所員レポート |
総合学科高校への批判と現状 総合学科は学力を低下させるか |
小 野 行 雄 |
総合学科への批判 総合学科高校は1991年の第14期中央教育審議会 (中教審) 答申から生まれた新しい形態の高校で、 現在さまざまな批判にさらされている 「ゆとり教育」 の流れに位置付けられるものだ。 1994年、 答申の 3 年後に 7 校が発足して以来、 現在までに全国で251校が開校している(@)。 一連のゆとり教育批判の流れのなかでこの総合学科高校にも批判が投げかけられているが、 それらは大きく 3 つに分けることができる。 1 つは、 総合学科では人間関係が希薄になり、 生徒の居場所がなくなって中退が増える、 というもの。 2 つ目は、 総合学科は中途半端な存在で、 進学にも就職にも向かない、 というもの。 そして 3 つ目は、 総合学科は 「非エリート」 のためにつくられた学校で、 社会の序列化を推し進める、 というものだ。 本レポートでは、 このそれぞれについて、 現場の様子を紹介しながら検討していくことにする。 「総合学科では人間関係が希薄」 第 1 の批判ポイント、 総合学科では人間関係が希薄になり中退者が増える、 というのは、 ゆとり教育批判が始まるより以前、 むしろ総合学科のスタート時に多く見られた論調であった。 確かに、 総合学科の特徴である様々な選択科目を自由にとっていけば、 いつも同じメンバーで授業を受けることはできない。 その意味では、 総合学科には従来型の 「学級」 は存在せず、 人間関係づくりは難しくなる。 私の勤務校でいえば、 1 年次には必履修科目を集めているために同じクラス (いわゆるホームルームクラス、 HR) で受ける科目もあるものの、 2 年次以降は 「総合的学習の時間」 と週 1 回のロング・ホームルーム (LHR) のみになる。 登下校時間が揃わないので、 全員が顔を合わせるショート・ホームルーム (SHR) も昼の 1 回のみで、 それも 3 年次になるとその時間 (あるいはその日) 学校にいない生徒も出てくるので、 全員が揃うとは限らない。 生徒にとって居場所の確保は大変なようで、 4 月当初には昼食をとる場所にも苦労するようだ。 SHRのあと、 そのまま教室でHRの仲間と一緒に食事をするという姿はあまり見られず、 ほとんどの生徒は、 部活その他での人間関係により、 別の教室や談話室に散って食べている。 食べる場所がないと言って学校玄関の外で立ったまま食事をしている生徒の姿も見られたほどだ。 人間関係に悩む生徒も多い。 カウンセラーや担任にはそうした相談がいろいろと持ち込まれる。 勤務校ではないが、 単独で総合学科高校に改編されたある高校では、 保健室への来室者が一気に 2 倍に増えたという報告もされたことがある。 しかしながら、 それがそのまま人間関係の希薄さとは必ずしも言えない。 むしろそれは固定的な人間関係の濃密さの方の問題だ。 毎時間クラスが変わっていく中では、 かえって人間関係が広げられないからだ。 そしてその同じ問題は、 総合学科の生徒だけでなく現在では普通科の生徒も直面するようになっている。 かつては考えられなかったことであるが、 一年間同じHRにいながら名前も知らないということが、 今ではよく起きている。 人間関係づくりの難しさは、 今や社会全体の問題と言ってもよいかもしれない。 そして、 現実の総合学科高校では、 当初構想されていたほどにはHRは解体されなかったという事実も指摘しておきたい。 初期にはHRがない学校すら構想されていたが、 そういう学校は現実にはほとんどない。 当初各地で導入されていた、 個別チューター制に近い構想である複数担任制も次第に姿を消している。 2004年開校した私の勤務校でも、 準備段階では、 いわゆるHR活動は無くし、 担任はそれぞれの生徒の個別の担任となる、 という構想も議論されたことがあった。 HR教室もなく、 ホームベースという生徒の居場所・ものの置き場所だけがあるという発想である。 実際にそういう形の先行校があったからこその議論であったが、 開校時点では、 HRは、 一緒に過ごす時間こそ少ないものの限りなく従来型に近づいた。 学年ごとの教員集団である担任団という発想も当初はなかったが、 現在はそれもほぼ従来型で存在している。 よかれ悪しかれ、 従来型のホームルームという組織形態には根強いものがあり、 総合学科は総合学科なりにHR制度は存続しているということができる。 この批判の最大のポイントである、 中退者が増える、 という点に移る。 