕方からの出勤、 残りの 4 日間は通常の勤務形態であった。 追浜技高の場合、 71年度は月・木曜日が夜間授業の日 ( 2 〜 4 年生が全員揃った。 しかし、 大船技高では 2 年が木・金、 3 年が水・金、 4 年が水・木が登校日のため、 全学年が一堂に会する機会はなかった) であった。 若かったとはいえ、 夜間登校日の翌日が昼間登校日だと、 朝が少し辛かった。
 前述した変則的な登校形態をはじめとして、 技高制度は実に複雑で、 その実態を理解するまでにはだいぶ時間を必要とした。 困難や矛盾が山積しており、 技高改革に熱心に取り組む先輩教員のあとについて、 組合にも足を運ぶようになった。 「このままでは生徒たちがかわいそうだ。 なんとかしなくてはいけない」 と、 技高の教員なら誰もがそう思っていたはずだ。
 筆者も若い正義感から、 技高改革の運動にのめりこみ、 複雑な技高の実態を広め、 知ってもらうために、 技高制度の実態と問題点を冊子にまとめたりした。 72年の夏には、 復帰直後の沖縄で開かれた、 ある民間教育団体の全国大会に参加し、 技高の実状をレポート発表した。 手厳しい批判を浴び、 自信喪失気味となったが、 それ以降、 あちこちの研究会や団体、 地域などから声がかかり、 その度にレポートを抱え、 「高校多様化の実相」 を説明し、 理解を求めた。 ちょうど並行する形で、 高教組を中心とした技高改革闘争が大きな盛り上がりを見せた結果、 72年11月、 県はついに技高制度の廃止と技高の再編案を発表するに至った。
 あまりにも複雑すぎるせいか、 これまで、 技高に関してまとめられた本格的なレポートが出ていなかった。 そこで筆者は、 72年春頃から、 職場の先輩教員 3 人とともに技高問題の報告書づくりに取り掛かることになった。 資料集めにかなり時間を要し、 それらをもとに本格的な編集作業に入ろうとした矢先に、 県から技高廃止の発表がなされた。 そのため私たち 4 人は、 新たな情勢の変化に対応するため、 新たな章を設けるなど書きかけた原稿を全面的に見直し、 73年夏、 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 (B5判157ページ、 自費出版) と題する報告書として刊行した(7)。 4 人でそれぞれ印刷費用を出し合い、 実費で頒布したが、 予想以上の反響があり、 出資金はなんとか回収することができたと記憶している。
  『これが高校か』 は刊行後、 さまざまなところで紹介されたが、 その一例を掲げる。 「技高の教師たちが作った 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 という報告書は、 多様化の中でほんものの教育を求めつづけた記念碑というべきものである」(8)正直なところ、 それほどまで絶賛される内容ではないと自認しているが、 当時、 これを上回るような技高問題に関する著作が存在しなかったからだと思われる。
 技高 2 年目で 2 年生の担任 (自動車整備科) となり、 学年は持ち上がったが、 3 〜 4 年は機械工作科のクラス担任となった。 74年 3 月、 初めて卒業生を送り出したが、 4 月、 転出者の後任ということで、 ふたたび機械工作科 4 年の担任となった(9)。
 教員 2 年目 (72年) の 3 月、 『卒業文集』 に寄稿した一文を再掲してみる(10)。

新たなる出発のために
あっという間に 過ぎ去った 4 年間
長く長く 感じられた 4 年間
それでもけっこう 楽しかった 4 年間
嫌で嫌で たまらなかった 4 年間

自分の仕事がおもしろいと
    得意げに語った仲間
学校も会社もつまらない
    というのが口ぐせだった仲間
自分の生きる目標を
    つかみかけた仲間
絶望して
    投げやりになってしまった仲間

