バトンリレー 研究所員による 「書評」 |
西 平 直 著 『教育人間学のために』 東京大学出版会 2005年 |
沖 塩 有希子 |
かなり個人的なことであるが、 図書館や書店などに整然と並べられた無数の本を前にし、 その中から自分の興味の網目にかかったタイトルの数冊を手にして、 「さて、 どれから読もうかな…」 という場合、 まずは目次に一通り目を通してから、 パラパラと 「あとがき」 を探す。 筆者にとって、 「〈あとがき〉は、 まえがき以上に〈まえがき〉」 の意味を持っている。 書籍の中で、 「あとがき」 は筆者の執筆内容のエッセンスを成していることが多く (中には、 自らの筆の遅さに付き合ってくれた人たちへ感謝の意を表したい、 などと関係者の名前を書き連ねて終わってしまっているだけの味気ない場合もあるけれども…)、 印象深い 「あとがき」 が記されている本に出会うと、 それが質の高いものであることを期待し、 ワクワクしながら冒頭の 「まえがき」 へと再びページをめくるのである。 『教育人間学のために』 は、 そんな印象深い 「あとがき」 を備えた書であり、 この部分は、 フィリピンの少年のエピソードから始まっている。 同国のある女性が、 出稼ぎ先で主人にだまされて身ごもってしまい、 失意の中帰国し、 「undesired child」:誰にも歓迎されない男の子を出産した。 とりわけ色が黒く、 目つきが鋭く、 皆から離れており、 拒否されているというよりも、 むしろ自分から皆を拒否しているように見える少年…西平氏は彼へ思いを巡らしている。 「自分が誰からも歓迎されていないことを、 文字通り、 肌身に感じ続ける少年。 その彼が、 自分を受け入れ、 他人を信じ、 心から笑うことができるのは、 どういう時なのか。 そして、 教育という営みは、 そうした存在の切なさに届くか」。 「届かない。 教育という営みは、 そうした切なさには届かないのだと思う」。 「しかし、 そんなことは、 初めからわかっていたことである。 教育という人の手によって、 心の深い切なさが癒されるはずはない。 教育によってすべてが良くなるなどという発想 (幻想) は、 私には始めから、 なかった。 では教育など無力か。 それが私にとっての問いであった」。 「本当に教育は何の役にも立たないか。 どんなに努力してもおなじことなのか。 私は始めからそのような問いの立て方をしていたのだと思う。 その意味では、 教育は私にとって、 始めから〈にもかかわらず〉なされる営みである。 限界は見えている、 にもかかわらず、 関わる」。 「教育の限界を知ることは、 しかし、 教育の放棄とは違う。 限界を知りつつ、 にもかかわらず、 引き受ける。 ぎりぎりのところで、 でも、 もう一度、 やり直していく。 諦念をそこに秘めた再挑戦。 その動き出しの瞬間に、 私は期待しているのだと思う」。 このくだりを読んだ段階で、 筆者は、 西平氏とはどんな方なのだろう…と、 自分勝手に想像を膨らませ、 ぜひとも直接にお話をうかがいたい…と感じ、 すでにして 「西平ワールド (!?)」 に引き込まれてしまっていた。 自分自身の思いでありながら、 的確に表現できないのがもどかしいが、 おそらく、 筆者は、 先ほどのフィリピンの少年に向かう氏の感性や、 教育をめぐる氏のスタンスに感銘を受けたのだと思う。 タイトルに掲げられている 「教育人間学」 とは、 西平氏によれば、 「分かっていたことを分からなくする学問」 であるという。 以下、 かなり長くなるが、 氏の言葉を続けて引用したい。 「教育とか、 人間形成とか、 考え始めると分からないことばかり。 本当のところ確かなことは何一つない。 〈わかる〉と言えるのは、 ある前提の上に立つ場合のみ。 その前提を掘り返すと、 また分からなくなる。 どうすることが善いことなのか、 まるで分からなくなる。 教育人間学とは、 そうした掘り返しの作業、 〈わからなさ〉に留まり続ける営みである…」。 「それでは説明になっていない、 と言われるならば、 たとえば、 こういうことである。 この本は、 教育と人間を大切にする。 しかし、 この本の狙いは、 教育から離れ、 人間から離れることである。 〈離れる〉とは、 この場合、 縛られないこと、 距離をとること。 