代表を辞めるにあたって
 
―高校改革の想い出―
黒 沢 惟 昭

 皆さん、 短い間でしたがおつきあいくださいましてありがとうございました。 神奈川の高校教員は理論家がそろっているとかねてから聞き及んでいました。 研究所はいわばその中で、 ユーモアの漂うなかで真剣にたたかわされる議論を目のあたりにして、 全国各地で仄聞したウワサが本物であることを実感しました。 そこの代表をわずかの年月でも務めえたことは望外の幸いであり、 私の生涯の誇りです。
 色々なところで語り、 書いたこともありますが、 私の高校時代は灰色というより暗黒に近い日々でした。 模擬試験の順位が人間の序列のように見なされていたからです。 入学した途端に英・数のテストが行われ、 その結果によって三段階の能力学級へ振り分けられるのです。 善光寺の近くの昔の絹問屋の土蔵に下宿して文字通りの猛勉強を強いられました。 近年毎夏のように長野市の信州大学教育学部へ集中講義にいきますが、 ふるさとの 「長野市」 は私にとって、 高校時代の想い出と重なり50年後の今日でも懐かしいという気分にはなれません。 もちろん、 出身校へはこれまで一度も赴いたこともないのです。
 ですから高校時代など決して想い出したくないものでした。 ところが、 もう10年以上も前になるでしょうか。 唐突にNHKのディレクターからデンワがあり、 中退問題のコメンテーターとして出演してくれないかとのことでした。 文字通り、 寝耳に水のデンワでした。 全く専門外ですから、 と一時は断ったのですが、 むしろ素人の方がよいとしきりに言うので、 結局不思議なこともあるものだと思いながら、 承諾してしまいました。 そのディレクターが出身大学の友人の教員に相談したところ、 教育学者としては面白い奴がいるということで私を推薦した由をずーっと後にそのディレクターからきいたのですが、 それが誰だったのか名は教えてくれませんでした。 今やそれはどうでもよいことなのですが、 「困難校って知ってますか、 ずいぶんひどいところですよ」 とそのディレクターが初対面の時に切り出したことが想い出されます。 むろん私は知りませんでした。 しばらく後、 打ち合わせの時にビデオで 「困難校」 のシーンを見せてもらいました。 息をのむおもいでした。 これが学校なのか?まるで 「授業」 が成り立っていないじゃないか!私の出た高校もひどかったが、 この学校もまたひどい。 今にして想えば高校問題への関心はまさにここがスタートだったと思います。 その時テレビに一しょに出演したことが機縁で中野和巳さんと親しくなり、 氏のご尽力で、 神奈川の 「困難校」 (神奈川では 「課題集中校」 と呼んでいます) も見学しました。 ビデオで観たときとほぼ同じシーンが展開しましたがやはり実際の見聞は迫力が違います。 見学後一週間近くはそこでの見聞が重く私の心を占め続けていました。
 全く私的なことで恐縮ですが、 その数年前に生まれたわが子もいつかこのような学校へ通う可能性がある。 そうなったらどうすべきか。 大きな不安でした。 それまでになんとかしなければならない。 誇大妄想もいいところだと笑われるかもしれませんが、 当時私は心底そう思い込んでいたのです。 それからもう一つの事件も生じました。 ご承知のように、 日教組から全教が分裂するという事態です。 そのため日教組のシンクタンクともいうべき教育総研に、 高校問題をやる研究者がおらず、 研究会をつくるのでそのキャップになってくれないかという依頼が当時の所長の海老原治善先生からあったのです。
 私のような素人が高校問題になんとか取り組むようになったのは以上のような偶然の重なりという経緯があります。 いまにして思えば、 国外の冷戦構造の崩壊、 それに連動する国内の55年体制の解体によって、 教育運動に亀裂が生じ、 旧来の運動を支えた理論も再検討を迫られていたという当時の状況も"新参者"には幸いだったと思います。 先行理論に余りにこだわらずに 「改革」 案を練ることができたからです。
 まず考えたのは現場を見ることです。 日教組の一番の強みは 「現場」 を把んでいることだと思ったからです。 同時にそれを超えていく理論はなにか。 私はそれまで多少とも勉強してきたグラムシのヘゲモニーの考え方が有効ではないかと思い、 その視点から先行研究を捉えかえし再審して改革の構想を練ろうとしたのでした。 しかし、 同時に絶対譲れない大前提は格差の是正、 いいかえれば社会的公正の実現です。 これは前述のような私の高校の原体験と 「課題集中校」 の見聞が体内に刻みこまれていたからだと思います。
 10余年まえに展開した、 大分の合選 (総選) つぶしの反対闘争には10回以上も現地に行きました。 大分の高教組、 県教組、 市民団体、 そしてNHK大分に招かれて、 毎月のように大分・別府へ行き、 様々な集会に参加し、 多くの高校を訪れました。 いまもその時の幾人かとのつきあいがあります。 そして結局合選は廃止され、 われわれの闘いは敗れました。 一昨年の夏、 久しぶりに大分を訪れ、 教組、 高教組そして市民たちと語らう機会がありました。 ほぼ、 当時の私の予想通り―格差の拡大―の現状であることを知りました。 県民の 6 割ぐらいの署名 (合選維持) をあつめ、 当時の反対の集会は凄い盛り上がりで行く度に圧倒されていたことが懐かしく想い出されます。
