キーワードで読む戦後教育史 (8)
組 織 分 裂 (二)
杉 山   宏

(四)
 60年 3 月12日、 私学会館において、 神奈川県高校教職員連盟結成準備会が開催 (1) され、 準備委員が選出された。 3 月21日付 『神高連ニュ−ス』 は、 当日の参加者数を百数十名と記し、 国会議員門司亮 (2) 、 県会議員佐藤一馬、 横浜市会議員荒木三男三郎、 全労神奈川地方会議議長内井建二、 新産別組織部長柏原実等の出席を伝えている。 門司亮、 佐藤一馬は民主社会党の議員であった。 民主社会党は60年 1 月24日に結成 (3) され組織固めの段階であり、 同党の重要拠点であった神奈川県の組織作りと新組織の神高連とは共通した条件下に置かれていた。 第二組合の支援に回ってはいたが、 門司亮は、 戦前からの労働運動家で誠実な人柄であり、 横浜において、 多くの労働者から支持を受けていた。
正式結成前だったが、 3 月17日に、 神高連の代表者 5 名は、 県教委教育長室において、 教育長、 教育次長と初交渉を行っている。 要求として、
1 ) 神高連には専従を置かないので、 組合活動を行う場合は職務専念義務免除の適用をしてほしい。
2 ) 62才以上の教員に対する退職勧告を行っているが、 その場合に学校事情並びに個人の事情を考慮して画一的な方針を立てないでほしい。
3 ) 教育研究所並び教科研究会或いは内地留学制度をもっと効果的に活用してほしい。
の 3 項目が出されているが、 労働権限に基いた労働組合の交渉というより請願という形態であった。 この神高連の請願に対し教育長は誠意をもって検討すると確約し、 また、 今後は定期的に話し合うことで両者の意見が一致したと 『神高連ニュース (4) 』 は伝えている。
この頃、 相模川以西の伊勢原・大秦野・山北・平塚江南の各分会が神高教から脱退した。 また、 5 月 7 日に神教懇は解散し、 神高連が正式に設立されることになり、 県人事委員会に職員団登録申請書を提出し、 5 月17日付をもって、 正式に職員団体第5号として登録された。
 6 月 9 日、 厚木東高校で開かれた定時制主事会議において、 19校の主事が連盟の趣旨に賛同し神高教を脱退しており、 更に、 上溝・小田原・商工・横須賀工業・平塚・逗子・横須賀等の分会から脱落者が相次いだと61年 6 月 1 日付 『神高連新聞』 は報じ、 また、 同紙は 「11月を迎える頃には約700名のものが高教組と袂を分った」 としている。 しかし、 同紙は 「それにも拘らず、 連盟に参加する教職員は考えている程増加しなかった (5) 」 とも記している。
県教委の第二組合への援助は、 60年 4 月の新採用研修などで公然と行われたように、 日常の学校生活の中でも行われ、 教員の中には県教委の意向を考え神高教から抜けて行く者が出てきたが、 その脱退者も直に第二組合へ加入することは躊躇したのであろう。
 50年代後半は約 1 年間のなべ底不況の時期を除き、 神武景気・岩戸景気と経済活動の活発な時期であり、 民間企業は労資協調路線の下、 やがて生産性向上運動が展開されて行った。
 1956年から1975年までの労働組合員数を見ると、 総評は3,138,000名から4,550,000名に増加している。 一方、 全労会議は途中で組織が変わり、 62年 4 月に同盟会議となるが、 662,000名から2,257,000名に増加している。 割合は、 総評が約 1.5 倍の増加に対し全労会議・同盟会議は約 3.4 倍となり、 組織形態に変化はあったが、 同盟会議の増加割合の方が遥かに多い。 また、 単純に増加人数だけを見ても、 総評1,412,000名に対し、 全労会議・同盟会議1,595,000名で、 これまた同盟会議の方が多い。 労働運動史によっては、 「総評の時代」 という表現が使われるこの時期であり、 この時期の総評は、 確かに400万を越える組織労働者の力を持ち、 その力はそれなりのものを発揮していたが、 組織の伸びは同盟会議の方が勝っていた。 しかし、 この間の民社党の伸びは、 この動きに順応するものではなかった。 