さあ 思いおこしてみよう
    1 年のとき 2 年のとき…
そして 4 年生のときのことを
    苦労をともにした仲間のことを

いったい この技高で得たものは何か
そして 失ったものは何であったか
今こそ 4 年間の意味を考えよう
新たなる出発のために
自分自身の成長のために

 
 ついでと言っては変だが、 もう 1 つだけ 『卒業文集』 に私が書いた一文を引用する。 この一文は、 筆者がクラス担任として初めて送り出した卒業生に向け、 書いたメッセージである。 3 年生の秋、 「技高廃校」 を知らされた学年であった
  「(略) 『どうせ技高はなくなるんだから』 といってヤケをおこしてしまってはならない。 今こそ、 『母校がなくなる』 という事実の意味と、 その背後にある社会情勢 (技高を必要とした社会のしくみ) を適確に分析し、 その重たい事実に負けることなく、 『禍転じて福となす』 よう、 たくましく生きていってほしい。
 ところで、 『技高廃校』 という事実は、 皮肉にも私たちに、 次のような教訓を与えてくれたと考えてみてはどうだろうか。 すなわち、 何をする場合にも目先のことだけを考えるのではなく、 10年、 20年といった将来をみとおした上で、 『今、 何をなすべきか』 を策定し、 しかもそのことは、 たとえ社会情勢が変化しても、 それに耐えうるものでなければならないということを。」(11)
  2 度目の卒業生を送り出した後の、 75年 4 月私は横浜翠嵐高校定時制へ異動となった。 本当ならばあと 1 年、 最後まで技高に留まりたかったが、 社会科教員 2 人のうち、 私の方が若く、 しかも校長からも強く説得されたため、 異動希望を出した。 技高は 「最優先人事」 ということもあり、 私は迷うことなく 「定時制」 を希望し、 技高で果たせなかった実践に取り組むことを心に誓った。
 一方、 74年秋に、 「追浜技高分会が解散する前に、 ささやかな経験を記録し、 追浜技高分会の記念碑 として、 また他分会の分会づくりの参考のための資料を残そう」 ということで、 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』(12)を分会で編纂することを決めた。 その編纂委員となったので、 私は転勤後も、 10年におよぶ分会活動の記録づくりに係わることになった。
 長々と技高との出会いとその中での生活の一端を述べてきたが、 5 年間の実践はこれだけで語りつくせるものではない。 それほどまでに密度の濃い 5 年間であった。 ややオーバーに言えば、 1 冊の本が出来るほどの思い出や書き残しておきたいことは山ほどあるが、 これでやめにしておこう。
 最後に、 やや長い引用になって心苦しいが、 以前、 この間の自身の実践を振り返り、 総括的に書いた一文があるので、 それを再掲し、 締めくくりとしたい。
  「(略) 70年安保、 沖縄返還、 教頭の法制化、 スト権ストなど、 激動の場面を思い出すが、 技術高校の制度改革のたたかいが、 今日の私自身をつくったとしみじみ思う。 (略) 多くの技術高校の生徒たちと出会い、 私は彼らからさまざまなことを学んだ。 彼らが背負わされている苦悩をできれば共有したいとも思った。 そうすると差別・選別教育の典型にほかならない技術高校の制度に対して、 人間としての怒りがこみあげ、 『なんとかしなければ』 との思いをますます強めていった。 多くの矛盾に満ち満ちた技術高校は、 私にとって〈第二の大学〉であった」 (13)
 この思いは今もって変わらない。 〈第二の大学〉とこのときは表現したが、 ちょうど 5 年間技高に在籍したことを考え合わせると、 技高は〈大学院〉であったと言い換えてもよいかも知れない。 しかもその時は〈論文〉を提出しないで 「退学」 (?)してしまったので、 今回の小論を、 修論ならぬ教員生活の終論と位置づけたい。

3 技高廃校と最後の技高生の訴え
 技高廃校が明らかになったのは、 72 (昭和47) 年11月 4 日付 「神奈川新聞」 のスクープ記事によってであった。 高教組は同日午後、 横浜市従会館において技高抜本改革要求全員集会 (本部は、 技高教員全員とその他の各分会からは 3 〜 4 名の組合員の参加を要請) の開催を予定していたが、 まさしく 「寝耳に水」 ともいえる 「廃校」 のスクープ記事に戸惑いを隠しきれなかった。 集会 (280名が参加) では、 この記事に示されたとおり技高制度廃止は県当局の方針であり、 間違いないことが明らかにされ、 抜本改革闘争の大きな成果であることを確認しあった。
 翌 5 日、 高教組の各技高分会は地域へのビラまきを行なった。 しかしこれでは新しい情勢に対応できていないと、 急遽、 分会判断で 「三浦半島地区に高校の増設を!」 との見出しをつけた独自ビラ (B 5 サイズで手書き) を作成し、 本部作成のビラと一緒に地域の家々に配布した。 このビラには、 今回の技高廃止に至る簡単な経過と県が示した改革のポイントを 3 点列挙したあと、 以下のように書かれてあった。