 総合選抜 (合同選抜) は格差是正に極めて有効なことは周知のところです。 しかし、 大分の例のように県民あげて―といっても過言ではない盛り上がりがあっても終には押し切られてしまう 「流れ」 が生じていることを当時ぼんやりとしたものではありましたが感ぜざるをえませんでした。 そうであれば、 「もう一つ」 の方法を工夫しなければと思い考えて提示したのが、 学校間連携を中核にする地域学習ネットワーキングの構想です。 これは当時の文部省が打ち出してきた総合学科、 中高一貫校なども積極的にこちらの側のヘゲモニーのもとに組み込み、 日教組が従来提示してきた地域総合高校をヴァージョンアップしようとした構想です。 少なくても私はそう考えていました。 しかし、 総合学科については各地の集会では高校教員の反対が大きかったのです。 とくに理論家の多い神奈川高の先生方の反対は執拗だったと思います。 いまでは懐かしい想い出ですが。 この反対の流れが変わったと思われたのは、 広島の高校の先生が私のプランに共感してくれ、 三次市で県民集会を開いた時だったように思います。 その集会には、 広島高教組の小寺委員長、 それから総合学科の生みの親と目された寺脇研広島県教育長 (いずれも当時) と私の三人がパネリストで、 800人の県民が集まり熱心な討議が行われたのです。 やじ一つなくシーンとした会場の風景がいまも鮮やかに記憶に残っています。 血を見るかもしれないというウワサもあったのですが、 大枠としては、 総選を廃止する代わりに、 総合学科を中心にして中高の接続を強くして高校全入を実現する、 というのがパネリスト全員の合意だったと思います。 この合意にもとづいて三次市のある広島14学区でほぼこの方法が実現されたのです。 これが一つの節目になって、 その後総合学科に対する強い批判は聞かれなくなったように思います。
 私はその後しばらくして次第に高校問題から離れるようになりましたので、 以上のようなモデルがどの程度実現しているのか定かではありません。 全国教研などで、 過疎的な地域で、 中高一貫校を軸に、 ややそれに近い状況が見られることを知った程度です。
 ところが、 勤務先が山梨に移って以来 4 年目になります。 ここは全国でも珍しい総選・小学区が依然として実施されている珍しい地域の一つです。 赴任以来私の血は再び燃えました。 地元紙、 テレビはもちろん、 集会などにも請われればほぼ全てに参加して、 格差是正の重要性、 そのために山梨の制度が有効であることを訴えました。 昨年は神奈川の中野さんにも来県いただき支援を請うた次第です。 県教組とは組織が違うといわれる山梨高教組の教研にも出かけて記念講演で私の考えを訴えたりもしました。
 その経緯は省略しますが、 結果的には全県一区、 総選廃止が決定され、 ここでもまた私たちの全面敗北でした。 推察するに行政としては総選実施が京都、 兵庫、 山梨の一府二県という状況に鑑み、 孤立化から抜けて大勢に順いたいという消極的とはいえ県民にも根強くある意識を汲み取らざるをえなかった。 これが実相ではないかと思います。
 残念ながら以上の結末であれば、 やはり前述した地域学習ネットワーキングの創造の方向を探るほかないのではないかと考え、 そのプランを山梨県の教育系の雑誌やら、 地元紙にも総括として書きました。 方途は異なっても、 今後とも私の大前提である格差是正については留意し提言を続ける所存です。 ちなみに、 山梨の公立高は40校ほどときいています。 こちらへ来て、 10余校をまわって見学しました。 私の見聞した限り、 山梨のいわゆる 「困難校」 は、 私が実見した神奈川の例とは比較にならないほど良好と思います。 ほんの一端を見ただけですが、 神奈川でいえば 「中位校」 というところではないかと思うのです。 つまり、 山梨の場合概ね良好、 という現状 (総選、 小学区の効果の少なくてもその一端の結果と考えます) をなぜ、 全県一区、 総選廃止を断行して競争を今以上にあおらねばならぬのか。 いまでもその憤りは消えません。
 以上、 代表辞任のあいさつにふさわしくない、 想い出話をくどくどと綴ってしまいました。 目下、 私は高校問題よりも大学問題の方に関心を移しています。 結局、 大学問題が一定程度解決されなければ、 高校も中学ひいては小学校の問題も大きく是正されることは難しいと考えるからです。 高等教育全体の改革などという大問題は私の能力を超えます。 まずは山梨県内の14の大学 (ほぼ同じ人口〈80万〉の徳島県には 4 つの大学しかないということを最近知りました。 小さな県としては大学の数が多いのではないでしょうか) の改革を考えています。
 幸い県も力を入れている大学の学長会が、 大学間連携 (コンソーシアム) を提言し、 その検討委員会が発足しました。 その委員長に任命されました。 連携のポイントは、 各大学の単位互換、 高校との接続です。 コンソーシアムによって魅力ある地元大学を創造し、 山梨に残り山梨のために働く人材の育成は広く県民の支持を受けられそうです。 そのように大学が改変できれば、 高校、 中学、 小学校も変わり格差拡大の方向とは逆の流れもつくり出せるのではないか (対抗ヘゲモニーの創成)。 これが私の目下の夢です。
 以上のような発想も殆ど全て高校改革の苦闘のなかで学んだものです。 そしてその原点は前述した神奈川の課題集中校の見聞でした。 未だ書きたいことは多々ありますが、 続ければきりがありませんのでこの辺で止めることにします。 神奈川の高校の、 そして何よりも研究所の発展を祈念して、 老骨の辞任のあいさつといたします。

 付記、 戦後60周年の本年 (2005年) 10月に、 40年近い研究の集大成を目指して、 『人間の疎外と市民社会のヘゲモニー』 (大月書店) を刊行することができた。 四六判700頁近いので辟易の感を与えるかとも思うが御高覧のうえ、 コメントをいただければ幸である。 (2005. 8 .27記)
(くろさわ のぶあき     前教育研究所代表)