60年 1 月の結成時の民主社会党国会議員数は、 57名であったが、 69年党名を民社党と変え、 94年解党し新進党に参加するまでの間の議員数は結成時の国会議員数を上回ることはなかった。 60年から75年までの全労会議・同盟会議の組合員数の増加が、 約2.45倍であることから考えて、 労働組合員が表に現れる動きでは、 同盟会議系労組の組合員になっていながら、 秘密の保てる国会議員選挙の場では民社党を支持しなかったのであろう。 職場では労使協調路線で行動しながら、 内面では労働者の権利主張を持ち続けたと言うことであろう。 この現象とは異なりどちらも表に出ることではあるが、 県立高校教職員の神高連加盟という問題に通ずるものがあったのではなかろうか。 職場内の立場等から神高教は抜けるが、 積極的に神高連加盟はしなかった。 教職員の権利を守る立場から神高連加盟を躊躇させるものがあったのであろう。
 しかし、 この当時の民主社会党は労働者の権利を、 神高連は高校教職員の権利を、 それぞれそれなりには主張していた。 後に民社党と改称するこの党も新党として発足した当時は、 民主社会党と党名に社会党の名称をいれ、 西尾も新党について国民政党ではあるがあくまで社会主義政党であると明言していた (6) 。 神高連も民主的教職員組合運動の実現を結成準備会案内に記していた。 しかし、 当時の多くの労働者の考え方は、 社会主義政党と言いながらも民主社会党的行き方では自分達の権利は守れないと思い、 また、 多数の神奈川の高校教職員は、 自由にして民主的組合運動を旗印を掲げていても、 第二組合の神高連で教職員の権利は守れるのかと疑問に思ったのであろう。

(五)
 神高連は、 懇話会形式から職員組合結成へ踏み切った理由として、 管理規則制定・勤評闘争・入学選抜問題等の当面する課題があり、 これ等に積極的提案を行うために必要ということを挙げていた (7) 。 即ち、 県教委等に自分達の意見を提示していくのには、 職員組合として諸種の権利が必要であると考えるようになり、 神高連の発足となった。  この間、 勤務評定について、 神高連準備会は 「全国的情勢の中でこれが絶対拒否は、 逆に教職員に不利な条件となるのを心配し積極的に解決のために話を進めることとし」 と、 60年 4 月26日に勤評問題に対する神高連としての態度を決定し、 声明を発した (8) 。  勤評に関する神高連の対県教委交渉は、 60年 5 月 6 日に第 1 回を行い、 特別評定、 五段階評定、 休暇日数、 勤務態度等について、 原則的な話し合いをした。 更に、 5 月19日に第 2 回目の交渉を持ち、 5 段階評定については、 3 段階を希望し、 勤務態度については、 具体的な事例がないと評価しにくいと申し入れ、 「例示がないと、 主観的になり、 印象批判となりやすい。 反面余り細かくなると文部省方式となる恐れもある」 という解答を県教委から引き出したとしている。 県教委を敵と見なすことなく、 一応、 権利獲得のための交渉を持ち、 現実に教職員の待遇改善に寄与している、 としている。 例えば、 年末手当で神高教の 2.5 ヵ月分要求が壁に当っているのに対し、 神高連は 「法通り 2 ヵ月分支給の線に沿い、 むしろアルフアについては 6 月県会において知事専決で決定できる法的根拠があると考え、 この点に重点をおいて交渉した結果、 ほゞそれに近い線で話合いがまとまった」 等としていた (9) 。
 また、 60年 1 月12日に制定された管理規則は廃止され、 61年 4 月 1 日に新たな規則が公布されたが、 61年 6 月 1 日付 『神高連新聞』 は、 神高教は管理規則反対の立場だったので、 その意見は新規則に反映されず、 新規則に反映されたのは、 神高連の意見であった、 としていた。 しかし、 61年 6 月25日に平沼高校で行われた神高教第19回定期大会の議案書によれば、 「昨年、 県教委は一方的に組合との交渉を拒否し、 管理規則を強行制定して 4 月には44時間の時間規制を強行、 この間の県教委の態度は権力的で一方的なものであつた。 今年になつて県教委総務課は、 管理規則準則 (小・中に対する管理規則) に習つて、 高校管理規則を追加、 修正したいとの提案をわたくしたち高教組に行ない、 原案を送付して来た。 