寄稿
評価をめぐって考えたこと
永 田 裕 之

昨年度は評価をめぐって考えることが多かったように思います。 考えることを強制されたといっても良いでしょう。 夏休みには校内で研修会がありました。 各教科で評価についての研修会があったから報告会の趣もありました。
 びっくりしたのは各教科の研修会での高校教育課の指導主事の発言内容です。 例えば穴埋めのプリントを配って生徒に埋めさせ、 正しいかどうかではなく、 いくつ穴を埋めているかによって 「意欲、 関心、 態度」 を測ればよいというような内容の発言です。 話半分だと思っていたら、 似たようなことを直接にも聞きました。
 横浜のある進学校の校長は職員に向かって 「観点別評価はどうでもいい。 私が県に話をつける。 それより学力をつけてくれ。」 と言ったそうで、 わかりやすすぎて怖いくらいです。 伝聞ではありますが、 信憑性があると思うのは高校教員の本音に近いからでしょう。
 組合の資料では、 もっぱら、 こんないろいろ次から次へと新しいことが出てきたのでは、 現場はこなしきれない、 という話がほとんどです。 全くその通りだし、 組合こそがそういったことを言うべきだとも思いますが、 物足りないような気もします。 本質論ではないからです。 少なくとも教育論ではないのではないでしょうか。 本部の役選で、 ある候補者が評価に関してだったと思いますが 「教研の積み重ねがない」 と嘆いていましたが、 そうかもしれません。

「観点別評価」 に飛びついたわけ
 私は現在議論されている評価の問題が出てきたとき、 これはいける、 という直感的な感想を持ちました。 何がいけるのかというと、 私が進めようとしていた 「課題解決学習カリキュラム」 の味方になると思ったからです。 評価の議論にはいろいろな側面がありますが、 観点別評価に関して、 そう思ったのです。
 課題解決学習については、 「ねざす」 の32号で触れましたが、 そこでは、 佐藤学氏の文章を引いたので今回は佐藤氏が論拠の一つとした 「カリキュラム開発の課題」 という国際セミナーの報告書 (文部省発行) から引用したいと思います。 こうしたものを引用するのは、 課題解決学習がカリキュラム開発の一つの方法として注目されていることを言いたいからです。 少しおつきあいを願いたいと思います。
1975年とかなり古い話なのですが、 国際セミナーではカリキュラム開発のアプローチとして工学的接近と羅生門的接近というものがあげられています。 工学的接近というのは、 従来のもので 「(1) 目標 (一般的・特殊的・行動的) の設定、 (2) 教材、 教具の作製 (3) 教師の訓練 (4) 教材・教具の配布などの過程を経てなされ、 それに続いて教授・学習活動が行われ、 その後その活動に対して目標に照らした評価が行われるのを常とした。」 これは、 近代産業の工学的手法に従ったものなので工学的手法と呼ばれ、 計画的、 効率的であることを特色とします。
羅生門的接近というのは 「(1) 一般目標の設定 (2) 教材の選択を含んだ創造的教授、 学習活動 (3) 活動によって起こった事態の記述と評価といった過程を経ることになる。」 このやり方は工学的接近と違って目標にとらわれることなく、 「その活動によって起こったすべての事態に対して観察をする。 そして教育評価の専門家や目標を知っている人ばかりではなく、 教師、 子ども、 両親その他様々な視点を持った人たちによる評価が行われるべきであるというのである。」 (セミナーの一般報告、 報告書18P以下) 誤解のないように付け加えますと 「目標」 がいらないわけではありません。 一度設定した 「目標」 にこだわらないということです。
 この羅生門的接近によって開発されたカリキュラムでは学習の過程や活動内容が重要になります。 学問的な系統に沿って学習が行われるのではなく、 生徒の興味や関心に沿って学習が行われるので効率的ではありませんが、 意味のある学習が行われるという利点があります。
 観点別評価のうち、 「意欲、 関心、 態度」 や 「技能、 発表」 などはまさにこうした学習に合ったものだと感じたのです。 特に 「意欲、 関心、 態度」 では方向目標が設定されることになるので課題解決学習にはぴったりです。
 実は学校で課題解決学習を提起したときはあまり相手にされませんでした。 系統的なカリキュラム以外高校では経験がなかったので無理もないのですが、 文科省でさえ、 科目 「課題研究」 の解説で次のように述べています。
  「『課題研究』 は、 これまでの教科・科目の指導が系統学習を中心としていたところに、 課題解決型の学習を導入することに他ならない。」 (「課題研究の指導」 文部省)
  「いわゆる系統学習は、 社会的遺産としての科学的体系を教科・科目の内容とし、 これを系統的に生徒に伝達し、 記憶させ、 応用できるように指導する。 これに対し、 課題解決型の学習は、 解決すべき学習や生活上の諸課題を内容とし、 生徒自身がすでに持っている経験に基づき、 解決していく過程に置いて学習するよう指導する。」
  「課題研究」 という科目は、 旧指導要領で総合学科の 「原則履修科目」 でした。 現指導要領では 「総合的学習の時間」 に吸収されましたが。