文科省統計でみると確かに総合学科は普通科に比べて中退率が高く、 全日制普通科では1.7%であるのに対し、 全日制総合学科では2.6%となっている(A)。 産みの親の第14期中教審が高校中退者の増加への危機感を述べていたことを考えると皮肉な現象と言えるかもしれない。 しかしながら、 興味深いことに、 全日制専門学科の中退率も同様に2.6%である。 これでは総合学科だから中退率が高くなるとは言えないことになる。 そもそも中退率は学校により差が非常に大きいものなので、 0.9%の差が直ちに普通科と総合学科の差であると決めつけるわけにもいかない。 現に私の勤務校では、 現在のところ平均的な普通科よりもはるかに低い中退率となっている。 総合学科は人間関係が希薄で中退率が高いという批判は当たらない、 と結論づけてよいであろう。 「総合学科は中途半端」 2 つ目の、 総合学科は中途半端という批判に移る。 これはしばしば、 進学を控えた高校生に対するアドバイスとして言われていることだ。 総合学科は進学にも就職にも向かない、 中途半端な存在だ、 というのである。 総合学科高校はもともと、 従来の 2 つの学科を統合するものとして構想された。 第14期中教審の答申を受けて1993年に総合学科の基本的な枠組みを示した 「高等学校教育の改革推進について (第四次報告)」 は、 総合学科を 「普通科と専門学科を総合した第三の学科」 としている。 そして、 総合学科の対象となる生徒像を、 「就職を希望し、 そのための専門的な知識・技術等を身に付けたいと考えて」 いる生徒、 「大学等の上級学校に進学し高度の専門的技術を身に付け専門的技術者等になりたいと考えて」 いる生徒、 「就職するか進学するかなど将来の進路をより適切に決定しようと」 している生徒など、 と描いている(B) 。 普通科へ通うような進学志望者、 職業科に通うような就職希望者、 さらには未決定者まで含んで 「総合」 としているわけだが、 これでは実のところすべての高校生を対象としているのと同じことで、 中途半端といわれる所以だ。 これを 1 校で実現するためには、 施設や教職員配置などに 2 校分の余裕が必要となるはずだ。 初期の総合学科高校では、 実際、 かなりの資金投入が行われた。 1996年に都立の総合学科高校第一号として誕生した晴海総合高校の校舎は、 都立高校として、 そしておそらくは公立高校として初めての百億円を超える建築費をかけて建てられている(C)。 立派なホールや視聴覚機材があり、 生徒が居心地良くいられるための様々な居場所が工夫されていて、 これぞ総合学科高校、 という造りになっている。 神奈川県内でも、 2003年開校の横須賀市立横須賀総合高校の建設には92億円かけられており、 食堂、 ホール、 中庭、 どこをとっても大学と見まごうばかりの見事なものだ。 職員配置に関しても、 総合学科には特別な加配や講師配置が行われる。 選択科目を成立させるための講師の枠は、 普通科と比べるとかなり多い。 教員の定数にしても、 たとえば神奈川県では普通高校よりも11人多い教員が総合学科特別加配として配置されている。 しかしながら、 建築費は、 神奈川県ではあとの開校になればなるほど抑えられていて、 既設校舎を利用した場合の改装・改築費はせいぜい 1 億円程度となっている。 教育予算全般も削減されてきており、 専門的な科目を設置していながら講師がとれなくなるなど、 初期と比べると予算的にはかなり縮小されている。 その分教員の負担が増えているという実態も各地で報告されているが、 負担が増えるだけならまだしも、 講師予算がとれなかったために科目が開講できなくなる例もあるという。 さて、 総合学科が対象とする生徒像は上で述べた通りであるが、 実際にはどのような生徒が入ってきているだろうか。 表 1 は 都立晴海総合高校2005年度の卒業生進路割合である。 普通科と商業科が統合されて出来た同校は、 総合学科として当然進学にも就職にも対応する学校を目指したはずであるが、 現在は進学が圧倒的に多い。 進学希望者が増えれば進学に対応できる教科科目を増やさざるを得なくなり、 総合選択科目は減っていく。 晴海総合高校のウェブページには、 以前は 「自分でつくる時間割」 という、 総合学科ならではの進路希望に応じた時間割作成を紹介するページがあったのだが、 数年前にはそれが文系進学を考えている生徒・理系進学を考えている生徒という分け方になり、 今やそのページそのものが消えてしまった。 晴海総合高校は、 今では総合学科とは呼びにくい学校になっている。 