  「(略)ところで、 追浜技術高校は運動場がないという理由から、 来年度からの生徒募集をしないことになりました。 このことは必ずしも私たちがのぞんでいたことではありませんでした。 このことによって、 高校の数が減ってしまうことになり、 横須賀・三浦地区の高校進学を希望する中学生にとって、 狭き門 になることは必至です。
 このことからも、 私たちは、 この三浦半島地区に高校をもっと、 つくらせ、 高校へ行きたいと希望するものすべてが、 高校に入学できるようにしなければならないと考えています。 このためには、 地域の人たちとも手をつなぎ、 高校増設の要求を県にぶつけ、 広範な運動をおこしていく必要があります。」
 技高廃校との県方針に対して、 生徒たちの多くは無関心を装っているようにみえたが、 ある技高の生徒会役員は、 次に掲げたような 「生徒会役員声明」 を発表した。
  「(略)技高が廃止されればそれでよいというのではありません。 僕たち技高の在校生を、 県教育委員会はどう思っているのでしょうか。 僕たちは県教育委員会のあいまいな説明に対して訴えたい。 『僕たちに満足した教育を受けさせろ。 僕たちにはそうした教育を受ける権利があるのだ。 満足な教育環境のもとで学びたい。 偏った教育を受けさせるな!』 僕たち技高生は、 今こそ真剣に技高問題を考えるべきです。 今こそ僕たち技高生が立ち上がる時です。」(14)
 以下は、 各技高の校長に対して出された 「県立技術高等学校の改編について」 (72年11月24日付指導部長通知) である。
  「このことについて技術高等学校は、 創設以来勤労青少年に対する教育機会の拡充ならびにすぐれた技能者養成の目的達成に貢献しつつ約10年を経過しましたが、 近年における高校進学率の上昇その他の社会情勢の変化により、 技術高校への志願者が漸次減少の傾向にあること、 また、 現行の登校形態では高等学校新学習指導要領の昭和48年度実施に対応することが困難であることなどの問題が生じておるところであります。
 そこで、 これらの問題点の解消をはかるために、 慎重に検討した結果、 このたび県教委として別紙のとおり発展的改編の基本方針を決定しました。 (略)」
 次に、 別紙 「県立技術高等学校の改編について」 の文言は以下のとおり。
  「県立技術高等学校は、 近年の社会情勢の変化に即応し、 下記のとおり発展的に改編するものとする。