そして、 2 月下旬よりこの管理規則原案に対し、 高教組は 『現行管理規則に条項を追加することについて基本的には、 その必要を認めない』 との態度ではあるが、 23項目に亘る意見を提示、 これに基いての交渉が数回もたれ、 経過報告資料の 『県立高等学校の管理運営に関する規則の改正についての意見』 を文書交換し、 交渉を打切つた」 とあり、 現行管理規則に条項を追加することは基本的には、 必要を認めない、 という態度の下ではあるが交渉を行っている。 即ち、 名称・位置・課程等の別及び学科、 修業年限、 学年及び学期、 休業日、 教育課程の編成、 校外行事、 振替授業、 臨時休業、 教科書の採択、 教材の選定、 教材の届出、 卒業の認定、 修了の認定、 原級留置、 教科及び学級の担任、 施設・設備のき損、 懲戒、 寄宿舎、 必要表簿等について意見提示をしている。 例えば、 寄宿舎の項について 「別に定めるときは、 舎監等の手当を考慮すべきである」 という神高教の意見に対し、 県教委は 「手当の問題は規則中に規定されないが、 正規に舎監等がおかれたときには、 検討すべき問題と考える」 と意見表示した如く、 神高教と県教委との間で、 管理規則に関して意見交換は行われていた (10) 。

(六)
 60年 2 月29日の日教組加盟に関する神高教全員投票では、 1,788票の票が数えられていた。 また、 61年10月14日の神高教第68回中央委議案書には、 「組織対策について」 という項目があり、 同項では、 第19回定期大会の運動方針に基き、 組織対策委を中心に進めているが、 としながら 「現在、 高教組は1,690名位で、 神高連は約180名であり、 両組織に未加入の人は、 教頭・事務長・定時制主事を除き140名位である」 と記している。 この両資料によれば、 約 1 年 8 ヶ月間で、 神高教の組合員数の減少は約100名程度となる。
 しかし、 神高教の組織に対する神高連側の工作は、 県教委の一部職員による援助の下、 引き続き行われていた。 62年 4 月から63年 9 月まで神高教書記長であった伊藤与志和氏は、 氏が執行部にいた段階で、 神高教の組織人員は、 組合費納入の状況から言えば1,000名を割った状態になっていた、 と話されている (11) 。 61年から63年辺りに掛けての神高教組合員数の実態は明らかではないが、 この時期に組織人数が最低になり1,500名をかなり割っていたことは誤りないと言える。
 64年 7 月19日の神高教第22回定期大会議案書中の 「組織拡大と強化」 の項に次のような記述がある。 「昭和34年10月、 私達の組織は約2,000名 (教頭、 定時制主事、 事務長、 時間講師を除くと、 1,850名) でありましたが、 35年 7 月には1,700名と約300名が脱退、 その後も若干の脱落が続いて昭和35年 4 月には約1,500名となりました。 しかし、 神高教組織の分裂、 脱落の傾向は、 昭和37年秋よりおさまり、 組織拡大の方向が全県的にうまれてきました。 そしてその方向は、 昭和39年にはいるや急速に昂まり、 39年 3 月 3 日には約1,600名、 6 月30日現在、 加入確定者を含め、 1,800名を突破しました。 そして分会数も39分会と 2 分会増加更に加入の方向にあるものが約50名あり、 (中略) 2 月17日校長会における管理部長の組織不介入原則の指示 (12) とあいまって、 (中略) 昭和39年度の教職員は360名位実増員され、 高等学校教職員数は2,590 (ママ) 名弱 (校長、 教頭、 定時制主事、 事務長、 非常勤職員を除く) と判断され、 高浜高校は現在も神教組傘下であるので、 これを除いた数は2,900名弱であると考えられます。 