皮肉なことだが、 人気が出過ぎると入学が難しくなって成績のよい生徒しか入れなくなり、 その結果大学進学希望率が高くなって総合学科らしさが減っていく、 という現象が起きる。 特に鳴り物入りで作られた2000年ごろまでの総合学科高校にはその傾向が強いようだ。 表 2 はそれと対照的だ。 こちらの宮城県立本吉響高校はもともと農林高校であったのが改組されたものだが、 基礎教科科目がかなり固定されていて、 それに進学向け・商業向け・農業向けの選択科目を組み合わせたカリキュラムになっており、 職業科的な中身がかなり濃く残っている。 それは進路にも表れていて、 見ての通り大学進学者はほとんどいない。 地方で専門学科を改組して作った高校にこうした例が多いようで、 前述の例とは逆の方向でやはり総合学科らしくない学校になっている。 このように、 総合学科とはいいながら、 進路重視か就職重視かどちらかにシフトしている学校は多い。 これは施策というよりは、 地域や生徒自身の要望に合わせていった結果であろう。 総合学科は、 進学希望者にも就職希望者にも対応するし、 入学後、 色々考えながら進路を見定めていける場でもある。 ただしそれには 2 つの条件が必要となる。 充分な予算と、 入学してくる生徒の側の、 総合学科へのきちんとした理解だ。 「総合学科は社会の序列化を進める」 第 3 のポイントは、 総合学科はそもそも、 エリートと非エリートの分断化、 社会の序列化を進めるために作られた、 というものだ。 文部省 (当時) において90年代ゆとり教育路線を率いてきた寺脇研は総合学科高校の育ての親とでも言うべき存在だが、 1997年に、 「自分ができること、 自分にしかできないことというのがあって、 それで生きていく、 自分なりに世の中の役に立てばいい、 という発想がもてる教育をしていけばいいと思うのです」(D)と書いている。 微妙にではあるが、 ここに分断化、 序列化のにおいを感じ取ることはできる。 94年に開校した最初の総合学科高校の 1 校で日本の多くの総合学科高校のモデルともなってきた筑波大付属坂戸高校 (こちらも現在はいわゆる 「進学校」 に近い) の初期のキャッチフレーズは、 「大学に行かない60%の高校生の心の母校になる」 というものだった(E)。 これに教育課程審議会元会長の三浦朱門が語ったという 「できん者はできんままでけっこう」 「これからはできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける」 「ゆとり教育の本当の目的。 エリート教育とは言いにくい時代だから、 回りくどく言っただけの話だ(F)」 という言葉と重ね合わせると、 いささかのきな臭さも確かにある。 兵庫県高校教職員組合はウェブページで総合学科を次のように批判している(G)。 「総合学科高校は、 高校段階で 『その他の国民用』 に用意された新しいタイプの高校でした。」 「総合学科高校はカルチャーセンター化の道を確実に歩んでいます。」 「現在、 学力の低下が大きな社会問題となっています。 その根本原因は、 学校五日制や教育内容の削減にあるのではなく、 教育の複線化、 すなわち一部のエリートしか大切にしない教育の広がり、 系統的な学習を否定し選択を重視する教育への無節操な市場原理の導入、 そして、 教育予算の削減などがあります。 高校のカルチャーセンター化をめざす総合学科高校はこの文科省の学力低下政策の象徴的存在であるといえます。」 総合学科高校について考える前に、 その他の高校について検討してみよう。 普通科高校はどういう生徒のための高校なのだろうか。 神奈川県立高校の場合、 入試制度は現在、 面接重視の前期選抜と入試重視の後期選抜とに分かれている。 その前期選抜でとる割合は、 県の規定では各学校が20%から50%の間で選べることになっており、 学校独自に決定している。 おおざっぱにいって、 20%でとどめているならば教科成績を重視しており、 50%を選ぶなら成績以外のものを重視している、 ととってよいであろう。 さて、 現実には、 神奈川県立の普通科高校の半分以上が50%を採用している(H)。 下限の20%に設定している学校は 5 校であり、 30%の学校を加えて21校になる。 県立の普通科高校は120校であるから、 全体の二割弱ということになる。 成績を重視しようとしているこれらの学校の多くはいわゆる 「進学校」 と目される学校である。 これはつまり、 進学校は成績重視の 「進学校」 として残ろうとし、 それ以外の学校は成績による序列化をなるべく避けようとしている、 ということだ。 