団塊世代の思い入れ?
 観点別評価の 4 観点は、 文部科学省の発明ではありません。 評価が関心を持たれるようになった戦後教育改革期からこうした観点が検討されていました。 1959年が初版の 「教育評価法総説」 (橋本重治 金子書房) でも学力の分類として 「理解・知識」 「技能」 「思考」 「態度・興味・関心」 があげられています。 学力を分析的にとらえることによって学習の過程にどのような問題があるかをフィードバックするためです。
 私のように1970年代に組合の教研で育ったものは、 独特な思い入れがあるように思います。 一つは戦後教育改革の理念に対する思い入れです。 もう一つは日教組の教育改革理念に対するものです。 日教組の改革理念は戦後教育改革を受け継ぐものだといわれていました。 日教組の改革理念を示す 「教育改革試案」 (中央教育課程検討委員会報告 1976年) は、 現在の教育課程の欠陥は、 生活との結びつきが弱いことだと述べて次のように言っています。 「私たちの目指す教育課程は系統性をふまえ、 生徒の発達を考慮しつつ実際生活からできるだけ多くの教材を取り入れる必要がある。 また、 学習過程のなかで、 生徒の実際経験を導入する必要がある。」 「総合学習」 を導入したのもこの報告書です。 ちなみに 「ねざす」 32号でも書きましたが、 同じようなことを 「新制高等学校教科課程の解説」 (1949年) も言っています。 こちらの方は、 系統性よりも、 生徒自身の経験をより強調したものになっています。
 だからこそ、 私としては、 観点別のうち、 特に 「意欲、 関心、 態度」 に興味を持ったわけです。 この観点は、 教育課程審議会の答申には 「本来、 それぞれの教科の学習内容や学習対象に対して関心を持ち、 進んでそれらを調べようとしたり、 学んだことを生活に活かそうとする資質や能力を評価するための観点である。」 と説明されています。 生徒が学んだことを生活に活かすということは大変難しいことです。 しかし、 そうしたことができる力を育てていくことは重要です。 観点というのは、 学力の構造の、 ある側面を表します。 ある観点を設定するということは、 その観点が示す力を育てていこうということです。

考えをまとめてみると
 今論議になっている評価方法は、 「目標に準拠した評価」 です。 この評価方法は相対評価ではなく、 いわゆる 「到達度評価」 です。 相対評価が批判の俎上に上っていたとき、 京都などで実践され、 高い評価を得ていたものです。 考えてみれば、 私たちはようやく、 相対評価の呪縛から離れることができるようになったのです。 ちなみに到達度評価も1970年代に組合教研や民間教育運動のなかで実践されたものです。
 では、 目標に準拠した評価は到達度評価そのものかというと少し違うようです。 個人内評価と結びつけることが謳われているからです。 個人内評価については、 所見欄でその生徒の努力したところをほめてお茶を濁す、 という可能性もあります。 でも先に説明した課題解決学習では、 教師があらかじめ目標としたものを乗り越えて生徒たちの活動が展開することもあります。 そうした活動をどのように評価するか、 生徒の自己評価などを組み合わせながら個人内評価に結びつけていくことは可能です。 個人内評価があることであらかじめ設定された目標にこだわらないやり方が可能になります。
 学習の目標を共有し、 あらかじめ評価規準を明らかにし、 評価に生徒自身が参加すること、 こうしたことは評価を通じて授業改善をしていくことです。 いろいろな可能性があると思いませんか。

最後に 
 この原稿を書いている間に、 高総検レポート80 「『観点別評価』 についての批判的論点」 を読みました。 「評価」 について何か言うと無視されることがほとんどなのですが、 レポートが言うように教育論として論議していくことはとても重要だと思います。
 例えば、 私の言っていることと高総検レポートが言っていることをかみ合わせていくことはできないでしょうか。
 相対評価と目標に準拠した評価のどちらをとるかと言われれば、 私は目標に準拠した評価に与します。 「意欲・関心・態度」 を育てていく教育実践もぜひ進めたいとも思います。 でもレポートが言うように正確な知識や深い理解に基づかない 「意欲・関心・態度」 は余り意味がないと思います。 最も意味がないと思うのは、 一律の形ばかりの実施です。
 藤沢総合高校では、 「意欲・関心・態度」 は 「知識・理解」 に基づいてこそ意味があるのだから、 という理由で 「意欲・関心・態度」 を総合的評価としたらどうかという考えをまとめ、 県教委にぶつけてみました。 結果はだめだということです。 でも、 「意欲・関心・態度」 は穴埋めの数で測れ、 などといっている人にだめだといわれて引っ込まなければならないのでしょうか。
 私は今、 県教委が盛んに言っていることのうち、 キャリア教育と観点別評価は遠からず消えていくような気がします。 どちらも受験などにはなじまないからです。
 今こそ、 私たちの改革に対するスタンスを明確にしていくことが求められているように思います。  

 
(ながた ひろゆき  県立藤沢総合高校教員)
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