私達神高教は、 6 月30日現在、 加入確定者を含め1,800名を突破、 神高連は550〜600名、 中立者は500〜550名位であり、 4 月 1 日以降私達神高教への加入者 (確定者を含む) は、 230名 (新採用、 中学校からの転任者180名) であり、 新採用者360名中、 神高連加入者は80名位、 未加入者100名位あるものと判断され、 このうち、 この数ヶ月のうちに40名位が私達神高教に加入するものと考えられ、 新採用者は私達神高教へ230名位、 神高連へ100名位、 未加入者40名位となるものと推定されます」。 65年 7 月11日の第23回定期大会議案書では、 組合員数は 7 月 3 日現在で、 加入確定者を含め2,020名に達したとしている。 翌66年 6 月26日の第24回定期大会議案書には、 2,220名、 組織率63%とある。 以下、 各年度の大会議案書によれば、 67年の約2,400名、 68年 7 月では2,650名、 69年 2 月で2,880名、 同年 7 月では3,000名を超える組織化に成功、 とある。
 一方、 神高連の組合員数は、 神高連の資料に依れば、 61年 9 月末で約200、 62年 3 月で約300、 63年 3 月約400、 64〜68年は、 横這いで約1,000となっているが、 神高連資料の間に差異があり、 61年 5 月末で300、 65年 6 月の規約変更に関する全員投票では、 投票総数1,210票となっている。 そして、 この全員投票で、 「県立高教組」 と組合名改称を正式に行っている (以下、 県立高教組と記述)。 この65年 1 月には日高教 (右派) 中央委員会が神高連の加盟を決定しており、 以後、 全国組織への加盟が県立高教組の貴重な宣伝材料となった。
 また、 元神高教書記長池田稔氏に依れば、 神高教は氏が執行部入りした65年度前半で、 44分会2,000名であったとしている。 65年には神高教が最悪状態を脱していたと考えられる。 高校増設の中で両組合とも組合員数を増加させたが、 64年度に城東・西湘両分会再建、 大船技・川崎技・向の岡工各分会結成。 65年度に新城・横浜日野・相模台工・貿易外語・磯子工・横浜技・大和・城北工各分会結成、 伊勢原分会再建。 66年度に平技分校分会結成、 大秦野分会再建。 67年度に秦野技・追浜技・追浜・平商・平技・二俣川各分会結成。 68年度に高浜・相模原両分会結成。 69年度厚木南・光陵分会結成に加えて、 64年度に分会再建に失敗した山北分会の再建に成功している (13) 。 このように神高教が比較的順調に組合員数を伸ばしたのに対し県立高教組は頭打ちとなっていた。

(七)
 県立高教組の組合員数が、 68年 3 月で約1,000名と言う同教組発表の数字は、 『高校教育ニュース』 795・807・831号等何回かつかわれているが、 約1,000名と丸めた数字の基の数字は発表されていない。 しかし、 同ニュースの829号には、 69年 3 月15日に行われた69年度役員選挙開票結果が記載されており、 投票総数670票とあり、 投票率90%とある。 投票率の数字も概数と思えるが、 一応この数から組合員数を逆算すれば、 744.4名となり、 約1,000名という丸め方は宣伝のためとはいえ、 大雑把過ぎるのではなかろうか。 しかも、 前述の831号は開票結果発表の829号の21日後に発行されている。 前述の如く、 『神高連ニュ−ス』 673号は、 65年 5 月31日の組合名称変更の全員投票では、 1,210票が投じられたと報じている。 65年以後も、 同ニュースは神高連の組織の充実拡大を連続して報じていたが、 この二つの投票数の差を県立高教組執行部はどのように説明したのであろうか。
 県立高教組は、 設立の目的として 「われわれ教職員は専門職として位置づけ、 強固な団結と総意に基づき、 組合員の待遇改善を主として考え、 身分と権利の擁護をはじめとして、 高校教職員の社会的・経済的地位の向上をはかり、 広く高校教育の振興と発展とを期することを目的としております」 としていた。 また、 組合名改称に関して 『神高連ニュース』 670号は、 65年 5 月22日の神高連第 6 回定期大会での運動方針提案の討議の様子を 「もっとも白熱化したのは、 組織の名称改正についてであった。 組織の体質を強化し、 独立独歩の新路線を確立するため、 従来、 とかくすると研究団体に誤解を招くおそれのあった 『連盟』 という名称を 『組合』 に発展的改正するという本部提案に対して、 いろいろな新名称の付け方があるということで質議がかわされた。 しかし最後には、 支部長会議でもっとも賛成者が多かった 『神奈川県立高等学校教職員組合』 という名前が、 大会でも認められ、 賛成者圧倒的多数で可決された」 としており、 より権利主張を行う教職員組合の色を出そうとしている。