一般的に言えば、 そしておそらくは兵庫高教組の主張でも、 この一群が 「エリートのための学校」 であるだろう。 さて、 総合学科はどうか。 こちらはすべて50%である。 序列化を避ける側にいる。 それは当然のことで、 進学希望者ばかりが入学してきても、 就職希望者ばかりになっても総合学科としては成立しにくくなるからだ。 寺脇 (1997) は 「将来、 全体の六割が総合学科、 二割が普通科、 残り二割が専門科になる」 と書いている。 神奈川県の場合、 この普通科の 「二割」 に、 現実の 「進学校」 の割合が丁度対応している。 つまり、 普通科ならばエリートのための学校などという図式はそもそもなく、 同様に総合学科ならば 「その他の国民用」 などともいえないということになる。 前述の晴海総合高校の場合は、 その資金のかけ方から言っても生徒の進路状況から言っても、 むしろその他でない国民、 つまりこの文脈でいえば 「エリート」 の高校になりつつある。 本吉響高校の場合はそうではないが、 「用意された新しいタイプの高校」 としての総合学科高校ならではの特徴ではなく、 元の形態を強く残しているがための現状といってよい。 序列化の問題は、 施策としての総合学科高校の問題ではなく、 総合学科高校が序列化のための学校でもない。 現場から見れば、 序列化は社会の要請によるもので、 総合学科には本来、 それを打破する力が含まれている。 中学校、 あるいは小学校のころから自分の進路を見定めることができた子どもは、 職業を定めた専門学科や大学進学を目指しての普通科が向いている。 しかし、 まだ定まらない多くの子どもには、 総合学科は有用だ。 いろいろと見られ、 途中での変更もきく。 それが中途半端というよりも統合的 (integrated) な総合学科高校 (integrated high school) の機能だ。 「系統的な学習を否定する教育」 学力低下論に入る前に、 兵庫高教組の続きで 「系統的な学習を否定し選択を重視する教育」 という部分について考えてみよう。 この批判については、 総合学科の現場からは、 半分は誤解であり半分は当たっている、 と言わざるを得ない。 誤解というのは、 総合学科本来のあり方に関わる。 総合学科高校は、 その目的からして、 たくさんの科目を置かないわけにはいかない。 商業系を目指す生徒には簿記やワープロ技能が必要になるし、 福祉系を目指す生徒には手話や介護の科目が必要になる。 そしてもちろん、 大学を目指す生徒がいる以上それに対応できるだけの上位科目 (英語リーディング・数学Vといったもの) も必要になる。 そのために、 総合学科高校は普通科高校の 3 倍、 4 倍の科目数を置いている。 だからといって、 それだけでは 「系統的な学習を否定」 しているとはいえない。 問題は、 それを系統的なものにする手だてがなされているか、 ということだ。 総合学科 1 年次必修の 「産業社会と人間」 という科目は、 そうした役割を期待されているものだ。 多くの学校では 2 単位、 一部では 3 単位を使ってキャリアガイダンスを中心とした生徒の方向付けをここで行う。 また、 系統を示すための 「系列」 という科目の集まりが示さていれる。 選択科目はもちろん、 学校によっては普通科目も 「福祉系列」 「国際系列」 といった 「系列」 に割り振られている。 選択のためのガイドラインとして、 おおざっぱに学問分野や進路の方向性を示すものだ。 この 「系列」 が従来の 「コース」 と大きく違うのは、 生徒がそれに属すのではないことだ。 ほとんどの総合学科高校では、 生徒は、 どの系列の科目も自由にとれる。 あれこれお試し的にとってみることもできるし、 途中で方向転換をするのも容易だ。 さらに、 チューター制とかカウンセラー配置といったものも多くの学校で採用されており、 生徒が系統だってとっていけるような配慮はいろいろとされている。 つまり、 システムとしては、 系統的な学習ができるような配慮はある。 しかしながら、 現実には問題が多いことも確かだ。 「産業社会と人間」 の中身は学校それぞれだが、 ウェブページなどで見る限り、 形式に流れていると思えるものはある。 系列についても同様で、 便宜的に分類していっただけに見えるものは少なくない。 そもそも科目自体に、 本当に総合選択科目 (あるいは専門科目) と言えるどうか首をかしげたくなるものもある。 本来選択科目は、 教科の枠を超えた幅広い学びや、 より専門性の高い内容を扱うためのものであるが、 趣味の領域としか思えない科目や、 教科の一単元を膨らませただけの科目も多い。 