         記
1 7 技術高等学校のうち、 県立相模原技術高等学校、 県立大船技術高等学校、 県立平塚技術高等学校については、 昭和48年度から全日制工業高等学校とする。
2 現行の 7 技術高等学校については、 昭和48年度から生徒の募集を停止し、 在校全生徒が卒業する昭和50年度末まで存続する。 (学年進行による)
3 新設 3 工業高等学校には、 技能者養成のための実習に力点をおいた次の学科を設置する。
 相模原  機械科、 自動車科 (仮称)
 大 船  機械科、 電子科 (仮称)
 平 塚  機械科、 自動車科 (仮称)
4 生徒、 職員、 施設等の経過措置については、 十分配慮する。」
 4 技高の廃校を不満とする保護者は、 県高P連 (県立高等学校PTA連合会) 名で陳情書を12月県議会に提出した。 その要点は以下のとおり。
  「過般、 技高PTA首脳部は、 (1) 県立 7 技高を全部存続させること (2) 技高の体質改善のため全日制に改めることを決議するとともに、 廃校を不満とする当該PTAは父兄会として (PTAではなく) 反対活動を展開しはじめました。 貴議会におかれましてはなにとぞその意をおくみとりのうえ、 善処下さるよう 3 項につきここに陳情いたします。
1. 4 技高の廃校ではなく継続の方法を考えられたい。
2. 父母、 卒業生、 生徒の不安を取り除くよう処置されたい。
3. 今後県教委におかれては、 高P連とさらに話し合いをもたれて、 善処されるよう勘案されたい。」(15)
 先の指導部長通知では 「全日制工業高校に改編」 としていたが、 12月県議会に提出された 「神奈川県立の高等学校の設置に関する条例の一部を改正する条例」 に関する部分の知事説明では次のように述べられている。
  「現在の技術高等学校を実情に即するよう改編するため、 慎重に検討を重ねた結果、 昭和48年度からの技術高等学校の生徒募集を中止し、 新たに相模原、 大船及び平塚技術高等学校については、 全日制の工業技術高等学校として発足することとし、 横浜、 川崎、 秦野及び追浜技術高等学校については、 ただいま申し上げたとおり高等職業訓練校として、 それぞれ発展的に改編をはかることといたしたく、 今回その設置について提案いたした次第であります。」(16)
  「改編」 といっても、 条例の提案は単なる名称変更ではなく、 「工業技術」 の新設であり、 7 技高の生徒募集中止、 すなわち廃校については補足的に説明されただけであった(17)。 この条例は、 72年12月19日の県議会において全会派の賛成を得て議決されたが、 自民党県議の質問に対して津田文吾知事は次のように答弁している。
  「一般の工業高校と比較した場合におきまして、 学習指導要領が許す範囲において最高の実習単位というものを組み込むようにいたしたい。 それが一般の工業高校との違いであります。 (略) そういう意味におきまして、 一般の工業高校とはっきり区別した教育がなされると思うのであります。」
 かくして、 工業高校とは 「区別した教育」 を行なう工業技術高校 (工技) の誕生がここで正式に決まったが、 その設立までの準備期間はわずか 3 カ月足らずであった。 前身の技高も、 その設置の基本方針の検討 (62年12月22日) から 3 カ月余で開校(19)という見切り発車だったが、 工技もまったく同じ轍を踏んだのであった。 あまりにも超スピードで学校を作ったがゆえの宿命かもしれないが、 とくに技高の場合、 設立後になって問題点が次々と噴出することとなった。 しかし、 それではそこにいる生徒、 教職員、 保護者はたまらない。 今、 後期再編計画が進行中だが、 これと比べると、 技高、 工技の誕生時に見られた短期間での設立準備は、 まさに異常であったといっても言い過ぎではあるまい。
 1 年生 (訓練生との二重身分) の秋、 「技高廃校」 を知らされ、 「最後の技高生」 として 「廃校」 を目前にしたある生徒 ( 4 年生) は、 次のように述懐している。
  「とにかく、 僕はこの技高に入って、 もう 4 年目。 前から期待していた楽しいはずの高校生活の夢は無残に壊され、 ろくな勉強もしてきていないし、 将来に対しての考えもはっきりしないし、 何もする気がない。 こんな僕みたいなダメな人間が技高には何人くらいいるだろうか。 (略)
 最後にハッキリ言って、 こんな学校はなくなってよかったかもしれない。 こんな人間を無視した、 ただ若年労働者を確保し、 それを中小企業に送り込み、 安い給料で働かせ、 青春を奪い取り、 適当に遊ばせといて、 4 年間が終わればポイ。 こんな学校が廃止になるのは当然だろう。 だけれど、 歪んだ教育の多様化の犠牲者は、 もう僕たちだけでたくさんだ。 もうこれ以上、 僕たちみたいな人間の集まる学校はつくらないでほしい。 ただそう思う。」(20)
 71年 2 月の県議会において、 津田文吾県知事 (当時) は 「全国的にも非常に高く評価されており、 (略) 全国に誇りうる施策、 施設の 1 つ」 と技高を絶賛したが、 それが設立からわずか10年で 「廃校」 に追い込まれることになった。 知事答弁が今流にいえば 「耐震偽装」 と同様、 県民をごまかす詭弁であったか、 明らかであろう。
 とはいえ、 「廃校」 という重たい事実は、 卒業生・在校生さらにはその保護者たちに大きな衝撃を与えた。 グランドがない技高 (追浜技高) が存在したということに象徴されるように、 技高にはさまざまな問題や矛盾が集中していた。 それに加え、 73年度実施の新学習指導要領に対応しきれないということから、 県教委は技高の 「廃校」 と 3 校の工技新設に踏み切らざるをえなくなったのであった。
 73年といえば、 奇しくも 「100校計画」 のスタート年でもあった。 高校増設が叫ばれている中での 7 技高の 「廃校」 は、 明らかにその流れに逆行するものだった。 しかも私たちは、 技高を 「高校らしい高校にしてほしい」 との思いから、 その抜本的な制度改革を県当局に強く迫ってきたのである。 したがって、 県教委が切った 「廃校」 というカードは、 私たちにとってはまさしく 「想定外」 であった。 (次号につづく)