 県立高教組も66年10月 4 日付 『高校教育ニュース』 で、 「新給与の決定に最終的総力を結集せん、 県段階も 『神奈川方式』 を勝ちとろう」 と神奈川方式の名称を使用している。 日高教加盟組合であることより、 教育公務員の給与は中央で決定され、 中央交渉の出来るのは県立高教組だけであることを力説していた。
 県立高教組側が組合としての在り方を強調する中で、 特に、 高校教育職の専門職としての校種別高原型賃金体系の確立を推進すること等、 経済闘争に重点を置く行き方はこの時点での 「経済の季節」 により適合していた筈であった。 その中で、 神高教が比較的順調に組合員の数を増加させたのは、 高校増設に伴う教員増があった。 教員増は当然県立高教組にも追い風になったが、 結果は神高教側により強く吹いた。 その理由は、 60年・70年の両安保闘争が激化した一要因になった学生層の考え方が、 新採用教員の多くに程度の差はあっても第二組合入りを望まなかったことへ繋がったのではなかろうか。 また、 義務制学校の教員が高校へ移ったが、 神奈川県の場合、 義務制の学校の教職員の殆どは、 県立高教組の存在を認めない神教組の組合員であり、 神教組が、 高校へ移る段階で神高教への加入を薦めたことも影響したと思われる。

(八)
 高校の入試の在り方を検討しようと、 県教委は、 有識者・父母・中高校長代表と教職員組合で 「入学選抜協議会」 を結成した。 神高連もこの協議会への参加を望んでいた。 60年 7 月 6 日第 1 回の会議をシルク・センターで実施することとなったが、 神教組から 「神高連という組織を認めていないので、 神高連が協議会に参加すれば神教組としては出席をしない」 と教委に通告があった。 神教組を除外して高校入学選抜方式の協議は考えられないので、 恐らく県教委から神高連に参加を思い止どまるよう要請があったのであろう。 神高連は緊急常任委を開き、 「結果的には、 連盟が考えているのと大差ないものが決定される公算の大きいことを見通して」 7 月 6 日の会議席上で、 協議会委員を辞退する声明を出し、 退席すこととした (14) 。 しかし、 連盟としては、 単独で教委と交渉を続けると共に、 傍聴者として協議会には出席していた。 第 1 回の協議会がこれから開かれる前に、 結論を神高連の意見と同じと見通してメンバーから外れるとしながら、 一方、 協議会と並行して単独で交渉を続けるとしたり、 協議会には、 傍聴者として出席するとしたり、 言動に矛盾が感じられる。 神高連としては、 従来、 ア・テストは選抜の資料とすべきではない、 としていた。 だが、 この協議会の結論として、 ア・テストは、 指導要録、 総合検査と共に選抜資料三本の柱の一本となり、 神高連方式とはかなり変わった方式となった。
 県下公立学校教職員組合には、 神高教、 神教組と共に横浜市立高校教職員に依って組織される浜高教があるが、 浜高教は勤評闘争・教育課程闘争などで神高教、 神教組と共闘体制をとる等、 3 教組には連帯という組合運動の基本を共有していた。 前述の入学選抜協議会に参加出来なかった神高連は以後も県内教組の中で孤立していた。 その打開策として採ったのが、 64・65年の第 5・6 回定期大会で行われた日高教 (右派) への加入であり、 組織名を 「神奈川県高等学校教職員連盟」 から 「神奈川県立高等学校教職員組合」 へと変える動きであった。
 64年 5 月30日の神高連第 5 回定期大会において、 日本高等学校教職員組合 (右派) への加盟を決定した後、 6 月 3 日の全員投票で賛成1,003票、 反対23票、 白票 7 票と承認されていた。 この加盟は、 65年 1 月、 日高教 (右派) の中央委で神高連加盟が可決され、 正式に決まったとしているが、 その間の64年10月20日付の 『神高連ニュース』 は、 「日高教加盟以来、 有利な大勢の中で着々と地盤を固めている神高連は」 としており、 64年10月の段階で日高教加盟を既成事実としている。

