寄稿
  「学校教育に演劇教育を」
                                        吉 倉 一 雄

1. はじめに
 たとえば、 新学期、 新しいクラスを前にして、 ここに集まった子どもたちが、 お互いの顔を覚え、 名前を覚え、 そして、 その顔と名前が一致して、 早くクラスとして解け合ってほしい、 早くそれぞれが自分の居心地のよい場所を見つけてほしい、 と思ったとします。 そこで、 LHRなどの時間を使って、 ゲームをします。 顔と名前を覚えるゲーム、 「名前飛ばし」 などと呼ばれるゲームです。 輪になって座り、 手拍子のリズムに合わせて、 自分の名前の後に相手の名前を言い、 次々に回していきます。 次第に、 回すスピードを上げていきます。 間違えたら、 やり直しです。 失敗したら輪から抜けるという、 勝ち負けをはっきりさせるやり方もありますが、 みんなで楽しくやる方がよいでしょう。 慣れてきたら、 名前の前に好きな食べ物や色、 季節などなどを付けて、 複雑なゲームに進化させることもできます。 また、 鬼ごっこでも、 名前を覚えることに利用できる変形型のものもあります。 椅子取りゲームや、 ハンケチ落としなどなど、 みんなでやれるものをやってみるのもよいでしょう。 いつの間にか、 名前と顔がくっついてきます。 そもそも、 一緒に 「遊ぶ」 ということは、 心身の張りつめたものを取り除き、 相手との間に、 自然とコミュニケーションを生みます。 また、 そこには、 共通の守らなくてはならない約束、 ルールがあるということも、 もしかしたら、 学んでくれるかもしれません。 ただ、 無理強いは、 よくありません。 ゲームに参加しない子を、 強制的に参加させたのでは、 意味がありません。

2. 「演劇」 の役割
 学校教育の中に演劇教育を!と訴えても、 演劇教育がそもそもどのようなものか、 そのイメージするところが各人各様で、 会話がいつの間にかすれ違い、 徒労の時間を過ごしているということがあります。 言葉の定義付けが曖昧なための混乱です。 そこで、 まずは、 演劇教育を、 どのようなものとして、 ここに提示しているのか、 そこから話を始めました。 名前を覚えるためのゲーム、 一体感を作っていくゲームなどなど、 これらも、 演劇的手法の一つです。 その話を続けます。
 ここで考えている演劇教育というのは、 演劇そのものを教えることや学ぶことを目的とするものではなく、 演劇を構成する様々な手法を用いていく教育のことなのです。 そこで、 そもそも 「演劇」 が、 どのような性格を持つものかを考えてみます。
 よく言われていることですが、 「演劇」 は、 様々な関係性から成り立っています。 つまり、 その芝居における役と自分との関係性、 自分の役と他の役との関係性、 芝居の作者と自分との関係性、 観客と自分との関係性などなど。 この 「関係性」 を、 「距離」 「位置」 「立場」 などと言い換えることもできるかもしれません。 そうした重層的な関係性の中に存在しているのです。
 ある芝居のある役を与えられた役者は、 その役と向かい合い、 役の人物と自分との間に回路を設けていきます。 台本を読みながら、 さらには台本を超えて、 その人物の内面世界にまで探りを入れていきます。 一体、 どのような人物で、 どのような時に、 どのようなことを考え、 どのような行動を取るか、 舞台上に展開される時間や空間を超えて、 想像の翼を羽ばたかせていきます。 同じように、 その役と絡んでくる他の役に関しても、 その思考や行動の様式を考えたり、 その役との関係性、 距離にまで想像を巡らせていきます。
 この 「想像」 するということを、 現実世界の中に応用できないでしょうか。 自分と向かい合い、 自分の存在を問いかける時、 また、 そこから、 他者の存在へと思いを向ける時、 「演劇」 の持つ、 この、 関係性の方法論が生きてこないでしょうか。 なぜなら、 そもそも現実世界の人間も、 人と人との関係性の中に存在しているのではないでしょうか。 (むしろ、 演劇は、 そうした現実世界を映し出す鏡なのでしょう。) 人間は、 この世に生を得た瞬間から、 その関係性の中に、 身を置くことになるのです。 父親との関係性、 母親との関係性、 兄弟姉妹との関係性などなど。 人は、 その関係性を様々に結びながら、 そこに自分の居場所を見つけていくのです。 そこに結ばれていく関係性の糸は、 太い糸、 細い糸、 丈夫な糸、 切れやすい糸、 様々にあります。 それを立場や状況に応じて使い分け、 そこに編まれた世界にくるまれながら存在していく。 居心地のよい場所へと編み上げていく。
 しかし、 最近の子どもたちを見ていると、 その関係性を結んでいくということが、 不得手になっているのではないでしょうか。 その結果として、 居心地のよい場所を、 なかなか見つけることができないでいるのではないでしょうか。 それが様々なストレスを作り出し、 子どもたちの心身を歪め、 追い込んでいく。 あるいは、 不得手になったのではなく、 その置かれている状況や環境の変化から、 関係性の結び方が変わったのかもしれません。 家族や、 学校のあり方、 地域社会の変化により、 子どもたちの存在の仕方にも変化が迫られていることは確かです。 これまでは、 ある一定の価値観、 それがたとえ与えられたものや、 押しつけられたものであっても、 子どもを含め、 人々は、 その共通の価値基盤の上に立っていました。 しかし、 その共通の価値基盤が崩壊し、 多種多様な価値観の中にあって、 人は、 自己の存在の立ち位置、 居場所が、 なかなか見つけられません。

