課題集中校からの 教育改革、 その行方は |
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三 橋 正 俊 | ||||||||||||||||||
はじめに 神奈川県の二校統合方式による高校の前期再編計画が発表され、 統合 2 年前より再編該当校の募集定員が半減され始めたところで、 該当校の課題集中校の現場教員の中から、 「今までうちの高校に来ていた生徒たちはどこへ行ってしまったのだろう」 という疑問の声がささやかれていた。 単位制高校であれ、 総合学科高校であれ、 推薦入試では志望動機が面接の際には聞かれる。 いくつもの系、 系列の中でどのようなところに興味関心があるのかを尋ねるものである。 生徒は 「将来コンピュータ関係の仕事に就きたいので、 情報系に関心があります」 とか、 「介護福祉の方面に関心があるので、 学んでみたいと思いました」 といった答えをはきはきとした口調で述べる。 課題集中校では 3 年生になって就職・推薦入試のための面接指導を行うが、 これほどはっきりと自分の志望動機を述べることができる生徒は少ない。 まるで違った生徒が入学してくる、 そんな印象からこの疑問の声が生まれて来たのだろう。 前期再編計画では10数校の課題集中校が消えていく。 統合されて新しい単位制高校や総合学科高校に生まれ変わるのである。 私自身、 長い間課題集中校に勤務してきた経験から、 「今まで課題集中校に来ていた生徒の行き場」 が気になっている。 中学時代は不登校のために学校に通っていなかった生徒、 おそらく小学校段階から学習意欲を失ってしまった生徒、 日本語が話せても読み書きに苦労する在日外国人生徒、 登校しても教室でまともに授業を受けなかった生徒……実にさまざまな生徒が課題集中校に入学してくる。 それでも、 何とか高校 3 年間を過ごし、 基礎的な学力を身につけ、 自分なりの進路を見いだして卒業していって欲しい、 そうした願いを共有しながら課題集中校の教職員はさまざまな改革を進めてきていた。 神奈川県高等学校教職員組合 (略称 「神高教」) は、 現場の教職員のそうした願いや要求を受けとめながら、 「課題集中校からの教育改革」 を掲げて運動を進めてきた。 そのような努力で 「学校づくり」 を進めてきた高校が2004年度から10数校消えていくことになった。 課題集中校の立場から見て、 神奈川の高校再編計画は本当によかったのだろうか、 私はこの疑問に何とか答えを見い出したいと考えている。 しかし、 まだ始まったばかりの前期再編計画である。 手元にはそれらを明らかにできるデータ・資料も満足にない状態である。 そこで今回は、 課題集中校の今までの取り組みをふり返りながら、 再編計画によって 「課題集中校からの教育改革」 がどうなったのか、 どう生かされなければならないのかを考えてみようと思う。 2005年度から全県 1 学区の入試制度が始まろうとしている中で、 学校間格差そのものも再編されていく可能性がある。 また、 後期再編計画が発表されたばかりのところでもある。 そんな中での報告であることを予めお断りしておきたい。 1. 課題集中校とは何か 課題集中校の名称は、 神奈川県で生まれた。 神高教の定期大会の議論をふまえ、 「底辺校」 「教育困難校」 などの従来の名称では、 単なるレッテル張りであり、 教育を放棄しているとの印象を与えるなどの議論の末に、 どの学校にも様々な教育上の課題はあるものの、 それらの課題が集中しているというところから、 課題集中校の名称が誕生した。 課題校という名称も検討されたが、 当時多くの高校が36学級規模の過大校だったため、 過大校と課題校の音が紛らわしいという不便さから、 課題集中校となったという。 1990年のことであった。 課題集中校とは何か、 神高教の設置した課題集中校対策会議には、 10〜20校が参加していたが、 基本的に各学校の希望参加となっていた。 私の見積もりでは、 18学区ある中で各学区 2 校が該当すると考えられ、 最低でも30校程度の課題集中校が存在したのではないか。 よく聞かれるのだが、 課題集中校の定義は何かということについては、 いくつもの際だった現象が見られるという程度で、 数量的にどこまでが課題集中校なのか、 はっきりした指標はないが、 『課題集中校プロジェクト97 学校づくり最前線』 では、 いくつもの例が掲げられている。 そのうちの主なものを紹介したい。 もっともはっきりしたものは、 中途退学者の数である。 1 年間の中退者数が20人を超え、 多い学校では 1 学級分を超える生徒がいろいろな理由で学校を去っていく。 