多くの場合現場の教員の専門性のミスマッチが原因だと思われるが、 これについては系統立っていないという批判は首肯せざるを得ない。 そして、 私の勤務校で見る限り、 確かに数割の生徒は系統立った取り方をしていない。 生徒が時間割の組立ての方を重視していたり、 卒業単位の取りやすさや成績の上げやすさを重視したり、 専門学校を目指す場合なにをどうとればいいのか必ずしも明確になっていない場合があったりなど理由はさまざまだが、 ガイダンス機能はまだまだ不十分というべきであろう。 そしてここでは、 総合学科は中途半端、 という第 2 の批判ポイントが生きてくる。 たとえば福祉にはっきりと進路を定めている場合、 総合学科では必ずしも福祉系列の科目をとる必要はなくなってしまう。 というのも、 専門学科でない総合学科では、 多くの場合、 福祉系列の科目をとったとしてもそれで資格や免許がとれるわけでもなく、 しかも上級学校で同じような科目を再度選択することになるからだ。 ある程度進路を定めた生徒には、 むしろ他系列の科目を選択することを勧める場合もある。 総合学科高校というのは所詮入門の域を出ない。 系統立っていないというよりも、 系統が浅い、 という批判はされても仕方のないところだ。 「総合学科は学力低下政策の象徴的存在」 学力についての議論に移る。 総合学科の教育は、 兵庫高教組 (2005) のいう通り 「文科省の学力低下政策の象徴的存在」 なのだろうか。 文科省が学力低下政策をとっているのか、 そもそも 「学力」 とは何か、 という議論にはここでは立ち入らないが、 最近の議論の中でキー・コンピテンシーと呼ばれているもの、 「経験から学ぶ力」 「問題を発見する力」 「批判的な立場で考え行動する力」 を向上させる可能性は総合学科の中にこそある、 と私は主張したい。 そのカギは、 選択科目の中身が指導要領にしばられていないことにある。 教えるべき内容が規定されていないから、 生徒に自由に考えさせることができる。 そもそも普通教科科目のように教えるべき項目が前提とされていては、 「問題を発見する」 ということ自体が成り立たない。 それをしなくて済むのは、 教員自身の専門性に任せられる選択科目ならではのことだ。 ここでは、 私自身の実践を紹介することとする。 私は現在、 「『第三世界』 入門」 という科目を担当している。 私が専門とする 「開発教育」 の科目で、 貧困、 難民、 NGOとODA、 児童労働、 グローバリゼーションなどのイシューを扱う。 講義はほとんどなく、 シミュレーションゲームやビデオ・外出・ゲスト講師を活用するなどの疑似的体験、 ディベートやロールプレイによる生徒同士の意見交換と理解、 レポートとそれに対するフィードバックによる学びの深化などを目指している。 普通教科でいえば現代社会・地理・倫理、 あるいは英語などに関係するものだが、 現状のカリキュラムの中には位置付けにくく、 その点では総合学科らしい科目と言ってよいであろう。 生徒は毎回、 「学んだこと」 「きょうの疑問」 「感想」 といった項目の並ぶ 「振り返りシート」 を提出することになっている。 開講間もないある日のシートでは、 生徒たちは次のような疑問を提出していた。 ・豊かな国はそうでない国をもっと援助できないのか? ・現地の人たちは一番どんな支援をしてほしいと思っているのか? ・何が基準で一人あたり一日1ドルが貧困なのか? ・ 貧しい人たちは実際どういう生活を送っているのか? 真っ当な疑問ではあるが、 私がその先の授業で扱っていこうとする中身がそのまま書かれているに過ぎない。 私の授業、 あるいはコメントによってこれらの疑問は解決する。 ところが、 後期になると、 疑問は次のようなものになる (それぞれ別のイシューについての疑問)。 ・日本にはどうしてこんなに外国人に対する差別があるのか? ・近代化と反近代化、 世界全体ではどっちの支持者が多いのか? ・すべての国が近代化するということはあり得るのか?あったとして、 それで世界が豊かになったと言えるのか?日本は近代化したけれどどうやって近代化したのか?日本はこれからもっと近代化するのかそれとも今が限界なのか? ・子どもの頃働いていた人は、 大人になったらどんな生活や将来を迎えているのだろうか。 そしてその子どもはどうなっているのだろうか。 ・少子化の上、 貧困の差が増えると日本はどんな国になっていくのだろう? 先の疑問は知識を求める疑問であった。 ところが、 後の疑問はそうではなく、 私が答えを提示することができない。 これはむしろ自分自身に問いかけているというべきものだ。 