【註】
(1) 「神奈川県高校教職員連盟結成準備会御案内」 と題した案内状は以下の通りである。
  神奈川県高校教職員連盟の結成準備会を、 左記により開くこととなりました。
  本連盟結成の趣旨については、 別紙綱領、 規約、 声明等により明らかな通り、 一部勢力の政治的野望によって、 労組本来の目的を見失いつつある神高教と、 ここに袂別し、 国民の信頼と期待に応え得る真に民主的教職員組合運動を実現せんとすることにあります。
  準備会はさらに広く同志諸君の御審議御検討を経て、 本連盟結成への揺ぎない基礎を固めようとするものであります。
  本連盟の趣旨に賛同の方は、 全員挙って御参集下さるよう御案内いたします。
  なお未加人の方も遠慮なくお出かけ下さい。 当日会場においても加入申込みをうけます。
一、 日 時 昭和35年 3 月12日 (土) 午後 4 時

一、 場 所 私学会館 (横浜駅西口下車)
(案内図・略)
発起人代表 沼野 哲司
仮事務所 横浜市神奈川区白幡東町10
(2) 門司亮は、 1916年横浜に出て、 旭硝子の職工を皮切りに、 転々とした後、 浅野ドックに入った。
 1926年総同盟に加入、 社会民衆党に入党。 1933年浅野ドックの労働争議で解雇され、 翌年横浜市議、 戦後、 社会党結成に参加、 国会議員となり11期勤めた。 国会議員になっても、 職工時代と変わらずイガグリ頭と風呂敷包みを抱え、 国電で登院し、 話題となった。 とかく右よりの動きに批判の多い民主社会党であったが、 門司のように根っからの労働者で、 誠実で多くの支持者を得ていた者もいた。 門司以外にも民主社会党のリーダーの中に労働者出身の者がかなりおり、 明日の労働者の生活が今日の生活より少しでも良くなれば、 という考えで行動する者がいた。 民主社会党委員長西尾も労働者の生活向上を考える面を持った中の一人であった。 『日本社会党史』 に依れば、 社会党の第16回定期大会第 2 日に 「西尾末広君を統制委員会に付議する決議案」 が上程された時、 決議案反対の立場から河上丈太郎が述べている。 河上は 「私は西尾君とは40年にわたる友人であり、 かならずしもおなじ考えで政治をやってきたものではないが、 労働者出身でつねに労働者の味方だったことには感銘している」 「われわれは外にたいして激しく闘争するとしても内に向かっては同志を愛情と寛容でつつんでいきたい。 もし社会党にそのような愛情があるならば世間も社会党を見直すことと思う」 と演説している。
(3) 59年 9 月12日から開かれた日本社会党第16回定期大会で、 西尾末広を統制委員会に付議する決議案が13日に可決され、 14日に西尾が新党構想を発表し、 日本社会党再建同志会結成となった。 10月18日に再建同志会は、 代議員総会を開き、 再建同志会に属する国会議員の離党と新会派の設立、 新党準備会の発足を決め、 1960年 1 月24日に民主社会党結成大会となった。
(4) 『神高連ニュ−ス』 No.1 昭和35年 3 月21日発行
(5) 組織対象者に神高連が加入を呼び掛けるのは組織として当然なことであるが、 定時制主事が纏まって、 或いは教員が大量に職員組合から脱退したことを成果として評価し宣伝する方法に、 教職員の中に違和感を持つ者もあったとも考えられる。
(6) 59年 9 月14日の西尾新党構想について、 『日本社会党史』 は 「西尾は朝日新聞東京本社で同社の八幡政治部長と会談し、 西尾新党構想を明らかにした。 この構想は翌15日の 『朝日新聞』 に報道された。 「新党構想」 では、 @自ら求めていますぐ脱党しないが、 左派が従来の方針を変える具体的条件を示さぬかぎり大会には出席しないし、 しばらく情勢を見きわめたうえでこの秋、 民主社会主義の立場をとる国民政党として、 新党を結成する、 A新党はあくまで社会主義政党であって、 保守党の一部と提携する第三党的な行き方はとらない、 B安保改定には、 現条約にも政府の改定案にも反対するが、 だからといって、 すべてを親ソ反米でわりきるようなことはしたくない、 とする考え方を明らかにしていた」 と記している。 しかし、 民主社会党は、 69年に民社党と名称をかえるが、 その歴代委員長、 西尾末広・西村栄一・春日一幸・佐々木良作・塚本三郎・大内啓伍と並べて見ると、 当初の考えはともかく、 その34年の歴史は、 働く者の味方から次第に離れて行った歴史といえるのではないか。