特に 1 年生に多く、 問題行動を起こしたからというよりも、 学校生活になじめないで長期欠席をしたり、 大幅な遅刻や早退が積み重なって学年末で多数の科目で単位修得が難しくなって、 留年より退学を選ぶ生徒が多い。 次に、 昼休みや休憩時間に教員による校内巡回や校門の立ち番が行われている。 授業時間中も教室に入ろうとせず、 中抜けといって廊下を徘徊して時には騒いだり、 校外に出て近隣の住民からの苦情電話が寄せられたりするため、 やむなく授業の合間を縫って全教員が当番制で巡回・立ち番を実施している。 さらに、 生徒の特別指導のための会議時間が多い。 喫煙・バイク登校から始まって暴力・カンパ (金銭の強要) などの問題行動が発見されると、 生活指導部の教員は、 事情確認や特別指導の内容検討の会議に追われる。 全教員による特別指導にかかわる臨時職員会議に 1 日に何時間も費やすこともある。 その他、 様々な例があげられる。 生徒会活動や清掃活動が教員の強力な指導なしには成り立ちにくい。 部活動に参加するよりも早々と下校してアルバイトに従事する生徒が多い。 欠席の多いことや、 卒業が危ういこともあって、 3 年になって就職活動を諦めてフリーターとして進路未定のまま卒業していく生徒が多い。 授業料や学年費の未納率も高い。 現場の教員が課題集中校の存在を認識し、 何とかしなければならないと組織的に立ち上がったのは、 1990年代のことである。 目の前の生徒のために何をしなければならないか、 暗中模索の状態の中で、 次のような改革の方向が浮かび上がってきた。 高校入学以前に学力面でのつまずきを抱えている生徒に対して、 学力補充を中心としたカリキュラムの改革を行う。 そして生徒の状況に対応できる教職員の確保、 突発的な事態に対応できる生活指導体制の確立、 卒業に必要な単位数を文部科学省の規定通りにしたり、 進級・卒業基準を緩和するなど柔軟な学校システムづくり、 生徒に居場所を与えられるような学校環境の整備などさまざまな改革を進めてきた。 こうした取り組みは、 現在では課題集中校にとどまらず、 県下の多くの学校で共有されるようになった。 神高教が課題集中校対策会議を設置して、 現場の要求を集約しながら 「課題集中校からの教育改革」 を掲げて組織的に取り組んできた成果である。 まずは、 その歩みをふり返ってみよう。 2. 課題集中校からの教育改革 課題集中校の名称が生まれ、 「課題集中校からの教育改革」 が神高教の組合運動のスローガンとして掲げられたのは、 1990年代のことである。 それ以前にも課題集中校はあった。 戦後の日本の経済社会の発展の中で財界や政府の教育政策がさまざまに展開されてきたが、 戦後のごく一時期に 「高校三原則 (小学区制、 総合制、 男女共学)」 が提起された以外は、 学校間格差を積極的に解消しようとする文教政策は見られなかった (2) 。 かっては 「底辺校」 「教育困難校」 と呼ばれた格差の下に位置づけられた高校が存在した。 神奈川県を例に簡単に跡づけてみよう。 1960年代後半は、 高度経済成長下の即戦力となる労働力の確保のために、 専門学科高校の新設による高校の多様化政策が実施されていた。 そして、 普通科高校と職業高校との間に学校間格差が生み出され、 「普―商―工―農」 と呼ばれたりもした。 その後の高度経済成長の進展は学歴信仰を生み、 第二次ベビーブーム世代が高校進学する1970年代後半に向けて、 普通科高校の新設を望む声が大きくなり、 その新たな計画は1973年神奈川県の津田県政の下で発表され、 1975年以後長洲県政に引き継がれた。 この生徒急増期に向けた 「百校計画」 は、 高度経済成長が終焉した1973年に始まり生徒増がまだ続いていた1987年に終わるが、 この間文字通り百校の新設校を増設した (3) 。 新設された高校は、 1 校の工業高校を除いて99校が普通科高校であり、 その多くが完成規模で 1 学年12学級規模の大規模校であった。 二度にわたって学区の縮小が図られたものの、 1 学区10校前後がひしめく中で、 職業高校を含めて進学校、 中堅校、 課題集中校の学校間格差が生み出されてきた。 しかしこの期間、 格差構造はかなり流動的であった。 「百校計画」 の進行に伴って新設校ができるたびに、 その普通科の新設校が学区内の 「底辺校」 の位置付けを受けることになっていた。 しかし、 「百校計画」 の終了とともに、 過大校と呼ばれた36学級規模の高校を中心に、 格差構造が固定化する傾向が生じてきた。 