しかし、 離れ去ってしまうのではない。 もう一度出会い直す。 引き受け直す。 そうした還り道のダイナミズムを含んだ〈離れる〉である」。 「教育人間学は、 教育への一途な期待ではない。 むしろ、 教育という営みの限界を確認し、 その営みの根拠のなさを確かめる。 何が善いことなのか、 何が子どものためになることなのか、 議論の前提を掘り返してゆく」。 「しかし、 教育の否定ではない。 まして告発ではない。 そうではなくて、 一度教育への素朴な疑問から離れた後に、 あらためて教育に出会い直す。 そうした反転を内に秘めた仕掛けである」。 「しかし出会いは持続しない。 教育への自信は、 いともたやすく過信になり、 執着になる。 そして自己顕示になってゆく」。 … 「だから離れる。 自分から距離をとり、 教育への執着から我が身を引き剥がす。 しかし、 自信をなくすのではない。 距離をとりつつ自信を持ち、 自信を持ちつつ縛られない。 〈出会いの中に離れる動きを仕込んでおき、 離れる動きの中に出会い直す動きを仕込んでおく〉。 そうした、 どちらの極にも執着することのないダイナミズム」 … 「それがあって、 初めて、 縛られずに、 出会い直すことができる。 執着せずに、 その都度、 新鮮に受け取り直すことができる。 教育人間学は、 そうした小さな 「驚き」 を大切にし続けるための仕掛けなのである」。 『ねざす』 の読者はその大半が教育に日々携わっていらっしゃる教員の方々であるので、 もしも、 目の前で刻々と展開されている現実の教育に対する何か即効性のある回答や打開策を求めたいと思われるのなら、 多少物足りない内容だとお感じになる可能性があることを断っておく必要があるのかもしれない。 上記の引用からもうかがえるだろうが、 西平氏による教育人間学の視座とは非常に思索的であり、 その上、 氏自身が述べているように、 著書に収められた各論考はラフスケッチとして暫定的に執筆されたものであるため、 眼前で進行している教育をめぐる有効で確信に満ちた方途が挙げられているわけではない。 ゆえに、 教育現場の只中にあって、 教育者として望ましいあり方を常日頃より示すことを迫られている方たちにとっては、 一教育研究者の戯言にうつってしまう可能性も否めない。 しかし、 それでも、 氏の著作を繙き、 思索の途上にある その言葉や問いかけに耳を傾ける価値はあると思われる。 生意気を承知で申すが、 筆者は、 現場の実態などお構いなしにアカデミズムの高見から理想論や理論を並べる高踏的な学者にも違和感を覚えるが、 だからといって、 自分自身の教育経験をよりどころとし、 その実践を絶対なものとする独断的な立場や、 やはり、 自身の経験に基づいて教育の限界を見極めてしまい、 非建設的な物言いに終始するスタンスの教育者たちにもウーン?と首を傾げたくなってしまう。 いかなる立場から教育に関与するのが適当なのか、 それは大変に難しい問題だと思われる。 なるほど、 先に引用した西平氏の提示する教育への関わり方というのは、 いざ実行にうつすとなれば至難の業かもしれない。 しかし、 研究者であろうと、 実践者であろうと、 およそ教育に関与する者にとって、 氏の教育に対するスタンスを知ることは、 目指すべきあり方を見極める際の1つの判断の材料になると思われる。 また、 この本で扱われているテーマは、 教育における基本的命題に相当するものばかりであり、 加えて、 それらへの西平氏の真摯な態度、 見解の鋭さと深さにはただ圧倒される。 そして、 読後は、 「教育とか、 人間形成とか、 考え始めると分からないことばかり。 本当のところ確かなことは何一つない。」 という氏の指摘を痛感させられる。 が、 悲観的な思いに帰結するのではなく、 氏の思索を糸口として それらについて自分なりに考えてみよう…という意欲的な気持ちへと向かわせる力が氏の言葉には備わっている。 どこの章から読み初めても、 関心のある章に限定して読んでも、 差し障りのない構成になっている。 師走の何かと気ぜわしい時期ではあるが、 「西平ワールド」 に誘われ、 その思索のプロセスを辿り、 さらには、 ご自身の思索へと入っていかれてはいかかだろうか? |
(おきしお ゆきこ 教育研究所員) |