私は授業中しばしば、 生徒同士でこうした問題について話し合わせる。 もちろん、 答えはない。 それらは、 それぞれの生徒が自分で考え、 調べていくべき 「課題」 となっている。 ある日の授業では、 ベネズエラのチャベス大統領が国内で先住民の支援活動をしているキリスト教会の宣教団 (mission) に退去命令を出したというニュース(I)を使って、 近代化の問題を考えた。 その前週に伝統的な生活をしているラダックの開発を巡るビデオを見た続きで、 イシューは近代化と反近代化、 あるいは開発主義と反 (非) 開発主義という根本的な問題だ。 4 人グループ内で予め大統領命令に賛成・反対の立場を決めて 2 対 2 でディベートを行い、 次にグループの意見を統一してクラス内でディベート、 最後に自分の意見・コメントをシートに書いた。 「私たちは、 もう自分では気づかないほどにアメリカ文化にひたっていてびっくりした」 と書いたのは、 前週の振り返りの中で日本の近代化について考えた続きで、 ベネズエラと日本と比べる視点を持った生徒。 「別に競争がなくてもいい国もあるんだなと思った」 というのは、 前週 「競争のない前近代的社会は進歩しないからよくない」 と言っていた生徒。 「最初は宣教団がいた方がいいと思ったけど色々な人の意見を聞いたらやっぱりいない方がいいんだなーと思った」 と書いたのは、 いつも迷いながらも真剣に考えている生徒。 そして、 学年末のテストがわりのレポートには、 こうした 「課題」 へのそれぞれの取り組みが見られることになる。 これが総合学科でなければできないことだと主張するつもりはないが、 総合学科ならば、 こうした学びは確かに置きやすい。 そしてこんな科目を学んだ生徒が、 さらに自身の学びを深めていきやすいのも総合学科だ。 私の科目では、 フィリピンに興味を持った一人の生徒がNGOの主催するツアーに参加し、 さらには自分で見つけて外部のワークショップにまで参加するようになった。 総合学科は、 こうした学びを提供することのできる場である。 総合学科の可能性 総合学科は教育を変える可能性を持っている。 それは、 今までの 「教え」 の場から、 本レポートの中で使ってきた 「学び」 の場への転換である。 現状、 問題点は確かに多い。 そして、 施策上本来の力が発揮できる状況になっていないという批判はあたっている。 しかしながら、 「学力低下」 「基礎力の充実」 という議論の中でこそ、 総合学科は評価されるべきものだ。 総合学科は、 さらなる手だてを検討しながら、 充実させていくべきものである。 【注】 (@) 文部科学省ウェブページ 「総合学科の設置」 (普通科等との併置含む) http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/seido/04033101/001.htm (A) 「文科省ウェブページ 「平成14年度の生徒指導上の諸問題の現状について (速報)」 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/15/08/03082202.htm (B) 高等学校教育の改革の推進に関する会議 (1993) 「総合学科について」、 『高等学校教育の改革推進について (第四次報告)』 (C) 東京都議会文教委員会議事録 2001/9/28 (D) 寺脇研(1997)、 『21世紀教育は変わる―競争の時代はもうおしまい』 近代文芸社 (E) 教育新聞 1995/10/26 http://www.mukogawa-u.ac.jp/~mnakauye/kyouiku/ks/shinbun/ks1764.htm (F) 斎藤貴男 (2001)、 『機会不平等』 文藝春秋 (G) 兵庫高校教職員組合ニュース98号、 2005/1/18 http://www.hyogo-kokyoso.com/news/messages/198.shtml (H) 神奈川県教育委員会ウェブページ (2005) 「各高等学校における選考の概要」 http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/kokokyoiku/kenritu/nyusen/boshuannai/bosh18_07_zenki.pdf (I) "Missionaries' Mission at Issue", Times, 2005-11-28 |
(おの ゆきお 教育研究所員) |
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