「百校計画」 の終了後も生徒数の増加傾向は続き、 神奈川県は既設校の臨時学級増、 臨時学級定員増でその場をしのいだ。 生徒数の減少の開始時期について学区のばらつきはあるものの、 1990年度からは本格的な急減期に向かった。 この頃から学校間格差の底辺に位置付いた高校に対して、 神高教は率先して過大校解消、 学級定員減を実現するように要求を掲げた。 そして神高教は、 1991年度の定期大会方針に 「学校間格差の解消をめざし、 学区・入選制度の改革、 教育条件整備の運動を強化します。 『課題集中校』 に重点的に条件整備を行わせ、 魅力ある高校づくりの 『拠点校』 化をはかります」 を掲げ、 その秋に課題集中校対策会議を発足させた。 「課題集中校からの教育改革」 はこうして、 神高教の重要な運動の柱に位置付いた。 課題集中校対策会議の初期の活動は、 モデル校を設定してそこを突破口に他の課題集中校に広めようとするものだった。 しかし、 神奈川県教育委員会 (略称 「県教委」) は、 県立高校に格差を認めるようなモデル校化の施策を受け入れなかった。 そこで現場の教員の 「大変さ」 を何とかして欲しいというところから課題集中校への傾斜配分を求める運動に力を注ぐことになる。 まず、 一人でも多くの教員と少しでも多くの非常勤講師を獲得したいということだが、 カリキュラムの改革を実現するための要求だった。 基礎学力を保障するために様々な形の小集団学習が試みられた。 英語や数学など一部の教科で 1 クラスを 2 展開したり 2 クラスを 3 展開する方法や、 ホームルームクラスをレッスンクラスとして小集団化する多クラス展開の方法がある。 生徒の興味・関心に応じた選択科目の設置も、 大学・専門学校の受験者から就職希望者まで多様な進路に対応するために、 普通科目だけではなく簿記・情報処理・福祉などの専門科目に及んだ。 毎年10月には次年度の学級数をもとにした教職員定数を需給表という形で県教委に提出するが、 この需給表作成を次年度のカリキュラム改革にからめてどのようにしたらよいか、 課題集中校対策会議はそのノウハウを情報交換する場であった。 次第に情報交換される内容もカリキュラムにとどまらず、 生活指導や学校行事、 施設設備の改善、 PTAや地域との連携など多岐にわたった。 そして、 11月には教育予算課題別交渉として県教委交渉に臨むことになる。 現場の 「大変さ」 を県教委の各課担当者に認識してもらうために、 各校では需給表付属資料を作成していたが、 それを交渉の場に用意して説明する。 その分担を決めるにあたって課題集中校対策会議では、 自分の高校をアピールするのではなく課題集中校の共通課題として提起するという確認事項がある。 抜け駆けは許さないというわけである。 12月末から 1 月にかけて教員定数と追加配当の内示、 2 月には非常勤講師時数の内示がある。 どの高校も満額回答というわけにはいかない。 小集団学習を一部諦めたり、 選択科目の講座をやりくりした上で、 どうしても非常勤講師時数が不足している場合には、 校長に県教委にご足労を願うとともに、 神高教本部を通して追加調整を要求する。 これが課題集中校対策会議の毎年の作業となっている。 何しろ、 県教委の予算策定は単年度主義であり、 今年ついた加配が次年度もつくという保証はない。 こうして、 徐々にではあるが、 小集団加配、 生徒指導加配などの若干の定数加配と芸術、 家庭科、 多様化といった名目の非常勤講師時数の配当が課題集中校に手当てされるようになった。 3. 課題集中校と 「特色ある高校づくり」 1994年度になって、 県教委は1995年度の入試より複数志願制と入学定員の44%を各学校の 「特色」 に応じた総合的選考によって選抜するという入試改革大綱を発表した。 そのためにすべての高校に 「魅力と特色ある学校づくりプラン」 (略称 「魅力と特色プラン」) の提出を求めた。 ここで、 課題集中校対策会議の運動は一つの転換点を迎える。 課題集中校は、 基礎学力の充実、 多様な選択科目の設置などのカリキュラム改革や生活指導・進路指導の充実など様々な工夫を行ってきたが、 県教委はそのための教職員の定数加配・非常勤講師加配、 修繕費・旅費などの予算の追加配当などバックアップをしてきた。 しかし、 そうした教職員加配や予算の追加配当が進学校・中堅校にも 「特色」 に応じて配分されるようになったのである。 例えば進学校が進学のための習熟度別授業を実施したり、 進学者向けの選択科目を数多く設置することによって加配・追加配当を受けられるようになり、 課題集中校への配分が減らされることになる。 