映画に観る教育と社会
 
        [在日コリアン 1 世のたくましさ]       

手島 純

韓国映画の躍進
 最近の韓国映画は国家的政策もあり、 ハリウッドばりの映画が目白押しである。 かつての韓国映画にくらべエンターテインメントとしての映画作りが盛んになった。 退屈すぎて (否、 深淵すぎて) 不覚にも映画館で寝てしまった 「なぜ達磨は東へ行ったのか」 (ペ・ヨンギュン監督) などの映画が私にとっての韓国映画であったが、 そうした時代とくらべ隔世の感がある。
 1999年に制作された韓国映画 「シュリ」 (カン・ジェギュ監督) は韓国で 7 人に一人が観たといい、 日本にも鳴り物入りでやってきた。 南北問題や情報機関員といった今まで触れることがなかった素材を駆使し、 敵同士の二人のラブストーリをスリリングに展開したそのおもしろさは忘れられない。 新しい韓国映画はこの 「シュリ」 を先頭にどっと押し寄せてきた。 そして今では韓国映画は数も多く、 劇場ですべて観ることなど私には不可能になってしまった。

在日コリアン映画
 実は、 在日コリアン映画も元気である。 すでに10年の月日が経ってしまったが、 「月はどっちに出ている」 (催洋一監督) はいままではれ物にさわっていたような感もある在日コリアンの世界を痛快に表現した、 怪演ならぬ怪作であった。 在日コリアン 2 世のアイデンティティの問題を現代風に描いた 「GO」 (行定勲監督) も窪塚洋介や柴咲コウなどのキャスティンが若者にうけて注目を浴びた。 しかし、 私は 「夜を賭けて」 (金守珍監督) が何より好きだ。

「夜を賭けて」
 戦後の大阪を舞台に在日コリアン 1 世のたくましさを描いたこの映画は、 映画全体にエネルギーがみなぎっていて、 観客を圧倒する。 笑い・怒り・情欲・差別・金儲けなどの世界がごちゃ混ぜになって、 まるでビビンパでも食べているような気にさせられる一級のエンターテインメントであった。 ともかく、 つべこべいわずに楽しめた。 原作者は 『血と骨』 の梁石日 (ヤン・ソギル) で、 監督が劇団 「新宿梁山泊」 の金守珍 (キム・スジン)、 主演は 「バトル・ロワイヤル」 「光の雨」 (連合赤軍を描いた映画) の山本太郎である。 おもしろく、 エネルギッシュでないわけがない。 しかも、 状況劇場の唐十郎も出演していて、 まさに演劇的世界に迷い込んだかのような映画であった。
 この映画は、 くず鉄泥棒をしていた、 いわゆる 「アパッチ族」 の話であり、 原作者の原体験にもとづいてのフィクションである。 立ち入り禁止の兵器工場跡で鉄くずを拾い集めて生活の糧にしていた在日コリアン 1 世たちが、 警察とのイタチごっこをくりかえしながら生きていく姿が描かれている。
 しかしこの映画は2002年度の 『キネマ旬報』 のベスト10にも入らなかった。 映画評論家といわれる人たちは、 どうかしているんじゃないかと思う。
「花はんめ」
 さて、 まったく違った視点と手法で在日コリアン 1 世のたくましさを描いた映画が2004年にあらわれた。 金聖雄 (キム・ソンウン) 監督 「花はんめ」 である。 これは、 川崎桜本に住む在日コリアン 1 世の日常をとらえたドキュメンタリー映画である。 在日コリアンたちが日々の生活の中で語りそして笑う姿が丁寧に撮られている。 「はんめ」 とは韓国の方言で、 おばあちゃんという意味である。 そのはんめたちが、 「トラジの会」 で踊り笑い、 はんめたちの居場所である孫分玉 (ソン・プンオク) さん宅で食べ、 そしてまた笑う姿が、 特にストーリー性はもたずに描かれている。
 監督の金は在日 2 世で、 母の死をきっかけに在日 1 世を描くことにしたという。 実は彼はすでに 「在日」 という長時間のビデオを制作している。 しかし、 その映画はどちらかというと告発型のものである。 一方、 「花はんめ」 に 「告発」 はない。 ひたすら 「笑い」 なのである。 多くのドキュメンタリー映画作家が、 たとえば小川伸介にしろ土本典昭にしろ、 最終的には告発から日常の風景へとカメラの視点を変える。 これは告発だけでは表現できない世界が、 カメラの向こうに存在することを見つけだしたからだろう。
 しかし、 この日常の世界は、 私達の世界がそうであるように退屈な世界である。 それゆえ、 映画もたんたんと進んでいくが、 そのところどころに編集の技巧、 いや監督の思惑が見え隠れする。
 カメラが孫分玉さんの家に入っていく。 突然、 孫さんはカメラに向かってキムチを差し出す。 その時、 カメラはカメラではなくまるで監督の金の 「目」 であり 「口」 である。 同時にわれわれ観客の 「目」 と 「口」 にもなる。 差し出されたキムチを食べたくなるのである。 このいわば 「禁じ手」 はとても新鮮であったし、 編集の際にカットしないところがいい。 カメラを通して在日コリアンの世界と観客を隔絶するのではなく、 カメラに人格を与えることで両者に連続性をもたせるねらいがみごとに当たった、 秀逸なシーンであった。
 また、 突如、 こどもが凧あげをしているシーンがでてくる。 その凧は糸が切れ、 電線にひっかかる。 そのまま、 このシーンは終わる。 これは何を意味しているのだろうか考えてみたくなる。 在日 1 世たちの身よりのなかった歴史をほんの数秒に託したのかと。 名作 「病院で死ぬこと」 の市川準の世界にも通じるのかなどと勝手に思いこんでいるうちに、 100分の映画は終わる。
 金は告発的な映画を作ることを極力避けて在日コリアン 1 世の日常を描いた。 だからこそ、 逆に鑑賞者はこのはんめたちが背負ってきた人生を知りたくなる。 映画は、 在日コリアンの日常にこだわり、 実は描いていない世界、 つまり在日コリアンの歴史を無意識下にあえて押し込み、 それがかえって映画に深みとエネルギーを与えた第一級のドキュメンタリー映画である。

(てしま じゅん 教育研究所員)