【注および参考文献】
(1) たとえば、 大船では76年 3 月 3 日に技高の第10回卒業式が行なわれ、 そのあとの 3 月 8 日に工技の第 1 回卒業式が実施されている。
(2) 追浜と同様、 「廃校」 となった秦野技高の卒業証明書は、 当初は平塚西工技に保管されることとなったが、 これも 「再編」 により統合されたので、 未確認だが、 今は平塚工科高に保管されていると思われる。
(3) 柏木操男氏による精力的な調査・研究の成果が、 『神奈川県戦後教育史研究』 (神奈川県戦後教育史研究会編) の第 2 号 (98年 5 月) および第 3 号 (99年11月) に 「神奈川県立の技術高等学校の設立と廃止―高度経済成長時代における産業教育の一例―」 と題する論文としてまとめられている。
(4) 笹尾利男 「大船技術高校をかえりみて」 県立大船工業技術高校 『開校10周年・創立20周年記念誌』 82年11月。
(5) この新聞連載は、 のちに村松喬 『教育の森 (7) ―再編下の高校―』 (67年 3 月、 毎日新聞社刊) と題して、 単行本となった。
(6) 大学闘争により、 キャンパスがロックアウトされていたため、 入学式はなく、 しばらくは講義も始まらなかった。 70年の卒業時も同様で、 結局、 入学式・卒業式をまったく経験することがなかった。
(7) 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 73年 8 月。
(8) 木下春雄 「突破口はどこにあるのか―多様化路線の転換点に立って―」 『朝日ジャーナル』 74年 7 月26日号。
(9) このあと横浜翠嵐高校定時制へ異動したが、 そこでいきなり 1 年担任をやることになったので、 71年以来 8 年連続でクラス担任をしたことになる。 担任としての苦労は尽きなかったが、 今ふりかえると若かったから務まったとしみじみ思う。
(10) 県立追浜技術高校 『なかま―第 5 回卒業記念―』 72年 3 月。
(11) 拙稿 「『技高廃校』 の事実から何を学ぶか」 同上 『第 7 回卒業記念文集 なかま』 74年 3 月。
(12) 神奈川県高教組追浜技術高校分会 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』 B 5 判81ページ、 75年11月。 この巻頭には中西龍臣委員長の寄稿文が掲載されているが、 その一節を引用する。
  「私たち神高教の教育闘争の原点ともなった技高闘争の背後には、 直接、 技高を職場とする仲間の血のにじむ努力をはじめ、 多くの組合員の連帯と行動があったことを忘れることはできません。 この技高闘争の中心的役割を担ってきた追浜技高分会の皆様が、 技高制度の廃止を目前に控えた今、 職場づくりの歩み をまとめる形で、 今闘争に有終の美を飾ろうとすることを知り、 心から敬意を表するものであります。」
(13) 拙稿 「教師が変われば、 教育も変わる―私の教育改革体験から―」 『月刊ホームルーム』 93年 1 月号、 学事出版。
(14) 前掲書 (7)
(15) 前掲書 (7)
(16) 前掲書 (7)
(17) 県教育委員会 『神奈川県立の技術高等学校史』 (76年 2 月刊) の巻頭を飾る当時の指導部長が書いた 「まえがき」 には、 「(略) 7 つの技術高等学校は、 昭和51年 3 月に廃校ということになった」 とある。
(18) 前掲書 (7)
(19) 神奈川県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 65年11月。 この冊子は、 技高がどのような考え方や準備経過で設立されたかが記録されている貴重な文献の 1 つだが、 県立総合教育センター図書室や高校教育会館県民図書室にも実物は見当たらない。 この一例からもわかるが、 設立から40年以上も経過していることもあり、 技高関係資料の多くは散逸している。 神奈川の戦後高校教育史を編纂する際に、 技高問題は避けて通ることはできないと考えられるので、 そのためにも資料収集を緊急に行なう必要がある。
(20) 永瀬一夫 「母校は 『廃校』 になった」 高校生文化研究会編 『青空に叫びたい』 75年10月。
(わたひき みつとも 県立相模原高校教員)  
ねざす目次にもどる