「課題集中校からの教育改革」 の理念から、 様々な工夫が県立高校に波及することは望ましいことであるものの、 課題集中校の現実として 1 名でも教職員の加配を減らされることは、 カリキュラム上にはあらわれない立ち番・巡回の負担増、 生活指導・進路指導の分掌の人数削減を招き、 労働条件の加重をもたらすものとなる。 課題集中校対策会議では、 「魅力と特色プラン」 にどう対応するか話し合った結果、 需給表作成にからむ要求は各校の取り組みに任せることにして、 課題集中校対策会議としては課題集中校のための施策 (年度を超えたバックアップの体制づくり) を県教委に求めることになった。 そしてこれまでの運動成果をまとめた 『神奈川の課題集中校白書』 を作成・刊行するためのプロジェクトチームを発足させることにした。 施策化要求は1995年度の教育改革要求に盛り込み、 1995年 6 月に対県交渉を行った。 しかし県教委は、 かってのモデル校化の施策を認めなかったように、 すでに 「特色ある高校づくり」 の施策があるとして、 課題集中校のための新たな施策を認めることはなかった。 それでも、 県教委は庁内に各課横断的な課題校 (県教委は課題集中校をこう呼んだ) のためのワーキンググループを設置することを検討しているという。 そのワーキンググループとプロジェクトチームとの第 1 回の研究協議の場が、 1995年 8 月にもたれることになった。 以後 1 年間に 3 回の研究協議が行われ、 県教委が課題校に関する認識を私たちとほぼ同じように持っていることを確認することができた。 その後の教育改革要求や予算要求の対県交渉では、 「特色ある高校づくり」 の施策を通して、 課題集中校への支援をにじませるなどの方向性が伺えるようになった。 「魅力と特色プラン」 によって課題集中校以外へもカリキュラム改革は広がり始め、 小集団、 多様化などの加配も分散されていくことになる。 こうして 「課題集中校からの教育改革」 は課題集中校以外にも広がりをみせる新たな展開を示すことになった。 4. 課題集中校と前期再編計画 1999年 8 月15日の朝日新聞が朝刊に、 神奈川県の高校改革推進 (再編) 計画の記事を掲載した。 県教委が正式に発表する前だったため、 大きな動揺を各現場にもたらした。 そして、 急遽校長会が開催され、 遅ればせながら再編計画の全体像と前期再編対象校が発表された。 私たち現場教職員が概要を知るのは翌日の16日のことである。 いわゆる二校統合方式と呼ばれる神奈川の再編計画よって14校が削減され、 課題集中校同士の、 また課題集中校と中堅校の統合によって課題集中校10数校が削減されることになった。 なかには、 現場の改革の努力の過程で総合学科への再編統合を歓迎する高校もあったが、 多くはトップダウン式の改革計画であった。 私の勤務していた課題集中校も対象校となったが、 近隣の高校にキャンパスを移転して単位制高校となることについては青天の霹靂のような衝撃を同僚たちとともに味わった。 神高教は再編該当校会議を新たに招集して対応することにした。 課題集中校対策会議も並行して開催されていたため、 課題集中校対策会議の議論が該当校の再編問題にすり替わっていくこともしばしばであった。 再編計画では、 単位制高校についてはいくつかの系と設置科目が例示され、 総合学科高校についても系列と関係科目が例示されていたが、 県教委改革推進担当と両校の管理職、 そして現場から選出された新校準備委員が参加する新校準備委員会が設置されて、 改めて新校のコンセプトと系ないし系列の名称と設置科目などについて、 検討が加えられることになる。 従来の 「特色ある高校づくり」 があくまでも現場の議論の中から改革案が引き出されていたのに対して、 再編該当校に関しては方式が大きく変えられたのである。 私が見聞したところでは、 大阪では現場の総合選択制高校や総合学科高校への改革要求にもとづいて計画そのものが策定されていったのに対して (4) 、 三重ではトップダウン方式で再編計画が作成されたが、 その作成にあたっては高教組がアドバイスをしていた (5) 。 全国で再編計画が進められている中で (6) 、 神奈川のこの新校準備委員会方式は現場の意見を採り入れる方法としては、 ユニークな試みではある。 神奈川では、 計画作成時点で現場が関わることはなかったものの、 具体化の段階で現場の意見が採り入れられることになったのである。 新校準備委員会の議論や問題点が、 神高教の再編該当校会議にも反映され、 県教委への要求としてまとめられ、 対県交渉の場も設定された。 こうして慌ただしい 4 年間が始まった。 