3. 「表現」 の意味
 演劇において、 その関係性を紡ぎ上げていくのが、 「表現」 です。 身体活動や言語活動などを用いての 「表現」 です。 この 「表現」 を、 コミュニケーションと言い換えることもできます。 演劇教育、 コミュニケーション教育には、 共通項が多々含まれます。
 しかし、 演劇教育は、 その 「表現」 という技術の習得を主目的にはしていません。 もちろん、 そのことは、 相手との関係性を結ぶ、 回路をつなぐ上に、 とても大切なことです。 しかし、 その前にしなくてはならないのが、 「表現」 する主体としての自分の存在を、 どのように見つけ、 どのように作っていくか、 ということです。 子どもたちの中にある豊かな想像力、 創造力に恵まれた世界、 それに、 まず、 子どもたち自らが気づくこと。 時として、 子どもの描いた絵画が、 その色彩感覚や、 形象の捉え方において、 技術を越えた感動を与えてくれることがあります。 また、 彼らの記した言葉が、 見事な言語宇宙を作り上げていることもあります。 そうした自分自身の可能性に気づき、 自信を持つこと、 まず何よりも、 自分を発見することなのです。 そしてそれは、 次に、 他者の発見につながっていきます。 自分と同じに、 喜びや悲しみの感情や、 「痛み」 の感覚を持つ他者の存在、 自分とは異なる意見や考えを持つ他者の存在、 そこから、 相手を思いやる気持ちが生まれてきます。 自己を発見し、 そこから他者を発見する。 その自己と他者とをつないでいくものが、 「表現」 なのです。

4. 疑似体験としての 「演劇」
 演劇は、 虚構の世界、 疑似体験の世界です。 だからこそ、 むしろ、 設定された様々な状況や環境のもとで、 考えたり、 感じたり、 行動することができるのではないでしょうか。 たとえば、 親子の関係があり、 そこに断絶という難しい状況が加わっているとか、 友人関係で、 憎悪や嫉妬の絡んだ状況であるとか、 こうした疑似体験を、 演劇を通してできるのです。 その状況下において、 一体、 何がどのようになっているのか、 何をどうしたらよいのか、 様々に想像し、 工夫し、 シュミレーションを繰り返し練習することもできるし、 何度でも失敗をすることが許されているのです。
 イギリスから来た講師による、 「ドラマ・イン・エデュケーション」 のワークショップに参加したことがあります。 イギリスは、 学校教育の中に演劇を位置づけ、 学習指導要領の国語の中に、 読み書き能力の向上やコミュニケーションのための表現能力の育成を目的として、 また、 総合的な学習のツールとして、 活用しています。 で、 そのワークショップですが、 その中に、 いじめを扱ったものがありました。 数人ずつのグループに分かれ、 それぞれがいじめる側になります。 相手は、 椅子などの無生物です。 (教室でのワークショップを想定しているので、 子どもをいじめの対象にはさせないとのことです。 我々は、 この時、 教室の子どもたちになっています。) なぜいじめるのかを、 相談して決め、 言葉によるいじめを始めます。 講師が、 一人一人に、 今、 どのような気持ちだったかを確認します。 次に、 今度は、 そのいじめられた子どもの役になって、 家に戻り、 今日の出来事を母親に語る場面を作っていきます。 再び、 講師が、 どのような気持ちだったかを確認していきます。 そして、 それらをもとにして、 話し合いをさせます。 いじめた時の気持ち、 いじめられた時の気持ち、 それを誰かに話したときの気持ち、 一つ一つを話し合います。