(7) 『神高連新聞』 第 2.3 号合併号 昭和36年 6 月 1 日発行
(8) 同上
(9) 同上
(10) 神高教第19回定期大会資料 『1960年度経過報告資料』
(11) 『戦中戦後・神奈川の教育事情を聞く』 &神奈川県高等学校教育会館県民図書室編 2001年
(12) 管理部長が、 組織への組織不介入を校長会で指示したとあるが、 校長会として組織介入したと言うより県教委の一部職員と一部校長が動いていたのであった。 この管理部長発言へ繋がるものであるが、 63年12月に第二組合づくりに関連した人事担当副参事制が廃止されていた。 この県教委の態度に変化が出た要因と考えられるものの一つに、 国会、 県会の選挙結果があったとのではなかろうか。 1963年 4 月17日の県議選において、 社会党は12議席から20議席と議席数を増加させたが、 民主社会党は 1 人を除き、 4 人の前議員が落選し、 4 議席に止どまった。 また、 63年11月21日の衆議院選の県内結果は、 自由民主党と民主社会党が議席を各々 1 議席失い、 社会党が 2 議席増加させた。 この社会党の進出と民主社会党の退潮は、 県議会の動きに敏感な県教委職員の動向に強い影響を与えた。 また、 他の一つは、 その選挙後の県議会で、 特に63年 6 月定例会や64年 2 月定例会において、 教員給与の三本立て問題が取り上げられた。 例えば、 64年 2 月定例会での和田誠次議員の質問 「教育関係の職員の給与は、 いわゆる三本立てという不合理な給与体系に位置づけられており、 同じ学歴、 同じ免許歴を持っていても小・中学校と高校の教職員では、 給与の面で仮に30年も勤めた時点で年間17万円〜18万円の開きが出てくる。 このような不合理な措置は、 都道府県段階では抜本的な是正はできないにしても、 でき得るだけの救済措置をしてやらなければならないと思うがどうか。 さらに退職を勧奨される年齢は小・中学校は59歳、 高校は61歳である。 この行政措置は県教委の独自の行政措置として取り得るので、 これが是正について配慮を願いたいが、 これに対する当局の考え方を承りたい」。 この質問に対し、 菅井栄一郎教育長は 「義務教育の段階において、 しつけにしても一番教師からの影響の多い時期だと思っている。 その意味からも現行の給与制度上の問題は不満足である。 しかし国の基準があり、 県独自でこれを一挙に是正することは困難である。 本県においては高校と小・中校の教員の給料表について、 その差をできるだけ少なくするよう配慮はしている。 なお旅費では、 たとえば東京などと違って差をつけていない。 これを今回も大幅に増額していただいたわけである。 それから退職勧奨時期の 2 年の差は、 近い将来市町村教育委員会と相談して善処したい」 と答弁し、 三本立給与を不満足としている。 「高校教職員は専門職である」 は県立高教組が掲げた金看板であった。 少なくとも表面的に三本立給与を否定する立場と県立高教組を支援する立場とは矛盾を来した。 この二月県議会では、 県政同友会の佐野孝議員の小・中学校と高校間の待遇格差についての質問の対し内山岩太郎知事は 「小・中学校と高校の教員との格差は、 制度上も運営上も同一にはできない問題があって、 行政実例でも小・中学校と高校の教員給与を同一にすることは違法になるとされている。 しかし本県では旅費、 手当など運用面で差をなくしていくように考えている」 と教育長と同じ答弁をしている。
(13) 『神高教30年史』 第 1 編・結成からの30年
(14) 註( 7 ) に同じ
(すぎやま ひろし   教育研究所共同研究員)