二校統合方式は、 新校開校 2 年前から募集学級数を両校で半減させて新校 1 期生、 2 期生を迎える。 そのためにカリキュラム作成は急がなければならなかった。 2003年度から新学習指導要領に基づいたカリキュラムが始まる。 そのことも視野に入れてのカリキュラム編成である。 もちろん両校の職員会議で了解を得なければならない。 その上、 施設設備に関する概算要求をまとめる作業、 新校 1 期生からの学校・学年行事の一体化、 生活指導規則の両校のすりあわせ、 学校徴収金の統合など、 さまざまな業務が飛び込んでくる。 課題集中校では日常の生徒指導に追われる中での対応となって、 忙しさは倍増する。 もっとも問題となったのは、 新校に対する両校のスタンスの違いである。 課題集中校では、 現実の生徒に即した対応を求めるが、 そうでない相手校は新校によってよい生徒を迎え入れることを念頭に置きがちである。 このずれが、 両校の意見調整を難しくした。 少なくとも新校ではより一層幅の広がった多様な生徒が入学してくるという予測では一致した。 しかし現実には、 進学校をモデルにする学校づくりと課題集中校をモデルにする学校づくりの違いはあまりにも大きい。 新校がそろって中学生とその保護者への合同説明会を開く中で、 どの高校も進学対応を強調して生徒募集を行っていると聞いた (7) 。 しかし、 総合学科高校は進学希望生徒を対象に構想された高校ではなかったはずである (8) 。 また単位制高校も、 高校中退者を含めた多様な生徒の受け入れを想定した高校のはずではなかったろうか。 こう考えてみると、 新校には 「課題集中校からの教育改革」 がもっと生かされてよいはずである。 そうはいっても、 例え課題集中校が単位制の弾力的運用を目指しても学年制の枠をはずすことはできない。 しかし単位制高校は、 また単位制を採用する総合学科高校は、 学年制の枠を最初から取り外して構想される。 この違いもまた大きい。 そして、 単位制高校も総合学科高校も系や系列を設けて、 課題集中校では望んでもかなわなかった多様な科目を設置できる。 この魅力は大きい。 このように新校の多くは 「課題集中校からの教育改革」 の延長上にあるというよりも、 それを飛び越したところの 「学校づくり」 であると言える。 神奈川総合高校 (単位制高校) や大師高校 (総合学科高校) の先鞭はあるものの、 これらの試みを果たして中学を卒業したばかりの子どもたちがどう受け止めるか、 今後大きな試練が待ちかまえている。 おわりに 最初にお断りしたように、 実際に神奈川の高校がどう変わったのかについては、 まだ何年かの推移を見なければならない。 今まで見てきたように、 「課題集中校からの教育改革」 は各高校の 「特色づくり」 とそれに続く再編計画によって、 その使命を終えたかのように思われるかもしれない。 だがそうなのだろうか。 2003年秋の教育予算要求の対県交渉で私は、 新校に統合される課題集中校は、 少なくとも後 2 年間は存続すると述べ、 課題集中校への傾斜配分は必要であると説いた。 もちろん、 単位制高校や総合学科高校にはそれなりに定数法上の10名前後の加配がつく、 とはいっても新校スタート時点で新校 3 期生を加え、 3 校の生徒が混在することになる。 そうした状況で、 新たな学校づくりに取り組む教職員にとっては、 一人でも定数加配が欲しいところである。 発表されたばかりの後期再編計画では、 中高一貫校、 通信制高校などとともに二校統合方式によって11校が削減される (9) 。 この中には 5 校前後の課題集中校が含まれている。 前期・後期再編計画からもれた課題集中校はほんの少数となった。 「課題集中校に来ていた生徒の行き場」 はどうなってしまうのか、 最後にこの疑問にたどり着く。 残された課題集中校の存在がその一部の受け皿になるのは間違いない。 前期・後期再編計画で、 また全県 1 学区の入試制度で、 学校間格差の構造は変わるものの、 課題集中校の 「学校づくり最前線」 は続くものと思われる。 今後は、 「課題集中校に来ていた生徒」 のニーズを 「個性」 として掘り起こして、 「特色ある高校」 が積極的に受け皿となって受けとめていく必要があると思われる。 教育行政はこうした県立高校を施策としてバックアップし続けていく必要があるのではないだろうか。 |
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【註】
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(みつはし まさとし 教育研究所員) |