5. 「演劇教育」 とは何か 
 演劇教育は、 身体や言語の表現を用いて、 自分と相手との関係性を考え、 それを結んでいくものです。 そして、 それは、 いくつかの段階に応じて使い分けられていくものです。
 二人が組になり、 二人同時に話をする。 次に、 一方が話しかけるのですが、 顔をそむけたり、 つまらなそうな顔をしたりする。 話をしている方としては、 おもしろくありません。 そこで、 では、 どうしたらよいかをを考えさせます。 話し手の顔を見る、 相づちを打つ、 相手の言ったことを繰り返す、 うなずく、 楽しんでいるという表情をするなどなど。 そして、 今度は、 それを実行します。 このことを通して、 話を聞くことにおいて、 どのようなことが大切であるかを学んでいく。
 あるいは、 最初に示したようなゲームをすることによって、 名前を覚えたり、 顔を覚えたり、 趣味や性格を知ったりしながら、 相手との関係性をつないでいく。 シアターゲーム、 コミュニケーションゲームと呼ばれる、 たくさんのゲームがあります。 プロの役者たちも、 疑似家族になったり、 疑似恋人になったりするために、 あるいは、 一体感を作り上げるために、 稽古の中に取り入れているとのことです。
 このような 「表現」 することやコミュニケーションすることについて考えること、 その技術を身につけること、 それを利用して、 相手との関係性を考えること、 深めることが、 初期の段階に位置しています。
 次に、 その 「表現」 を基盤に置いて、 テーマに従っての、 関係性を考える疑似体験。 さきほどの 「いじめ」 を扱ったものなど、 ある問題を考える時に、 その問題を立体化して考えていくことが出来ます。 つまり、 自分を、 その立場や状況に置いたり、 年齢や性別などを越えたり、 変えたりしながら、 反復して経験を重ねていくことが出来ます。 それ以外に、 たとえば、 英語の授業の中で使われているロールプレイは、 まさに、 演劇的手法を用いた演劇教育です。 このように授業の中にも、 それぞれの教科の特性に応じて活かしていくことができます。 このように考えていくと、 演劇教育と意識していなくても、 そこに演劇的手法を自然と用いたり、 様々な関係性を意識させたり、 考えさせたりしているかもしれません。
 演劇教育は、 一つの枠組の中に組み込まれているものではなく、 子どもの状態や環境、 また、 こちら側の目的、 目標などによって、 様々な対応が生まれてくるものなのです。 様々な段階が生じてくるものなのです。

おわりに
 演劇教育として、 演劇そのものを教えること、 学ぶことを否定するものではありません。 むしろ、 演劇にたずさわることで、 これまでに展開してきたことを体験することになるのです。 教育課程の中に 「演劇」 を設定する、 あるいは教科外活動として演劇をおこなうこと。 たとえば、 音楽、 美術、 書道などの芸術教科の中に 「演劇」 を組み込むこと。 それらも 「あり」 だと思っています。

 (横浜市高等学校演劇連盟では、 演劇教育を、 教科外活動にとどまらず、 教育課程の中に位置づけていこうと、 その検討および実践をおこなっています。 昨年度は 「演劇」 「コミュニケーション」 という二つの科目を想定し、 シラバスを作り、 年間の授業計画の概要をまとめました。 講習会、 ワークショップを開催しました。 そして、 そこに参加した演劇関係者の教育の現場に対する関心も、 非常に強いことを知りました。 総合学科の高校を中心として、 「演劇」 を体験させる科目を設置している学校も多く見ることが出来るようになりました。 そういう点では、 今が、 よい機会なのです。 8 月28日 (土) には、 「第 2 回演劇や表現に関心のある中学生と保護者のための進路セミナー」 を、 横浜市中学校演劇研究協議会と共催で開きます。 「演劇」 「演劇体験」 「コミュニケーション」 などという科目の設定されている県立高校が、 中学生とその保護者に対して説明をおこなうものです。 また、 来年の 2 月か 3 月には、 シンポジウムを開き、 それらの高校の実践報告をする場を作りたいと考えています。)
  
(よしくら かずお   県立横浜平沼高等学校教員)